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教師の生産性を上げるには 学ばせるための監督よりも教えるための時間を与えよ |
『断絶の時代』より |
「教師は教えているのではない。学ぶことを監督しているにすぎない」 (ドラッカー名著集F『断絶の時代』) 教わることとは、意味と理解にかかわることである。 ドラッカーは、教わることと学ぶことを峻別して考えている。 教わることは知力よりも知覚にかかわることである。それは模範によって 示される。ここにおいてこそ、教師が必要とされる。学ぶことが、ドリルの 学習によって身につける自己完結的なプロセスであるのに対し、教わる ことが教師との相互的なプロセスである。 優れた教師であれば、学ぶことの妨げにはならない。われわれがよい 先生としているのが、この手の人たちである。しかし、彼らでさえ、本来は 教えるために使うべき時間を浪費している。 学ぶためのプログラムが開発されていない。われわれは、生徒が欲して いるもの、すなわち学ぶためのに必要な道具を与えていない。その結果、 教師に行うべきことを行なわせられないでいる。 教師は教えようとしている。だが実際には、彼らのほとんどが教えている のではなく、学ばせるための監督をしているにすぎない。 必要なのは、教師が教えることに集中できるようにすることである。 それがオックスフォード大学の個人指導制である。だが、一八歳から では遅い。そこで、ドラッカーは、学びのプログラムとしてeラーニングの 発展に期待する。 「教師の生産性を上げるには、彼らに教える時間を与えなければならない」 (『断絶の時代』) |
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