前口上[2007-02-05]
このレポートは、ものつくり大学製造技能工芸学科で2006年度に開講した「人文科学」履修生のひとりである、樋爪達哉くんから提出されたものを、担当教員である土居がhtmlに変換し若干の修正を施したものです。きわめて優秀なレポートだと土居が判断し、土居研究室のサイトで紹介しています。なお後半では、土居の研究者仲間である飯倉義之さんによる、このレポートに対するコメントを掲載しています。
加筆修正[2008-09-24]
サイト構成の大幅変更に伴い、リンク先等一部加筆修正しました。このレポート本文内容には変更ありません。

八幡の藪知らず
「そして、誰も入れなくなった。」

「八幡の藪知らず」前の解説板

図1:「不知藪八幡之実怪」(「八幡の藪知らず」前の解説板)

目次(章構成)

飯倉義之さんによるコメント



序章 「八幡の藪知らず」を知っていますか?

早速ですが「八幡の藪知らず」なる処をご存知でしょうか。時々、文学作品の中にも出てくることがある為、広辞苑にも「八幡の藪知らず」の説明があります。古くは「八幡不知森(やわたしらずのもり)」及び「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と呼ばれ、「諸國に聞えて名高き杜也」(「葛飾誌略」文化七年/1810)と評される程の名所でありました。成田山参詣のメインルートから外れているにも関らず、現在に伝わっている江戸時代に著された日記や紀行文にも「八幡の藪知らず」を実際に訪ねたことを書いている物も多いのです。また最近はインターネットで「八幡の藪知らず」を多数のサイトが紹介し、実際に足を運ぶ人も数多くいます。といっても、多くの人はこの藪の中には入りません。と言うよりも入れません。昔からこの藪は柵で囲まれており人の立ち入りを許していないのです。何故でしょうか。それはもし人がこの藪に入ったならば、「必神の祟あり」(「江戸名所図会」文政二年/1829)「竪(たち)どころに駐(すく)み死して、出る者なし」(「葛飾記」寛延二年/1749)まさしく「魔所也」(「葛飾誌略」文化七年/1810)と言われる恐ろしい場所なのです。 しかし、生還者がいないわけではありません。水戸黄門こと徳川光圀と虻を助けた旅人が、民話とはいえ江戸時代で「八幡の藪知らず」に入って生還した数少ない話であります。ともかく、何故このような「人の入ることを得ざる」(「神野山日記」嘉永七年/1854)伝承があるのでしょうか。そう思い調べていくうちに日本語の慣用句として辞書に載っていること、意外な光景、市川市教育委員会の解説板、消された仮説、葛飾八幡宮の巫女さんの証言などなど、すっきりしない事柄が実に多かった。以下、その調査報告であります。

近くの歩道橋から撮影した「八幡の藪知らず」

図2:「八幡の藪知らず」(近くの歩道橋から。2006-12-27撮影)


第一章 本八幡で会いましょう。

千葉県市川市、本八幡。JR総武本線、京成電鉄京成本線、都営地下鉄新宿線が通る鉄道交通の要衝の地で、市政の中心である市川市役所が所在。市最大の繁華街でもあり、中心地を離れると住宅地が広がる。街の北側には古くから葛飾八幡宮が鎮座、南側にはダイエーの貴重な成功例でもあったショッピングセンター「ニッケ・コルトンプラザ」が賑わい、市政の方針である「文京都市」を実現すべく建設された『県立産業科学館』と市最大の図書館「市川中央図書館」が隣接する。市川市で最も活気のある土地といっても過言ではない街、それが本八幡である。その街の中にある、一見開発から取り残された土地の様に見える場所がある。市役所と道路を挟んで向かい側にある、一回中に入ったら出られなくなると伝えられ、地元では神聖な場所として知られている場所で、周囲に対し場違いなほど鬱蒼としている竹林にしか見えないような場所が、今回取り上げる「八幡の藪知らず」です。

図3:「市川市役所―Googleマップ」(※リンク先参照)


第二章 古書との遭遇

そもそも、『藪知らず』とは何であろうか。広辞苑 第五版に由れば、

やわた【八幡】…A千葉県市川市の地名…(中略) ―のやぶしらず【八幡の藪知らず】八幡2にある藪。八幡不知森 (しらずのもり)ともいい、ここに入れば再び出ることができないとか、祟りがあるとかいわれる。転じて、出口のわからないこと、迷うことなどのたとえ。やわたしらず。

と解説しています。たまに文学作品にも表現として使用されることのある「八幡の藪知らず」。日本語の慣用句として登場していることを考えると相当有名なところであることは間違いないでしょう。では、現在確認できる書物の中で「八幡の藪知らず」はどのように書かれていたのでしょうか。主な古書の記述を見ていきましょう。まず、寛延二年(1749)に刊行された"葛飾三地誌"の一つ「葛飾記」記述が現在に分かっている中で、「八幡の藪知らず」が載っている最古の文献ではないでしょうか。

又、八幡宮鳥居まへより南方八わた町入口に、八幡知らずの森と云古き森有、森余り大からず、高からず、然ども、鬱々として其中見へ透ず、枯木朽木の類、幾年か人の手に触れざる有、此森の内に入るもの無ければ也、若入れば、竪に駐み死して、出る者なしと云り、是は、平親王将門、平の貞盛の矢にあたり、秀郷の為に討れ給ひ、猶生る如くにして通り給ふ時、六人の近習此所迄慕ひ来り、土の人形と顕れ、終に此森の中に入り不働。後ち雨雪に解て、終に土地と成れりと云り。依て、此中の土を踏む者は、その祟りにて死して出ざると也。其所、昔より里諺に云伝へたり。然ども、此所相馬郡よりの順路に非るゆへいかゞ。松戸通りたるべきか。愚按ずるに、是は、将門は葛原の親王の後胤たる故、葛飾の葛の字の縁を以て、近習の人の内にて、此所に其由緒を残されたるなるべし、

この記述によって「八幡の藪知らず」は当時、それほど大きな森では無かったことが分かります。また、かなり樹木が繁茂し、人の手入れも行われていないことも書かれています。そして、既に「八幡の藪知らず」に入ってはならないという伝承があったということも分かります。また、この伝承の由来として「平将門伝説」を用いていますが、疑問も呈している。次に注目すべき記述があるのは同じく"葛飾三地誌"の一つ、文化七年(1810)刊行の「葛飾誌略」です。

一、八幡不知森。諸國に聞えて名高き杜也。魔所也といふ。又、平將門の影人形、此所へ埋めてありともいふ。又、日本武尊東征の時、八陣を鋪き給ふ跡とも云ふ。其外説々多し。予、古老に委しく尋ね聞きけるに、此所昔假遷宮の神也。故に敬して注連を引き、猥に入る事を禁ず。不浄を忌む心也。・・・・・・(中略)・・・・・・此杜の地所、今は本行徳村の同地内に成りたり。八幡三不思議、杜、一夜銀杏、馬蹄石、是を云ふ。

「八幡の藪知らず」の由来についての内容が充実している「葛飾誌略」記述。森の大きさについての記述はありません。「魔所」であることを強調しているかのようです。「平将門」伝説の他に「日本武尊の陣所跡」説、そして本命として「八幡宮の宮跡」説を紹介しています。また、微妙に「本行徳村」との関連を匂わせています。

次の文献も"葛飾三地誌"の一つ、文化十年(1813年)「勝鹿図志手繰舟」の記述。

八幡不知森。日本武尊八陣を布せ給ひし跡なる故、人出る事あたわずと言い伝う。案ずるに八陣の法は武内大臣初めて漢土より学び来りて応神天皇に伝へ奉る(応神天皇は日本武尊の御孫なり)。・・・・・・(中略)・・・・・・かくあれど、景行天皇の代、八陣の法日本に伝わりたる事を聞かず。只、日本武尊の御陣所跡なれば恐れて入る事を禁ぜしものならん

ここでは、「葛飾誌略」が紹介した「日本武尊八陣説」を自ら研究し、歴史的にみて八陣を敷けることが出来ないということを発見、恐らくただの陣所説ではないかと「勝鹿図志手繰舟」の著者は推定しています。

その一年後に、人知らぬ好風景で茶を飲むことを生き甲斐とする旅行好きの隠居僧が記した旅行記「遊歴雑記」(文化十一年/1814)です。

三十弐 やはたしらずの藪の事実
 同所やはたしらずの藪は、八幡宮の門前、南側の路傍にあり、藪の間口漸く拾間ばかり、奥行も又拾間には過まじと思はる、中凹の竹藪にして、細竹・漆の樹・松・杉・梅・栢・栗の樹などさまざまの雑樹生じ、南の方日表なれば、路傍より能見えすくなり、元来、此藪四方は垣根等の構えなければ、麦・米・粟・稗などのよろづの搗屑或は塵芥の捨処とし、藪際より中の様子を見るに、甚汚穢して怪異あるべき凄凉き、更に藪には見えねど、古来より種々の奇怪の巷談区ありて、水戸光圀卿は試し見んと、推て此叢林に入、顔色土の如くして出給ひ、いか様排事はせまじきものよと宣ひしのみにて、子細をば更に仰なかりし、などゝ巷談し、・・・・・・(中略)・・・・・・又は、里美安房守は六具に身を堅め、馬にまたがりたるを見たるなど、むかしより伝ふる処、説々同じからず、されば此藪四角にして、凡百坪余に過まじ、殊に雑樹扶疎に生じて繁茂せざれば、藪中暗からずして、外より一々能見ゆ、
 土人に尋るに、怪異の説大同小異也、是信じがたし、爰に小岩田御番所附名主忠右衛門申しけるは、
 此やわた宿の南半みち余に、行徳領に兵庫新田といふ村あり、彼藪その新田一村の持にして、誰人の所持の藪と限るにあらず、故に、やはた宿内の藪ながら他村持の地面なれば、宿内の者は一切搆はず、依て此藪通り掃除等も、?見、又は佐倉の城主通行の節は、兵庫新田の百姓来りて取片付侍れば、坪数もしらず、藪の中には何のあるやら元より用なき他村の藪なれば、宿内の者這入べき様はなし、故にやはたのやはたしらずの藪と申ならはし侍る、
と物語き、此説こそ実事と思はる、
・・・・・・(中略)・・・・・・
実にも彼竹藪の中弐三間をへだてゝ、小さき石の小祠あり、鳥居には注連を引はえたり、若怪異ありて、壱寸も踏込がたくは、何ぞかくの如きのかざりあらんや、又里見房州等が戦死の凝念、此藪林にとゞまらば、一切の搗屑・塵芥の類を捨る者に、咎めもなく祟らざるは、浮説虚談をいひ伝へたる事と覚ゆ、能その本源をわきまへずして、万事人には伝へがたし、君子の博く学んで内におしゆるとは金言なるべし、
・・・・・・(中略)・・・・・・後人遊歴し、彼藪林を見てしるべし。

この隠居僧。名を十方庵大浄敬順という。ものすごく好奇心がおありのようでして、名主に問い質して真相を探ろうとすると思えば、今度は運よく納得のいく返答が返ってきて今度は大喜びと、読んでいて楽しい人である。なるほどこれは後世に残るはずだと一人納得するのですがそれはさておき、ここには気になる記述が数多くあるのです。「搗屑或は塵芥の捨処」とある。「諸國に聞えて名高き杜」がゴミ捨て場だったのだろうか。イメージのギャップが激しすぎる。しかも、そのゴミのせいで「怪異あるべき凄凉」とは、怪異現象で名を売っていたこの「八幡の藪知らず」にとってなにか侮辱のようにさえ聞こえてくる。ここまで空気を読まない記述も珍しいのでは。水戸黄門の諸国漫遊や里見氏の亡霊などの諸説も書いている。そして最後、名主に行徳領のある村の持分であると言って納得し感動するのだ。また初めて具体的な「藪知らずの大きさ」をだしている。

次に親子三代にかけて計画・出版された「江戸名所図会」(文政十二年/1829)の記述。

八幡不知森
 同所、街道の右に傍ひて一つの深森あり。方二十歩に過ぎず。往古八幡宮鎮座の地なりと云ひ伝ふ。すなわち森の中に石の小祠あり。里老云ふ、人謬ちてこの中に入る時は必ず神の祟ありとてこれを禁む。ゆゑに垣を繞らしてあり。(あるいは云ふ、むかし平親王将門、平貞盛が矢にあたり、秀郷が為に討たれ、後六人の近臣と称する輩、その首級を慕ひ、この地に至りし頃、この森の中に入りて動かず、終に土偶人と顕れたりしが、その後雷雨に破壊せしより、この地を踏む者あれば必ずたたりありとて、大いに驚怖するといへり。またある人いふ、この森の回帯はことごとく八幡の地にして、森の地ばかりは行徳の持分なりと。このゆゑに八幡村の中に入会といへども、他の村の地なるゆゑに、八幡の八幡しらずとは字せしと。さもあらんか。)

この、「江戸名所図会」の記述。インパクトの強い「水戸黄門諸国漫遊」は記載されていないが、「八幡宮宮跡」説、「平将門伝説」説を紹介し、そして「行徳村入会地」説を最後に持ってきて「さもあらんか」と評している。この段階で「行徳入会地」説は半ば定説となりつつあったのではないだろうか。

次は国学者間宮永好が著した「神野山日記」(嘉永七年/1854)である。

此の社近き程に八幡不知と呼ぶ籔あり。十四五間が程、粗垣ゆひ渡して、人立入るまじき由の札立り。こは、「此の内に入るもの、出づることなし」と、いひ傳へたればなりけり。又の説に、「こは、むかし八幡宮鎮座のところなれば、此の内に入る者は必ず祟りを蒙る故に、垣をゆひ廻して入る事を許さず」といへり。いづれか善き、いづれか惡しき。更に辨ふべくもあらず。又、元祿の頃、水戸の贈大納言光圀卿の君、ひとり入り試み給ひけるが、其の故をば語らせ給はで、「又な入りそ」と、宣ひし由いへり。されど、此の説は、彼の御館の人などは更に諾うべなはぬ説なり。げに、さばかりの御身にて、いかに官つかさを返され給へるからに、かろがろしくかゝる御振舞ひやは有るべき。證を待つまでもなく空言とは知るべきなり。

なんと立て札まで出来たそうな。入る人が後を絶たなかったのだろうか。作者は国学者ということで「水戸黄門の漫遊」説を紹介するも最後には「空言とは知るべきなり。」と全否定をしている。確かに、諸国漫遊は事実では無いといわれます。ちなみに作者の間宮永好は水戸の人です。

次は「成田参詣記」(安政五年/1858)。

八幡不知森
 同所南の方にあり。方二十歩許り。往古八幡宮鎮座の地なりと云伝ふ。今も法漸寺持なり。森の中に小石祠あり。稲荷を祭れり。里人云、若し人此中に入時は必ず神の祟りありとて垣を繞らして入ことを許さず。
 一説に此森の辺八幡の地にして、森のみ行徳の地なり。故に八幡しらずと云とぞ。されどそれのみなれば垣を繞らして人を入れざる事やはある。必官社の址か又は国司などの塋域ならんか。里説に昔平将門の余類の霊の土偶人とあらはれたることありしなど云を思へば、墳墓の地にて土偶は殉葬のものなるべし。

ここで注目すべきは、「八幡の藪知らず」の土地が法漸寺持となっていると記されていることです。法漸寺とは葛飾八幡宮の別当寺(神宮寺)でありました。殆ど「八幡の藪知らず」は葛飾八幡宮が所有しているような形です(実際、明治維新後の廃仏毀釈で「八幡の藪知らず」は葛飾八幡宮所有となり今に続いています)。そして、「行徳村入会地」説に疑義を呈し、土偶が出てきたことを根拠に「貴人の古墳」説を唱えています。

図4:「江戸名所図会 八幡不知森 葛飾八幡宮」(省略)

図5:左図の「八幡不知森」部分を拡大した図。(省略)


第三章 消された仮説

さて、大雑把に江戸時代の文献を見てきましたが実際のところはどういう由来が有力なのでしょうか。下記に江戸時代に挙がった仮説と出現回数、及び疑義を呈したものを表に示します。

表1:江戸時代の仮説一覧
書物名年代葛飾八幡宮の宮跡水戸黄門の漫遊平将門伝説日本武尊の御陣所里見氏の亡霊行徳の飛び地貴人の古墳
『葛飾記』1749○ 疑
『金ヶさく紀行』1765紹介のみ
『葛飾誌略』1810○ 推
『勝鹿図志 手繰舟』1813○ 疑
『遊歴雑記』1814○ 推
『船橋紀行』1823
『江戸名所図会』1829○ 推
『嘉陵紀行』1834紹介のみ
『下総名勝図絵』1846
『神野山日記』1854○ 疑
『遊房総記』1857紹介のみ 「俗説怪妄もとより弁ずるに足らず」
『成田参詣記』1858○ 疑○ 推
合計(登場回数・推薦回数・疑義回数)登場5
推薦1
登場3
疑義1
登場3
疑義1
登場2
疑義1
登場1登場3
推2疑1
登場1
推薦1

こうして表にしてみると、出るものが出尽くしたなという感じがいたします。英雄、悲劇の主人公は伝説になりやすいですから。まず「葛飾八幡宮の宮跡」説が1749~1858まで満遍なく紹介されるケースが多い。表の最初の頃は「平将門伝説」説と「日本武尊の御陣所」説、中盤からは「里見氏亡霊」説と「水戸黄門の漫遊」説が紹介されますが幕末頃にはほぼ触れられません。「行徳の飛び地」説は登場期に圧倒的な支持を集めます。そして、土偶が出たという「平将門伝説」の話から発展した「貴人の古墳」説が急浮上したころに、泰平な江戸時代は幕を下ろそうとしていました。しかまぁ、人間の想像力は大したものです。これだけ由来を考えられていたなどとは夢にも思いませんでした。このことが提出期限ギリギリになってしまった原因の一つになったのですから。こう考えると現時点で「葛飾八幡宮」説と急浮上した「貴人の墓」説、「行徳入会地」説が有力であると考えられます。

その後、大正時代に編集された「千葉縣東葛飾郡誌」は「里見氏亡霊」説を除いた上記六例のほか「底なし沼」説と「毒ガス」説を挙げています。時代が変わったような感じの仮説ですが、「毒ガス」説はある重大な問題を孕んでいます。毒ガスが中の窪みにあるならば周囲も危険なはずで、とてもではないが観光名所には成れなかったはずです。

現在はどのように思われているのでしょう。少なくとも平成二年までは藪知らずの前にあった「八幡の藪知らず」前に掲示されていた案内板にはこう書いてある。

旧跡 八幡不知森

むかしは広い地域にわたって森がありましたが、いまはわずかしか残っていません。ここがなぜこのようによばれるかは、はっきりしませんが、いいつたえによると

などといいつたえられています。

昭和四十八年三月、市川市、市川市観光協会

市川市に観光協会があるとはビックリだが、それはともかくこの段階にきて時代が逆戻りしたかのような案内板だ。江戸時代に同じ内容が書いてあっても違和感は全く無い。さて、ここでの「むかし」とは一体どの段階を指すのだろうか。少なくとも江戸時代中期には既に現在と同規模であったと伝えられているのだが、そのことは全く触れていない。また、幕末に急浮上した有力な「貴人の古墳」説は完全に消し去られ、「平貞盛の死門があったから入れない」と記述されています。ちょっと優先順位を間違えていませんか、この案内板。そういう「死門」とか「諸国漫遊」が記述されても全然構わないが、もう少し他に書くことがあるだろうと思ってしまう。どうも、あまり考証をせずに地元の言い伝えを重視して書いたのではと推定できます。では、現在「八幡の藪知らず」に掲げられている解説板は何を記述しているのだろうか。

・・・・・・中略・・・・・・
入ってはいけない理由については、

と、いろいろ言われてきました。中でも万治年間(1658〜61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。
「藪知らず」に立ち入ってはならないという本当の理由が忘れ去られたため、いろいろと取り沙汰されてきたものではないでしょうか。
またその理由のひとつとして、「藪知らず」が、「放生池」の跡地であったからではないかとも考えられます。
古代から八幡宮の行事に「放生会」があり、放生会には生きた魚を放すため、池や森が必要で、その場所を放生池と呼びました。藪知らずの中央が凹んでいることからすると、これは放生池の跡であるという可能性が十分に考えられます。
市川市周辺地域は中世には千葉氏の支配下にありましたが、千葉氏の内紛で荒廃し、八幡宮の放生会の行事が途絶えてしまい、放生池には「入ってはならぬ」ということのみが伝えられてきたことから、以上のような話が作られていったものと思われます。
「不知八幡森」の碑は安政4年(1857)春、江戸の伊勢屋宇兵衛が建てたものです。

平成16年3月 市川市教育委員会

「日本武尊の御陣所」説、「貴人の墓所」説が復活しました。これで晴れて(?)、往年の関東の英雄・名君と言われる人物が揃いました。木更津、海神など日本武尊ゆかりの地名も数多いのがここ千葉県(海神は隣の船橋市)。日本武尊の存在自体が怪しくなってきていますが、少なくともモデルとなった地方の英雄が陣所を設けた可能性は完全には否定できないと思います。そして新たに「放生会」説が取り上げられ、なぜか「行徳入会地」説を削除されました。

図6〜9:「八幡の藪知らず」の移り変わり(略)


第四章 隣町は静かに笑う

新しく挙がった説「放生会」とは何でしょうか。古語辞典「古語林」及び国語辞典「広辞苑」に由れば、

はうじゃうゑ【放生会】名|仏教語|捕らえた生き物を自然の中に放って、日ごろの殺生に対する供養を行う法会。多く、陰暦八月十五日に行われる。日本ではおもに、神仏習合により八幡宮の神事として行われるようになった。(『古語林』)

『ほうじょう-え【放生会】仏教の不殺生の思想に基づいて、捕らえられた生類を山野や池沼に放ちやる儀式。神社・仏寺で陰暦8月15日に行われる。(『広辞苑』)

放生会の歴史については「薮知らずの怪 平成2年度博物館友の会 講演要旨」でこう書かれています。

◎放生会の記録

葛飾八幡宮では記録は残されてはいないらしい。しかし、江戸の富岡八幡・鎌倉の鶴岡八幡と比べても古いのは葛飾八幡宮であり、そのことから考えても下総国総鎮守である葛飾八幡宮で行われていた可能性は十分あると考える。では次になぜ「行徳入会地」説は削除されたのか。当時の状況を調べてみました。

図10:市川市中心部の住宅地に群生するクロマツの分布(出典:市川自然博物館だより10・11月号「市川砂洲」※リンク先の図1を参照。)

現在の市川市の木は「クロマツ」です。「クロマツ」が現在群生している地域はきれいに総武線より北側の地域である。何故だろうか。市川市の領域が海水面の低下によって陸地化される過程で生まれた「市川砂洲」の境に下図で見えるように総武線があり、「クロマツ」が群生できる場所とそうでない場所とに分ける境界線沿いを走っているためだからです。

図11:地形の横断図(出典:市川自然博物館だより10・11月号「市川砂洲」※リンク先の図3を参照。)

そして、総武線の南側の地域にあるのは旧行徳村であります。このように塩害に強いとされる「クロマツ」ですが、行徳も含める総武線よりも南側の地域には、生育しにくい場所であることは想像に難くありません。江戸時代当時、行徳は水田と塩田と沼地と寺町でした。

図12:大正二年ころの行徳塩田の風景

図13:行徳鳥獣保護区「野鳥の楽園」の様子

もともと湿地帯であった行徳は干拓によって水田や塩田、寺町に姿を変えていきました。その前は一面葦や萱、葭があたり一面中広がっていたと思われます。そして、そういう所にも人は住んでいたことは分かっています。源頼朝が行徳でうどんを食べたという話があり、うどん屋があることは恐らくそれなりに人は住んでいたと思われます。そういう人たちが木材を手に入れるため「八幡の藪知らず」に土地を持ち一時的であったにしても木材を調達していたのことは十分考えられることではないでしょうか。


終章 藪の中

ここまで教育委員会が削除した「行徳入会地」説を考えてみたが、正直私はこの説は未だ通用するのではないかと、いや、今でも有力な仮説なのではとかんがえるのです。なぜ、教育委員会がこの仮説を削除したのか。ここで、『輪読 『遊歴雑記』初編之上 三十二「やはたしらずの藪の事実」』に書かれている聞き取り調査で葛飾八幡宮の巫女さんの証言を紹介します。尚、調査は平成十三年三月十一日に行われています。

*葛飾八幡宮 巫女さんより

聞き取り調査の内容だけで断ずるのは良くないと思う。しかし、証言しているのがなぜ宮司では無く、巫女さんなのだろうか。冒頭の「この辺一帯は大きな藪地」とは一体いつごろの話なのだろうか。なぜ、行徳の土地ではないと断定できるのだろうか。八幡宮伝統の神事である「放生会」の記録すら残っていないにも関らず、である。聞き取り調査の項目には三人の証言を載せているが、葛飾八幡宮の部分だけ強い口調で証言している。私には宮司よりいささか格の低い巫女さんに証言をさせて自ら責任を被らないようにしながら、己の意見を暗に強く主張しているのではないか。そして、平成二年に出てきた「放生会」説を新たなる定説として定着させたい市川市教育委員会が結託して作られたのがあの解説板ではなかろうか。その結果、水戸黄門の件は同列に表記されず、事実ではないような書き方をされ、「行徳入会地」説を教育委員会の解説文から抹消された。そして、「放生会」説が尤もらしい意見として書かれている。私が当初思っていた「八幡の藪知らず」の謎は当初よりもずっとずっと真相は深いのかもしれない。


感想 江戸川に架ける橋

最初は「八幡の藪知らず」の伝承と仮説を紹介するだけに留めようと思った今回の調査ですが、事前調査でのインターネット検索と「八幡の藪知らず」の前にある解説板の相違点である「行徳入会地」説の有無が非常に気になりだしたのが「八幡の藪知らず」の中に入ってしまったことになったとは思いもよりませんでした。所々表記ミスがあり、イマイチ信頼の置けないプリント資料を参考に、図書館にある古書を片っ端からコピーし、今度は行徳関係の資料も必要になり・・・。気づいたら調査戦線が拡大しパンク状態になりました。もっと精査すべき箇所がたくさんあったのですが、それができなくて残念でした。これからはもっと計画的に進めていきたいです。


参考文献一覧

古書の記述関係

「八幡の藪知らず」写真・地図関係

伝承民話関係

当時の行徳関係

辞書関係

市川中央図書館オリジナルプリント資料関係

市川市の自然関係

葛飾八幡宮・法漸寺関係



(「そして、誰も入れなくなった。」へのコメント)

上掲の樋爪レポートに対し、土居の研究者仲間である飯倉義之さんから、丁寧なコメントを頂戴しました。当人の快諾のもとにこちらで掲載いたします。

土居浩様

樋爪達哉さんの八幡の藪知らずレポート、「そして、誰も入れなくなった。」拝見いたしました。
 意欲と能力のある学生の面白いレポートだと感心することしきりです。うかうかしてると、抜かされそうです。

いくつか、気づいたこと、そのほか、蛇足ながらお知らせいたします。

まずは、つまらない事実の補足。


さて、それでは樋爪さんの説の核になる「「行徳入会地」抹殺の陰謀」について、反論したいと思います。

まず、近世資料についての論で、気になる点を。

『遊歴雑記』(文化十一年/1814)「三十弐 やはたしらずの藪の事実」
「 土人に尋るに、怪異の説大同小異也、是信じがたし、爰に小岩田御番所附名主忠右衛門申しけるは、
 此やわた宿の南半みち余に、行徳領に兵庫新田といふ村あり、彼藪その新田一村の持にして、誰人の所持の藪と限るにあらず、故に、やはた宿内の藪ながら他村持の地面なれば、宿内の者は一切搆はず、依て此藪通り掃除等も、★見、又は佐倉の城主通行の節は、兵庫新田の百姓来りて取片付侍れば、坪数もしらず、藪の中には何のあるやら元より用なき他村の藪なれば、宿内の者這入べき様はなし、故にやはたのやはたしらずの藪と申ならはし侍る、と物語き、此説こそ実事と思はる、」
のところを取り上げて、「地元の意見」としていますが、「小岩田御番所」は江戸川区小岩字小岩田と思われます。行徳領の者でも八幡宿の者でもなく、川向こうの名主の言うことで、あまり強力な裏付けとはいえないと思います。むしろここで話されているのは、「八幡の者が中を知らないから「八幡知らず」という地名である」という、国学者が机上で考えそうな牽強付会です。
『葛飾記』「八幡の藪知らず」で「愚按ずるに、是は、将門は葛原の親王の後胤たる故、葛飾の葛の字の縁を以て、近習の人の内にて、此所に其由緒を残されたるなるべし、」という地名説と、たいして変わらない「故事付け」の説だといえます。
これらは、語義語源の追求をもって物事の始原をかたどる、江戸の考証随筆(『なるべし』など)のカラーを強く受けた説といえるでしょう。

そして『江戸名所図会』(文政十二年/1829)の記述「またある人いふ、この森の回帯はことごとく八幡の地にして、森の地ばかりは行徳の持分なりと。このゆゑに八幡村の中に入会といへども、他の村の地なるゆゑに、八幡の八幡しらずとは字せしと。さもあらんか。」を受けて、
「この段階で「行徳入会地」説は半ば定説となりつつあったのではないだろうか。」
と結論され、さらに地誌紀行随筆を表にまとめて
「表の最初の頃は「平将門伝説」説と「日本武尊の御陣所」説、中盤からは「里見氏亡霊」説と「水戸黄門の漫遊」説が紹介されますが幕末頃にはほぼ触れられません。「行徳の飛び地」説は登場期に圧倒的な支持を集めます。」
と述べておいでです。しかし、ここにはフレームアップの問題があると考えます。
後の解説版に「中でも万治年間(1658〜61)、水戸黄門(徳川光圀)が藪に入り神の怒りに触れたという話が、後には錦絵となって広まりました。」とあるように、八幡不知藪の逸話で圧倒的な支持を集めていたのは、講談本などで広まった水戸黄門の逸話でした。飛び地説は『遊歴雑記』と、それを参照した『名所図会』で「考証家の説」として引き継がれているに過ぎません。つまり「定説」「圧倒的な支持」は、考証し紀行し随筆する人びとの間で、文字の上でのみもてはやされる説なのではないか、ということです。

さらにこの「入会地」説には重大な弱点があります。
『成田参詣記』「八幡不知森」の「一説に此森の辺八幡の地にして、森のみ行徳の地なり。故に八幡しらずと云とぞ。されどそれのみなれば垣を繞らして人を入れざる事やはある。」という疑義を論破できないのです。
たとえ地権が他村のものだとしても、下草や落ち枝を拾う権利は近隣住民にもあるとするのが、民俗社会のルールです。八幡の者の土地ではないから入らない、というのは、そうした生活実感から離れたいわゆる「知識人」の理解だと思います。


しかし『遊歴雑記』の
「此やわた宿の南半みち余に、行徳領に兵庫新田といふ村あり、彼藪その新田一村の持にして、誰人の所持の藪と限るにあらず、故に、やはた宿内の藪ながら他村持の地面なれば、宿内の者は一切搆はず、依て此藪通り掃除等も、檢見、又は佐倉の城主通行の節は、兵庫新田の百姓来りて取片付侍れば、坪数もしらず」
とあるのは、注目です。行徳領兵庫新田という集落と、葛飾八幡宮に特別のつながりがあったことはまちがいないでしょう。おそらく、寺に属するキヨメの集落だったのではないかと思います。が、すでに十方庵の時代にはそのことが忘れられ、単なる慣行として藪の清掃に携わっている様子が見て取れます。


さらに、こうした考証の現場としての市川ということがいえると思います。
真間の手児奈について、近世の考証随筆では「ママとは継のことで、継子いじめの話だ」等々の「読み解き」がなされました。江戸文人のネットワークの中で発見される「郊外」という現場。注目に値します。
以下の論文も参照してみてください。


さて、飛んで近代現代に移りましょう。

以前の案内板を取り上げて、「どうも、あまり考証をせずに地元の言い伝えを重視して書いたのではと推定できます。」とおっしゃいます。しかし私はこの説明は、編集者が『千葉縣東葛飾郡誌』から「歴史学の観点から首肯できる順番」で書き抜いたものと見ました。
「地元の言い伝えを重視」するのなら、市川民話の会『市川のむかし話』『続・市川のむかし話』にはいずれの説もたちあらわれないことからわかるように、地元の言い伝えのレベルでは八幡不知藪は「怪異の起こる場所」以外の何ものでもないことが書かれるはずでしょう。

そして「現在「八幡の藪知らず」に掲げられている解説板(平成16年3月) 市川市教育委員会」を分析されて、「そして新たに「放生会」説が取り上げられ、なぜか「行徳入会地」説を削除されました。」と書かれています。
「放生会」説が平成2年に突如作られたかのような筆致が、気になりました。
それはやはり、昭和46年から平成になるまでの間に進展した、歴史学のまなざしの変化が大きいのだと思います。以前の歴史学は文書史料のみを重視し、文書の有無によって歴史を作っていました。しかし中世・近世遺構の発掘の進展や、民俗学の手法も取り入れることによって、古代〜近世を生きた文書に残らない人びとの生活を描き出すような歴史学が認められるようになりました。
 そうした背景を持って、禁足地を聖域の名残とする「放生会」説が提唱されてくるのです。
 逆に、なぜ「放生会」説ではいけないのかという根拠が、あいまいです。
 現在は京成電鉄と国道が通ってわかりづらくなっていますが、レポート冒頭の写真が撮影された歩道橋、まさにそこが葛飾八幡宮の表参道に他ならりません。表参道の脇の入らずの藪ならば、聖域のなごりであったと考えることに不審はないと思いますが。
「八幡宮伝統の神事である「放生会」の記録すら残っていない」のは放生池がかなり初期の段階で放棄されたことを示していると思います。

そうして、「行徳」という土地のとらえかたにも少し、温度差があるようです。
「江戸時代当時、行徳は水田と塩田と沼地と寺町でした。」
「もともと湿地帯であった行徳は干拓によって水田や塩田、寺町に姿を変えていきました。その前は一面葦や萱、葭があたり一面中広がっていたと思われます。そして、そういう所にも人は住んでいたことは分かっています。源頼朝が行徳でうどんを食べたという話があり、うどん屋があることは恐らくそれなりに人は住んでいたと思われます。そういう人たちが木材を手に入れるため「八幡の藪知らず」に土地を持ち一時的であったにしても木材を調達していたのことは十分考えられることではないでしょうか。」
 行徳は江戸期には、塩の産地として江戸の塩・蔬菜供給をまかない、房総からの廻船湊でもありました。先の成田道でも、日本橋や深川から船に乗り、船橋か行徳に着くルートが取られています。この一帯は、すぐれて商業的な土地であったのです。そうしてここでは塩や廻船などの帳面や、地面図、地籍帖などがかなり残されています。しかし、どうもそこに「不知藪は行徳の持分」という記録がないようなのです。
 さらに行徳入会地説では「木材の調達」を理由にしてらっしゃいますが、ご存知のとおり不知藪は「竹薮」ですし、たいした広さでもありません。製塩に使う燃料などは、こんなちっぽけな竹薮で足りるものではありません。先に「塩や廻船などの帳面や、地面図、地籍帖などがかなり残されています」と書きましたが、それによると行徳は船橋や市川にかなり多くの山を持っていたようです。そちらから薪などが補給されていた、と考えるのが妥当でしょう。
 それに、「木材の調達」で出入りしている人がいるのなら、「入らずの藪」にはならないはずです。

そして、フィールドワークについて。
「『輪読 『遊歴雑記』初編之上 三十二「やはたしらずの藪の事実」』に書かれている聞き取り調査で葛飾八幡宮の巫女さんの証言を紹介します。尚、調査は平成十三年三月十一日に行われています。」
「聞き取り調査の内容だけで断ずるのは良くないと思う。しかし、証言しているのがなぜ宮司では無く、巫女さんなのだろうか。」
宮司は忙しく、不在であったと聞いています(発表資料の研究会には、僕も出席していましたので)。葛飾八幡はレポーターも書いているように古跡名刹であるうえに、文化事業もしているので、土地の名士である宮司にあうのはちょっと難しいです。結局、再調査はできず、論文化のときにはこの発言は使われませんでした。

そして巫女の発言に対し「なぜ、行徳の土地ではないと断定できるのだろうか。」と書かれていますが、強く述べているように感じるのは、質問者が『遊歴雑記』記事を示しながら質問しているためと考えます。ピンポイントに質問すれば、明確な答えが返ってきます。
 そうして、一番問題だと思うのは、次の個所です。
「私には宮司よりいささか格の低い巫女さんに証言をさせて自ら責任を被らないようにしながら、己の意見を暗に強く主張しているのではないか。そして、平成二年に出てきた「放生会」説を新たなる定説として定着させたい市川市教育委員会が結託して作られたのがあの解説板ではなかろうか。その結果、水戸黄門の件は同列に表記されず、事実ではないような書き方をされ、「行徳入会地」説を教育委員会の解説文から抹消された。そして、「放生会」説が尤もらしい意見として書かれている。私が当初思っていた「八幡の藪知らず」の謎は当初よりもずっとずっと真相は深いのかもしれない。」

 陰謀論が過ぎますよ。行徳も現在は市川市行徳。行徳の飛び地であったことが、地面図その他から推測できる事実であるとすれば、「八幡も行徳も昔から強く結合している市川市」という格好のアピールになるでしょう。教育委員会にそのアピールを封印する理由が、ない。市川の教育委員会は「真間の手児奈」を舞台化したり、テコナにちなんだ文学賞を作ったりして、東京に通勤する「市川都民」の目を何とか地元に向けてもらおうと頑張ってます。むしろそうした「藪不知は行徳のもの」という事実があるとすれば、それをどんどん使って「一つの市川」をアピールしていきたいところです。
「神秘的な雰囲気を保ちたいがため」等という理由付けは、おそらく通用しないでしょう。不知藪は数年前に道路拡張で数m削られました。市川市に、不知藪を活用する気があまりないのは明確です。私有地ということもありますが。

以上、総合します。

以上のことから、「行徳入会地説は、当然取れるべき史料的裏付けが取れないので消えた」と考える方がすっきりとしていると思います。


さて、こうして読んでいて面白いことに気づきました。

「古くは「八幡不知森(やわたしらずのもり)」及び「不知八幡森(しらずやわたのもり)」と呼ばれ」
と書いているように、しらずのもり、しらずのやぶ、であったはずなのですが、それがいつしか『藪知らず』となってしまっています。
 しらずのやぶ、ならばわかるのですが、やぶしらず、は冷静に考えてみると、日本語としておかしい。
 これには、こういうことがあったのではないかと思いました。
「八幡不知藪」が講談や刷り物になる、またお化け屋敷の名前になる→人口に膾炙する→「不知藪」を「おやしらず」や「ものしらず」、また「やぶいしゃ」「やぶいり」といった言葉に引かれて、「やぶしらず」と読むようになる→「八幡の藪知らず」が講談や刷り物になる、またお化け屋敷の名前になり、人口に膾炙する……
 ねっこに読み違えがあるのではなかろうか。ちょっとした、仮説です。


いろいろなことを考えることができました。
たいへん、面白かったです。
また、ご意見ご感想ご反論、よろしくお願いいたします。
それではまた、とりいそぎ。

飯倉義之



(c)樋爪達哉・飯倉義之 (質問は土居浩まで) doi@iot.ac.jp ものつくり大学 建設技能工芸学科
更新日:2008-09-24