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人と違うことをやってみる!伝統的な技法「扇垂木」への挑戦が自分自身の成長に
寺社建築の伝統的な技法「扇垂木(おうぎだるき)」と呼ばれる屋根架構を卒業制作のテーマにし、千葉県妙長寺の本堂建築に携わった桐山実久さん(建設学科4年・小野研究室)。 念願だった技能五輪全国大会にも2度出場した経験を持ち、「やってみたいことは挑戦する」がモットー。桐山さんに卒業制作を通して実感している4年間の大学生活での学びや成長、将来の目標などのついてインタビューしました。 木造建築への熱意がものつくり大学進学に 幼い頃から、温かみを感じる木造の家が好きで、木造建築に興味がありました。高校は地元の愛媛県立吉田高校の機械建築工学科に進み、木造建築の面白さに魅了され、高校生ものづくりコンテストにも出場しました。ものつくり大学に進学したのは、同校の先輩が進学していて「技能五輪全国大会に出場できるチャンスがある」と話を聞いたことが大きかったです。ものつくり大学では、アーク溶接などにも触れましたが、やはり木造建築が好きだということを確信し、木造建築コースに進みました。木材の魅力は一度切ると元に戻せないところだと感じます。ボンドで貼っても再生できないですよね。 1年生の頃はコロナ禍でオンライン授業が中心の学生生活に。2年生、3年生の時に連続して技能五輪全国大会に出場しました。出場職種は得意分野の大工ではなく、敢えて家具に挑戦しました。高校時代に先生から「細かいものも得意だね」と言われたことがあったからです。2年生の頃はまだ授業で家具づくりを学んでいなかったため、先輩方にいろいろ教えていただき、寝る間も惜しんで工房で技術を磨き大会に臨みました。3年生の時も家具職種に挑み、努力が実り敢闘賞を受賞することができました。ものつくり大学に進学し、念願だった技能五輪全国大会に挑戦できたことで、チャレンジ精神が旺盛になりました。 技能五輪全国大会に挑戦する桐山さん 伝統的な技法「扇垂木」を卒業制作に 私は小野研究室なのですが、今井研究室と仲が良く、交流が盛んな環境に身を置いています。4年生で卒業制作を迷っていた時、インターンシップでお世話になった今井先生から「千葉県館山市妙長寺の本堂新築の屋根架構を卒業制作として取り組んでみないか」と声をかけていただきました。今井先生から、本堂の屋根の形状は扇垂木(おうぎだるき)という唐傘をモチーフにした扇状に広がった垂木のことで、非常に手間がかかり、単純に配置することが難しいことや、現役の大工さんでも経験できないまれな技法であることなどの説明を受けました。 学生生活の中で木造建築を中心に学び、大会などにも挑戦してきた経緯もあり「人と違ったことをやってみたい」という思いが強い私は「滅多にない経験ができるのは面白そう」と伝統的な技法である扇垂木の制作に挑戦したいと思いました。そして「館山市妙長寺の屋根架構の制作ー扇垂木の墨付け、刻み、加工-」を卒業制作のテーマにすることで新たな自分の可能性を見出したいと思いました。 限られた作業時間が没頭するための集中力に 扇垂木の墨付けから加工の工程は、扇垂木の木材加工の施工経験がある非常勤講師の福島先生のご指導の下、埼玉県寄居の福島工務店で行いました。扇垂木の木材となるのは、垂木、隅木、蕪束(かぶらづか)。墨付けから加工は、一般的な垂木の断面より大きいため、加工に費やす時間が多くなりました。搬入や組み立てを考慮して行った鎌継ぎ(一方の木材に端部の広がった突起を作り、他方の木材にはめ込む継ぎ手)やくせ加工などの作業も何度も行いました。作業時間が限られていたこともあり、43日間(2023年10月27日から12月8日)1日も休まず取り組みました。限られた時間の中での作業だったからこそ、集中して一心に取り組めたのだと思います。加工した木材の仕口を数えてみたら136箇所ありました。 技術的な面は、福島先生のご指導に加え、学生生活を送る過程で様々な道具を使ったり、技術を磨いたりした経験や工程を頭に入れ作業する習慣がプラスに働きました。ある程度作業に慣れると、流れが分かり、段取りをつけながら1人で進めることもありました。精神面でのプレッシャーは地元の方との交流もあり、あまり感じませんでした。技能五輪全国大会に出場した時はかなり精神的にきつかったのですが、2度の出場経験により、精神的にも鍛えられたのかもしれません。しかし、肉体的には、かなりハードでした。今まで扱ってきた木材に比べて遥かに大きく、重かったので、運んだり、転がしたりするのは想像以上に身体に負荷がかかり、腰なども痛くなりました。 難易度の高い施工に挑み、目にした本物の建築 木材の加工が終了した翌日の12月9日に、埼玉県寄居町から千葉県館山市の現場に木材を搬入しました。現地の大工さんの力もお借りし、他の学生と一緒に12月13日から、施工に入りましたが、現地に入る前と後では、緊張感が違いました。まず、蕪束と隅木の取り付けを行いました。上段、中段、下段と隅木を継いでいきました。ここでは、ビス留めをし、しっかり止めました。次に、いよいよ垂木の取り付け作業に。隅木側から垂木を取り付ける工程はとても難しかったです。ひのきの垂木は全て寸法も異なり、木材だからこそ、ねじれや乾燥もあり、調整の繰り返しに。なかなか思うように作業が進まず、苦戦しつつも丁寧にかんなを使って微調整しながら組み立てを進めていきました。垂木の上段、下段の取り付けが進んでいくに従い、扇垂木が大きいことに驚きました。 扇垂木を下から見上げる 現場で施工する桐山さん 本物の建物の施工に関わるのは初めてで、しかも寺院の本堂は地域に根付き、歴史的にも価値をもつことになる建物です。いざ完成間近になった建物を目の前にし、「こんなにも大きな寺院をつくっているんだ」と言葉に表せない感情が湧きました。100年、200年と長期間、多くの人に親しんでもらえる建物にしたいと思っています。本堂の完成は2024年3月を予定しており、扇垂木の美しさが見える屋根になるように作業を進めています。 卒業制作を通して感じている自身の成長 卒業制作を通して特に2つほど自身の成長を感じています。1つは、今までは自分が納得いくためのものづくりだったのが、人に喜んでもらえるものづくりをしたいという思いが加わったことです。そもそも、ものつくり大学に進学した理由の1つに技能五輪全国大会への挑戦があったのですが、高校時代に高校生ものづくりコンテストに参加し、自分自身に対してやり残したという後悔がありました。「賞に入賞することよりも自分の納得するものづくりがやりたい」という思いが強く、1年目には納得できず、2年連続して挑戦。結果、3年生の時は敢闘賞を取ることもでき、自分なりに納得し、達成感が味わえました。しかし、今回、長い歳月建ち続けることになる寺院の施工に携わることで、多くの人が見たり、触れたりして大切にされていくことを想像する機会に恵まれ、ものづくりの喜びを倍に感じるようになりました。 もう1つは、自分に自信が持てたことです。大学生活の中でいろいろな大会にも出場し、賞ももらってきたのですが、実は自分に自信が持てず、ものづくりも上手いと思ったことがありませんでした。自己評価が低く、時に先生から叱られることも。自信がなかったからこそ、さまざまなことに挑戦もしてきました。しかし、今回、卒業制作で難易度の高い扇垂木の制作に挑戦し、その結果、檀家さん、工務店の先生、大学の先生や友人など関わってきた人から評価してもらい、自信が持てました。本堂新築における扇垂木のことが新聞に取り上げられたことで、自分が関わった建築物が多くの方から注目を浴びていることを聞き、嬉しいです。 建築が進む妙長寺本堂 将来は木造建築の教員に 大学卒業後は、まず、大工としてプレカットの仕事に就き、大工職人として腕を磨きたいです。社会経験を積んだ後は、木造建築の教員になりたいと考えています。私の家族はみな教員で、幼い頃から「将来は先生になりたい」と思っていました。人に教えることも好きです。ただ、学生生活の中で、自信がなかなかもてず、後輩に対してもどこか教えることに引き気味でした。しかし、卒業制作などに取り組む中で教えることに少しずつ前向きになり、4年生ではSA(Students Assistant)として先生のアシスタントをしながら後輩にさまざまなことを教える経験をしています。実際、鋸の使い方1つでも教える立場になってみて、みんながそれぞれ違う使い方をしていることが分かり、その違いを面白いと感じます。一方で、一緒にSAをしている学生の教え方から学ぶことも多く、勉強になります。最近、木造建築に進む学生が少なくなっていると感じるので、木造建築の魅力や面白さを伝えられる教員になりたいです。 自分を磨けるものつくり大学での学び ものつくり大学での学生生活は、規則に従いながら過ごしていた小中学校時代、まだ何がやりたいかが明確ではなかった高校時代とは異なり、自分が好きなことをできる環境が整っていました。自分が磨きたいところを磨け、いろいろなことにも挑戦できました。先生からは理論や実践で役に立つことを教えてもらい、さまざまな実習やインターンシップでは、自分で実際にやってみる機会を多く作ることができました。具体的に教えていただいたことに挑戦できた結果、多くのことを学んだり、技術や技能を身に付けたりすることができました。さらに、先輩から教えていただき、後輩に教えるものづくりを通し、人とコミュニケーションを持ったり、信頼関係を築いたりする機会にも多く恵まれました。挑戦することを続けた4年間の学生生活の中で、特に卒業制作は、今までの学びと実践が活き、自分自身の成長を感じる機会になっています。 関連リンク ・建設学科 木質構造・材料研究室(小野研究室) ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) ・技能五輪全国大会実績WEBページ ・建設学科WEBページ
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7月7日、図書館ランタンまつり–幻想的な灯りに心癒されて
7月7日、図書館ではクールアース・デイにちなみ、Co2削減を目的にスペースの一部をライトダウンしてランタンを灯す「ランタンまつり」が開催されました。図書館初となる「ランタンまつり」を企画し、ランタンや灯篭を手作りで準備した、図書館・メディア情報センターの細井まちこさんが、企画を考えたきっかけや想いを紹介します。 「みんなが地球を想う日」に 「図書館を舞台に何か新味のあることはできないか」--。そう考えていた折、11月頃、栃木県足利市の期間限定のライトアップを見る機会がありました。折しも地元行田市の毎月一回行っているライトアップイベントも目にしていて、こんなきれいなイベントを図書館でも開催できたらいいなと思いました。 2023年5月頃から密かに企画書をつくり、いつでも実施できるようスタンバイしていました。その甲斐あって、今回ようやく実現することができました。 「クールアース・デー」は、2008年のG8サミット(洞爺湖サミット)が日本で7月7日の七夕の日に開催されたことを機に定められています。この「みんなが地球を想う日」が胸に刺さり、7月7日に開催を決めました。コンセプトを「ライトアップだけど地球温暖化対策でライトダウン」これで進めようと決めました。 時間帯は、学生にあまり影響の出ない17~19時の2時間、初めての試みだったため、一部の箇所だけで消灯にしようと「IOT INFORMATION GALLERY」に決めました。 図書館でのランタンまつり ランプシェードを制作する 市販で販売している14個1セットになったものを購入。けれど、何かもの足りない。ものつくり大学なら何かしら手作りの物で演出できればと調べたところ、風船で作るランプシェードを見つけました。これなら作れるのではと、家で使用しなくなったかな用の書道用紙があったので、100円ショップの風船を使い、みようみまねで作り始めました。初めは、風船に薄めたボンドを塗り、書道用紙を直接貼り付けましたが、見事に失敗。用紙を直接貼ったため、風船にへばりつき、空気を抜いた時点で一緒にしぼんでしまいました。 ランプシェードをつくる 改めて研究したところ、最初の層を水で貼り付けてから、最後の層を水で薄めた糊をしみ込ませた和紙を貼る方法を見つけました。さっそく実践したところうまくいき、風船と書道用紙をきれいにはがすことができました。ここから好調に進めることができました。少しアレンジして、最初の層の後に水で薄めた糊をしみ込ませた毛糸を巻き、最後の層を貼るバージョンや最後の層の紙に花の絵や即席の俳句プリントのものを作り8個完成させました。 ほかにもプリント可能な書道用紙を友人からいただいたので、空のイラストや花などのイラストをプリントした用紙を丸めた灯篭を24個作りました。 幻想の時、いよいよ開催 7月7日、16時から電気を消して、図書館職員で提灯、ランプシェード、灯篭を飾り付けました。17時を待って、ライトアップし、いよいよランタンまつりの開催です。日が落ちていくにつれて、段々ときれいに浮かび上がってきました。閉館後の18時頃から癒しの音楽を流しました。音楽と相まって、幻想的な世界。学生と職員数名で酔いしれました。心癒される時間でした。 内心、どうなるだろうかと心配な点もありました。尊敬する人からいただいた言葉「失敗してこそ宝を見つけることができる。だから死ぬまでにたくさん失敗をしなさい」が心の支えとなってくれました。 秋から冬にまた開催したいと考えています。 職員、学生とともに 原稿図書館・メディア情報センター 細井 まちこ
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4年間しかない学生時代だから、とことん学びたい
1年生が入学してキャンパスに活気が戻ってきた4月。製造棟の廊下には、「学生プロジェクト総合案内所」が設置されていました。情報メカトロニクス学科には、学生が主体となって興味のある分野について企画・製作・研究などを行う学生プロジェクトが8団体あります。総合案内所の設置を企画し、1年生を積極的に勧誘する小林駿祐さん(総合機械学科3年)は、3つの学生プロジェクトに所属しています。なぜそこまで精力的に活動するのか。小林さんを突き動かすものは何か。まるで遊びのような感覚で学んでいるという小林さんに、学生プロジェクトの魅力、ものつくり大学の魅力を伺いました。 3つの学生プロジェクトに挑戦 現在は、学生フォーミュラプロジェクトの活動がメインですが、1年生の時に、学生フォーミュラプロジェクト「MONO Racing」、宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」、スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」の3つの学生プロジェクトに参加しました。3つのプロジェクトに参加した理由は、加工に興味があって、それぞれのプロジェクトで違った加工機や材料について学べることと、自分に向いている事は色々やっていくうちに分かってくると思ったからです。プロジェクトを掛け持ちする学生は他にあまりいないので、先輩にお願いしたところ「大変だと思うけどとりあえず入ってくれると嬉しい」ということで、参加することができました。 各プロジェクトにはそれぞれ個性があります。「宇宙研究開発プロジェクト」は、1年生教育に力を入れていて、SOLIDWORKSという設計ソフトを動画を使いながら学びました。また、成績優秀な先輩も多かったので、授業のことも教えてもらっていました。 宇宙研究開発プロジェクトのメンバーと 「スターリングエンジンプロジェクト」は、小さい部品を旋盤で加工するような職人的な技術が身につくと思って参加しました。設計ソフトについても、Fusion 360を使っていて、使えるソフトが増えました。3年生になった現在は、あまり活動に参加していませんが、スターリングエンジンプロジェクトの活動で分かったのは、私がやりたい事は一人で加工してものづくりをするよりも、皆で1つのものを作り上げることだという事でした。 Fusion360で設計したスターリングエンジンの図面 「学生フォーミュラプロジェクト」は、オープンキャンパスに参加した時に知りました。元々、乗り物が好きで、高校時代にEne-1という単三電池40本で人が乗った車を走らせる大会に参加していました。高校時代と違い、フォーミュラの製作には費用がかかります。スポンサー交渉も学生が行うなど、社会とのつながりが多いプロジェクトなので、やりがいも大きいです。1年生の頃は、当初の希望どおり加工を担当していました。先輩から旋盤やフライス盤を教えてもらい、設計ソフト同様、授業の前から使えるようになっていました。 3つのプロジェクトに参加してからは、忙しいというよりも充実感が上回っていました。はじめは、プロジェクト活動と学業の両立に不安を感じていましたが、先輩たちが課題について教えてくれるので、どんどん部室に行くようになっていきました。家で課題をやっていても分からないところがあると諦めてしまい、全然進まないんです。それが、部室だと先輩に質問できるし、疲れた時は息抜きに友人や先輩と食事に行ったりしました。 プロジェクトでは課題や授業に近いことをやっているので、授業もすぐに理解できます。課題が出ても、すでにプロジェクトで経験していて、スムーズに終わらせることができ、「よし。プロジェクト行こう」ってこともありました。 加工に興味があったはずが・・・ 2年生になってからは、学生フォーミュラでEV車を作るために電気系統を担当するようになりました、高校からずっと加工ばかりやっていて、大学でも加工をやりたいと思っていたのですが、いつの間にか、電気に興味を持ち、調べていくうちに楽しくなってしまいました。今は回路の異常を検知して電源が切れるような、安全を守るための回路を設計しています。学生フォーミュラはレギュレーションが決まっていますが、回路の細かいところは自分たちで考えて作るため、何の部品を選んでどういうふうに作るか、条件はどうするのかといったことを考えています。 今年の学生フォーミュラ日本大会ではEV車を走行させることを目標に頑張っています。EV車は多くの回路を設計しなければなりません。また、多くの法則やコツが必要なため難しく、先輩たちから引き継いでいる技術もありますが、未開拓なことも多く、調べながら進めています。それで解決策を見つけられた時は楽しいです。これが大学の授業になると話は変わってくると思いますが(笑)。やりたい事だからできます。壁にぶつかった時に、やらされているとか、人のせいにしてしまうと失敗した理由も人のせいにしてしまうから、「失敗は成功の元」なのに成長につながらないと思っています。それに、せっかく学ぶのであれば楽しく学びたい。学んだことをプロジェクトに使えるように考えながら授業を受けたり、勉強したら実現したかったことができるようになったり、ワクワクしながらだと授業にも身が入ります。 最終的には、これまでに学んできた知識を生かして、フォーミュラに入っているシステム全ての指揮を執って作り上げたんだと言えるようになりたいです。色々勉強して、やっとできたというものを形として一つ残せるというのがすごい楽しみです。 学生プロジェクトの魅力 ものつくり大学に入ったのなら、学生プロジェクトに参加しないのは「もったいない」と思います。大学には多くの加工機がありますが、授業の中だけでは深く学べないこともあります。プロジェクトに参加すれば、授業以外にも加工機に触れる機会が多くなります。家で遊んでいるのは、もったいない。学生時代は4年間しかなくて、せっかくものつくり大学に入学したなら使い倒したいなって思います。 学生フォーミュラはチームとして1台の車体を作り上げていくので、メンバーに迷惑をかけないために失敗は避けなくてはいけないのですが、例え失敗してしまっても自分一人の責任にはなりません。皆でカバーし合える。チームで1つのものを作る醍醐味があります。社会人になる前に、失敗を恐れず挑戦できる、色々試せるというのは自信につながります。 もし、学生プロジェクトに入ろうか迷っている人がいたら、やらずに後悔するよりも挑戦してほしいと思います。例え失敗したとしても次にどんどん生かせます。「挑戦と失敗を恐れるな。次に行こう」と伝えたいです。 充実した加工機と幅広い学び そもそも、ものつくり大学を選んだ理由は大きく分けると2つあります。1つは学生フォーミュラプロジェクトに参加したいということ。もう1つは、オープンキャンパスで加工機の種類の多さを見てびっくりしたということです。高校の授業では教科書で様々な加工機を見ましたが、写真では「ふーん。色んな加工機があるんだな」って思うくらいで実感がありませんでした。その後、進学を考えた時に色々な大学のオープンキャンパスに参加しました。他大学には教科書で見たことがあるような加工機が1台くらいはありました。でも、ものつくり大学には教科書に載っているような加工機がほぼ全て揃っていて、「おぉ~!色々な技術が身につけられるじゃん!」って思いました。こんなに多くの機械に触れることができるのなら、入学する意味があるのではないかと思いました。 今、振り返って思うことは、ものつくり大学を面白いと感じたのは、鋳造から始まって最終的に製品になるまでの一連の工程が大学内で完結しているところです。他大学には加工機はあっても、前後の工程のつながりを感じませんでした。自分が今加工しているものがどういう部品になるのか、元々の材料は何なのかという製造の流れが紐づいていくところが魅力的でした。 入学してから2年が経って、実際に色々な加工機を操作していくうちに、技術の幅を広げることを意識するようになりました。幅広く学んでいた方が色々なことを吸収できると感じています。だから、やりたい事が何となく決まっている人たちに、ものつくり大学は向いているのかなと思います。加工を学びたいと思って入学して、ずっと加工をやるんだろうなって思っていましたけど、途中で電気に興味を持っても学べる。機械も電気も設計も学べて、途中で路線変更ができる学びの幅が広い大学だと思います。 これからの目標 小さい頃から図工や美術やデザインなどが好きで色々作っていて、想像しているものが形になっていくことを楽しんでいました。しかし、大きくなるにつれ、想像していることに対して技術が追いつかなくなっていきました。それから、工業系の高校に入学して金属という新しい材料を学んで、硬いものや大きいものを作れるようになって。大学では、樹脂も勉強してプラスチックでものを作れるようになりました。学生プロジェクトに入ることによって、コミュニケーションやマネジメントも学んで、時間の足りなさを人で補えるようになり、どんどん大きくて複雑なものが作れるようになっています。目標は、アイデアをそのまま形にできるようになることです。 関連リンク ・学費以上の経験が得られる⁉学生フォーミュラプロジェクトの魅力とは・学生フォーミュラ「MONO Racing」・宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」・スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」・情報メカトロニクス学科
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目指すはベトナムと日本の架け橋。いつか強みを生かして、新たなキャリアにステップアップしたい
ベトナム出身のヴ―・ディン・ズーンさん(総合機械学科4年生)は、中学時代よりテレビで知った日本文化や日本社会に親しみを持ち、また有形の製品を扱い、「自身の仕事が形になっている」という実感を得られる日本の製造業に大きな期待や希望を抱いていました。 3年間の日本語学習を経て、ものつくり大学へ入学。2023年度4月からは日本での就業をスタートさせます。留学生だから感じる様々な課題を持ち前の明るさと好奇心で乗り越えてきたズーンさんの今後の目標や夢はなにか。後輩へのメッセージと共にお届けします。 ベトナム社会の発展に尽力されているホエ先生との出会い ベトナム、ホーチミン市にあるドンズー日本語学校のグエン・ドク・ホエ先生との出会いが、日本に留学するきっかけとなりました。ホエ先生は、国費留学生として1959年から74年まで、京都大学と東京大学大学院に在籍していた方で、帰国後、独自の日本語学習法をベトナム人向けに編み出し、約30年で2千人以上を日本に留学させてきた方です。一貫して日本語の普及に尽力してきた功績が認められて、2019年には日本政府から外務大臣表彰、2021年には外国人叙勲で旭日小綬章を受章されています。それほど素晴らしい先生です。 私の実家はハノイから約150キロ離れたところですが、ホエ先生は各地の高校を訪ねて優秀な学生にドンズーで日本語を勉強し留学しないかと進めていました。ベトナムでは農業が主で、大きな機械を使った製造業はハード&ソフト共に後れていました。テレビで見た日本の機械の優秀さや頑丈さに感心して、もともと中学時代に日本の歴史や文化に親しみがあり、製造業に興味があったので、いずれは留学したいと思っていました。それでホエ先生の学校で日本語を学んでから、来日して日本語学校で2年経過してから、ものつくり大学総合機械学科へ入学しました。 日本語を学んできたとはいえ、入学してから多くの日本の友人や知り合いを作ることで、ようやく日本語が堪能になっていきました。人見知りしない性格なので、どんどん興味あることに飛び込んでいったのです。しかし、筆記試験には苦戦しました。読み書きはもちろん出来るのですが、漢字圏の外国人の方に比べると不利かな・・・と。そこが苦労した点ですね。 とにかくモノをいじりまわし、作り上げることが好き 大学では、フライス盤、旋盤など工作機械を使えるようになり、資格を取得しながら学んできました。機械システムと電気システムおよび情報システムの搭載されているコンピュータシステムも学び、ハードウェアとソフトウェア、両面の開発も学んできました。卒業研究では『インピーダンスマッチングを考慮に入れた人力発電装置』という題目で取組み、成果発表を行いました。これはキックボードの普及に向けた充電器の需要が高まっている現状で、自分で自分のキックボードを充電できる設備があれば誰でも楽に発電することができると考えました。 インピーダンスとは、回路と回路を伝送路で結ぶとき、回路のインピーダンスが異なると、信号電流の一部が反射されてノイズとなったり、出力が低下したりします。この不整合を解消するのがインピーダンスマッチングです。そのことを考慮しながら、人力による発電機の開発に取り組みました。ペダル的なものを漕いで、発電させるもので、負荷もかけられるので軽い運動にも最適です。そのため強度が重要でした。また100ボルトのコンセントも設置して、スマホ充電器にも活用でき、アウトドアや災害時などでも運動を兼ねて使用することができるように開発しました。自分で言うのもなんですが、発想は面白いと思っています。 また学業以外の活動では、チューターをしていました。4年生ではスチューデントアシスタント(SA)。留学生のための国際交流サークルやバドミントンサークルに入っていました。 人が好き!出会った人との距離をもっともっと近くへ!! プライベートではスピーカーを製作したり、オートバイを改装したりして楽しんでいます。しかも完成はないので、永遠に作業をして常にアップロードしています。製作したスピーカーでは、母国ベトナムの音楽を聴いています。改装したオートバイに乗車して仲間たち4人と静岡へツーリングに行きました。ツーリングは楽しかったですが、残念ながら車検切れで今は乗っていません。思い返せば、「ものづくり」に励んできた4年間でした。性格なので、これからもきっとやめられないんでしょうね(笑)。 また、ベトナムフェスティバル in 神奈川の実行委員として活動。同じ川崎市で多文化共生推進事業活動やベトナム支援会で活動しています。神奈川県では県内に暮らすベトナム人や訪日ベトナム人観光客が増加していて、将来にわたる両地域の継続的な成長と発展を図っています。その一助になればと活動しています。 それから日本ボビナム協会の会員になって活動をしています。ボビナムとはベトナムで生まれ、世界60カ国に広がる総合武術です。加盟国はアジア各国はもちろん、ヨーロッパ、中東、オーストラリア、アフリカ、アメリカと全世界に広がりをみせています。創始者グェン・ロックさんにより1938年に設立。東洋の中国拳法、古武術などと西洋のレスリング、キックボクシングなどがベトナム人によって研究、分析され、練り上げられた、個性的かつ合理的な総合武術です。これまでに上野公園で行われたベトナムフェスティバルや靖国神社奉納演舞などに参加して、身に付けた技を見ていただいています。ドンチャンと呼ばれる美しい足技の数々も、ボビナムの特色です。日本でも技の名前や用語などはベトナム語を使い、ベトナムで培われた文化と精神を尊重しています。 このように性格はアクティブでアグレッシブです。とにかく人が好きです。人とかかわりを持つことが楽しいです。一対一でも複数でもOKです。出会ってからお互いの距離が縮まることが嬉しいです。もっともっと距離感を縮めて、一緒に人生を楽しみたい気持ちが強いです。人から向上心、好奇心が旺盛だね、とよく言われます。自分でもそう思いますし、素晴らしい長所だと思っています。これが個性ですね。他の人も、様々な素晴らしい個性をお持ちなので、そうした出会いをもっともっと、この日本で経験したいと思っています。 大好きだった日本―来日をきっかけに日本で働きたいと強く思った 卒業後は日本企業に従事します。いずれは母国と製造業の可能性を幅広く事業展開出来たら一番嬉しいですし、将来的にそこに関わりたいと思っています。ベトナムはとても成長していける国でもあるので、これから何年かかけて学ぶことを糧にして、母国のベトナムだけでなく、日本と海外の架け橋になりたいとも思っています。 まずは両国の橋渡しができる人物になりたいと大きな夢を抱いていますし、すごく自分に期待しています。そして自分のことだけでなく、社会のためを思うこと、そして未来の指導者として両国で頑張りたいです。ですので、ホームは日本でもベトナムでもどちらでもよいと思っています。諦めずに、いつか必ず乗り越えられる、今じゃなければ明日がある、ゴールとなる日が必ず来ると信じていれば乗り越えられると思っています。何が必要なのか、何をすべきなのか考えることも多くあり、いろいろな対応を求められると思いますが、逆にそれは嬉しいです。外国人だから、若いからとか一切関係なく、意見や考えを取り入れてもらえたり、毎日違うことをやることで成長できると信じています。 後輩たちには、目的を持って留学しないとダメと言いたいです。日本語を学ぶことも、大学の学修も、日本社会へ溶け込むことも、ぜんぶ夢や目的のためでないと続きません。色々な方のサポートを受けて、それを感謝し、成果でお応えする。そうした考えを持って、日々研鑽することがとても重要だと思います。 皆さん、私に続いてください。わからなければ、私に声かけてくださいね。それでは、 Anh đợi em( アン ドイ エン)! 関連リンク ・情報メカトロニクス学科WEBページ
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出身高校のマーチングバンド部への想いから生まれた将来の夢「ものづくり」とは
篠原 菜々美さん(建設学科1年生)は高校時代にマーチングバンド部に所属していました。母校である京華女子高校(東京)は全国大会の常連校であり、6年連続で金賞を受賞したこともある強豪校です。マーチングバンドと出会い、そしてものつくり大学に進学を決めた彼女の思い描く将来像に触れてみました。 マーチングバンドとの出会い 従妹たちがマーチングバンドの教室に通っていたのですが、私の地元にはなく、小学校では吹奏楽をやっていました。従妹が通っていた京華女子高校の文化祭に行った際、マーチングバンド部と出会い、パフォーマンスがとてもキラキラしていて、すごい!やってみたい!という気持ちが強くなりました。京華女子高校へ進学し、最初こそ吹奏楽部に入ろうと思っていましたが、マーチングバンド部へ入部しました。 自信がなかった私が、積極的になれたきっかけ 管楽器には4つのパートがあり、私は高校2年生の時に、メロフォンというトランペットの次に大きい楽器のパートリーダーになりました。実は、人前で話すことが苦手だったため、パートリーダーも自分から立候補したわけではありません。 元々メロフォンの演奏者は少なく、たった一人の先輩が受験勉強を理由に退部されたことや、同学年の部員が一人もいなかったことから、自動的にパートリーダーになりました。中高一貫校でしたので、一番下の学年は中学1年生。自分がしっかりしなくてはいけないという思いから、少しずつですが積極的に人前で話せるようになっていきました。高校からメロフォンを始めた私が、パートリーダーとして3年間続けられたのは、沢山支えてくれた先輩方や同級生のおかげだと思っています。 大会当日、朝練習の様子 そのパートリーダーで培われた積極性は、大学での学びを果敢に取り組むことに繋がっていると思います。授業で分からないところがあると、先生やTAの先輩方へ率先して質問できるようになりました。厳しい練習を乗り越えてきた分、忍耐強さも人一倍あり、高校時代に身に付けた力がいま活きています。 大会ではすべての出場校にそれぞれ金賞・銀賞・銅賞の評価がつけられますが、その上の小編成出場団体のなかでの金賞を目指して毎年出場しています。しかし、私たちの代は個人の成績で惜しくも銀賞だったのです。個人成績では6年連続で金賞を受賞していましたが、伝統を途切れさせてしまいました。とても悔しかったですが、後輩に思いを託し、今年の大会では見事に個人で金賞に返り咲きました。ただ、小編成出場団体の中での金賞はまだ一度も受賞できていないため、今後も後輩のためにより一層のサポートをしていきたいと思っています。 京華女子高校のマーチングバンド部 学んだことを活かした将来の夢 また、母校には出来る限りの恩返しをしたいと思っています。例えば、部活で演奏をする際は小道具を多く使用します。これまでは卒業生の保護者の方が協力して製作してくださいましたが、私が大学で様々な技術を学ぶことで、もっとハイクオリティな小道具を作りたいです。さらに、母校は都会の街中にあるため、体育館と呼べる建物がありません。騒音防止のため窓を閉めた状態で練習を行い、外練習も週に1回しかできませんでした。コロナ禍で全体練習も少なくなってしまったので、思う存分練習ができるような施設を作れる建築士になれたらなと考えています。 文系出身でも楽しめる学び 子どもの頃、建築士だった友人のお父さんから仕事の様子や模型などを見せてもらったり、両親には珍しい建物や美術館などに連れて行ってもらいました。建設に関する興味はずっとあり、将来はものづくりに携わる仕事をしてみたいとぼんやり思い浮かべていましたが、部活動は3年生の3月まであるので、推薦入試やAO入試で受験をすることが必須で、文系科目を中心に学んでいた私は、工業系大学に進学することに不安がありました。ですが、大学のオープンキャンパスや女子高校生のための実習体験授業に参加し、普通科の学生が多く入学していることや、実際に体を動かすことの楽しさから、必死に頑張れば文系でも追いつけるかもしれないと決意を固め、入学しました。 入学して思ったこと…そして決意 実際に授業を受けて感じたことですが、理論的なことを学びながら実習では実寸大の物を作れる。そんな大学は他にないと思うので、ものつくり大学の名前はもっと広まっても良いと思います。将来的にはみんなが当たり前に名前を知っている大学になってほしいです。私のような文系で全く違うことに取り組んできた人でも、一緒に頑張る友達や、優しく教えてくださる先生や先輩方が沢山います。まだ1年生なので、様々なことに好奇心を持ってこれからも勉強していきたいです! 関連リンク 建設学科WEBページ オープンキャンパスページ GRIRLS NOTE WEBページ
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ぼくが旅に出る理由 モバイルハウスで日本一周
ものつくり大学が2010年度から主催している「高校生建設設計競技」の2022年度の課題は「これからのモバイルハウス」です。「モバイルハウス」は、新型コロナウイルスがまん延し、人々の行動が制限されてしまった昨今、3密を避けられることからブームになったアウトドアと共に注目されている、「自由に移動できる家」です。設計ではなく、実際に軽トラックの荷台に居住空間を載せて作ったモバイルハウスで、日本一周に挑戦した学生がいます。渡邊 大也さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年の7月に盛暑の東日本を縦断。その後、9月から10月にかけて西日本を横断しました。渡邊さんは、どうしてモバイルハウスを作ったのか、なぜ日本一周の旅に出たのか、その理由に迫ります。 モバイルハウスを作ったきっかけ 運転免許取得時に、祖父から譲り受けた20年ものの軽トラックの荷台を何かに活かしたかったのが、そもそもの始まりです。最初は、大好きなヒマワリを皆に見てもらうために荷台で育てていましたが、大学1年の2月頃から新型コロナウイルスが拡大し始め、2年生の最初の頃は全ての授業がオンライン授業になりました。そこで、「オンラインならば全国を旅しながらでも授業を受けられるんじゃないか」と思い立ち、モバイルハウスの制作が始まりました。 子供の頃から旅行やキャンプが大好きで、高校生の時に、小口良平さんの「スマイル!笑顔と出会った自転車地球一周157カ国、155,502㎞」という本を読んでから、バックパッカーになるという夢を持っていました。そして、モバイルハウスを作った理由としてもう一つ、「元々、ものを作るのは好きだったけど、大きなものを完成させたことが無かったので、10代最後の挑戦にしたい」という思いがありました。 大学2年の夏からモバイルハウスの制作が始まりました。最初の頃は夢が膨らみすぎて、天井部分に芝生を植える等、完成した今となっては非現実的なアイデアもあり、納得のいくモバイルハウスが完成した時には大学4年生になっていました。 モバイルハウスの図面 制作中のモバイルハウス モバイルハウスのこだわり モバイルハウスは「海と船」をモチーフにして作られています。山梨出身で大学は埼玉。身近に海がない環境で育ったため、海に憧れを抱いていました。 モバイルハウスの助手席側の窓は、実際に船舶に使われている丸窓が入り、運転席側の窓は、旅先で海を眺めることを想定して、白く大きな窓を採用しています。また、屋根の部分は波をモチーフにして木材を加工しています。 制作にあたっては、大学の授業を応用して一人で制作を進めました。作り始めた頃は、モバイルハウスを作って旅に出ようとしている事を友人に話しても、皆から笑われたり、「やめときなよ」を言われました。しかし、完成が近くなってきて、本気さが伝わると、友人たちが最後の仕上げを手伝ってくれました。 旅での経験 完成したモバイルハウスで、いよいよ日本一周の旅に出発します。東日本に1か月、西日本に1か月半ほどの旅でしたが、どこに行くのか事前に計画は立てず、行先を決めるのは前日の夜。 世界遺産検定3級を持っていて、今回の旅には国内の世界遺産を巡るという目的がありました。日本を一周する中で、日本にある25件の世界遺産のうち10件を訪ねました。これで、未訪問の世界遺産は残り4つです。 大浦天主堂(長崎県) 白川郷(岐阜県) 他にも、旅にノルマ的なものを課していて、「建築・グルメ・文化」のうち、2つを堪能したと思えたら、次の場所に移るというものでした。 今回の旅で思い出に残っている場所は、モバイルハウスを作ったら絶対に行きたいと思っていた石川県の千里浜です。千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、一般の自動車やバイクでも砂浜の波打ち際を走れる道路です。海に憧れ、「海と船」をモチーフにしたモバイルハウスを作ったからには、是非とも写真に納めたい場所でした。ちなみに、石川県では、近江町市場の海鮮料理やターバンカレーを堪能して、兼六園や金沢21世紀美術館を訪ねました。 他にも、鹿児島県の桜島も印象に残る旅先でした。山梨で育ったため、山は見慣れていますが、山の形がまるで違っていて、ちょうど噴火していた桜島の雄大さが心に残っています。 旅の最中には、様々な人と出会い、繋がりもできました。特に、広島を旅していた時には、モバイルハウスを作りたいと考えている長崎から来た人に話しかけられ、ちょうど卒業研究用に作っていた資料を渡したことから意気投合しました。「今度、長崎に来る時は案内するよ」と言われたことで、実際に訪ねてみました。 また、千葉を旅している時は、所属する研究室の今井教授から「私の実家に行っていいよ」と連絡があり、実際にお風呂を借り、ご飯をごちそうになりました。 鳥取で台風に遭った時は、体育館に開設された避難所に行きました。避難しているのは一人だけでした。1か月という長い間、1.3畳ほどのモバイルハウスで生活していたため、広い体育館で一人になり、不意に寂しさを覚えました。寝れずにいたら、避難所の管理人の方が話しかけてきてくれて、夜遅くまで旅の話を聞いてくれました。 モバイルハウスの後方に「日本一周」と看板を掲げていたので、行く先々で話しかけてもらいました。長野の道の駅で同じように旅をしている方から素麺をごちそうになったり、途中で寄ったコンビニのオーナーから差し入れをいただいたりした事もあります。追い越していったバイクの方に手を振られる等、人の優しさに触れることができた旅でした。 モバイルハウス後方 長野でいただいた素麺 トラブルも数多くありました。一人旅だから何かあっても、自分で何とかするしかありません。佐賀の山を走っていた時に、エンジンオイルランプが点灯した上にガス欠になりかけていたところ、更にぬかるみでスタックした時は、山中に一人の状況に絶望して思わず叫びそうになりました(笑)。事前に、自動車部の友人から、オイルの入れ方やスタックした時の対処法を教えてもらっていたので何とかなりましたが、本当に怖かったです。 これからのモバイルハウス いつかモバイルハウスで海外に行き、高校生の時に留学していたアメリカのテネシー州まで旅をして、ホストファミリーを驚かせるという野望を持っています。 モバイルハウスで旅をする中で、「モバイルハウスがあれば家はいらない」と考えるようになりました。先日、モバイルハウスを所有している人たちの集まりがありました。夫婦二人と犬一匹でモバイルハウスに暮らしている方と出会い、モバイルハウスの可能性を感じました。軽トラックだと居住空間は狭いですが、1トントラックや2トントラックの荷台であれば、居住空間も広くすることができます。 実は、旅が終わった今も、ほとんどアパートで寝ることはなく、最後にアパートで寝たのはいつか分からないくらい、モバイルハウスか研究室に寝泊まりする日々が続いています。 日本ではモバイルハウスはかなり珍しい車ですが、車幅以内、高さ2.5m以内、350㎏以内であれば、自分の好きなように作れます。荷台に居住空間を荷物として載せているだけなので、特に手続きも必要ありません。制約があるからこそ、作っていて面白いと感じていて、モバイルハウスをもっと広めたいと考えています。 旅とは「生きがい」です。小さい頃から安定が好きではなく、刺激を求めていて、何をしても結局、旅に繋がります。就職先は、全国に支店がある内装工事の会社から内定をもらいましたが、転勤についても全国色々なところで建築に関われるので、今から楽しみです。 関連リンク 第12回ものつくり大学高校生建設設計競技 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) 建設学科WEBページ
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現場体験で感じた林業に魅了されて・・・第二の故郷へ就く
林業の機械化が進んだことで、素材生産や森林調査等で女性が活躍する場が増えています。とはいえ、まだまだ3K(きつい、汚い、危険)のイメージは拭えません。その林業の現場に大きな夢を抱いて挑戦する女子学生がいます。 例えば、京都を代表する銘木「北山杉」。古くから北山林業では女性は重要な役割を担っていました。枝打ちや伐採は男性の仕事ですが、加工作業や運搬、苗木の植え付けは主に女性の仕事でした。では、現代の林業女子には仕事はないのでしょうか。近年は機械化が進むことで伐採等の林業現場へも女性が進出することが期待されています。その林業に挑戦する浅野 零さん(建設学科4年)。153㎝の華奢なカラダからは想像できないバイタリティーの源はなにか、感動のインタビューです。 浅野さんのチャレンジ魂を育てたものは何ですか 高校までものづくりとは縁がなかったです。茨城県の生まれですが、小学校4年から中学卒業まで長野県にある人口850人程の村へ山村留学していました。高校は山口県でした。田舎が好きで、今度は瀬戸内海の島でした。山から海へ、です。高校時代は、アーチェリー部に所属していました。強化指定を受けていたことで、3年生では選手として全国大会へ出場しています。強いてものづくりと縁があるなら、山村留学時に仲間と小屋を作ったことでしょうか。その楽しかった思い出は心のどこかにずっとあって、このエピソードはものつくり大学へ進学する時に大学の方にお話しました。大学からすると、私の志望動機が不思議に思えたようでした。 そもそも母の影響というか、子育て方針というか、兄も同じ村に先に山村留学していて、後にカナダへ海外留学をしました。私は茨城→長野→山口→埼玉と国内を巡っていますが、この度、就職で長野へ戻ります。それも山村留学でお世話になった同じ村に戻ります。何でしょうね、Uターンでもなく、Iターンでもなくて。 大学での4年間もパワフルだったのではないですか もちろん普通高校卒なので、ものづくりを学んだのは入学してからです。木に触れることは好きだったので、最初は木工家具の製作に憧れました。角材を加工する授業は楽しかったけれど、そのうち角材になる前の木自体に興味が湧いてきて、林業を意識するようになりました。 1年の秋に「林業体験」のイベントを探して個人で参加しました。木を切って、加工して、その凄さに憧れました。女性も参加しやすいイベントで、参加したのは大方女性でした。人生で初めてチェンソーを使って、木を切りました。そして、垂直に立てた木の幹に切り込みを入れて燃やし、手軽に焚き火が楽しめるスウェーデントーチでの料理を楽しみました。 これをきっかけに林業界への憧れが強くなり、将来仕事として就きたいと思うようになりました。2年次に実施される大学のインターンシップは、長野県飯山市のNPO法人で木材加工に従事しました。3年次では、進路を林業一本に絞ったため、個人的に様々な企業や現場を見学に行きました。そういう意味では決断も早く、行動力もありましたね。いま思えば大学の授業との両立もうまく対処していたように思います。 自らの進むべき道を見つけるまでに、どんな出会いがありましたか 大学では就活を意識した活動と共に、1年次で建築大工3級、2年次で左官2級、造園3級、3年次で造園2級と、とにかく木に関わる資格を取得していきました。生活全てを木に関わっていきたい思いが強かったです。 実は、高校時代に生活していた山口県の林業会社の方に「この世界、女性ではたいへんだけれど、男性とは違う視点で活躍している方がたくさんいるよ」と言われました。その林業会社の方にはオンラインで頻繁に相談に乗っていただきました。「山口においでよ」と何度もお誘いをいただきました。正直、山口へ移住しようという気持ちにもなりました。同時に長野とも連絡を取っていて、情報収集に努めていました。 林業は、国の重要な施策なので、どちらかと言えば昔ながらの堅苦しいイメージを持っていました。でも、民間の小さな林業会社では、自分の技術やスキルがついたらやりたいことをやらせてもらえるような新しい考え方も生まれてきていることを知りました。長野で林業を起業された社長さんと話していると、ぐいぐい引き込まれていきました。その将来を見据えた魅力たっぷりの内容に感激しました。 そして最終的に長野へ就職を決めたのですか もちろん企業方針を何度も聞いて、性格的に合っているなと思いましたし、私が内定をいただいた会社がある村は、小学生の山村留学でお世話になったところでした。この村は私にとって特別です。住むことができる、仕事をすることができるなら恩返しの気持ちを持って戻りたいと強く思いました。会社も林業としては2021年に法人化されたばかり。不思議な縁を感じて、お世話になった村へ帰ろうと思いました。 林業女子としての不安や期待はありますか 林業は3Kと言われます。きつい、汚い、危険ですね。それに林業の現場に出る女性としての問題は、まずトイレ。いまは自然保護の観点から、以前のような現地で処理するようなことは減ってきています。トイレの設置や、山を下って用を足すこともできます。それから力の強さですね。女性ですので、体力は男性と比べて見劣りします。でも機械化も進み、力の問題も徐々に解決してくれそうです。緑の雇用制度で3年間鍛えることができるので、いまはそれが楽しみでなりません。都会にある林業会社では、近年「かっこいい林業」をスローガンにして新しい「K」が生まれています。期待ということでは、いずれキャンプ場を作るという会社の重点方針があります。いまは力不足ですが、ぜひチャレンジしたいです。 林業を通して、森林と地域との新たな価値を創造する繋ぎになるということですね 日本は平野の少ない森林大国です。木があれば、火を起こせる。火を起こしたら、ごはんも炊ける、お風呂も沸かせる。家も建てられるし、生きていく上でのあらゆる繋がりがあります。花粉問題だって、木を切る人がいれば、むしろ空気の循環を良くしてくれる。林業は大切なんですよね。人間の生活の基盤になっていると思っています。 ですから林業を通して、そこに生活する方たちのほのぼのとした幸福感や満足感を充足したいですし、村おこしといった地域の活性化にも非常に興味があります。 大学では様々な検定試験に挑戦しましたが、授業では学べないところまで教えてもらいました。先生方の技術が素晴らしいので、安心して学べます。私はこうした知識や技能・技術は、いずれどこかの場面で役立つと思っています。自分と仕事、自分と社会を繋ぐ力です。その力がないと新たな価値の創造なんてできないです。 視野が広がり、自分の進むべき道を見つけた大学での4年間。いまは卒業制作に仲間と懸命に取り組んでいます。一般家庭のエントランスと庭づくりです。次のステップへ進むために!!! 関連リンク 建設学科WEBページ
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対面開催は3年ぶり-碧蓮祭実行委員長・副実行委員長が語る、学園祭への思い
2022年10月29日(土)、30日(日)の両日にわたり、対面式では3年ぶりとなる第22回碧蓮祭が開催されました。2020年度、2021年度のオンライン開催を経て碧蓮祭実行委員長に就任した木村晴人さん(建設学科3年)、副委員長の廣田雅人さん(建設学科3年)は、対面式の学園祭を経験していません。そのような中でも、卒業生が繋いできた伝統を絶やすことなく開催した碧蓮祭をどのように感じているのか伺いました。 まずは、今年度のコンセプトについて込めた思いを聞かせてください 【木村】過去2年間で対面式の開催が叶わず、何もわからないまま代替わりをしてしまったので、新体制の実行委員は碧蓮祭そのものを体験したことのないメンバーばかりでした。開催に向けて沢山の壁があるなかで、それをすべて超えたいという気持ちや、自分たちの力で元に戻せたらいいなという意気込みから、「Break Through ~Our Challenge~」というコンセプトにしました。 碧蓮祭実行委員会に所属している後輩にも僕たちの背中を見てもらうことで、次年度以降は、様々な変化にも恐れを抱かず勇気をもって取り組んで欲しいと思っています。 3年ぶりに対面の碧蓮祭を実施するにあたり、例年と変化したところはありますか 【木村】2020年、2021年は新型コロナウイルスの影響でオンライン開催となりました。実行委員の中で企画したイベントをYouTubeに公開しましたが、これは今後の対面開催に向けて、外部の方への認知度を上げるための開催でした。対面開催では、地域の方々にとって、イベントが少ない中でも碧蓮祭を楽しんでいただくことで、地域を活性化できたらなという目的がありました。 碧蓮祭を作り上げていく中で楽しかったことはありましたか 【木村】楽しかったことは、学年を超えて準備ができたことです。開催に向けて先輩方に相談できたり、みんなとステージの製作ができたことは強く心に残っています。あとは、開催当日が一番楽しい時間でした。準備の段階では疲れも重なり、実行委員のほとんどが辛そうな顔をしていましたが、当日になると生き生きとした表情で動いているのを見て、僕自身も元気をもらえました。 【廣田】僕は、様々な人を巻き込んで取り組むことで、最終的に1つの輪ができたことがとても嬉しかったです。正直、あまり大変だったと感じないほど、とても充実した期間だったと思います。しかし、実行委員の人数が不足していることは今後の課題にもなっていきますので、後輩たちにはしっかり勧誘を行ってほしいと伝えました。 大変だったことはありましたか 【木村】 準備の期間、呼びかけてもなかなか人数が集まらず、最終的には有志で協力してくださった先輩もいました。また、報連相や情報共有不足が毎年の課題になっていました。どちらの苦労もまずは資料や言葉で理解してもらおうと考えましたが、うまくいきませんでした。なので、自分自身の熱量とやる気を全面的に出し、休まず毎日準備を進めていたら徐々に協力してくれる人が増えていきました。碧蓮祭実行委員会の垣根を越えて沢山の方々が助けてくれた結果、成功したと思っています。 今後の碧蓮祭について考えていることはありますか 【木村】今年度が開催できたことは、これまでの先輩が繋いでいてくれたからこそ叶ったことなので、後輩たちには毎年当たり前に開催できるとは思わないでほしいです。そして、僕たちが繋いだもの、伝えたことが1人でも多くの後輩に繋げられたらいいなと思います。 また、もっと後輩が活躍できる場を設ける為、2023年2月に節分祭を復活させ、その運営は1、2年生中心で動いてもらう予定です。そこでは、碧蓮祭実行委員会だからといって、碧蓮祭しかできないという訳ではないことを伝えていきたいです。そもそも碧蓮祭実行委員会は、ものつくり大学を盛り上げるという目的でできた組織なので、様々なことにチャレンジしてほしいと思っています。 <節分祭とは>節分の時期に学生や近隣住民を集め、本学の連絡橋から豆やお菓子を配布する行事。地域住民の方との交流を目的としているが、新型コロナウイルスの影響により、2019年度以来開催されていない。 【廣田】基本的なことは引き継ぎますが、その年の色や自分たちのやりたいと感じたことを思う存分発揮してほしいと思います。節分祭自体も、2019年度に卒業した先輩たちで最後になっているため難しいとは思っていますが、そこで誰がどの役職に向いているのか、見守っていきたいです。 【木村】これは僕が碧蓮祭実行委員会に入った理由になるのですが、2020年度の碧蓮祭では、オンラインで「学生施工型アスレチック ~遊具王~」に参加し、自分も運営したいという気持ちがずっと強くありました。2020年度でチームの中心になった先輩の意志を継ぎ、もっとパワーアップした形で開催しようと準備を進めているところです。 <学生施工型アスレチック ~遊具王~とは>2020年度のオンライン碧蓮祭で開催した、設計から施工、競技運営まですべて学生が行うアスレチック型スポーツ大会。全身の筋肉と頭を使いながら、時間内に完走できるか競い合う。動画はこちら → https://youtu.be/5ThpU_DFypc 碧蓮祭を通して成長した部分はありましたか 【木村】所属当初は先輩からの指示を待つ状態でしたが、2年生の中盤から、このままでは次年度開催が難しいのではないかと感じ、組織としてどのように動いていったらいいのかを考えられるようになりました。委員長に就任してからは、部署ごとの進み具合や意見を聞くことで、更に視野が広がりました。 【廣田】副委員長の立場になってからは、一人ひとりの意見を聞けるようになりました。みんなの考えをまとめて、どのように動いたら最善の解決が出来るのか試行錯誤を続けられたことは、大きな成長だと思います。 碧蓮祭実行委員の仕事は大学生活でどのように役立っていますか 【木村】これは後悔になってしまいますが、熱量だけはすごくあるのに技術が追い付かないことがすごく多くて、もっときちんと授業を受けていれば…と思いました。逆に言うと、準備の段階で学んだことが授業できちんとできるようになるということです。碧蓮祭を通して人をまとめる力、履修している授業の基礎などが身に付いたので、先生の言っていることも頭の中にストンと入ってきました。 【廣田】目上の方や外部の方と連絡を取るときの文章能力が身に付きました。これは就職してから当たり前のスキルになっていくので、学生のうちに身に付けられたことは大きな経験だと思っています。 碧蓮祭実行委員の魅力とは何ですか 【木村】正直、かなり大変だとは思いますが、その分人として成長できるし、何よりも自分たちが主催する人生最後の祭を心から楽しめる場所だと思います。個人的には、「夢の叶う場所」ですね。まずは卒業生を含めた歴代の実行委員長と写真を撮ること、これは碧蓮祭で叶いました。また、その先輩たちと一緒に何かを作り上げたい。そして、実行委員会に所属する理由になった遊具王の開催。遊具王は碧蓮祭と同時開催が出来なかったため、節分祭で開催出来たら、全部の夢が叶います。 【廣田】本当に傍から見たら大変だと思います。でも、最終的には楽しくなって、良い経験には絶対なるのではないかなと思います。縦にも横にも輪が広がって、今後の為にもなる。この上ないくらい達成感があります。 最後に一言お願いします! 【木村】碧蓮祭実行委員会に所属しているメンバーや、これから入ろうとしている学生に「安パイと妥協は絶対にするな」と言いたいです。ベストを尽くしたとしても後悔は残ってしまうので、考えられるプランをやりきることが次年度の活力に繋がると思います。個人でも部活でもない「組織」なので決めたことをきちんと貫き、それでも残った反省点を後輩に伝えていくことでもっと大きな組織に成長すると思います。その背中を見て、沢山の人に碧蓮祭実行委員会へ所属してほしいです。 【廣田】僕はまったく逆です。できることとできないことを考えた上で、やりたくても妥協しなくてはいけない時があることを伝えたいです。木村は見ての通りやる気と熱量は誰よりもありますが、時間は有限だし予算や人材にも限りがある。どうしてもやりたいという気持ちも分かりますが、1回立ち止まる判断ができる人が1人はいた方が良いと思います。 【木村】僕らは火と水のようなコンビなので、運営を続ける中でも絶え間なく意見をぶつけ合いました。互いに違った視点を持っているので、とても勉強になるしやりやすかったです。 【廣田】たくさんの学生が碧蓮祭実行委員に入ってくれたら様々な個性が集まるので、恐れることなく是非入って欲しいです。もちろん、1年生でなくても大歓迎です。 関連リンク 碧蓮祭実行委員会WEBサイト
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人と違うことをやってみる!伝統的な技法「扇垂木」への挑戦が自分自身の成長に
寺社建築の伝統的な技法「扇垂木(おうぎだるき)」と呼ばれる屋根架構を卒業制作のテーマにし、千葉県妙長寺の本堂建築に携わった桐山実久さん(建設学科4年・小野研究室)。 念願だった技能五輪全国大会にも2度出場した経験を持ち、「やってみたいことは挑戦する」がモットー。桐山さんに卒業制作を通して実感している4年間の大学生活での学びや成長、将来の目標などのついてインタビューしました。 木造建築への熱意がものつくり大学進学に 幼い頃から、温かみを感じる木造の家が好きで、木造建築に興味がありました。高校は地元の愛媛県立吉田高校の機械建築工学科に進み、木造建築の面白さに魅了され、高校生ものづくりコンテストにも出場しました。ものつくり大学に進学したのは、同校の先輩が進学していて「技能五輪全国大会に出場できるチャンスがある」と話を聞いたことが大きかったです。ものつくり大学では、アーク溶接などにも触れましたが、やはり木造建築が好きだということを確信し、木造建築コースに進みました。木材の魅力は一度切ると元に戻せないところだと感じます。ボンドで貼っても再生できないですよね。 1年生の頃はコロナ禍でオンライン授業が中心の学生生活に。2年生、3年生の時に連続して技能五輪全国大会に出場しました。出場職種は得意分野の大工ではなく、敢えて家具に挑戦しました。高校時代に先生から「細かいものも得意だね」と言われたことがあったからです。2年生の頃はまだ授業で家具づくりを学んでいなかったため、先輩方にいろいろ教えていただき、寝る間も惜しんで工房で技術を磨き大会に臨みました。3年生の時も家具職種に挑み、努力が実り敢闘賞を受賞することができました。ものつくり大学に進学し、念願だった技能五輪全国大会に挑戦できたことで、チャレンジ精神が旺盛になりました。 技能五輪全国大会に挑戦する桐山さん 伝統的な技法「扇垂木」を卒業制作に 私は小野研究室なのですが、今井研究室と仲が良く、交流が盛んな環境に身を置いています。4年生で卒業制作を迷っていた時、インターンシップでお世話になった今井先生から「千葉県館山市妙長寺の本堂新築の屋根架構を卒業制作として取り組んでみないか」と声をかけていただきました。今井先生から、本堂の屋根の形状は扇垂木(おうぎだるき)という唐傘をモチーフにした扇状に広がった垂木のことで、非常に手間がかかり、単純に配置することが難しいことや、現役の大工さんでも経験できないまれな技法であることなどの説明を受けました。 学生生活の中で木造建築を中心に学び、大会などにも挑戦してきた経緯もあり「人と違ったことをやってみたい」という思いが強い私は「滅多にない経験ができるのは面白そう」と伝統的な技法である扇垂木の制作に挑戦したいと思いました。そして「館山市妙長寺の屋根架構の制作ー扇垂木の墨付け、刻み、加工-」を卒業制作のテーマにすることで新たな自分の可能性を見出したいと思いました。 限られた作業時間が没頭するための集中力に 扇垂木の墨付けから加工の工程は、扇垂木の木材加工の施工経験がある非常勤講師の福島先生のご指導の下、埼玉県寄居の福島工務店で行いました。扇垂木の木材となるのは、垂木、隅木、蕪束(かぶらづか)。墨付けから加工は、一般的な垂木の断面より大きいため、加工に費やす時間が多くなりました。搬入や組み立てを考慮して行った鎌継ぎ(一方の木材に端部の広がった突起を作り、他方の木材にはめ込む継ぎ手)やくせ加工などの作業も何度も行いました。作業時間が限られていたこともあり、43日間(2023年10月27日から12月8日)1日も休まず取り組みました。限られた時間の中での作業だったからこそ、集中して一心に取り組めたのだと思います。加工した木材の仕口を数えてみたら136箇所ありました。 技術的な面は、福島先生のご指導に加え、学生生活を送る過程で様々な道具を使ったり、技術を磨いたりした経験や工程を頭に入れ作業する習慣がプラスに働きました。ある程度作業に慣れると、流れが分かり、段取りをつけながら1人で進めることもありました。精神面でのプレッシャーは地元の方との交流もあり、あまり感じませんでした。技能五輪全国大会に出場した時はかなり精神的にきつかったのですが、2度の出場経験により、精神的にも鍛えられたのかもしれません。しかし、肉体的には、かなりハードでした。今まで扱ってきた木材に比べて遥かに大きく、重かったので、運んだり、転がしたりするのは想像以上に身体に負荷がかかり、腰なども痛くなりました。 難易度の高い施工に挑み、目にした本物の建築 木材の加工が終了した翌日の12月9日に、埼玉県寄居町から千葉県館山市の現場に木材を搬入しました。現地の大工さんの力もお借りし、他の学生と一緒に12月13日から、施工に入りましたが、現地に入る前と後では、緊張感が違いました。まず、蕪束と隅木の取り付けを行いました。上段、中段、下段と隅木を継いでいきました。ここでは、ビス留めをし、しっかり止めました。次に、いよいよ垂木の取り付け作業に。隅木側から垂木を取り付ける工程はとても難しかったです。ひのきの垂木は全て寸法も異なり、木材だからこそ、ねじれや乾燥もあり、調整の繰り返しに。なかなか思うように作業が進まず、苦戦しつつも丁寧にかんなを使って微調整しながら組み立てを進めていきました。垂木の上段、下段の取り付けが進んでいくに従い、扇垂木が大きいことに驚きました。 扇垂木を下から見上げる 現場で施工する桐山さん 本物の建物の施工に関わるのは初めてで、しかも寺院の本堂は地域に根付き、歴史的にも価値をもつことになる建物です。いざ完成間近になった建物を目の前にし、「こんなにも大きな寺院をつくっているんだ」と言葉に表せない感情が湧きました。100年、200年と長期間、多くの人に親しんでもらえる建物にしたいと思っています。本堂の完成は2024年3月を予定しており、扇垂木の美しさが見える屋根になるように作業を進めています。 卒業制作を通して感じている自身の成長 卒業制作を通して特に2つほど自身の成長を感じています。1つは、今までは自分が納得いくためのものづくりだったのが、人に喜んでもらえるものづくりをしたいという思いが加わったことです。そもそも、ものつくり大学に進学した理由の1つに技能五輪全国大会への挑戦があったのですが、高校時代に高校生ものづくりコンテストに参加し、自分自身に対してやり残したという後悔がありました。「賞に入賞することよりも自分の納得するものづくりがやりたい」という思いが強く、1年目には納得できず、2年連続して挑戦。結果、3年生の時は敢闘賞を取ることもでき、自分なりに納得し、達成感が味わえました。しかし、今回、長い歳月建ち続けることになる寺院の施工に携わることで、多くの人が見たり、触れたりして大切にされていくことを想像する機会に恵まれ、ものづくりの喜びを倍に感じるようになりました。 もう1つは、自分に自信が持てたことです。大学生活の中でいろいろな大会にも出場し、賞ももらってきたのですが、実は自分に自信が持てず、ものづくりも上手いと思ったことがありませんでした。自己評価が低く、時に先生から叱られることも。自信がなかったからこそ、さまざまなことに挑戦もしてきました。しかし、今回、卒業制作で難易度の高い扇垂木の制作に挑戦し、その結果、檀家さん、工務店の先生、大学の先生や友人など関わってきた人から評価してもらい、自信が持てました。本堂新築における扇垂木のことが新聞に取り上げられたことで、自分が関わった建築物が多くの方から注目を浴びていることを聞き、嬉しいです。 建築が進む妙長寺本堂 将来は木造建築の教員に 大学卒業後は、まず、大工としてプレカットの仕事に就き、大工職人として腕を磨きたいです。社会経験を積んだ後は、木造建築の教員になりたいと考えています。私の家族はみな教員で、幼い頃から「将来は先生になりたい」と思っていました。人に教えることも好きです。ただ、学生生活の中で、自信がなかなかもてず、後輩に対してもどこか教えることに引き気味でした。しかし、卒業制作などに取り組む中で教えることに少しずつ前向きになり、4年生ではSA(Students Assistant)として先生のアシスタントをしながら後輩にさまざまなことを教える経験をしています。実際、鋸の使い方1つでも教える立場になってみて、みんながそれぞれ違う使い方をしていることが分かり、その違いを面白いと感じます。一方で、一緒にSAをしている学生の教え方から学ぶことも多く、勉強になります。最近、木造建築に進む学生が少なくなっていると感じるので、木造建築の魅力や面白さを伝えられる教員になりたいです。 自分を磨けるものつくり大学での学び ものつくり大学での学生生活は、規則に従いながら過ごしていた小中学校時代、まだ何がやりたいかが明確ではなかった高校時代とは異なり、自分が好きなことをできる環境が整っていました。自分が磨きたいところを磨け、いろいろなことにも挑戦できました。先生からは理論や実践で役に立つことを教えてもらい、さまざまな実習やインターンシップでは、自分で実際にやってみる機会を多く作ることができました。具体的に教えていただいたことに挑戦できた結果、多くのことを学んだり、技術や技能を身に付けたりすることができました。さらに、先輩から教えていただき、後輩に教えるものづくりを通し、人とコミュニケーションを持ったり、信頼関係を築いたりする機会にも多く恵まれました。挑戦することを続けた4年間の学生生活の中で、特に卒業制作は、今までの学びと実践が活き、自分自身の成長を感じる機会になっています。 関連リンク ・建設学科 木質構造・材料研究室(小野研究室) ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) ・技能五輪全国大会実績WEBページ ・建設学科WEBページ
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7月7日、図書館ランタンまつり–幻想的な灯りに心癒されて
7月7日、図書館ではクールアース・デイにちなみ、Co2削減を目的にスペースの一部をライトダウンしてランタンを灯す「ランタンまつり」が開催されました。図書館初となる「ランタンまつり」を企画し、ランタンや灯篭を手作りで準備した、図書館・メディア情報センターの細井まちこさんが、企画を考えたきっかけや想いを紹介します。 「みんなが地球を想う日」に 「図書館を舞台に何か新味のあることはできないか」--。そう考えていた折、11月頃、栃木県足利市の期間限定のライトアップを見る機会がありました。折しも地元行田市の毎月一回行っているライトアップイベントも目にしていて、こんなきれいなイベントを図書館でも開催できたらいいなと思いました。 2023年5月頃から密かに企画書をつくり、いつでも実施できるようスタンバイしていました。その甲斐あって、今回ようやく実現することができました。 「クールアース・デー」は、2008年のG8サミット(洞爺湖サミット)が日本で7月7日の七夕の日に開催されたことを機に定められています。この「みんなが地球を想う日」が胸に刺さり、7月7日に開催を決めました。コンセプトを「ライトアップだけど地球温暖化対策でライトダウン」これで進めようと決めました。 時間帯は、学生にあまり影響の出ない17~19時の2時間、初めての試みだったため、一部の箇所だけで消灯にしようと「IOT INFORMATION GALLERY」に決めました。 図書館でのランタンまつり ランプシェードを制作する 市販で販売している14個1セットになったものを購入。けれど、何かもの足りない。ものつくり大学なら何かしら手作りの物で演出できればと調べたところ、風船で作るランプシェードを見つけました。これなら作れるのではと、家で使用しなくなったかな用の書道用紙があったので、100円ショップの風船を使い、みようみまねで作り始めました。初めは、風船に薄めたボンドを塗り、書道用紙を直接貼り付けましたが、見事に失敗。用紙を直接貼ったため、風船にへばりつき、空気を抜いた時点で一緒にしぼんでしまいました。 ランプシェードをつくる 改めて研究したところ、最初の層を水で貼り付けてから、最後の層を水で薄めた糊をしみ込ませた和紙を貼る方法を見つけました。さっそく実践したところうまくいき、風船と書道用紙をきれいにはがすことができました。ここから好調に進めることができました。少しアレンジして、最初の層の後に水で薄めた糊をしみ込ませた毛糸を巻き、最後の層を貼るバージョンや最後の層の紙に花の絵や即席の俳句プリントのものを作り8個完成させました。 ほかにもプリント可能な書道用紙を友人からいただいたので、空のイラストや花などのイラストをプリントした用紙を丸めた灯篭を24個作りました。 幻想の時、いよいよ開催 7月7日、16時から電気を消して、図書館職員で提灯、ランプシェード、灯篭を飾り付けました。17時を待って、ライトアップし、いよいよランタンまつりの開催です。日が落ちていくにつれて、段々ときれいに浮かび上がってきました。閉館後の18時頃から癒しの音楽を流しました。音楽と相まって、幻想的な世界。学生と職員数名で酔いしれました。心癒される時間でした。 内心、どうなるだろうかと心配な点もありました。尊敬する人からいただいた言葉「失敗してこそ宝を見つけることができる。だから死ぬまでにたくさん失敗をしなさい」が心の支えとなってくれました。 秋から冬にまた開催したいと考えています。 職員、学生とともに 原稿図書館・メディア情報センター 細井 まちこ
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4年間しかない学生時代だから、とことん学びたい
1年生が入学してキャンパスに活気が戻ってきた4月。製造棟の廊下には、「学生プロジェクト総合案内所」が設置されていました。情報メカトロニクス学科には、学生が主体となって興味のある分野について企画・製作・研究などを行う学生プロジェクトが8団体あります。総合案内所の設置を企画し、1年生を積極的に勧誘する小林駿祐さん(総合機械学科3年)は、3つの学生プロジェクトに所属しています。なぜそこまで精力的に活動するのか。小林さんを突き動かすものは何か。まるで遊びのような感覚で学んでいるという小林さんに、学生プロジェクトの魅力、ものつくり大学の魅力を伺いました。 3つの学生プロジェクトに挑戦 現在は、学生フォーミュラプロジェクトの活動がメインですが、1年生の時に、学生フォーミュラプロジェクト「MONO Racing」、宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」、スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」の3つの学生プロジェクトに参加しました。3つのプロジェクトに参加した理由は、加工に興味があって、それぞれのプロジェクトで違った加工機や材料について学べることと、自分に向いている事は色々やっていくうちに分かってくると思ったからです。プロジェクトを掛け持ちする学生は他にあまりいないので、先輩にお願いしたところ「大変だと思うけどとりあえず入ってくれると嬉しい」ということで、参加することができました。 各プロジェクトにはそれぞれ個性があります。「宇宙研究開発プロジェクト」は、1年生教育に力を入れていて、SOLIDWORKSという設計ソフトを動画を使いながら学びました。また、成績優秀な先輩も多かったので、授業のことも教えてもらっていました。 宇宙研究開発プロジェクトのメンバーと 「スターリングエンジンプロジェクト」は、小さい部品を旋盤で加工するような職人的な技術が身につくと思って参加しました。設計ソフトについても、Fusion 360を使っていて、使えるソフトが増えました。3年生になった現在は、あまり活動に参加していませんが、スターリングエンジンプロジェクトの活動で分かったのは、私がやりたい事は一人で加工してものづくりをするよりも、皆で1つのものを作り上げることだという事でした。 Fusion360で設計したスターリングエンジンの図面 「学生フォーミュラプロジェクト」は、オープンキャンパスに参加した時に知りました。元々、乗り物が好きで、高校時代にEne-1という単三電池40本で人が乗った車を走らせる大会に参加していました。高校時代と違い、フォーミュラの製作には費用がかかります。スポンサー交渉も学生が行うなど、社会とのつながりが多いプロジェクトなので、やりがいも大きいです。1年生の頃は、当初の希望どおり加工を担当していました。先輩から旋盤やフライス盤を教えてもらい、設計ソフト同様、授業の前から使えるようになっていました。 3つのプロジェクトに参加してからは、忙しいというよりも充実感が上回っていました。はじめは、プロジェクト活動と学業の両立に不安を感じていましたが、先輩たちが課題について教えてくれるので、どんどん部室に行くようになっていきました。家で課題をやっていても分からないところがあると諦めてしまい、全然進まないんです。それが、部室だと先輩に質問できるし、疲れた時は息抜きに友人や先輩と食事に行ったりしました。 プロジェクトでは課題や授業に近いことをやっているので、授業もすぐに理解できます。課題が出ても、すでにプロジェクトで経験していて、スムーズに終わらせることができ、「よし。プロジェクト行こう」ってこともありました。 加工に興味があったはずが・・・ 2年生になってからは、学生フォーミュラでEV車を作るために電気系統を担当するようになりました、高校からずっと加工ばかりやっていて、大学でも加工をやりたいと思っていたのですが、いつの間にか、電気に興味を持ち、調べていくうちに楽しくなってしまいました。今は回路の異常を検知して電源が切れるような、安全を守るための回路を設計しています。学生フォーミュラはレギュレーションが決まっていますが、回路の細かいところは自分たちで考えて作るため、何の部品を選んでどういうふうに作るか、条件はどうするのかといったことを考えています。 今年の学生フォーミュラ日本大会ではEV車を走行させることを目標に頑張っています。EV車は多くの回路を設計しなければなりません。また、多くの法則やコツが必要なため難しく、先輩たちから引き継いでいる技術もありますが、未開拓なことも多く、調べながら進めています。それで解決策を見つけられた時は楽しいです。これが大学の授業になると話は変わってくると思いますが(笑)。やりたい事だからできます。壁にぶつかった時に、やらされているとか、人のせいにしてしまうと失敗した理由も人のせいにしてしまうから、「失敗は成功の元」なのに成長につながらないと思っています。それに、せっかく学ぶのであれば楽しく学びたい。学んだことをプロジェクトに使えるように考えながら授業を受けたり、勉強したら実現したかったことができるようになったり、ワクワクしながらだと授業にも身が入ります。 最終的には、これまでに学んできた知識を生かして、フォーミュラに入っているシステム全ての指揮を執って作り上げたんだと言えるようになりたいです。色々勉強して、やっとできたというものを形として一つ残せるというのがすごい楽しみです。 学生プロジェクトの魅力 ものつくり大学に入ったのなら、学生プロジェクトに参加しないのは「もったいない」と思います。大学には多くの加工機がありますが、授業の中だけでは深く学べないこともあります。プロジェクトに参加すれば、授業以外にも加工機に触れる機会が多くなります。家で遊んでいるのは、もったいない。学生時代は4年間しかなくて、せっかくものつくり大学に入学したなら使い倒したいなって思います。 学生フォーミュラはチームとして1台の車体を作り上げていくので、メンバーに迷惑をかけないために失敗は避けなくてはいけないのですが、例え失敗してしまっても自分一人の責任にはなりません。皆でカバーし合える。チームで1つのものを作る醍醐味があります。社会人になる前に、失敗を恐れず挑戦できる、色々試せるというのは自信につながります。 もし、学生プロジェクトに入ろうか迷っている人がいたら、やらずに後悔するよりも挑戦してほしいと思います。例え失敗したとしても次にどんどん生かせます。「挑戦と失敗を恐れるな。次に行こう」と伝えたいです。 充実した加工機と幅広い学び そもそも、ものつくり大学を選んだ理由は大きく分けると2つあります。1つは学生フォーミュラプロジェクトに参加したいということ。もう1つは、オープンキャンパスで加工機の種類の多さを見てびっくりしたということです。高校の授業では教科書で様々な加工機を見ましたが、写真では「ふーん。色んな加工機があるんだな」って思うくらいで実感がありませんでした。その後、進学を考えた時に色々な大学のオープンキャンパスに参加しました。他大学には教科書で見たことがあるような加工機が1台くらいはありました。でも、ものつくり大学には教科書に載っているような加工機がほぼ全て揃っていて、「おぉ~!色々な技術が身につけられるじゃん!」って思いました。こんなに多くの機械に触れることができるのなら、入学する意味があるのではないかと思いました。 今、振り返って思うことは、ものつくり大学を面白いと感じたのは、鋳造から始まって最終的に製品になるまでの一連の工程が大学内で完結しているところです。他大学には加工機はあっても、前後の工程のつながりを感じませんでした。自分が今加工しているものがどういう部品になるのか、元々の材料は何なのかという製造の流れが紐づいていくところが魅力的でした。 入学してから2年が経って、実際に色々な加工機を操作していくうちに、技術の幅を広げることを意識するようになりました。幅広く学んでいた方が色々なことを吸収できると感じています。だから、やりたい事が何となく決まっている人たちに、ものつくり大学は向いているのかなと思います。加工を学びたいと思って入学して、ずっと加工をやるんだろうなって思っていましたけど、途中で電気に興味を持っても学べる。機械も電気も設計も学べて、途中で路線変更ができる学びの幅が広い大学だと思います。 これからの目標 小さい頃から図工や美術やデザインなどが好きで色々作っていて、想像しているものが形になっていくことを楽しんでいました。しかし、大きくなるにつれ、想像していることに対して技術が追いつかなくなっていきました。それから、工業系の高校に入学して金属という新しい材料を学んで、硬いものや大きいものを作れるようになって。大学では、樹脂も勉強してプラスチックでものを作れるようになりました。学生プロジェクトに入ることによって、コミュニケーションやマネジメントも学んで、時間の足りなさを人で補えるようになり、どんどん大きくて複雑なものが作れるようになっています。目標は、アイデアをそのまま形にできるようになることです。 関連リンク ・学費以上の経験が得られる⁉学生フォーミュラプロジェクトの魅力とは・学生フォーミュラ「MONO Racing」・宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」・スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」・情報メカトロニクス学科
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目指すはベトナムと日本の架け橋。いつか強みを生かして、新たなキャリアにステップアップしたい
ベトナム出身のヴ―・ディン・ズーンさん(総合機械学科4年生)は、中学時代よりテレビで知った日本文化や日本社会に親しみを持ち、また有形の製品を扱い、「自身の仕事が形になっている」という実感を得られる日本の製造業に大きな期待や希望を抱いていました。 3年間の日本語学習を経て、ものつくり大学へ入学。2023年度4月からは日本での就業をスタートさせます。留学生だから感じる様々な課題を持ち前の明るさと好奇心で乗り越えてきたズーンさんの今後の目標や夢はなにか。後輩へのメッセージと共にお届けします。 ベトナム社会の発展に尽力されているホエ先生との出会い ベトナム、ホーチミン市にあるドンズー日本語学校のグエン・ドク・ホエ先生との出会いが、日本に留学するきっかけとなりました。ホエ先生は、国費留学生として1959年から74年まで、京都大学と東京大学大学院に在籍していた方で、帰国後、独自の日本語学習法をベトナム人向けに編み出し、約30年で2千人以上を日本に留学させてきた方です。一貫して日本語の普及に尽力してきた功績が認められて、2019年には日本政府から外務大臣表彰、2021年には外国人叙勲で旭日小綬章を受章されています。それほど素晴らしい先生です。 私の実家はハノイから約150キロ離れたところですが、ホエ先生は各地の高校を訪ねて優秀な学生にドンズーで日本語を勉強し留学しないかと進めていました。ベトナムでは農業が主で、大きな機械を使った製造業はハード&ソフト共に後れていました。テレビで見た日本の機械の優秀さや頑丈さに感心して、もともと中学時代に日本の歴史や文化に親しみがあり、製造業に興味があったので、いずれは留学したいと思っていました。それでホエ先生の学校で日本語を学んでから、来日して日本語学校で2年経過してから、ものつくり大学総合機械学科へ入学しました。 日本語を学んできたとはいえ、入学してから多くの日本の友人や知り合いを作ることで、ようやく日本語が堪能になっていきました。人見知りしない性格なので、どんどん興味あることに飛び込んでいったのです。しかし、筆記試験には苦戦しました。読み書きはもちろん出来るのですが、漢字圏の外国人の方に比べると不利かな・・・と。そこが苦労した点ですね。 とにかくモノをいじりまわし、作り上げることが好き 大学では、フライス盤、旋盤など工作機械を使えるようになり、資格を取得しながら学んできました。機械システムと電気システムおよび情報システムの搭載されているコンピュータシステムも学び、ハードウェアとソフトウェア、両面の開発も学んできました。卒業研究では『インピーダンスマッチングを考慮に入れた人力発電装置』という題目で取組み、成果発表を行いました。これはキックボードの普及に向けた充電器の需要が高まっている現状で、自分で自分のキックボードを充電できる設備があれば誰でも楽に発電することができると考えました。 インピーダンスとは、回路と回路を伝送路で結ぶとき、回路のインピーダンスが異なると、信号電流の一部が反射されてノイズとなったり、出力が低下したりします。この不整合を解消するのがインピーダンスマッチングです。そのことを考慮しながら、人力による発電機の開発に取り組みました。ペダル的なものを漕いで、発電させるもので、負荷もかけられるので軽い運動にも最適です。そのため強度が重要でした。また100ボルトのコンセントも設置して、スマホ充電器にも活用でき、アウトドアや災害時などでも運動を兼ねて使用することができるように開発しました。自分で言うのもなんですが、発想は面白いと思っています。 また学業以外の活動では、チューターをしていました。4年生ではスチューデントアシスタント(SA)。留学生のための国際交流サークルやバドミントンサークルに入っていました。 人が好き!出会った人との距離をもっともっと近くへ!! プライベートではスピーカーを製作したり、オートバイを改装したりして楽しんでいます。しかも完成はないので、永遠に作業をして常にアップロードしています。製作したスピーカーでは、母国ベトナムの音楽を聴いています。改装したオートバイに乗車して仲間たち4人と静岡へツーリングに行きました。ツーリングは楽しかったですが、残念ながら車検切れで今は乗っていません。思い返せば、「ものづくり」に励んできた4年間でした。性格なので、これからもきっとやめられないんでしょうね(笑)。 また、ベトナムフェスティバル in 神奈川の実行委員として活動。同じ川崎市で多文化共生推進事業活動やベトナム支援会で活動しています。神奈川県では県内に暮らすベトナム人や訪日ベトナム人観光客が増加していて、将来にわたる両地域の継続的な成長と発展を図っています。その一助になればと活動しています。 それから日本ボビナム協会の会員になって活動をしています。ボビナムとはベトナムで生まれ、世界60カ国に広がる総合武術です。加盟国はアジア各国はもちろん、ヨーロッパ、中東、オーストラリア、アフリカ、アメリカと全世界に広がりをみせています。創始者グェン・ロックさんにより1938年に設立。東洋の中国拳法、古武術などと西洋のレスリング、キックボクシングなどがベトナム人によって研究、分析され、練り上げられた、個性的かつ合理的な総合武術です。これまでに上野公園で行われたベトナムフェスティバルや靖国神社奉納演舞などに参加して、身に付けた技を見ていただいています。ドンチャンと呼ばれる美しい足技の数々も、ボビナムの特色です。日本でも技の名前や用語などはベトナム語を使い、ベトナムで培われた文化と精神を尊重しています。 このように性格はアクティブでアグレッシブです。とにかく人が好きです。人とかかわりを持つことが楽しいです。一対一でも複数でもOKです。出会ってからお互いの距離が縮まることが嬉しいです。もっともっと距離感を縮めて、一緒に人生を楽しみたい気持ちが強いです。人から向上心、好奇心が旺盛だね、とよく言われます。自分でもそう思いますし、素晴らしい長所だと思っています。これが個性ですね。他の人も、様々な素晴らしい個性をお持ちなので、そうした出会いをもっともっと、この日本で経験したいと思っています。 大好きだった日本―来日をきっかけに日本で働きたいと強く思った 卒業後は日本企業に従事します。いずれは母国と製造業の可能性を幅広く事業展開出来たら一番嬉しいですし、将来的にそこに関わりたいと思っています。ベトナムはとても成長していける国でもあるので、これから何年かかけて学ぶことを糧にして、母国のベトナムだけでなく、日本と海外の架け橋になりたいとも思っています。 まずは両国の橋渡しができる人物になりたいと大きな夢を抱いていますし、すごく自分に期待しています。そして自分のことだけでなく、社会のためを思うこと、そして未来の指導者として両国で頑張りたいです。ですので、ホームは日本でもベトナムでもどちらでもよいと思っています。諦めずに、いつか必ず乗り越えられる、今じゃなければ明日がある、ゴールとなる日が必ず来ると信じていれば乗り越えられると思っています。何が必要なのか、何をすべきなのか考えることも多くあり、いろいろな対応を求められると思いますが、逆にそれは嬉しいです。外国人だから、若いからとか一切関係なく、意見や考えを取り入れてもらえたり、毎日違うことをやることで成長できると信じています。 後輩たちには、目的を持って留学しないとダメと言いたいです。日本語を学ぶことも、大学の学修も、日本社会へ溶け込むことも、ぜんぶ夢や目的のためでないと続きません。色々な方のサポートを受けて、それを感謝し、成果でお応えする。そうした考えを持って、日々研鑽することがとても重要だと思います。 皆さん、私に続いてください。わからなければ、私に声かけてくださいね。それでは、 Anh đợi em( アン ドイ エン)! 関連リンク ・情報メカトロニクス学科WEBページ
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出身高校のマーチングバンド部への想いから生まれた将来の夢「ものづくり」とは
篠原 菜々美さん(建設学科1年生)は高校時代にマーチングバンド部に所属していました。母校である京華女子高校(東京)は全国大会の常連校であり、6年連続で金賞を受賞したこともある強豪校です。マーチングバンドと出会い、そしてものつくり大学に進学を決めた彼女の思い描く将来像に触れてみました。 マーチングバンドとの出会い 従妹たちがマーチングバンドの教室に通っていたのですが、私の地元にはなく、小学校では吹奏楽をやっていました。従妹が通っていた京華女子高校の文化祭に行った際、マーチングバンド部と出会い、パフォーマンスがとてもキラキラしていて、すごい!やってみたい!という気持ちが強くなりました。京華女子高校へ進学し、最初こそ吹奏楽部に入ろうと思っていましたが、マーチングバンド部へ入部しました。 自信がなかった私が、積極的になれたきっかけ 管楽器には4つのパートがあり、私は高校2年生の時に、メロフォンというトランペットの次に大きい楽器のパートリーダーになりました。実は、人前で話すことが苦手だったため、パートリーダーも自分から立候補したわけではありません。 元々メロフォンの演奏者は少なく、たった一人の先輩が受験勉強を理由に退部されたことや、同学年の部員が一人もいなかったことから、自動的にパートリーダーになりました。中高一貫校でしたので、一番下の学年は中学1年生。自分がしっかりしなくてはいけないという思いから、少しずつですが積極的に人前で話せるようになっていきました。高校からメロフォンを始めた私が、パートリーダーとして3年間続けられたのは、沢山支えてくれた先輩方や同級生のおかげだと思っています。 大会当日、朝練習の様子 そのパートリーダーで培われた積極性は、大学での学びを果敢に取り組むことに繋がっていると思います。授業で分からないところがあると、先生やTAの先輩方へ率先して質問できるようになりました。厳しい練習を乗り越えてきた分、忍耐強さも人一倍あり、高校時代に身に付けた力がいま活きています。 大会ではすべての出場校にそれぞれ金賞・銀賞・銅賞の評価がつけられますが、その上の小編成出場団体のなかでの金賞を目指して毎年出場しています。しかし、私たちの代は個人の成績で惜しくも銀賞だったのです。個人成績では6年連続で金賞を受賞していましたが、伝統を途切れさせてしまいました。とても悔しかったですが、後輩に思いを託し、今年の大会では見事に個人で金賞に返り咲きました。ただ、小編成出場団体の中での金賞はまだ一度も受賞できていないため、今後も後輩のためにより一層のサポートをしていきたいと思っています。 京華女子高校のマーチングバンド部 学んだことを活かした将来の夢 また、母校には出来る限りの恩返しをしたいと思っています。例えば、部活で演奏をする際は小道具を多く使用します。これまでは卒業生の保護者の方が協力して製作してくださいましたが、私が大学で様々な技術を学ぶことで、もっとハイクオリティな小道具を作りたいです。さらに、母校は都会の街中にあるため、体育館と呼べる建物がありません。騒音防止のため窓を閉めた状態で練習を行い、外練習も週に1回しかできませんでした。コロナ禍で全体練習も少なくなってしまったので、思う存分練習ができるような施設を作れる建築士になれたらなと考えています。 文系出身でも楽しめる学び 子どもの頃、建築士だった友人のお父さんから仕事の様子や模型などを見せてもらったり、両親には珍しい建物や美術館などに連れて行ってもらいました。建設に関する興味はずっとあり、将来はものづくりに携わる仕事をしてみたいとぼんやり思い浮かべていましたが、部活動は3年生の3月まであるので、推薦入試やAO入試で受験をすることが必須で、文系科目を中心に学んでいた私は、工業系大学に進学することに不安がありました。ですが、大学のオープンキャンパスや女子高校生のための実習体験授業に参加し、普通科の学生が多く入学していることや、実際に体を動かすことの楽しさから、必死に頑張れば文系でも追いつけるかもしれないと決意を固め、入学しました。 入学して思ったこと…そして決意 実際に授業を受けて感じたことですが、理論的なことを学びながら実習では実寸大の物を作れる。そんな大学は他にないと思うので、ものつくり大学の名前はもっと広まっても良いと思います。将来的にはみんなが当たり前に名前を知っている大学になってほしいです。私のような文系で全く違うことに取り組んできた人でも、一緒に頑張る友達や、優しく教えてくださる先生や先輩方が沢山います。まだ1年生なので、様々なことに好奇心を持ってこれからも勉強していきたいです! 関連リンク 建設学科WEBページ オープンキャンパスページ GRIRLS NOTE WEBページ
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ぼくが旅に出る理由 モバイルハウスで日本一周
ものつくり大学が2010年度から主催している「高校生建設設計競技」の2022年度の課題は「これからのモバイルハウス」です。「モバイルハウス」は、新型コロナウイルスがまん延し、人々の行動が制限されてしまった昨今、3密を避けられることからブームになったアウトドアと共に注目されている、「自由に移動できる家」です。設計ではなく、実際に軽トラックの荷台に居住空間を載せて作ったモバイルハウスで、日本一周に挑戦した学生がいます。渡邊 大也さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年の7月に盛暑の東日本を縦断。その後、9月から10月にかけて西日本を横断しました。渡邊さんは、どうしてモバイルハウスを作ったのか、なぜ日本一周の旅に出たのか、その理由に迫ります。 モバイルハウスを作ったきっかけ 運転免許取得時に、祖父から譲り受けた20年ものの軽トラックの荷台を何かに活かしたかったのが、そもそもの始まりです。最初は、大好きなヒマワリを皆に見てもらうために荷台で育てていましたが、大学1年の2月頃から新型コロナウイルスが拡大し始め、2年生の最初の頃は全ての授業がオンライン授業になりました。そこで、「オンラインならば全国を旅しながらでも授業を受けられるんじゃないか」と思い立ち、モバイルハウスの制作が始まりました。 子供の頃から旅行やキャンプが大好きで、高校生の時に、小口良平さんの「スマイル!笑顔と出会った自転車地球一周157カ国、155,502㎞」という本を読んでから、バックパッカーになるという夢を持っていました。そして、モバイルハウスを作った理由としてもう一つ、「元々、ものを作るのは好きだったけど、大きなものを完成させたことが無かったので、10代最後の挑戦にしたい」という思いがありました。 大学2年の夏からモバイルハウスの制作が始まりました。最初の頃は夢が膨らみすぎて、天井部分に芝生を植える等、完成した今となっては非現実的なアイデアもあり、納得のいくモバイルハウスが完成した時には大学4年生になっていました。 モバイルハウスの図面 制作中のモバイルハウス モバイルハウスのこだわり モバイルハウスは「海と船」をモチーフにして作られています。山梨出身で大学は埼玉。身近に海がない環境で育ったため、海に憧れを抱いていました。 モバイルハウスの助手席側の窓は、実際に船舶に使われている丸窓が入り、運転席側の窓は、旅先で海を眺めることを想定して、白く大きな窓を採用しています。また、屋根の部分は波をモチーフにして木材を加工しています。 制作にあたっては、大学の授業を応用して一人で制作を進めました。作り始めた頃は、モバイルハウスを作って旅に出ようとしている事を友人に話しても、皆から笑われたり、「やめときなよ」を言われました。しかし、完成が近くなってきて、本気さが伝わると、友人たちが最後の仕上げを手伝ってくれました。 旅での経験 完成したモバイルハウスで、いよいよ日本一周の旅に出発します。東日本に1か月、西日本に1か月半ほどの旅でしたが、どこに行くのか事前に計画は立てず、行先を決めるのは前日の夜。 世界遺産検定3級を持っていて、今回の旅には国内の世界遺産を巡るという目的がありました。日本を一周する中で、日本にある25件の世界遺産のうち10件を訪ねました。これで、未訪問の世界遺産は残り4つです。 大浦天主堂(長崎県) 白川郷(岐阜県) 他にも、旅にノルマ的なものを課していて、「建築・グルメ・文化」のうち、2つを堪能したと思えたら、次の場所に移るというものでした。 今回の旅で思い出に残っている場所は、モバイルハウスを作ったら絶対に行きたいと思っていた石川県の千里浜です。千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、一般の自動車やバイクでも砂浜の波打ち際を走れる道路です。海に憧れ、「海と船」をモチーフにしたモバイルハウスを作ったからには、是非とも写真に納めたい場所でした。ちなみに、石川県では、近江町市場の海鮮料理やターバンカレーを堪能して、兼六園や金沢21世紀美術館を訪ねました。 他にも、鹿児島県の桜島も印象に残る旅先でした。山梨で育ったため、山は見慣れていますが、山の形がまるで違っていて、ちょうど噴火していた桜島の雄大さが心に残っています。 旅の最中には、様々な人と出会い、繋がりもできました。特に、広島を旅していた時には、モバイルハウスを作りたいと考えている長崎から来た人に話しかけられ、ちょうど卒業研究用に作っていた資料を渡したことから意気投合しました。「今度、長崎に来る時は案内するよ」と言われたことで、実際に訪ねてみました。 また、千葉を旅している時は、所属する研究室の今井教授から「私の実家に行っていいよ」と連絡があり、実際にお風呂を借り、ご飯をごちそうになりました。 鳥取で台風に遭った時は、体育館に開設された避難所に行きました。避難しているのは一人だけでした。1か月という長い間、1.3畳ほどのモバイルハウスで生活していたため、広い体育館で一人になり、不意に寂しさを覚えました。寝れずにいたら、避難所の管理人の方が話しかけてきてくれて、夜遅くまで旅の話を聞いてくれました。 モバイルハウスの後方に「日本一周」と看板を掲げていたので、行く先々で話しかけてもらいました。長野の道の駅で同じように旅をしている方から素麺をごちそうになったり、途中で寄ったコンビニのオーナーから差し入れをいただいたりした事もあります。追い越していったバイクの方に手を振られる等、人の優しさに触れることができた旅でした。 モバイルハウス後方 長野でいただいた素麺 トラブルも数多くありました。一人旅だから何かあっても、自分で何とかするしかありません。佐賀の山を走っていた時に、エンジンオイルランプが点灯した上にガス欠になりかけていたところ、更にぬかるみでスタックした時は、山中に一人の状況に絶望して思わず叫びそうになりました(笑)。事前に、自動車部の友人から、オイルの入れ方やスタックした時の対処法を教えてもらっていたので何とかなりましたが、本当に怖かったです。 これからのモバイルハウス いつかモバイルハウスで海外に行き、高校生の時に留学していたアメリカのテネシー州まで旅をして、ホストファミリーを驚かせるという野望を持っています。 モバイルハウスで旅をする中で、「モバイルハウスがあれば家はいらない」と考えるようになりました。先日、モバイルハウスを所有している人たちの集まりがありました。夫婦二人と犬一匹でモバイルハウスに暮らしている方と出会い、モバイルハウスの可能性を感じました。軽トラックだと居住空間は狭いですが、1トントラックや2トントラックの荷台であれば、居住空間も広くすることができます。 実は、旅が終わった今も、ほとんどアパートで寝ることはなく、最後にアパートで寝たのはいつか分からないくらい、モバイルハウスか研究室に寝泊まりする日々が続いています。 日本ではモバイルハウスはかなり珍しい車ですが、車幅以内、高さ2.5m以内、350㎏以内であれば、自分の好きなように作れます。荷台に居住空間を荷物として載せているだけなので、特に手続きも必要ありません。制約があるからこそ、作っていて面白いと感じていて、モバイルハウスをもっと広めたいと考えています。 旅とは「生きがい」です。小さい頃から安定が好きではなく、刺激を求めていて、何をしても結局、旅に繋がります。就職先は、全国に支店がある内装工事の会社から内定をもらいましたが、転勤についても全国色々なところで建築に関われるので、今から楽しみです。 関連リンク 第12回ものつくり大学高校生建設設計競技 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) 建設学科WEBページ
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現場体験で感じた林業に魅了されて・・・第二の故郷へ就く
林業の機械化が進んだことで、素材生産や森林調査等で女性が活躍する場が増えています。とはいえ、まだまだ3K(きつい、汚い、危険)のイメージは拭えません。その林業の現場に大きな夢を抱いて挑戦する女子学生がいます。 例えば、京都を代表する銘木「北山杉」。古くから北山林業では女性は重要な役割を担っていました。枝打ちや伐採は男性の仕事ですが、加工作業や運搬、苗木の植え付けは主に女性の仕事でした。では、現代の林業女子には仕事はないのでしょうか。近年は機械化が進むことで伐採等の林業現場へも女性が進出することが期待されています。その林業に挑戦する浅野 零さん(建設学科4年)。153㎝の華奢なカラダからは想像できないバイタリティーの源はなにか、感動のインタビューです。 浅野さんのチャレンジ魂を育てたものは何ですか 高校までものづくりとは縁がなかったです。茨城県の生まれですが、小学校4年から中学卒業まで長野県にある人口850人程の村へ山村留学していました。高校は山口県でした。田舎が好きで、今度は瀬戸内海の島でした。山から海へ、です。高校時代は、アーチェリー部に所属していました。強化指定を受けていたことで、3年生では選手として全国大会へ出場しています。強いてものづくりと縁があるなら、山村留学時に仲間と小屋を作ったことでしょうか。その楽しかった思い出は心のどこかにずっとあって、このエピソードはものつくり大学へ進学する時に大学の方にお話しました。大学からすると、私の志望動機が不思議に思えたようでした。 そもそも母の影響というか、子育て方針というか、兄も同じ村に先に山村留学していて、後にカナダへ海外留学をしました。私は茨城→長野→山口→埼玉と国内を巡っていますが、この度、就職で長野へ戻ります。それも山村留学でお世話になった同じ村に戻ります。何でしょうね、Uターンでもなく、Iターンでもなくて。 大学での4年間もパワフルだったのではないですか もちろん普通高校卒なので、ものづくりを学んだのは入学してからです。木に触れることは好きだったので、最初は木工家具の製作に憧れました。角材を加工する授業は楽しかったけれど、そのうち角材になる前の木自体に興味が湧いてきて、林業を意識するようになりました。 1年の秋に「林業体験」のイベントを探して個人で参加しました。木を切って、加工して、その凄さに憧れました。女性も参加しやすいイベントで、参加したのは大方女性でした。人生で初めてチェンソーを使って、木を切りました。そして、垂直に立てた木の幹に切り込みを入れて燃やし、手軽に焚き火が楽しめるスウェーデントーチでの料理を楽しみました。 これをきっかけに林業界への憧れが強くなり、将来仕事として就きたいと思うようになりました。2年次に実施される大学のインターンシップは、長野県飯山市のNPO法人で木材加工に従事しました。3年次では、進路を林業一本に絞ったため、個人的に様々な企業や現場を見学に行きました。そういう意味では決断も早く、行動力もありましたね。いま思えば大学の授業との両立もうまく対処していたように思います。 自らの進むべき道を見つけるまでに、どんな出会いがありましたか 大学では就活を意識した活動と共に、1年次で建築大工3級、2年次で左官2級、造園3級、3年次で造園2級と、とにかく木に関わる資格を取得していきました。生活全てを木に関わっていきたい思いが強かったです。 実は、高校時代に生活していた山口県の林業会社の方に「この世界、女性ではたいへんだけれど、男性とは違う視点で活躍している方がたくさんいるよ」と言われました。その林業会社の方にはオンラインで頻繁に相談に乗っていただきました。「山口においでよ」と何度もお誘いをいただきました。正直、山口へ移住しようという気持ちにもなりました。同時に長野とも連絡を取っていて、情報収集に努めていました。 林業は、国の重要な施策なので、どちらかと言えば昔ながらの堅苦しいイメージを持っていました。でも、民間の小さな林業会社では、自分の技術やスキルがついたらやりたいことをやらせてもらえるような新しい考え方も生まれてきていることを知りました。長野で林業を起業された社長さんと話していると、ぐいぐい引き込まれていきました。その将来を見据えた魅力たっぷりの内容に感激しました。 そして最終的に長野へ就職を決めたのですか もちろん企業方針を何度も聞いて、性格的に合っているなと思いましたし、私が内定をいただいた会社がある村は、小学生の山村留学でお世話になったところでした。この村は私にとって特別です。住むことができる、仕事をすることができるなら恩返しの気持ちを持って戻りたいと強く思いました。会社も林業としては2021年に法人化されたばかり。不思議な縁を感じて、お世話になった村へ帰ろうと思いました。 林業女子としての不安や期待はありますか 林業は3Kと言われます。きつい、汚い、危険ですね。それに林業の現場に出る女性としての問題は、まずトイレ。いまは自然保護の観点から、以前のような現地で処理するようなことは減ってきています。トイレの設置や、山を下って用を足すこともできます。それから力の強さですね。女性ですので、体力は男性と比べて見劣りします。でも機械化も進み、力の問題も徐々に解決してくれそうです。緑の雇用制度で3年間鍛えることができるので、いまはそれが楽しみでなりません。都会にある林業会社では、近年「かっこいい林業」をスローガンにして新しい「K」が生まれています。期待ということでは、いずれキャンプ場を作るという会社の重点方針があります。いまは力不足ですが、ぜひチャレンジしたいです。 林業を通して、森林と地域との新たな価値を創造する繋ぎになるということですね 日本は平野の少ない森林大国です。木があれば、火を起こせる。火を起こしたら、ごはんも炊ける、お風呂も沸かせる。家も建てられるし、生きていく上でのあらゆる繋がりがあります。花粉問題だって、木を切る人がいれば、むしろ空気の循環を良くしてくれる。林業は大切なんですよね。人間の生活の基盤になっていると思っています。 ですから林業を通して、そこに生活する方たちのほのぼのとした幸福感や満足感を充足したいですし、村おこしといった地域の活性化にも非常に興味があります。 大学では様々な検定試験に挑戦しましたが、授業では学べないところまで教えてもらいました。先生方の技術が素晴らしいので、安心して学べます。私はこうした知識や技能・技術は、いずれどこかの場面で役立つと思っています。自分と仕事、自分と社会を繋ぐ力です。その力がないと新たな価値の創造なんてできないです。 視野が広がり、自分の進むべき道を見つけた大学での4年間。いまは卒業制作に仲間と懸命に取り組んでいます。一般家庭のエントランスと庭づくりです。次のステップへ進むために!!! 関連リンク 建設学科WEBページ
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対面開催は3年ぶり-碧蓮祭実行委員長・副実行委員長が語る、学園祭への思い
2022年10月29日(土)、30日(日)の両日にわたり、対面式では3年ぶりとなる第22回碧蓮祭が開催されました。2020年度、2021年度のオンライン開催を経て碧蓮祭実行委員長に就任した木村晴人さん(建設学科3年)、副委員長の廣田雅人さん(建設学科3年)は、対面式の学園祭を経験していません。そのような中でも、卒業生が繋いできた伝統を絶やすことなく開催した碧蓮祭をどのように感じているのか伺いました。 まずは、今年度のコンセプトについて込めた思いを聞かせてください 【木村】過去2年間で対面式の開催が叶わず、何もわからないまま代替わりをしてしまったので、新体制の実行委員は碧蓮祭そのものを体験したことのないメンバーばかりでした。開催に向けて沢山の壁があるなかで、それをすべて超えたいという気持ちや、自分たちの力で元に戻せたらいいなという意気込みから、「Break Through ~Our Challenge~」というコンセプトにしました。 碧蓮祭実行委員会に所属している後輩にも僕たちの背中を見てもらうことで、次年度以降は、様々な変化にも恐れを抱かず勇気をもって取り組んで欲しいと思っています。 3年ぶりに対面の碧蓮祭を実施するにあたり、例年と変化したところはありますか 【木村】2020年、2021年は新型コロナウイルスの影響でオンライン開催となりました。実行委員の中で企画したイベントをYouTubeに公開しましたが、これは今後の対面開催に向けて、外部の方への認知度を上げるための開催でした。対面開催では、地域の方々にとって、イベントが少ない中でも碧蓮祭を楽しんでいただくことで、地域を活性化できたらなという目的がありました。 碧蓮祭を作り上げていく中で楽しかったことはありましたか 【木村】楽しかったことは、学年を超えて準備ができたことです。開催に向けて先輩方に相談できたり、みんなとステージの製作ができたことは強く心に残っています。あとは、開催当日が一番楽しい時間でした。準備の段階では疲れも重なり、実行委員のほとんどが辛そうな顔をしていましたが、当日になると生き生きとした表情で動いているのを見て、僕自身も元気をもらえました。 【廣田】僕は、様々な人を巻き込んで取り組むことで、最終的に1つの輪ができたことがとても嬉しかったです。正直、あまり大変だったと感じないほど、とても充実した期間だったと思います。しかし、実行委員の人数が不足していることは今後の課題にもなっていきますので、後輩たちにはしっかり勧誘を行ってほしいと伝えました。 大変だったことはありましたか 【木村】 準備の期間、呼びかけてもなかなか人数が集まらず、最終的には有志で協力してくださった先輩もいました。また、報連相や情報共有不足が毎年の課題になっていました。どちらの苦労もまずは資料や言葉で理解してもらおうと考えましたが、うまくいきませんでした。なので、自分自身の熱量とやる気を全面的に出し、休まず毎日準備を進めていたら徐々に協力してくれる人が増えていきました。碧蓮祭実行委員会の垣根を越えて沢山の方々が助けてくれた結果、成功したと思っています。 今後の碧蓮祭について考えていることはありますか 【木村】今年度が開催できたことは、これまでの先輩が繋いでいてくれたからこそ叶ったことなので、後輩たちには毎年当たり前に開催できるとは思わないでほしいです。そして、僕たちが繋いだもの、伝えたことが1人でも多くの後輩に繋げられたらいいなと思います。 また、もっと後輩が活躍できる場を設ける為、2023年2月に節分祭を復活させ、その運営は1、2年生中心で動いてもらう予定です。そこでは、碧蓮祭実行委員会だからといって、碧蓮祭しかできないという訳ではないことを伝えていきたいです。そもそも碧蓮祭実行委員会は、ものつくり大学を盛り上げるという目的でできた組織なので、様々なことにチャレンジしてほしいと思っています。 <節分祭とは>節分の時期に学生や近隣住民を集め、本学の連絡橋から豆やお菓子を配布する行事。地域住民の方との交流を目的としているが、新型コロナウイルスの影響により、2019年度以来開催されていない。 【廣田】基本的なことは引き継ぎますが、その年の色や自分たちのやりたいと感じたことを思う存分発揮してほしいと思います。節分祭自体も、2019年度に卒業した先輩たちで最後になっているため難しいとは思っていますが、そこで誰がどの役職に向いているのか、見守っていきたいです。 【木村】これは僕が碧蓮祭実行委員会に入った理由になるのですが、2020年度の碧蓮祭では、オンラインで「学生施工型アスレチック ~遊具王~」に参加し、自分も運営したいという気持ちがずっと強くありました。2020年度でチームの中心になった先輩の意志を継ぎ、もっとパワーアップした形で開催しようと準備を進めているところです。 <学生施工型アスレチック ~遊具王~とは>2020年度のオンライン碧蓮祭で開催した、設計から施工、競技運営まですべて学生が行うアスレチック型スポーツ大会。全身の筋肉と頭を使いながら、時間内に完走できるか競い合う。動画はこちら → https://youtu.be/5ThpU_DFypc 碧蓮祭を通して成長した部分はありましたか 【木村】所属当初は先輩からの指示を待つ状態でしたが、2年生の中盤から、このままでは次年度開催が難しいのではないかと感じ、組織としてどのように動いていったらいいのかを考えられるようになりました。委員長に就任してからは、部署ごとの進み具合や意見を聞くことで、更に視野が広がりました。 【廣田】副委員長の立場になってからは、一人ひとりの意見を聞けるようになりました。みんなの考えをまとめて、どのように動いたら最善の解決が出来るのか試行錯誤を続けられたことは、大きな成長だと思います。 碧蓮祭実行委員の仕事は大学生活でどのように役立っていますか 【木村】これは後悔になってしまいますが、熱量だけはすごくあるのに技術が追い付かないことがすごく多くて、もっときちんと授業を受けていれば…と思いました。逆に言うと、準備の段階で学んだことが授業できちんとできるようになるということです。碧蓮祭を通して人をまとめる力、履修している授業の基礎などが身に付いたので、先生の言っていることも頭の中にストンと入ってきました。 【廣田】目上の方や外部の方と連絡を取るときの文章能力が身に付きました。これは就職してから当たり前のスキルになっていくので、学生のうちに身に付けられたことは大きな経験だと思っています。 碧蓮祭実行委員の魅力とは何ですか 【木村】正直、かなり大変だとは思いますが、その分人として成長できるし、何よりも自分たちが主催する人生最後の祭を心から楽しめる場所だと思います。個人的には、「夢の叶う場所」ですね。まずは卒業生を含めた歴代の実行委員長と写真を撮ること、これは碧蓮祭で叶いました。また、その先輩たちと一緒に何かを作り上げたい。そして、実行委員会に所属する理由になった遊具王の開催。遊具王は碧蓮祭と同時開催が出来なかったため、節分祭で開催出来たら、全部の夢が叶います。 【廣田】本当に傍から見たら大変だと思います。でも、最終的には楽しくなって、良い経験には絶対なるのではないかなと思います。縦にも横にも輪が広がって、今後の為にもなる。この上ないくらい達成感があります。 最後に一言お願いします! 【木村】碧蓮祭実行委員会に所属しているメンバーや、これから入ろうとしている学生に「安パイと妥協は絶対にするな」と言いたいです。ベストを尽くしたとしても後悔は残ってしまうので、考えられるプランをやりきることが次年度の活力に繋がると思います。個人でも部活でもない「組織」なので決めたことをきちんと貫き、それでも残った反省点を後輩に伝えていくことでもっと大きな組織に成長すると思います。その背中を見て、沢山の人に碧蓮祭実行委員会へ所属してほしいです。 【廣田】僕はまったく逆です。できることとできないことを考えた上で、やりたくても妥協しなくてはいけない時があることを伝えたいです。木村は見ての通りやる気と熱量は誰よりもありますが、時間は有限だし予算や人材にも限りがある。どうしてもやりたいという気持ちも分かりますが、1回立ち止まる判断ができる人が1人はいた方が良いと思います。 【木村】僕らは火と水のようなコンビなので、運営を続ける中でも絶え間なく意見をぶつけ合いました。互いに違った視点を持っているので、とても勉強になるしやりやすかったです。 【廣田】たくさんの学生が碧蓮祭実行委員に入ってくれたら様々な個性が集まるので、恐れることなく是非入って欲しいです。もちろん、1年生でなくても大歓迎です。 関連リンク 碧蓮祭実行委員会WEBサイト