連載インタビュー 「入門ピーター・ドラッカー−8つの顔」
(週刊東洋経済2001.6.9−7.28)

3: 知識社会を生き抜く知恵 ─── 全員がエグゼクティブの社会


編集部:ドラッカーは21世紀冒頭の今日をどうとらえていますか。

 日本で、バブル崩壊以降を「失われた一〇年」と呼んでいる。
 ドラッカーは、「失われた一〇年」はアメリカにもあった、ヨーロッパにもあったという。1980年代がそれだ。何をやってもうまくいかなかった。ところが今では、1990年代の飛躍の前の、雌伏の時だったという評価になっている。彼はインタビューで、日本でもそうなるかもしれないと言ってくれた。
 だが、そのためには、財政赤字と不良債権という二つの難問を解決しなければならないと付け加えられてしまった。この二つはとてつもなく大きな問題である。しかし日本には、唐の文化の移入、鎖国、開国と明治維新、戦後の復興という転換の能力があるではないかという。ドラッカーは、これに期待している。ただし、かなりの覚悟が必要であるとも警告した。
 ドラッカーの観察によれば、本当に大事なのは一〇年の問題ではない。歴史の転換期にかかわる問題である。ドラッカーは『ポスト資本主義社会』(1993年)において、この転換期は、1965年から1970年の間のどこかで始まり、2020年頃まで続くと言った。
 われわれとしては失われた一〇年からの脱却も大変だが、この五〇年の転換期をどう乗り切るかのほうがもっと大変だ。これを個々の会社で見るならば、景気の良しあしを言う前に、構造的にどのような段階にあるかを見極めるほうが大事だということだ。そこでポイントは、すべてこれからは、知識が中心になるということにある。

編集部:ドラッカーのいう「知識」とはどのようなものでしょうか。

 今日知識とは、成果を生むための高度に専門化された知識のことだ。
 彼は、ソクラテス以来、ついこの間まで、行動のための知識は、テクネ(技能)として低い地位しか与えられていなかったと指摘する。それらは体系的に教えられるものではなく、中世のギルドに見られるように徒弟制度の中で会得すべきものだった。しかし、今日われわれに必要とされている知識とは、まさにこの行動のための知識、しかも客観的で伝達可能な体系化された専門知識だという。
 知識は高度化するほど専門化し、専門化するほど単独では役に立たなくなる。他の知識と連携して役に立つ。知識は、他の知識と結合したとき爆発する。得意な知識で一流になると同時に、他の知識を知り、取り込み、組み合わせることで大きなパフォーマンスをあげられる。
 ドラッカー自身、統計学から中世史に至るあらゆる領域について、いちどきに一つのテーマに絞って徹底的に勉強している。これを六〇年以上続けている。

知識社会は組織社会である

 ここでドラッカーの組織論が出てくる。専門知識を有機的に連携させ、さらには結合させる場が組織である。組織とは、企業、政府機関、NPOなど、人が目標に向かってともに働く場すべてを指す。したがって、知識が中心となる社会は、必然的に組織の社会となる。脱大組織はあっても脱組織はない。
 もちろんここにいう組織とは、硬直的閉鎖的なものではない。特にこれからは出入り自由のものとなる。雇用関係の有無さえ問わない。協力、連携、パートナーシップを含む多様なつながりとなる。
 かつては「お仕事は」と聞いた。今では「お勤めは」と聞く。これが再び「お仕事は」と聞くようになる。知識の力が、組織社会を生んだ。その知識の力が、組織にしばられない組織社会へと、組織社会の変質をもたらす。
 資本主義社会の後が今日の転換期としてのポスト資本主義社会である。資本主義の後の社会というわけで、特質が定まっていない社会である。そこでドラッカーはポスト資本主義社会と呼ぶ。このポスト資本主義社会の後にくるものがおそらく知識社会である。そのころには「え、おカネが中心の社会があったのか」というようになる。すでにがんや心臓病の特効薬を見つければおカネなど、どこからでもやってくる。

教養とは生きた知識のこと

 知識社会では、一般教養となる知識の性質が、かつてのものとは変わってくる。生きた知識が教養として求められる。こうしてドラッカーは教養論にまで進む。
 かつては、むしろ役に立たない知識、生きていない知識が教養とされた。ドラッカーはその典型として、ラテン語教育を挙げる。欧米ではいまだに教養としてラテン語を教えている学校があると指摘する。論理性を養うとか、他の外国語を学ぶ基礎になるとかの理屈を付けている。開き直って、役に立たないからこそ教養なのだとの説もある。
 ところが、歴史をみると、ラテン語は、ヨーロッパではどの国でも、公用の書き言葉として使われていた。物書きを職業とする官吏や書記にとっての必須の技能だったからこそ、書記養成のための高等教育機関で必修科目にされていた。しかも、ドラッカーによれば、論理性うんぬん等のラテン語擁護論が現れたのは、書き言葉が、ラテン語から各国それぞれの国語に変わった後のことである。せっかくのラテン語擁護論も、ラテン語教師の失業防止策ととられても仕方のない面がある。ドラッカーは学校の科目も新陳代謝がなかなか行われないと嘆いている。
 彼はソフィストとソクラテスとの違い、儒教と道教、儒教と禅との違いは、人間は「いかに(How)」生きるかという問題と、人間とは「何か(What)」という問題のいずれを中心に置くかという問いの違いだったという。人間にとって最も重要な問いだったが、実用とは関係がなかった。しかもそれらの知識は絶対的な善だった。知識とは絶対的な存在だった。
 ところが今や、知識は役に立つことがわかった。世の中を変えるのは知識であり、これからはますますそうなることが明らかになった。ということは、知識には役に立つものと立たないものがあるということだ。つまり知識とは相対的な存在であることが明らかになった。その結果、よい知識とよくない知識があるのではないかとの疑念が生じた。ドラッカーは三〇年以上前に、これを指摘した。世紀のベストセラーで、今も読まれている『断絶の時代』(1969年)においてだった。
 知識はよいものであるとずっと考えられていた。知識の追求そのものが善であり、目的であるとされていた。こうして、「知識とは何なのか」という問題が装いを変えて再び出てきた。「教養ある人間とは、何を知っている者なのか」との問題まで出てきた。人間とは何か、いかに生きるかを考えるだけでなく、今や生きた知識が必要不可欠になっている。博識の野蛮人というのは困る。他方、無知の紳士というのも困る。これがドラッカーの重要な問題意識の一つだ。

編集部:教育はどう変わるとドラッカーは考えていますか。

 今後、特に必要とされる知識がマネジメントだという。
 ところが大学の経営学部以外ではまったく教えられていない。中学、高校および大学の他の学部では、相も変わらず、一人ひとりの人間が、組織などとは関係なく、一人で仕事をしている時代と同じことを教えている。しかも経営学部で教えていることさえ、日進月歩の実業の世界に追いついていない。
 マネジメントとは、高度に専門的な知識を他との協働で有効なものとするための方法である。これがドラッカーのマネジメント論である。したがってマネジメントもまた、日々進化していく。マネジメントのパラダイムは転換してやまない。マネジメントとは企業のためのものという前提がすでに崩れている。それは、あらゆる種類の組織のためのものだ。さらには、一人ひとりの人間のためのものだ。今や、自らをいかにマネジメントするかが、重大な意味を持つ。ドラッカーが『明日を支配するもの』(1999年)で展開したパラダイム転換論は体系としてのマネジメントの本質と、その現在の状況を確認するものだった。しかもいかに働き、いかに貢献するかという問題は、いかに生きるかという問題に直結する。
 ドラッカーによれば、教育の中身と方法が、これまでとはまったく異なるものとなる。知識が中心である社会における教養とは、読み書きに加えてコンピュータ、外国語、マネジメントの知識、自らの専門領域についての高度な知識、その他の専門領域の意味性の知識、そして自らをマネジメントするための知識を持つことである。

いかに自らをマネジメントするか

 特に、いかに時間をマネジメントするか、いかに自らの考えをプレゼンテーションするか、いかに他人とコミュニケーションを図るか、いかに変化の先頭に立つか、つまるところ、いかに自らをして貢献せしめるかといった、自らをマネジメントする能力が不可欠となる。
 かつては、経営幹部に特有の機能だったマネジメントが、あらゆる人間にとっての教養、常識となる。意思決定の能力やイノベーションの能力は、知識労働者にとって、成果を上げる能力そのものである。こうして全員がチェンジリーダーとならなければならない。
 ドラッカーは15世紀の半ば、グーデンベルグの活版印刷の発明に始まった印刷革命が教本を可能とし、教育を変えたと同じように、IT革命も教育を変えるという。
 ドラッカーは身に着けるべき知識を二つに分ける。学ぶことと教わることである。算数の九九に始まり反復学習によって学ぶことは、「学習ソフト」が助けとなる。こうして教師は監視する役から解放され、物事の意味を教えるという本来の役を果たすようになる。
 そこからさらに進んで、教わる者の強みを引き出し、それを伸ばすことができるようになるという。知識が中心となる社会では、強みを伸ばすことによって得られる高度の専門性と、周辺知識の意味性への理解が物を言う。

編集部:ドラッカーは知識社会を生きる心得についてどう言っていますか。

 ドラッカーは、マネジメントする能力は、知力とは関係ない、方法論があるだけだと言ってくれる。幾つかの方法を教わっておけばよい。私はドラッカーのこういうところが好きだ。
 意思決定にも方法論がある。意思決定では個別の問題ではなく根本を考えなければならない。問題が一般的なものか、特殊なものかを識別することが最初のステップである。起業にも方法論がある。起業は機会を分析し、外の世界を見たうえで、トップを目指して小さくシンプルに始めなければならない。
 もっといえば、人事にも方法論がある。リンカーンは司令官に任命しようとしたグラント将軍が酒飲みであることを幕僚から指摘されたとき、「銘柄を聞いて他の将軍に送ってやりなさい」と言ったという。より重要なのは仕事ができるという強みであって、酒飲みであるという弱みではない。
 こういうものの考え方は、誰かから教わらなければ分からない。問題は誰もそれを教わっていないことにある。自分でわかるようになったときには六〇歳になっている。ドラッカーはそれらのことを教える。

全体からとらえると真実が見てくる

 ドラッカーのありがたさは、豊富な経験から原則と方法論を引き出して教えてくれるところにある。時には「なぜか分からないが」といい、「なぜかが分かるまでは待ってはいられない」といって、豊富な知識と経験から得た行動のための原則と方法論を教えてくれる。
 こうして組織のなかの全員が社長のように行動できるようにならなければ、会社は伸びない。直ちに後れを取り、脱落していく。このことは国全体についてもいえる。ドラッカーにいわせれば、知識社会の構成員はすべてがエグゼクティブである。
 ドラッカー自身は若いときから分析力にたけていたにもかかわらず、組織を通じて成果を挙げるには、森羅万象あらゆるものを、全体として見る能力が必要だという。
 理論だけではだめだ。理論は、相対的に最も太い線をとらえて抽象するにすぎず、多くのものを捨象する。現代の世の中には捨象してよいものなどない。だから見ることが大事なのだ。これこそドラッカーの教える方法論として最も大切なものだ。
 ここにおいて、見て、聞いて、感じるという直接全体をとらえる能力が必要となる。理屈は通っていても、全体からは間違っていることがあまりに多い。部分を足し合わせたものが全体とはならない。
 ドラッカーは高等数学の「バタフライ理論」なるものを紹介する。ある日ある時間に、あるチョウがアマゾンでぱたぱたと羽ばたいたという事実があり、翌週シカゴで雨が降ったという別の事実があったとする。この二つの事実の間に関係がないと証明することはできないということが証明されているそうである。あらゆるものがあらゆるものに関係しうる。私はさらに進んで、関係しうるということは、関係しうるという関係がそこに存在するということであると、勝手に考えている。
 特に今日のように、瞬時に世界中に情報が伝わる時代では、何が何に関係あるかは理論付けしきれない。まさにドラッカーの言うように理論付けを待ってはいられない。無理に抽象化すれば大事なことを捨象する。理屈だけでうまく説明が付く場合のほうが、逆に危険だ。

お薦めの二冊
『断絶の時代――今起こりつつあることの本質』(1969年)
『ポスト資本主義社会――21世紀の組織と人間はどう変わるか』(1993年)
【ともにダイヤモンド社刊】



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