随想


「ドラッカー経営思想のある原風景」  
東レ経営研究所
「経営センサー」 2004 No.66 10月号


 ドラッカーを読んだ人は、自分のために書いてくれたと確信する。アメリカのガールスカウトを再建したヘーゼルバイン女史は、そこにドラッカーの偉大さと普遍性があるという。

 ドラッカー4歳のとき、第一次世界大戦が勃発。オーストリア・ハンガリー帝国の経済省高官だった父親と、その友人トーマス・マサリクとの会話、「これは一帝国の終わりなどではなく、一つの文明の終りということだろうね」を耳にする。
そして少年期のドラッカーが目にしたものが、確かに一つの文明の終わりであり、第一次大戦とその後の、ブルジョア資本主義、マルクス資本主義、ファシズム全体主義の戦いだった。

 1933 年2月下旬のある夜。場所は母国オーストリアの隣国ドイツの金融センターたるフランクフルト。年齢 23歳。職業は、フランクフルト最大の新聞フランクフルト・ゲネラル・アンツァイガーの国際金融担当記者。第一次世界大戦後の壮年者不足により、論説委員を兼ね論説も書いている。一日に二本書くこともある。経済誌への執筆もよく頼まれる。
 同時に、フランクフルト大学法学部で助手を務める。博士号は二年前にとった。有給の常勤講師職は目の前にある。このところずっと老教授の代講続きだ。
 ついこの前には、ケルンの新聞社から国際面の編集を任せたいとの声がかかった。ケルン大学や近くのボン大学ならばすぐにでも講師を兼ねられよう。いずれにせよ、国際法学者としてのドイツ学界での道は約束されている。

 巷では、右と左の社会主義がしのぎを削っている。だが先月の国会では、ここ数回の選挙で議席を多少ながらも減らしてきていたナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党)が、保守勢力の後押しで政権を手にした。
 そのため、大学のコミッサールなるものが着任し、今日の午後、助手を含む教職員全員が集められ、新方針なるものを伝えられたところだ。
 自分は、右にせよ左にせよ、全体主義の下では、書くことも、教えることもできない。生きていくこともできない。ここまで事態が詰まってくれば、自分自身の信条と立場を公にしなければならない。そう思って書いた立憲政体論が、ようやくチュービンゲンの名門出版社モーア社の法学政治学叢書 100号記念号として刊行されることになった。
 今、その最終校正を仕上げたところだ。明日、郵送しよう。そうしたら、そのまま汽車に乗ってフランクフルトを離れよう。何処に落ち着くかは別にして、この期に及んで立憲を説いてしまっては、ナチスが権力を握ったドイツにいられるわけがない。とにかく一度ウィーンへ戻ろう。
 こんな夜遅く、誰が来たのだろう。古参の同僚記者ラインホルト・ヘンシュではないか。市役所詰めの市政担当だ。しかもナチ党の古参党員でもある。
  「党の指示でフランクフルトの報道機関全部の面倒を見ることになった。そこでアンツアイガーの方は君に全部任せようと思って、今日社に寄って話そうとしたら、辞表を出したと聞いて驚いて来た訳だ。オーストリアに帰るのか。辞めずに手伝って欲しい。僕は世直しをしたいんだ」

  社会的存在としての人間は、社会として機能する社会を必要とする。それでは、社会が機能するための条件は何か。第一に、そこにいる人たち全員に位置づけがあることである。第二に、役割があることである。第三に、そこにある権力が正統であることである。 だが、産業革命がもたらした産業社会は、これら三つの条件を満たすことができなかった。
  自由に利潤を追求させれば、見えざる手によって万人に豊かさがもたらされるとしたブルジョア資本主義は、無数の貧しく虐げられた人を生み出した。彼らプロレタリアートに生産手段を渡すならば、至福の千年が幕開くとしたマルクス資本主義も、ノーメンクラツーラによる硬直した階級社会をもたらしただけだった。
 ブルジョア資本主義とマルクス社会主義という双子の経済至上主義は、いずれも失敗した。これに代えてヘンシュに代表される大衆が縋った脱経済至上主義としてのファシズム全体主義も、産業社会の組織原理としての答えではなかった。

 産業主義とは組織社会である。ユーザーとしての人間は、物的な豊かさを産業社会の代表的機関としての企業の働きに依存する。他方、ワーカーとしての人間は、精神的な豊かさを同じく代表的機関としての企業の働きに依存する。
 その企業の働き、つまるところは、あらゆる種類の組織の働きを左右するものがマネジメントである。
 社会的存在としての人間の幸せに関心を持つことが、社会、組織、マネジメントへの関心へとつながっていった。こうして、現代社会についての最高の哲人がマネジメントの父となった。
 マネジメントの父がドラッカーだったということが、マネジメントにとっての幸運であり、人類にとっての幸運だった。 ****************************************************
いくつかの後日談。

・ ドラッカーの父、アドルフ・ドラッカーはウィーン大学で経済学を教えた。その教え子の一人がシュンペーターだった。

・ トーマス・マサリクは第一次世界大戦の敗戦国オーストリア・ハンガリー帝国から独立したチェコスロバキアで初代大統領に就任した。

・ 『ユリウス・シュタール論』として刊行されたドラッカーの立憲政体論は、その後政府命令により発禁処分、既刊分は焚書処分となった。

・ ラインホルト・ヘンシュはナチ党で昇進。ナチス親衛隊SS副司令官、中将の地位に上った。ユダヤ人迫害で名をなし、党内でも怪物と恐れられた。終戦時、自宅廃墟での連合軍による身柄拘束時に自殺した。

・ ヘンシュが訪れてきたドイツでの最後の夜、ドラッカーの目にはっきり見えたものが、6年後の1939年、処女作『「経済人」の終わり―全体主義はなぜ生まれたか』として上梓された。「経済人」とは経済至上主義のことである。

随想1  『ドラッカー思想の原点』

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