講演 「ドラッカー経営思想の真髄−この転換期をいかに生きるか」
(社) 埼玉県経営者協会 平成13年度定時総会 特別講演要旨

問題意識(人・社会・組織とはなにか)


 そのドラッカーの最大の関心は何か。それが「個としての人間であり、社会的存在としての人間」です。人間には二つの側面があります。個としての存在、これは死ぬ時は一人という人間です。永遠の存在としての個です。そして、もう一つが社会的存在としての人間です。個としての人間については、ドラッカーが書いている論文はキルケゴール論だけです。
 しかし、この個としての人間を考えなければ、社会的な存在としての人間も自己の確立は不可能だといっています。しかも、社会にとっても、不足なんだということを言っています。
 このキルケゴール論のほかは、ドラッカーが書いているものは、全部社会的存在としての人間についてです。この社会的存在としての人間が幸せであるためには、まず社会が成立していなければなりません。
 社会成立の条件は、三つほどあります。これがドラッカーの社会についての一般理論です。第一に人間には位置付けがなければいけない。第二に役割がなければいけない。そして、第三に権力関係が納得できるものでなければならない、ということです。
 日本では、位置付けが重視されています。会社には来るが、余り役割は果たしていない。属していることが大事なのだという。アメリカでは、役割の方が重視されていて、使い捨てなどということが起こるわけです。しかし、位置付けと役割の両方がなければいけないというのが、ドラッカーの社会についての一般論です。
 ドラッカーの経営学は、この社会についての一般理論を組織社会に適用するところから始まっています。1946年、ドラッカーが36歳のときの第三作目の著作、世界中の大企業の組織改革のテキストになった『会社という概念』です。
 生産手段が大規模になってくるにつれて、一人ひとりの人間では仕事ができなくなった。そこから組織が生まれた。ごく最近に至っては非常に専門化した知識をもった人が一緒に仕事をしなければ、いい仕事ができないということで、一段と組織化が進み、社会そのものが組織社会になった。
 そうした組織社会における人間の生活、人生、幸せは、一つひとつの組織がどれだけいい仕事ができるかにかかっています。そこでマネジメントが必要になってくる。社会的存在としての一人ひとりの人間が幸せになるためには、マネジメントがきちんと行われなければならない。そこからドラッカーのマネジメントに対する関心が生まれた。そして、マネジメントを発明した。そして、あっという間にマネジメントが一つの社会的機能として認知され、さらには大学の学部にまでなった。或いは、マネジメントスクールというものも出て来た。これが今日のマネジメントと呼ばれているものルーツであり、発展過程です。
 さきほど、彼は文明に関心があると申し上げましたが、実はドラッカーのお父さんは、オーストリア=ハンガリー帝国の高級官僚として商務省次官まで務めた人です。
 そのお父さんが1914年、後にチェコスロバキアの大統領になったトーマシュ・マサリクという人と自宅で話をしているのを聞き、四歳のドラッカーの耳に残った言葉が、「もう文明も終わりだね」という言葉だったそうです。ちょっと出来すぎた話ですが、ドラッカーの頭にずっと残ることになったのが、この言葉です。
 実はその年、第一次世界大戦が始まったわけです。戦争に負けたオーストリアでは、それまで500年近く支配を続けていたハプスブルグ家が滅んで共和制になりました。首都のウィーンは社会主義の巣窟みたいな町になりました。ドラッカーは14歳の時、共和制移行6周年目の記念パレードで、先頭を旗を持って歩いていたそうです。
 その時、水溜りがあって、ひょっと避けて歩道にたってパレードの進むのを脇から見たとき、自分はパレードの中を歩く人間ではない、パレードを脇から見て、それを人に知らせるのが自分の役割であり、得意とするものではないかと思ったそうです。事実、彼は実業家にもならなければ、政治家にもならずに、社会を見てそれを知らせるという人生を送ることになったわけです。
 ドラッカーは、高校を卒業した後、学校にはもうウンザリしたということで、ウィーンを出まして、ドイツのハンブルグにいきます。そこで、商社の見習いになりました。しかし、ドラッカー家は歴代、学者、政治家、官僚、医者という家系だったそうで、お父さんがガッカリするといけないというので、籍だけはハンブルグ大学においたといっています。
 そう言いながらも、実は勤めから帰ると、すぐ図書館に行って、やたら勉強しているという感じがよくわかります。頭もよかったのでしょうが、図書館にある本は片っぱしから読んでいます。一年半ほどハンブルグにいた後、フランクフルトに行って証券会社に勤めます。
 大学の籍はフランクフルト大学に移しました。19歳のときに、最新の数学モデルとデータを使って、経済はよくなる一方であるという論文を経済誌に発表します。その直後、あの1929年の大恐慌が起こるわけです。以来、「もう、予測は一切しない」と心に決めたそうです。
 データになった時は、すでに過去のものであって、何の役にも立たないということを思い知らされたといいます。数学モデルというものは、抽象化して、大事な要素をどんどん落としているから、何の役にも立たないのだ、と言っています。
 ドラッカーは、未来学者であるという風にとられておりますが、彼は未来のことは誰にも分からないといっています。未来について言えることは、二つだけだと言う。一つは分からないということ、もう一つは今日とは違うということ、この二つだけだといっています。従って、自分は未来学者ではないと言っています。ところが、彼の言うことはどんどん当たっています。
 彼は、未来は誰にも分からないとはいえ、その分からない未来を知る方法はある、というのです。一つは自分で作ってしまうことです。もう一つは、すでに起こってしまったことの帰結をみることです。
 すでに起こったことには、みんながその帰結に気付いていないものがたくさんある。それをチャンスにしろと言っています。
 話が脇道に逸れましたが、大恐慌で勤め先の証券会社がつぶれたので、新聞記者になります。一日に論説を二本書くという生活を送ります。二十歳の青年になぜそんなことができたかというと、これは仕事をバリバリする三十代、四十代の記者が第一次大戦でほとんど死んでしまったからだと言っています。日本の戦後と同じだと言っています。
 彼は、新聞記者時代に、記者として知るべきことで知らないことは一切ない、というようにしようと勉強します。頭が良いだけではなくて、やたら勉強もするという感じですけど、21歳で博士号を取ります。
 大学四年生では教授の代講までしています。その時の教え子の一人、また後輩でもある女性とその後、偶然、ロンドンで再会して恋に落ち、結婚します。その女性が夫人のドリスさんです。
 ドラッカー夫人について申し上げますと、彼女は母親の薦めで大学は法学部に入りました。本人の関心は物理工学でした。そこでアメリカで四人のお子さんの手がかからなくなったあと大学の理工学部に入って卒業します。理工と法学の知識を結びつけて特許弁理士になり、その仕事で日本にも何回か来たことがあるそうです。彼女は六十歳になってから、さらに物理工学の方に進んで自ら発明家となり、いろいろな製品を発明しています。そのうちの一つを事業化して、八十歳でベンチャーを起こしています。今、八十九歳です。
 このフランクフルト時代のドラッカーは、民主主義、法治国家、立憲政治の成立に関心を持ち、大論文を書き、名門出版社の法律政治叢書の100号記念号として出版されるという破格の扱いをうけます。しかし、その論文はナチが政権を取った後、禁書になって焚書にされます。
 その寸前、彼は敬虔なキリスト教徒、また立憲政治を信奉するライターとして、ナチの支配下では食べてもいけないし、生きてもいけないとして、イギリスに渡ります。それが1933年、二十三歳の時です。
 ロンドンでは保険会社に就職して証券アナリストになり、その後インベスメントバンクのパートナー補佐になります。そしてある時、ケインズの授業を聴講します。そのとき、ケインズにしても、また周囲の大学生や大学院生にしても、考えていることはすべてお金のことであると覚ります。彼自身もインベスメントバンクのパートナー補佐として成功していたわけです。しかし、自分が関心のあるものは人間、社会であると、何のアテもないのに、そのインベスメントバンクを辞めてアメリカに行きます。
 それが二十七歳の時です。大学の講師とライターをしながら、二年後に『「経済人」の終わり』、つづいて三年後に『産業人の未来』を出します。これを読んだGMの幹部が、その政治学的な手法でわが社を分析して欲しいと依頼します。そして、一年半、同社の組織について研究したものが、『会社という概念』であり、経営学の古典となったものであります。
 この著書のなかで、彼は今日のカンパニー制について詳しく分析しています。そのカンパニー制がやがて世界を席巻します。日本もそうです。しかし、日本では製品別部門制という形になってしまいました。ドラッカーが言っていたことは、今のカンパニー制です。 ドラッカーのいうカンパニー制がどういうものかと言うと、本社が海軍省から軍事装備の受注をする。当時は戦時生産で、GMも軍事装備の生産をやっていました。ところが、そこの工場長がワシントンに出掛けて、それはウチは不得意なので、こちらの製品を作らせてくれと言って、本社とは別の受注契約に変えることができた。それほどの独立した権限を有するものでした。
 会社の進むべき大きな方向を決める、資金を調達するといったことは本社が行なうが、実際の事業はカンパニーそれぞれがやる。そのような徹底したカンパニー制だったのです。日本では、単なる製品別部門制になってしまった、といういわくつきのものですが、この『会社という概念』という本は世界中の大企業に非常な影響を与えました。
 フォード一世が死んだあと、ガタガタなっていたフォード社を孫のフォード三世が引き継ぎます。その時の教科書にもなります。GEの組織再編のテキストにもなりました。そのGEの組織再編が世界中の組織改革ブームの火付け役になったわけです。
 このあと、マネジメントというものについて集中的に研究をし、その結果を体系としてまとめたものが、皆さんよくご存知の1954年の『現代の経営』です。これによってドラッカーは経営学の祖と仰がれるようになります。
 そこで彼が言っているのは、企業の機能は二つしかない、ということです。マーケティングとイノベーションです。
 いつのまにか世の中は組織社会になってしまいました。周りにあるのはみんな組織がつくったもので、個人がつくったものは一つもない。与えられるサービスも組織によってです。つまり組織がうまくマネージメントされるかどうかで社会の発展が決まる。組織のマネジメントはこの意味で極めて重要です。
 と、同時にもう一つある。それはみながどこかの組織で働くという意味でも組織社会になってしまったということです。昔は、「お仕事は何ですか」といったのが、「お勤めはどこですか」と聞くようになった。その結果、一人ひとりの人間が生き生きと働けるかどうかということも、組織のマネジメントにかかってくるようになった。
 マネジメントについてドラッカーは三つの役割をいっています。一番目は事業をきちんとやること。二番目は、そこにいる人たちが生き生きと、生産的に働けるようにすること。そして三番目は社会的責任を果たすことです。
 社会的責任は二つあると言っています。一つは音や煙など自分が出すインパクトを極力小さくする。小さくするだけでなくて皆無にする、できればそれを事業にしてしまう。環境問題の解決を事業にしてしまう。
 それから自分の会社の事業とは関係なしに起こる社会の問題があります。自分の会社の力で貢献できるものがある。それが社会的責任のもう一つです。しかし、ドラッカーは本業に悪い影響を与えるところまで手を出してはいけないと、ハッキリ言っています。会社が存続してこその社会への貢献だからです。
 先程から申し上げているように、ドラッカーの考え方は人間中心です。それが日本人にものすごく通じるのです。彼自身、日本が好きだと言う。ロンドン時代に、日本画に恋をしてしまったからだと言っています。ある日、雨が降ってきたので飛び込んだ画廊で日本画展をみてビックリ。それ以来、日本画に魅せられてしまい、日本画のコレクターとしても有名です。クレアモント大学ポモナ校では東洋美術史も教えています。
 かつてライシャワーが、日本人には構想する能力、分析する能力が欠けていると指摘したことがある。日本でもかなり話題になりました。しかしドラッカーは、構想し、分析するという能力は、もしかしたら劣っているかも知れない、しかし日本人にはもっと大事な能力がある。それは全体を全体として把握する力、知覚する力であるといってくれました。とくに21世紀の問題、環境、教育、途上国の問題などを考える時は、全体を全体として理解しない限り、解決は絶対にない、と日本人の能力に期待しています。
 ただ、その日本でなぜかドラッカーを、ときどき間違って理解してしまうということがあります。一つが先程申し上げたカンパニー制、もう一つが目標管理です。彼が言う目標管理というのは、上司と相談して自分の目標を自分で決めて自分を管理することですが、目標を与えて管理するというふうに使われています。
 それから、最近はやりのナッレジマネジメント。これも一人ひとりが持っている情報をコンピュータに落とし込んでという使い方をしている。彼は、知識とは情報に意味が加わったものである。情報はそうして初めて知識となり役にたつ。知識というものは人間にくっついているものであるという考え方です。その根本を間違えるとデータばかり増えて、何の役にも立たなくなる。
 ドラッカーはマネジメントを発明したといいますけど、事実、マネジメントの手法の8割から9割がドラッカーから出ています。マネジメントというものを突き詰めて考え、しかも世界の大企業の相談相手をしていれば、自然に生まれてきてしまうということだと思います。
 さきに社会的責任について申し上げましたが、それとは別にプロフェッショナルとしての倫理があります。彼は、ギリシャの医学者ヒポクラテスが言っている「知りながら害をなすな」こそ、プロの倫理の根本であり、企業の社会的責任以前の問題である、と言っています。しかし、現実には、知りながら害をなすということがときどき起こっています。これは一番してはいけないことです。
 もう一つ、文化の問題、風土の問題としか言いようがない境目にある問題があります。互恵取引というものがございまいて、これはしょっちゅう起こっている問題です。「お宅のものを買っているのだから、お宅もウチのものを買ってよ」という。これなどは、やはり文化の問題に近いのかな、という感じがいたします。



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