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学習とは自己啓発による精神の錬磨である |
『すでに起こった未来』より |
「一八世紀の禅の高僧、白隠慧鶴は、禅の始祖達磨を描くのにどれだけの時間を要したかを聞かれて、八十年と十分と答えた」(『すでに起こった未来』) ドラッカーは、レンブラントの最後の自画像や、モネの光や、カザルスのバッハが、八〇年の歳月を要したと言えば、西洋では、技術の水準を達成するために八〇年の練習が必要だったという意味になると言う。 だが、日本人が八〇年を要したと言えば、達磨を描ける人間になるための精神的な修行がそれだけ必要だったということになると言う。 さらにドラッカーは、禅では、達磨は自画像だと言う。何十年も修行をしなければ、達磨を描ける人間にはなれない。 ドラッカーは、一つの仕事に秀でた芸術家や職人に与えられる称号として、人間国宝の制度を紹介する。日本では、技能は高原に達し、そこで止まるという西洋流の習熟曲線の理論は受け入れられない。高原を突き抜け、次の高原に達すると考える。 学習とは、自己啓発による精神の錬磨であって、技能習得のためだけの行為ではない。それは、人間を変えるものである。 そのドラッカーが、今の日本では、洞察と英知が危機に瀕していると危惧する。 「はたして日本は、今なお精神的人物画としての達磨を描き『どふ見ても』と言えるようになるための学習を取り戻し、学習を本来あるべきものとすることはできるのだろうか」(『すでに起こった未来』) |
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