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二一世紀の問題を解決するための社会生態学 |
『すでに起こった未来』より |
「社会生態学は、通念に反することですでに起こっている変化は何か、パラダイム・チェンジは何かを問いつつ、社会を観察する。変化が一時のものでなく、本物であることを示す証拠はあるかを問う。そして、その変化がどのような機会をもたらすかを問う」(『すでに起こった未来』) ドラッカーは、自らを社会生態学者と規定する。「自然生態学が生物の環境を研究するように、社会生態学は、人間によってつくられた人間の環境に関心をもつ」という。 ゲーテの「ファウスト」の望楼守リュンケウスは「見るために生まれ、物見の役を仰せつけられ」(高橋義孝訳)とうたう。これが社会生態学である。 社会生態学は、考えることではなく、見ることに重点を置く。分析ではなく、知覚に基礎を置く。 社会学との違いはここにある。捨象できるものが存在しないからではない。社会生態学は、その定義からして総体としての形態を扱うからである。総体は部分の集合よりも大きくないかもしれない。しかし部分の集合とは根本的に異なる。 環境、教育、都市、途上国など二一世紀の問題は、社会生態学のアプローチを必要とする。デカルトに始まった近代合理主義としてのモダンが限界に達してすでに久しい。 「体系としての社会生態学は行動にかかわりをもつ。知識とは、それ自体が目的なのではなく、行動のための道具である」(『すでに起こった未来』) |
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