連載インタビュー 「入門ピーター・ドラッカー−8つの顔」
(週刊東洋経済2001.6.9−7.28)

1: なぜ、いま再びドラッカーなのか ─── 激動の時代の若者にも読まれる


編集部:今、再びドラッカーブームが起きています。

 世界中で、「あの人の書いたものは必ず読む、講演は必ず聴く」といわれる三人の経営学者がいる。経営の師の師といわれるピーター・ドラッカー、『エクセレント・カンパニー』(1982年)のトム・ピータース、経営戦略論のマイケル・ポーターである。中でも群を抜いて人気があり、尊敬されているのがドラッカーである。
 書くものはすべてベストセラーになる。世界中で翻訳されて読まれる。社員の数だけ購入するという企業がある。この状態が六〇年続いている。九一歳だが、GE、GM、IBM、生まれたばかりのベンチャー、あらゆる種類のNPO、各国の政府、政府機関、地方自治体のコンサルタントを現在も行っている。
 彼が住み、教鞭をとる(クレアモント大学院大学のある)カリフォルニア州クレアモントは、千客万来である。一〇日に一度はファックスのやりとりをしているが、今週は日本のトップ企業、某国の首脳、来週は中国の政府機関、カナダの州政府一行というように、よく体がもつと思われるほど人と会っている。
 コンサルタントとは相談を受けることだ。問題があるから相談にいく。ドラッカーのところには毎週、毎月、世界中の組織の抱える問題が押し寄せる。彼には最新の世界がよく見える。
 ある企業は、世界の最先端を走っているにもかかわらず、さらに先を行くために、現在の成功から、さらにいかに進むべきかを聞きにいく。ある企業は、世界で一、二のシェアを誇りながら、さらにグローバル化するためには、いかに人事すべきかを聞きにいく。すでにテイクオフした新興国の首脳が、お忍びで先進国入りの手だてを聞きにいく。

ドラッカー学会設立の動きも

 ドラッカーが『ウォールストリート・ジャーナル』『ニューヨーク・タイムズ』『ジ・エコノミスト』『ハーバード・ビジネス・レビュー』『フォーブズ』に書けば、その日の昼にはウォール・ストリートやシティで話題になる。現在も「ネクスト・ソサエティ(次の社会)」という題で大部の論文を書いているところだ。また話題を呼ぶだろう。
 日本でも新聞、雑誌にインタビュー記事が載ると、経営者や経済学者が参考にし、引用する。NHK、民放のドラッカー特番の視聴率は、つねに高率であって再放送が繰り返される。
 さすがに高齢で海外講演は控えているが、衛星やビデオによる講演会には数百人のビジネスマンが集まる。巨大スクリーンとテレビ受像器五〇台を並べた大会場に、三〇〇〇人もの人が詰めかけたのを見たことがある。ドラッカー本人のいないドラッカー・セミナーも満員。各地、各社でドラッカー研究会が開かれている。ドラッカー学会結成の動きもある。
 ドラッカー自身、今年の末から来年にかけて二冊の新著を書き上げる予定だが、ドラッカーについての本も続々と出ている。日本だけでも、ジャック・ビーティ『マネジメントを発明した男 ドラッカー』(ダイヤモンド社)、枝川公一『巨人ドラッカーの真髄』(太陽企画出版)、竹村健一・望月護『ドラッカーの箴言 日本は、よみがえる』(祥伝社)、小林薫『ドラッカーとの対話――未来を読みきる力』(徳間書店)といった具合だ。

数知れない彼に教わったCEO

 ドラッカーが発明したとさえ言われるマネジメントのブームは、戦後のフォード再建とGEの組織改革の成功をきっかけとして、1970年頃まで続いた。
 ところがドラッカーだけは、このマネジメントブームが去ったあとも読み継がれた。今日の転換期を予告した『断絶の時代』(1969年)、高齢化社会の到来を知らせた『見えざる革命』(1976年)、バブルの危険を警告した『乱気流時代の経営』(1980年)、起業家精神についての嚆矢の書ともいうべき『起業家精神とイノベーション』(1985年)、ソ連の崩壊を予知した『新しい現実』(1989年)、今日の転換期の行方を活写した『ポスト資本主義社会』(1993年)、ビジネスの前提と現実が変わったことを知らせた『明日を支配するもの』(1999年)……と続いたのだから当然といえば当然である。
 そのドラッカーが今再びブームだ。ソニーの出井伸之会長も言うように、断絶の時代はいよいよこれからがクライマックスとの認識が日々深まっているからであろう。
 世界中の企業トップが、彼の書くものは必ず読むというが、ドラッカー・ファンの経営者は数知れない。名前を挙げろといわれても挙げられない。私のことを忘れたかといわれるのがおちだ。
 ある中堅企業のオーナーは、マネジメントについては、ドラッカーの言うとおりにやっただけだという。ある大企業幹部は、就職した後、大学に残って学問の道を進むか、官庁に入って国のために働くべきだったかと悩んでいた。そのとき、世界で五〇〇万部、日本だけで一〇〇万部という大ベストセラー、経営学の古典『現代の経営』(1954年)の冒頭の言葉、「経営管理者は事業に命を吹き込むダイナミックな存在である。彼らのリーダーシップなくしては、生産資源は資源にとどまり、生産はなされない」を読み、選択は正しかったと勇気百倍したという。そのような人が無数にいる。
 経済学者、経営学者、評論家も多くがドラッカーのファンだ。ドラッカーの話を聞こうとツアーが組まれる。すると、経営コンサルタントが多く参加する。経営の先生方の先生がドラッカーである。師の師といわれるゆえんである。
 経営上の理念や手法の主なものは、ほとんど彼が草分けである。コアコンピテンスもカンパニー制もマネジメントスコアカードもそうだ。

人間、社会、マネジメントは全てつながっている

編集部:ドラッカーの世界は二つあるように見えますが。

 人間には他の人とともに生き、他の人に貢献するとき喜びを持つ、という社会的存在としての側面と、死ぬときは一人という個の存在としての側面がある。後者の側面についてドラッカーが書いているのは1949年、三九歳のときの論文「もう一人のキルケゴール」だけである。他の著作はすべて社会的存在としての人間についてのものである。
 しかしドラッカーは、個としての人間、時間を越えた永遠の存在としての人間のあり方を考えないかぎり、人間に実存はありうるかとの問いに答えは出せないと繰り返し言っている。彼の言によれば、社会だけでは「社会にとってさえ不足である」。
 あまり知られていないことだが、ドラッカーは1942年から1949年まで、バーモント州のベニントン大学で哲学と宗教を教えていた。われわれはここでもドラッカーの懐の深さを知ることができる。
 守備範囲の広さがドラッカーの特徴だ。マネジメントの師の師であるだけではない。日本が経済大国になると最初にいったのも、高齢化社会がやってくるといったのも、ソ連が崩壊するといったのも、彼だった。
 一見すると、彼には二つの世界がある。マネジメントのオーソリティであるとともに、現代社会の哲人、「現代社会についての最高の哲学者」(ケネス・ボールディング)である。サッチャーはドラッカーの言にしたがって世界の民営化ブームに火をつけ、ニクソンは、政府にできることには限界があるとのドラッカーの言を否定して失敗した。
 このドラッカーの二つの世界は、絡みあっている。というより一体である。二つの世界があるように見えても、問題意識は同じである。彼は、社会的な存在としての人間の幸せに関心がある。だから社会とその発展に関心がある。彼は継続と変化の双方を求める。継続がなければ社会ではなくなり、変化がなければ社会は発展しない。彼の問題意識は、いかにして継続のメカニズムに変化のメカニズムを組み込むかだ。経営学者の小林薫さんは昔からドラッカーは山脈だと言っている。山の向こうにまた山がある。
 一言で言えば関心は文明にある。出来過ぎた話に聞こえるかもしれないが、子供のころの最も古い記憶が、オーストリア=ハンガリー帝国の政府高官だった父親と、後のチェコスロバキア初代大統領トーマシュ・マサリクとの会話、下の応接間からガス管を伝わってきたのは「文明の終わりだね」との言葉だったという。第一次大戦が始まったのが1914年、ドラッカー四歳のときだ。
 社会の機能のほとんどが、異なる専門知識を持つ複数の人間の協業によって果たされるようになった今日の組織社会、しかも働く人間のほとんどが、組織において、あるいは少なくとも組織を通じて働くという意味での組織社会では、人間の幸せは、それらの組織がいかに継続と変化の担い手となるか、いかにマネジメントされるかにかかっている。こうして人間、社会、文明、組織、マネジメントはつながっている。
 ドラッカーは処女作『経済人の終わり』(1939年)において、ファシズム全体主義の暴威の原因は、マルクス社会主義の破綻にあるとまで社会主義を酷評した。それゆえに社会主義にあこがれていた当時の西側進歩的文化人の不興を買った。ところが、共産主義全盛時の旧ソ連の組織論、管理論の権威から高く評価されていた。
 日本でも、マルクス経済学の泰斗、九州大学の故・高橋正雄教授などは、熱烈といってよいほどのドラッカー・ファンだった。高齢化社会の到来を告げたドラッカーの名著『見えざる革命』(1976年)に寄せた『中央公論』での名文は今でも忘れられない。マル経の牙城だった九大経済学部ではドラッカーが必読書とされていた。今、中国はマネジメント教育の進め方についてドラッカーのところへ教わりに行っている。

編集部:では、ドラッカーとは何者なのでしょうか。

 ドラッカーは自分のことを社会生態学者と言っている。
 生態学とは何かというと、見て、それを伝えることを指す。自然生態学者は、南米のジャングルへ行って、この木はこう生えるべきとはいわない。社会生態学者も社会についてこうあるべきとは言わない。あくまでも、見ることが基本である。それだけではない。社会生態学者は変化を見つける。その変化が、物事の意味を変える本当の変化かどうかを見極める。そしてその変化を、機会に変える道を見つける。
 社会生態学という言葉も、知識社会、知識労働と同じように彼の造語だ。日本では戦後の企業経営に与えた影響があまりに大きいため、経営学者としてのドラッカーが有名だが、彼の本質はこの社会生態学者であるところにある。社会生態学者だからこそ、生きた存在としての組織、社会的機能としてのマネジメントがよく見える。

見ることがあらゆる物事の基本

 社会生態学は、分析と理論ではなく、知覚と観察を旨とする。社会生態学と社会学との違いはここにある。社会生態学は、分析や理論にとらわれない。分析や理論が完全なことはありえない。
 しかも社会は大きく変わっていく。社会科学のパラダイムは変化してやまない。加速度的に変化していっている。社会生態学は、総体としての形態を扱う。だから全体を見る。全体は、部分の集合よりも大きくはないかもしれない。しかし、部分の集合ではない。
 ドラッカーは、自分は、ゲーテの『ファウスト』(1831年)に出てくる望楼守だという。最終幕、ファウストが悪魔メフィストフェレスとの契約における禁句、時の流れに向かって「止まれ、おまえはいかにも美しい」と言ってしまうクライマックスがある。その直前、物見やぐらにいる望楼守リュンケウスが自分のことを「見るために生まれ、物見の役を仰せつけられ」と朗々とうたう。そしてあちらでは何が起こり、こちらでは何が起こっているのかを教えてくれる。その「物見の役」がドラッカーである。世界がどのような状況にあり、どのような状況が迫っているかを見て、伝えることがドラッカーの仕事である。
 そのような予感は、少年のころすでに持ったという。オーストリア=ハンガリー帝国が第一次世界大戦で敗れ、ハプスブルグ家の支配が終わった何年か後、共和制を祝う何周年目かのパレードがあった。旗を持って先頭を歩いていたドラッカーは、水たまりをよけて歩道に寄った。そのまま進んでいくパレードをわきから見たとき、自分は先頭に立って歩く者ではなく、そのありさまを人に伝える役ではないかと思ったという。事実彼は、政治家にも実業家にもならなかった。
 ドラッカーの著作の一つに『傍観者の時代』(1975年)という大部の半自叙伝がある。原著名は『アドベンチャー・オブ・ア・バイスタンダー』である。バイスタンダーとは傍らに立って見る者のことだ。もちろん彼は、見ているだけの無責任な傍観者ではない。見て、伝えて、教え、相談に乗る。
 ドラッカーの数ある著作を読んでいくと、同じ話が別の文脈で出てくることがある。これこそまさに、あらゆるものが、あらゆるものにかかわりを持っているからだ。世の中、別の引き出しに入れて、別々に論じ切ることのできるものなどあまりない。そもそも別の引き出しに入れることに無理がある。
 これから先の私の話も、あちこち飛んでいくことになるかもしれない。

お薦めの二冊
『新しい現実――政府と政治、経済とビジネス、社会および世界観にいま何がおこっているか』(1989年)
『すでにおこった未来――変化を読む眼』(1992年)
【ともにダイヤモンド社刊】



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