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広く理解されて行動の基盤となってこそ 知識といえる |
『新しい現実』より |
「今後とも、物理学では、専門化が王道であり続けるだろう。 しかし他の多くの分野では、専門化は、今後ますます、知識を習得する うえで障害となっていく」(『新しい現実』) 学問の世界では、書かれたもの、すなわち論文を知識を定義する。 それどころか、その論文の書き方までをとやかくいう。 そのくせ、まるで理解不能な文章があっても平気である。 ドラッカーは、そのようなものは知識でないし、知識とはいかなるかか わりもないと怒る。それらはデータにすぎない。 知識とは、行動の基盤となるべきものである。人や組織をして、 なんらかの成果をもたらす行動を可能にするものである。なにかを、 あるいは誰かを、変えるべきものである。 そもそも、理解されることが学識ある者の責務である、という昔から の原則が忘れられてしまった。 行動の基盤であるということならば、広く理解されることなくして知識 とは言えない。 ドラッカーは、問題は今日学界の専門家たちの学識が、急速に知識 でなくなっていることにあるという。 それらのものは、データにすぎず、せいぜいが専門知識にすぎない。 世の中を変える力を失ってしまっている。 「過去200年間にわたって知識を生みだしてきた学問の体系と方法が、 少なくとも自然科学以外の分野では非生産的となっている。学際的な 研究の急速な進展が、このことを示している」(『新しい現実』) |
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