執筆コラム 3分間でわかるドラッカー [269]
−「経営学の巨人」の名言・至言(週刊ダイヤモンド)

われわれは再び
教育ある人間とは何であるか
見直す必要に迫られている
『新しい現実』より



「今日、経済的には、知識が真の資本となり、富を生み出す中心的な 資源となりつつある。そのような経済にあっては、学校に対し、 教育の成果と責任について、新しくかつ厳しい要求が突きつけられる。 さらにまた、今日、社会的には知識労働者が中心的存在となっている。 そのような社会にあっては、学校に対し、社会的な成果と責任について、 もっと新しく厳しい要求が突きつけられる。学校に対する社会の要求は、 経済からの要求よりもさらに厳しいものとなる」 (『新しい現実』)
 ドラッカーは、学校に対して、二つの要求を行う。
 第一に、肉体ではなく知識が中心の社会となったからには、 知識の変化が急である。繰り返し、知識の更新を図っていかなければ、 急速に時代遅れとなる。
 しかし、いかなる学校といえども、必要とされるすべての知識を 与えることは不可能である。 そこで必要となるのが”学習の方法”を教えることである。 方法論、自己啓発、ハウツーを馬鹿にしてはならない。 近代合理主義は、デカルトの『方法序説』から始まった。
 第二に、知識が中心の社会では、知識ある者がリーダーの 役を務める。ということは、知性と、価値観と、 ”道徳観”が要求されるということである。
 今日、道徳教育は人気がない。
ドラッカーによれば、これまで、あまりにしばしば、 思考や、言論や、反対を抑圧するために濫用され、 権威への盲従を教えるために使われてきたせいだという。
 つまり、道徳教育自体が、非道徳的だった。しかし、 このままでは、若者は間違った価値観を植えつけられる。 人は、必ずなんらかの価値観を持つ。
 高邁な価値観を持つかもしれなければ、 低劣な価値観を持つかもしれない。 あるいは、少なくとも、無関心、無責任、無感動の いずれかにはなる。
 知識社会における道徳教育については、 論議も大いにあるはずである。  しかい、教育が道徳を伴い、かつ、それを重視すべきもので なければならないことだけは間違いない。 知識と知識労働者には責任が伴うからである。
「学校と教育が、今日きわめて大きな変化を前にしていることは、 確かである。知識社会がそれを要求している」 (『新しい現実』)




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