連載インタビュー 「入門ピーター・ドラッカー−8つの顔」
(週刊東洋経済2001.6.9−7.28)

2: マネジメントを発明した男 ─── 経営者としての顔


編集部: 前回、ドラッカーには「社会生態学者としての顔」があるとのべられましたが、氏を未来学者だという人がいます。

 予測があまりに当たることから、最高の未来学者と紹介されることがある。しかしこれは間違いだ。彼自身、未来学者ではないと断言している。未来など誰にも分からないと言っている。たとえ誰かが予測したことが起こったとしても、世の中では、誰も予測しなかったことで、はるかに重大なことが、あまりに多く起こっている。したがって、予測という行為そのものにあまり意味がない。
 ドラッカーは未来について確実に言えることは、二つしかないという。第一に未来は分からないということ、第二に、未来は現在とは違うということである。
 したがって未来を知る方法もまた二つしかないという。一つの方法は、すでに起こったことの帰結を見ることである。彼自身の予測についても、すでに起こったことの帰結、つまりすでに起こった未来を知らせたにすぎないという。
 昨年子供の生まれた数が三〇万人減ったとする。すると、六年後に小学校に上がる子供が前年と同じということはありえない。小学校にとってはとんでもないことが起こるわけだ。すでに起こったことを観察すれば、そのもたらす未来が見えてくる。

一人ひとりが未来をつくる

 私はドラッカーの新著を翻訳するときには、関係の文献に目を通している。『見えざる革命』(1976年)のときも、高齢化についての本や論文に目を通した。共訳者の佐々木実智男氏とともに集められる限りのものを読んだつもりだが、高齢者の福祉、医療、住宅、趣味の類についてのものばかりであって、高齢化社会そのものの社会、経済、政治を論じたものは一つもなかった。
 ソ連の崩壊にしても、情報化の中にあってあのような体制が続きえないことは、誰にでもわかったはずである。ソ連や東欧諸国には、西側の情報がどんどん入っていた。起業家社会やNPO社会の到来も、ドラッカーが最初に正面から取り上げた。いずれも、誰にでも見えていたはずである。そしてドラッカー最大の警告が『断絶の時代』(1969年)で行った今日の転換期の到来である。
 ドラッカーが二九歳の時の処女作『経済人の終わり――全体主義はなぜ生まれたか』(1939年)と三二歳のときの二作目『産業人の未来――改革の原理としての保守主義』(1942年)で筆をおいて、政治家あるいは実業家に転進していたとしても、一級の政治学者として名を残していただろう。『経済人の終わり』では、当時誰にも見えていたはずでありながら、見えていなかったことを三つも予告していた。
 第一が、ナチによるユダヤ人抹殺であり、第二がナチス・ドイツのヨーロッパ征服であり、第三が独ソ不可侵条約の締結だった。
 『産業人の未来』では、今日に至るも、まだ多くの人が気づいていないことを予告している。理性至上主義、計画万能主義の帰結である。
 未来を知るもう一つの方法は、自分で未来をつくることだ。これは難しいようだが、誰でもできる。子供を一人つくれば、人口が一人増える。たとえ小さなものであっても事業を起こせば、世の中が変わる。歴史はそうやってつくられる。歴史は、ビジョンを持つ一人ひとりの起業家がつくっていくものだ。

外生的に扱えるものなどない

編集部:ドラッカーはいわゆる経済学者でしょうか。

 ドラッカー自身、断固として、経済学者ではないと言っている。経済学は、あらゆるものの中心に経済を置き、かつ経済を他のものと分離した、独立したものとして扱う。そうでなければ学問として成立しない。せいぜい記述に終わる。
 経済学の本家となったマクロ経済学では、知識、技術、心理という重大な要素を外生変数として扱う。扱わざるをえない。そうすることによってのみ、一つの学問として成立している。ドラッカーは、そのようなことは自分にはできないという。
 貨幣の供給量を増やせば景気がよくなるといって、企業家心理や消費マインドなど、貨幣の回転速度にかかわる部分を外生変数とせざるをえないマクロの理論が、特効薬の処方箋たりえないのは当然である。彼は、経済学は、マクロ経済、ミクロ経済、グローバル経済を統合できたとき、初めて意味あるものたりうるとして、いつになるかはわからないにしても、そのような経済学の誕生を期待している。

ものづくりの技が歴史を変えてきた

 人類の歴史をじわじわと、そしてときには急激に変えてきたものは、政治的な事変、事件ではなく、技能、技術の進歩だ。狩猟の技術に始まり、稲や小麦の農業技術、灌漑の技術、衣食住にかかわるそれこそ諸々の技術、馬の鐙(あぶみ)、火薬、印刷、蒸気機関、鉄道、コンピュータなどだ。馬の鐙という技術さえ、騎士の成立を通じて封建制をもたらしたという。火薬がその封建制を崩し、中央集権への道を開いた。
 彼は、21世紀においても、カギを握るのはものづくりの技だという。今の先進国が先進国の地位にあり続けるためには、理論の裏づけのある技能を維持していかなければならない。イギリスで産業革命が成立したのは、蒸気機関を可能にした工具製作技術があったからである。今日の途上国の不幸は手を動かすことを嫌う風潮にある。今年開学した「ものつくり大学」の名づけ親は、同大学総長の哲学者・梅原猛氏だが、英文名インスティチュート・オブ・テクノロジスツの名づけ親は社会生態学者ドラッカーである。
 ドラッカーは大経済学者でいえば、明らかにケインズよりシュムペーターに近い。これは何も、シュムペーターがドラッカーの父親の弟子だったためではない。ちなみにピーター・ドラッカーの父、アドルフ・ドラッカーはオーストリア=ハンガリー帝国の政府高官を務めたあと、ウィーン大学で経済学を教えた。オーストリア有数の文化人であって、ザルツブルグ音楽祭の創始者でもある。後に渡米して、ノースカロライナ大学、カリフォルニア大学バークレー校の教授となった。
 ドラッカー家はオランダ系であって、17世紀にはオランダで聖書、法話集等の宗教書専門の出版社を経営していた。ドラッカーとはオランダ語で印刷人のことである。
 彼はイギリスにいたころ、ケインズの講義にも出ている。ある日、ケインズにしても、周りの学生にしても、その関心は人間でなく金だということを痛感したという。逆に、自分の関心は、人間と社会だということを確認したという。
 ところが面白いことに、経済を中心とせず、経済を社会の一要素として書いた経済についての論文が、経済の実相を知らせるものとして読まれ、引用され、人々に影響を与えている。
 たとえばケインズの死の直後、1946年に発表した「ケインズ――魔法のシステムとしての経済学」(『すでに起こった未来』に収載)は、直ちに大きな反響を呼んだだけでなく、ケインズ学派が圧倒的な力を握るにいたるまでの間、経済学の論文集や大学の教科書に広く収載されていた。
 1986六年に『フォーリン・アフェアーズ』に発表した「変貌した世界経済」(『マネジメント・フロンティア』(1986年)、『イノベーターの条件』(2000年)に収載)は、一次産品経済と工業経済の分離、製造業における生産と雇用の分離、実物経済とシンボル経済の分離を知らせて、その年、最も読まれ、最も引用された論文となった。
 なぜならそれは、アメリカの通商政策、日本の産業政策、途上国の開発政策に対し重大な疑念を投げかけたからだ。
 世界には、ノーベル賞をもらっているべきであってもらっていない人が何人かいるとされている。いずれもノーベル賞のカテゴリーに入らない人たちである。その一人がドラッカーである。ノーベル賞には物理学、化学、医学、文学、平和、経済の六分野しかない。ドラッカーは自分で経済学者ではないと言っている。私は、現代文明でマネジメントの果たしてきた役割からして、平和賞だと思っている。
 ドラッカーは、社会はかくあるべしとする社会学者でもない。社会を見て、それを伝える社会生態学者であるというのが自己規定だ。
 ドラッカーの関心は、社会的存在としての人間にある。その人間が幸せであるためには、社会の発展が必要である。その発展の担い手が、企業、政府機関、病院、その他NPOなどの組織である。したがって、組織が立派な仕事をできるか、立派にマネジメントできるかに関心を持たないわけにいかない。

ドラッカーの経営学者としての顔

 この関心から、マネジメントを集大成し「マネジメントを発明した男」とされるにいたったのが、経営学者としてのドラッカーである。
 アメリカに渡った二年後の二九歳のとき彼は、ファシズム全体主義の本質をえぐった処女作『経済人の終わり』(1939年)を発表して、後の大英帝国の宰相ウィンストン・チャーチルの激賞を受けた。
 ダンケルクでの惨敗後、首相に就任したチャーチルは、イギリス陸軍の幹部候補生学校の卒業生全員にこの本を贈っている。同じく同書に感銘を受けた『タイム』誌のオーナー、ヘンリー・ルース氏が、同誌国際面編集長のポストをドラッカーにオファーする。しかしドラッカーはフリーのライター、大学講師として糊口をしのぎつつ、次作『産業人の未来』(1942年)を著した。
 これを読んだGMが、同社のマネジメントについての研究をドラッカーに委託する。その成果が後にフォード再建の教科書となり、GEの組織改革と、それに続く世界の組織改革ブームの火つけ役となった名著『会社という概念』(1946年)である。
 『会社という概念』は、企業経営、経済、そして世界そのものまでを変えることになった名著であり、体系としての「マネジメント」の原点である。しかしそれは当初、GMには受け入れられなかった。ドラッカーは、GMのマネジメント、特に今日いうカンパニー制を高く評価していたが、シボレー事業部の分離など幾つかの提案を行っていた。
 ところが、自分たちを完全無欠と信じていた世界一のメーカーGMは、人為的なもので完全無欠なものはないとするドラッカーの考えと、それらいくつかの提案を受け入れるわけにはいかなかった。
 後日、GMの総帥アルフレッド・スローンが書いた名著『GMとともに』は、ドラッカーの『会社という概念』を意識したものである。しかし前著は、後著にいっさい言及していない。GMがドラッカーのクライアントになったのはその数十年後のことだ。苦境に陥ったGMのトップマネジメントが、かつての非礼を詫びた後のことである。
 ドラッカーは、この『会社という概念』執筆にあたって、参考のためにマネジメント関係の文献を総ざらいしたという。その結果、マネジメントがいまだに一つの体系としてまとめられていないことを実感する。これが、マネジメントのオーソリティとしてのドラッカーのルーツである。

現場こそドラッカー経営の原点

 トム・ピータースによると、あらゆる経営手法がドラッカーに行き着く。これは本当だ。経営戦略、カンパニー制、目標管理、情報型組織、コアコンピテンス、経済連鎖、ABC会計、マネジメントスコアカード、ナレッジマネジメントなど、すべてドラッカーから出ている。なかには五〇年以上前に説いたものもある。
 そのため、ドラッカーのことをモーツァルトだという人がいる。あらゆる種類の主題が湧き出てくる。それを誰かが編曲し発展させても気にかけない。
 ところが、ドラッカーの本質を、本能的にといってよいくらい良く理解している日本において、運用の段階で間違ってしまうケースが幾つかある。カンパニー制がそうだ。『会社という概念』で示したGMのカンパニー制では、カンパニーの長は、第二次大戦中、本社のトップマネジメントが海軍省と契約した注文を断り、こちらのほうが得意だからといって、注文内容を変えることまでできた。それだけの独立性を持っていたのである。
 ところが日本では、事業部制と名づけて、単なる製品別部門制にしてしまった。カンパニー制での本社の役割は、カンパニーに対し「こうしろ、ああしろ」と指示するのではなく、「あなたたちのためにできることは何か」と聞くことにある。
 カンパニーの長とそのカンパニー内の部門長との関係も同様である。仕事の源は顧客にある。仕事は顧客に近い現場にあるとの考えこそ、ドラッカー経営の原点である。
 ナレッジ・マネジメントについても同じことがいえる。知識をデータベース化して共有したところで、せっかくの知識を情報に落とし、さらにはデータにおとしめるだけに終わる。得られるものはデータのファイルであって、知識ではない。そのような取り違えがほかにも見られる。
 目標管理も、日本で行われるものの多くは、似て非なるものになっている。ドラッカーのいう目標管理は、はるかに主体的であって、現場で働く者が、部門全体の目標を念頭に、上司とのやり取りの中で主体的に定めるものである。
 日本では言葉だけが独り歩きし、目標を「与えて管理する」という、似ても似つかないものになっていることが多い。

お薦めの二冊
『会社という概念』(1946年)
『マネジメント・フロンティア――明日の行動指針』(1986年)
【ともにダイヤモンド社刊】



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