連載インタビュー 「入門ピーター・ドラッカー−8つの顔」
(週刊東洋経済2001.6.9−7.28)

7: ITが変える世の中 ─── そこではあなたが主役に


編集部:ドラッカーは、現在進行中の転換期をどう見ますか。

 歴史は何百年に一回、大きく変わる。今から三二年前、ドラッカーは『断絶の時代』(1969年)を書いた。そのとき彼には、歴史の大きな断絶が見えた。その断絶がまだ続いている。そして近ごろ、このドラマがいよいよ佳境に入った。この本は、日本でも大ベストセラーになった。日本人の物を見る目は鋭い。
 しかし三〇年以上も前にドラッカーに共鳴したにもかかわらず、その後、大した手も打たず、それどころかバブルとその崩壊まで経験してしまったのだから残念としかいいようがない。2000年に新訳を出したところ、またよく読まれている。
 ドラッカーはそのほぼ一〇年後『乱気流時代の経営』(1980年)を書いて、断絶の後に乱気流がやってきたことを知らせた。特にバブルに気をつけろと懇切丁寧に注意を与えてくれた。すでに起きている未来を教えてくれるだけではない。どうすべきかまで教える。しかしこのときも、真剣に受けとったところはあまりなかった。
 そしてそのまた一〇年後、つまり『断絶の時代』初版刊行のちょうど二〇年後、『新しい現実』(1989九年)を書いた。書き出しはこうだ。「平坦な大地にも峠がある。そのほとんどは地形の変化であって、気候や言葉や生活様式が変わることはない。しかし、そうでない峠がある。本当の境界がある。そして歴史にも境界がある」。つまり、あの断絶は「峠」であり、「境界」だったというわけだ。
 さらにその四年後の『ポスト資本主義社会』(1993年)では、その峠は一瞬のものではないと説いた。峠には長さがある。五〇年くらい続く。今度のそれは1965年ごろに始まり2020年くらいまで続くという。

何によって憶えられたいか

 この五〇年より前は、資本主義社会あるいは社会主義社会という、経済至上主義の時代だった。あるいは政府自らが社会を救うとの信条が隆盛を極めた時代だった。2020年より先の人たちは「カネが中心の社会って、どんな社会だったのだろう」「政府にそんなことまで期待していたのか」といぶかる。ドラッカーはさらにもっとたつと、歴史家の研究を待たねばならなくなるという。
 われわれがとんでもない大転換期にあるということは、今や日本でも常識となった。現在の閉塞的な状況が明日の飛躍のための雌伏期だったと思い返されるようになる可能性は、十分にある。そうでなければ困る。
 ドラッカーが挙げている日本と日本人の長所の一つに、転換の能力がある。かつて日本は、あっという間に仏教と唐の文化を取り入れた。明治維新という世界に例のない偉業を成しとげた。第二次世界大戦の廃墟からも立ち直ったではないかという。
 しかし、今、転換を求めているといっても、はたして明治維新や終戦直後ほどの覚悟ができているかというと、かなりの心細さを感じる。
 われわれの今の転換期は1965年ごろ始まり、おそらくは2020年ごろまで続くであろうというものである。しかも2020年以降の安定期といえども、知識が中心の社会であるからには、”変化が常態”という種類の安定期であるにすぎない。
 したがって多くの読者の方々は、転換期しか知らないという希有の世代、そして残りの方々は転換期に生まれ転換期を生き、その後、変化が常態という世界まで活躍を続けなければならない前代未聞の世代となる。
 これは苦しいことか。もちろん楽しいことと受けとめるべきだろう。大ドラマを毎日、見させてもらっているのだから。おまけに役までもらっている。自分次第で主役の一人になれる。
 そのための箴言を一つ紹介しておきたい。これはドラッカーの言葉というより、ドラッカーが通っていたルーテル派系のミッションスクールの宗教の先生の言葉だ。それは、「何によって憶えられたいか」だ。この言葉を折にふれて思い出せば、それだけで人生が変わるという。
 今、到来している高齢化とは、短に平均年齢が延びたというだけのものではない。誰もが八〇歳、九〇歳まで生きるというものである。
 今でも十日に一度はドラッカーから、ファックスが来る。必ず近況を知らせてくれるが、昨日はカナダの州政府、明日は中国の教育機関、次の日は毎年二本ずつ出しているマネジメントビデオの収録、来週は某国の政府首脳、日本の企業トップとの会談と、目の回る忙しさだ。
 やはり理想は、ドラッカーのように九〇歳を過ぎて主役を張ることだろう。ちなみに、夫人のドリス・ドラッカーも、法律と理工の知識をバックに特許弁理士として活躍、六〇歳からは発明家、八〇歳からはベンチャーの事業家として自分の発明した製品を商品化している。

知識労働と肉体労働それぞれが抱える課題

 現在の転換期は2020年〜2030年まで続く。転換期の五〇年間には、社会、経済、政治、文化、教育が足並みをそろえて変わるわけではない。早く変わるものもあれば、遅れて変わるものもある。すでに変わってしまったものもあるし、変わろうとしているものもある。項目がはっきりしてきたにすぎないものもあるし、それすらよくわからないものもある。いずれにしても、この転換期後の時代が、経済至上主義社会でないことだけは確かだという。
 経済については、資本中心の時代から知識が中心の時代へと変わる。すでに、ガンの治療法など知識さえあれば、資本などどこからでもやってくる。単純肉体労働が中心という時代は終わって久しい。
 生産性についても、重要なのはもはや単純肉体労働のそれではない。肉体労働の生産性にかかわる問題は、テイラー以降の生産性革命が一応解決した。これからの問題は、知識の裏付けを持つ肉体労働の生産性である。もはや一国の経済、一人ひとりの人間の働きがい、生きがいの源泉は、知識労働である。知識労働の生産性が最大の課題である。
 幸いなことに、知識労働の生産性向上についても方法論がある。意思決定の方法論やイノベーションの方法論と同じように、ドラッカーが教えている。経営者にドラッカーのファンが多いのは、人間と社会について多くを学べるからだけではない。
 ドラッカーの魅力は、膨大な知識と豊富な経験とに基づいて、行動のための原則と具体的な方法を示すところにある。彼は固定化した処方は示さない。原則を示す。だから応用が利く。ちなみに、知識労働の生産性向上の第一の原則は、成果に貢献しない仕事はしないことである。
 知識労働は、それが自己実現に結び付くとき、大幅に生産性が向上する。したがって労働観も変わっていく。
 しかしここに一つ重大な問題が残る。知識社会への流れから取り残される人たちである。全員が知識労働者になれるわけではない。雇用機会や所得についてはさほどの心配はいらない。人手不足が心配なくらいだ。だが、彼らの尊厳、生きがい、社会的な位置づけの問題が残る。
 知識社会化が進行する先進国の中でも、アメリカと日本の社会だけは、生きた知識への敬意が伝統的に強いため、彼らの存在が大きな社会問題となることはないかもしれない。
 しかし、問題が存在し続けるという事実には変わりない。この問題の解決の基本は、単純肉体労働および単純サービス労働の生産性を飛躍的に向上させ、貢献と働きがいを鮮明にすること以外にない。経済学者は肉体労働者の働きがいの問題には触れない。しかし、ドラッカーにとって、取り残される肉体労働者も重大な関心事である。カウンター・カルチャーの問題として正面から取り上げている。なぜなら、彼らもかけがえのない大切な人間であり、取り残される者のいる社会は、社会として機能しているとはいえないからだ。
 おまけにITが世の中を変える。eコマースのインパクトがものすごい。ただ、eコマースに何が載り何が載らないかは、載せてみないと分からないという。
 ドラッカーはIT革命を産業革命と対比させている。蒸気機関が産業革命を起こし、産業、経済、社会を変えた。しかし、蒸気機関は何も新しいものは生まなかった。それまで生産していたものを大量に生産するようになっただけである。もちろんこれだけでも、革命と呼ぶに十分の偉業である。
 産業革命は、鉄道を生み出したとき、文字どおり世界を一変させた。距離感を縮め、史上初めて人類に移動の自由を与えた。全国マーケットなるものを生んだ。
 IT革命についても同じことがいえる。コンピュータの発展によってデータを高速処理できるようになった。それまで半年もかかっていた複雑な計算や設計が、瞬時に行われるようになった。
 しかし新しいものは生んでいない。プロセスをルーチン化しただけである。もちろんそれだけでも革命である。だが、一時喧伝されたコンピュータによる意思決定などは実現していない。その気配もない。
 ところがIT革命もまた、産業革命の鉄道に相当するものを生み出した。ドラッカーはそれがeコマースだという。eコマースは距離そのものをなくす。その影響は印刷革命や産業革命と同様、それ自身とはまったく関係のない領域を変える。つまり世の中全体を変える。

これからの主役はあなたかもしれない

 その最大の影響は、コンピュータを中心とするIT産業に対するものではない。印刷革命では印刷職人が貴族にまで列せられたが、すぐに主役の座は出版社や編集者にシフトした。IT革命でも、主役は機器から中身へとシフトする。ITで重要なのは、I(情報)であって、T(技術)ではない。IT革命の本当の主役はまだ現れていない。その情報にしても、技術、つまりコンピュータから出てくるものは、過去のもの、組織の内部についてのものにすぎないという。
 ネットバブルがついにはじけた。ドラッカーはバブルの前に、ネットのバブルがやってくる、しかしそれはバブルにすぎないのだから気をつけなさいと警告していた。
 IT革命は世の中を変える。しかし本当の主役が現れるのはこれからだ。それはあなたかもしれない。

編集部:ドラッカーには人生の師、万人の友人としての顔もあります。

 組織がどうマネジメントされるかによって、社会の豊かさも人の生きがいも左右される。ドラッカーは四四歳のとき『現代の経営』(1954年)を書いて、マネジメントの祖とされるに至った。五六歳のときには世界最初の、しかも今日に至るも最高の経営戦略書とされる『創造する経営者』(1964年)を書いて、事業とは客の創造であると断じた。ドラッカーの経営学は、内部化されたアウトサイダーとしてのコンサルタントの仕事を通じて、生まれ育ってきている。
 世界中の大小の組織を相手にコンサルタントをしていることから、あとからあとから問題が押し寄せてくる。そのために最新の世界がよく見える。これに加えてドラッカーは1938年来、大学と大学院で教鞭をとってきた。大学院での学生は大企業の幹部、中小企業の起業家、病院やNPOの管理者である。つまり学生もまたドラッカーの洞察の源泉になってきた。今でも、毎週土曜日にはクレアモント大学院大学で教えている。この学生たちとの対話が彼の想像力をかき立てる。
 書きたいモノの種は尽きない。かえって増えている。著作は主なものだけでもすでに三二冊ある。
 それらに加え、『ハーバード・ビジネス・ウィーク』『フォーブズ』『ジ・エコノミスト』などに寄稿している。書くことを構想し、あるいは書き始めはしたものの途中で止まっているものもたくさんある。『仕事の歴史』『アメリカ史』『ネクスト・エコノミー』『ウェイステッド・センチュリー』など、題名を聞いただけで読みたくなるものばかりだ。これでは体が幾つあっても足りないし、一〇〇歳を越えても種は尽きない。
 ドラッカーは一八歳の時、ヴェルディのオペラ「ファルスタッフ」を見て感動し、八〇歳の時の作品であることを知った。そして、なぜその年であのような大作を作ったのかを聞かれたヴェルディの、「まだ満足できなかったからだ」という答えを知った。今、ドラッカーは八〇歳どころか九〇歳を越えた。しかしベストの作品はどれかと聞かれれば、次作だと答え続けている。
 ドラッカーは何回も書き直す。日米同時出版の場合には書き上げたページごとに原稿を送ってくる。それをどんどん直してくる。せっかく翻訳したものをばっさり削除してくることもある。せっかくの面白いものをもったいない限りだ。しかしドラッカーにしてみれば、ベストを求めているにすぎない。
 彼の言うことは思い当たることばかりである。しかもこちらが年を経て経験を積めば、また新しいことに思い当たる。ドラッカーはかつて、ダンテやゲーテはあらゆる年齢層に喜びと洞察を与えると言った。私に言わせれば、彼自身がそのような存在である。
 今、私は『ジ・エコノミスト』に掲載予定の「ザ・ネクスト・ソサエティ」の原稿を待っているところである。この論文も、来春発行予定の新著に含まれていることになっている。その間、『抄訳マネジメント』(1975年)の新訳に取り組んでいる。お恥ずかしいことだが、二六年の間に新しく見えてきたもの、改訳しなければと思うようになった部分がある。

お薦めの二冊
『現代の経営』(54年)
『創造する経営者』(64年)
【ともにダイヤモンド社刊】



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