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2024年3月の記事一覧

  • 【埼玉学⑤】「食」のアミューズメント・パーク サイボク

    「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 埼玉学第5回は、埼玉県日高市にある「サイボク」が埼玉に作れられた歴史と背景、そして現在に至るまでの挑戦について触れていきます。 サイボク創立者の夢 埼玉県日高市に位置するサイボクは、食のアミューズメント・パークと呼ぶにふさわしい。その広大な敷地は、東京ドーム2.5個分に相当し、自家製の精肉やハム、ソーセージの直売店、レストラン、地元野菜や花きの販売所、そして天然温泉「花鳥風月」まで備えている。年間約400万人もの人々が訪れ、埼玉のみならず、関東一円にファンを持っている。たいていのガイドブックにもその名は記載されている。そんなサイボクには日本の戦後復興とともに歩んできた歴史が背景にある。 愛らしいマスコットキャラたちもお出迎え。 1946年、埼玉県入間郡高萩村(現在の日高市)にて「埼玉種畜牧場」が開設された。この牧場で、原種豚の育種改良が行われ、美味で安心な豚肉生産の基盤が築かれた。当時、国内には養豚学科を有する大学や農業高校がなく、創業者・笹﨑龍雄は、獅子奮迅の努力によってこの地に牧場を開いた。そんな笹﨑龍雄は、1916年、長野県の農家の8人兄妹の次男として生まれている。幼い頃から牛・馬・豚等の家畜に囲まれて育ち、中でも豚の飼育係を担当した笹﨑は、その魅力に夢中になり、いつしか「獣医」を志すようになる。しかし、8人兄妹を賄う家計は決して豊かでなく、一念発起して超難関の陸軍依託学生として東京帝国大学農学部実科(現・東京農工大学)を受験し合格する。卒業した1941年、日米開戦と同時に陸軍の獣医部将校として旧満州とフィリピンの戦地に派遣された。1945年日本が敗戦を迎えると、物資不足と食糧難を目の当たりにした笹﨑は、「食」で日本の復興に寄与しようとした。笹﨑の夢と情熱がサイボクを築き上げた。 自慢のソーセージ。 店舗の様子。 なぜ埼玉か 長野県生まれの笹﨑龍雄はなぜ埼玉に目を付けたのか。理由はいくつか考えられるが、一つ挙げるなら、埼玉の農業と深い関係がある。埼玉は何よりさつまいもと麦の生産地であった。埼玉においては、さつまいもは「主食」と言ってよかった。その地下で育つさつまいもは人間の飢えを満たし、地上で育つ葉や茎は、豚にとって良好な飼料となった。食の中心であった麦は、明治から昭和30年代中頃にかけて4種の麦を中心に生産されていた。戦前には小麦、六条大麦、二条大麦、はだか麦を合わせた4麦の生産が全国一を占めていた時期もあったが、それもまた養豚にとって恵まれた飼料の補給を可能にした。その歴史的背景を遡れば、「麦翁(ばくおう)」と呼ばれた権田愛三の存在が浮かび上がってくる。1850年に埼玉県北部の東別府村(現在の熊谷市)に生まれた権田は、一生を農業の改良に捧げた。中でも麦の栽培方法に関して功績を残し、麦の収量を4~5倍も増加させる多収栽培方法を開発したとされている。後にはその集大成ともいえる「実験麦作栽培改良法」を無償で配布、県内はもとより日本全国への技術普及に尽力した食のイノベーターだった。このような豊かな農業生産地・埼玉の「地の利」を背景に、笹﨑は養豚のイノベーションに着手していった。1931年に開通した八高線によって、豚や飼料等の運搬が容易になったこともそこに加えられるべきだろう。 埼玉の精神にふれる サイボクは現状に甘んずることなく、新しい挑戦を追求してきた。1975年には、日高牧場内に日本初の養豚家が直接販売するミートショップが開店し、その後も施設の拡大や改善が続けられた。1997年にはオランダで開催された「国際ハム・ソーセージ競技会」に初出品し、多くの賞を受賞した。さらに、2002年、周囲の猛反対を押し切り温泉堀削を試み、驚くほどの量の良質な温泉を発見した。それをきっかけに、温泉施設の建設が始まり、21世紀型の「食と健康の理想郷」をめざす施設として整備された。 今回話を聞かせてくださった現会長・笹﨑静雄氏と。 サイボクのレストランの裏手には、広大な緑の芝生と森が広がる「サイボクの森」がある。「緑の空間と空気は人々の心を癒すもとになる」「一日30~60分の日光浴は骨を丈夫にする」「子どもの近眼の主因である、屋外での遊びの欠如と日光浴不足を解消するためのこのようなアスレチック施設や、大人のための散策路やくつろぎのスペースを準備しよう」。サイボクの森は、女性スタッフ中心の発想で実現した。三世代の家族が遊べる空間として計画され、コロナ後はとりわけ得がたい憩いの場になっている。現会長・笹﨑静雄氏は、父・龍雄の存命時、豚が不調に見舞われた時の対処のし方を聞きに行くと、そのたびに「豚は何て言っていたんだ」と問い返されたと言う。「わかりません」と答えると、「豚舎に寝ないとわからないだろうな」と言われたと振り返っている。現在のサイボクの活動はすべて豚とお客さんが教えてくれたことを愚直に実践してきた結果と笹﨑氏は語る。現在のサイボクの歴史は、対話の歴史だった。客と対話し、自然と対話し、地域住民と対話し、何より豚と対話する。相手の言うことに耳を傾け、次に何が求められるかを模索する。これは郷土の偉人・渋澤栄一が事業を始めるときにこだわった方法でもある。サイボクは食のアミューズメント・パークにとどまらず、埼玉の「埼玉らしさ」にふれられるイノベーションの宝庫である。ぜひ一度訪れ、味わい、体感してみてください。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-古代のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口・【埼玉学③】秩父-巡礼の道・【埼玉学④】『翔んで埼玉-琵琶湖より愛をこめて』を公開当日に観に行くということ・教養教育センターWEBページ

  • 【大学院生による研究紹介】途上国の災害における居住空間の変化に関する研究

    2018年9月28日にインドネシア・スラウェシ島で発生したマグニチュード7.5の地震により、近傍の都市は死者・行方不明者4,547人、家屋損壊100,405という甚大な被害を受けました。浦上龍兵さん(大学院2年・今井研究室)は、復興が進むインドネシア中部スラウェシ州に赴き、災害復興住宅の住環境の分析を行いました。 研究のきっかけ 私が所属している研究室の今井教授は、海外の被災地の復興について研究や実験を行っています。学部生の頃に、今井教授からインドネシア・スラウェシ島地震の被害状況を教えていただき、復興の仕方についてお話を聞くことが度々ありました。今井教授のお話を聞くうちに災害復興について興味を持ち、研究したいと思い大学院への進学を決めました。当初、大地震が発生した2018年にインドネシアでの調査を実施する予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、2022年に実現することになりました。今井教授に本学と千葉大学の合同調査メンバーに選んでいただいて、私がメインで被災地の住環境について調査を行い、論文を発表することになりました。 現地での調査 インドネシアには、2022年9月に10日間行きました。地震の発生から2年が経った現地は、被害が大きかった村でもNGOの活動により復興住宅の建築が進んでいました。しかし、沿岸部は津波によって地盤沈下が起こり集団移転している村もあり、そういったところはまだ瓦礫が散乱していました。私たちは、NGOの方に被害の大きかった村を6か所案内していただいて、その中からランダムに住民を選んでもらい、その住民のご自宅でアンケート調査を行いながら、並行して復興住宅の実測調査を行いました。現地の方たちは明るい人が多くて気さくに話しかけられることが度々ありました。コミュニケーションを取るために翻訳アプリを使っていましたが、見ず知らずの日本人に対して、「この村にヒーローが来た」と言ってくれました。私たちが何か変えられるわけではありませんが期待していただいて、住宅に入る時もウェルカムな対応をしていただきました。 調査に協力いただいた家族と(前列左が浦上さん) 住民の方たちのアンケート調査では、復興住宅の満足度を質問したのですが、「良い環境に住ませてもらっている」という回答が多く、復興は順調に進んでいるという印象を受けました。住環境に関するアンケートは各項目を地震前、避難期間中、復興住宅の3つのフェーズに分けて質問しています。アンケートの内容は、それぞれの時期の家族構成や、誰が住宅を建てたか、水回りの変化、地震前と復興住宅の家の広さ、住宅の満足度など基本的には生活に関することを聞いています。 アンケート調査の様子 復興住宅というと、日本ではプレハブ住宅のような一時的な避難先という印象がありますが、インドネシアでは永住することを前提とした家を建てています。インドネシアは、「ノンエンジニアド住宅」と呼ばれる専門的な知識を持たない人が施工した住宅が多くあります。ノンエンジニアド住宅が地震で崩れることにより被害が大きくなることが問題視されていました。そのため、NGOの方が「コアハウス」という頑丈な家を建てることで、また大地震が発生しても被害を抑えることができます。この復興住宅は建築当初は、リビングや寝室などの最低限の住居スペースしか確保されていません。他に必要なキッチンやトイレなどのスペースは住民が各自で増築を行います。せっかく頑丈な家を建てたのに、ノンエンジニアドが増築したらまた災害時に被害が大きくなってしまうのではないかと思うかもしれません。しかし、復興住宅は被災者に最低限の身を守れる場所を提供することが目的で、増築されることが前提の住宅です。支援金には限りがあるので最低限の耐久性がある住宅を提供しています。復興住宅は、3人家族であっても10人家族であっても同じ広さの住居が提供されます。そのため、実測調査は家族構成によってどの程度の面積を増築したか、どういう用途のスペースを増築したのか明らかにすることを目的に行いました。 復興住宅が立ち並ぶ村の様子 調査結果からの提案 今回の研究は、住宅の耐震性ではなく、住民の生活水準や満足度を調査するものです。アンケートを行った住民からの意見をまとめ、安心感や快適さ、住宅の満足度を明らかにしようと思いました。アンケートの結果から、現在の生活が地震前よりも安心や安全を感じているということが分かりました。地震前の住宅はインフラが整っていなくで川に洗濯に行っていたのが、復興と同時にインフラの整備が進み、水道や電気が使えるようになり生活水準が地震前より上がっている影響も考えられます。調査をした村の中で特に満足度が低い村がありました。その村は復興が進んでいますが、被害が大きかった他の村から多くの人が転入してきていました。その影響で元々の住民たちの安心感や安全に関する項目が大きく低下していました。原因は、他の村にはある「コミュニティスペース」という村の人たちの交流の場になる施設が無く、転入者とのコミュニケーションが取れていないことだと考察しました。村が集団移転して3年経ってもコミュニティスペースが無いということは、これから建設される可能性は低い。そこで私は、村の土地性に合ったにコミュニティスペースを建設して住民の不安を取り除くことを提案しようと思いました。コミュニティスペースは、復興住宅のスケールを考慮します。正面5メートル、奥行き6メートルの空間を中心に置き、周りに用途を付け足していきます。中心部は、屋根はかかっていますが基本的に屋外で、開放的なスペースで住民同士がコミュニケーションを行うことを想定しています。 他の村のコミュニティでの一幕 コミュニティの設計は、復興のシンボルになっている「大きなクロス型」をコンセプトにしています。復興住宅の壁には大きなクロス型があしらわれているのですが、このデザインについて37%の人が満足していたからです。復興住宅は、ジャケッティング構法と呼ばれている組積造というレンガブロックを積み上げて壁を作っています。これはインドネシアの伝統的な構法ですが、耐震性が低く地震の時に崩れてしまうため壁にワイヤーメッシュを貼り、その上からモルタルで仕上げています。その金属のメッシュがクロスの形をして浮き出ています。その壁を住民たちが好きな色に塗って仕上げています。 玄関横の大きなクロスは復興のシンボルになっている。 私の設計は、あくまで修士論文の範囲で行うものでインドネシアの村に必ず建設されるというものではありません。2024年に行われる WCEE(世界地震工学会議)にて今井教授に発表していただく予定です。今後、後輩が研究を引き継いで、いつか村にコミュニティスペースが建設されることを願っています。 関連リンク ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室)・ものつくり学研究科WEBページ

  • 【知・技の創造】インフラ構造物更新技術

    近年は公共構造物の更新や補修補強時代のニーズに即した研究開発を行っています。橋梁(きょうりょう)等のインフラ構造物は、その約半数が建設後50年以上を経過し老朽化しています。これらの構造物をいかに再生させるか、あるいは更新させるかが喫緊の課題です。 本学には、画像の3000kNの万能試験機があり、これを使って新材料や新技術を用いた補修・補強や更新に必要な工法の共同研究をしています。 万能試験機 鋼部材の補修・補強 橋梁等の鋼部材の腐食劣化部や耐震耐荷力不足等の部位に炭素繊維強化ポリマー(以下、CFRP)で補強する技術開発をNEXCO総合技術研究所や材料メーカーと共同研究をしています。この技術はCFRPシートを含浸接着して必要枚数積層するものですが、鋼材とCFRPシートの間に高伸度弾性パテ材を挿入する世界的にも新しい技術です。最近では、CFRP成形部材を使えるように工夫しています。これらの技術は鋼桁橋、トラス橋、鋼床版橋に適用されてきていますが、今後、煙突、タンク、水圧鉄管等に用途拡大が期待できます。 FRP歩道橋 浦添大公園歩道橋(沖縄県浦添市) 塩害地域の対策で注目されているFRPを用いた歩道橋が注目されています。2019年に真空含浸法により製作したGFRP積層成形材を、集成接着した箱桁歩道橋が沖縄県浦添市に建設されました。本橋は橋長18.5mです。今後、さらなる支間長増大に対応すべく、現場接合構造の研究を行いました。また、木製歩道橋をFRPで補強する工法についても、県内自治体と共同で今後事業展開を図ります。 弾性合成桁 古くから施工されている橋梁の多くは、鋼桁の上に鉄筋コンクリート床版を固定した構造形式です。近年、NEXCOをはじめ関係各所で大規模更新事業として劣化した床版の取替えを行っています。この更新後において、床版と鋼桁を完全固定と考える合成桁設計法と、両者を重ねただけの非合成設計法がありますが、その中間的な考えである弾性合成桁の研究を行っています。この設計法を用いれば、合成桁の利点を取り入れつつ、両者の接合方法を合理化することができ、品質の良いプレキャスト床版の採用が容易になります。画像は本学で実施した弾性合成桁の載荷実験の様子です。 弾性合成桁の載荷実験の様子 まとめ 大規模更新時代を迎え、上述の新材料や新技術を用いた工法で、インフラ構造物の安全・安心に繋がる研究開発を続けています。また、埼玉橋梁メンテナンス研究会の活動にも参加し、埼玉大学、埼玉県、国土交通省大宮国道事務所、ならびに埼玉建設コンサルタント技術研修協会の方々と連携して、このような新技術の紹介を行っています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2024年3月8日号)掲載 profile 大垣 賀津雄(おおがき かづお)建設学科教授 大阪市立大学前期博士課程修了。博士(工学)。技術士(建設部門、総合技術監理部門)。川崎重工業を経て、2015年よりものつくり大学教授。専門分野は橋梁、鋼構造、複合構造、維持管理。 関連リンク ・橋梁・構造研究室(大垣研究室)・建設学科WEBページ

  • 偶然を必然に ~6年間の集大成は自宅兼カフェの自主設計で行田まちなかの活性化に~

    行田市内に自宅兼店舗のカフェを自ら設計し、行田まちなか再生エリアプラットフォームに携わっている栗原里奈さん(大学院2年・今井研究室)。修士論文のテーマは「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」。ものつくり大学での学生生活の中で、偶然を確かな自身のスキルアップにつなげている栗原さんに6年間の歩みをインタビューしました。 実習の多さと充実した設備が進学の決め手に 大学の進路選択に悩んでいる時、たまたま見たテレビ番組で、ものつくり大学のことが紹介されていました。ものづくりが好きでペーパークラフトや料理など何でも作っていたので、実習が多い大学だと知り興味を持ちました。福岡県出身ですが、実際大学を見学したいと思ったので、オープンキャンパスに参加しました。「ものつくり大学はとても設備が充実していて、今まで見学してきた他の大学とは違う」という印象を受けました。 ただ、福岡から埼玉県行田市までの距離があまりに遠かったので「行田に来ることは一生ない」と正直その時は思いました。しかし、福岡に戻りよく考え、他大学とも比較した結果、ものつくり大学一本に絞ることを決め、指定校推薦で進学しました。 自分の設計でコンクリートの家のオブジェが 自分で想像したものを自由に設計してみるのが好きだったので、2年生では、建設学科の建築デザインコースに進みました。コンクリートのオブジェをつくる授業があり、私が設計したものがチームの中で選ばれました。コンクリートのように机上に収まらないものを作れるのは本学だからこそ可能なことだと思います。実際、自分の設計による家の形をしたオブジェが完成した時はとても嬉しかったです。 インターンシップでは将来は住宅等の設計がやりたかったので、設計事務所に行くことを決めていました。事務所選びに迷いましたが、小さい事務所の雰囲気を味わいたいと思い、3人で運営している川口市の事務所にお世話になりました。実務につながるさまざまなことを学ぶことができ「建物の中でも住宅を設計したい」という思いがさらに強くなりました。 コロナ禍でリアルな先輩の卒業制作に携わることに 3年生(2020年)の頃はコロナ禍で、福岡の実家でオンライン授業を2、3カ月受けていました。今井研究室に所属しましたが、キャンパスに戻ると同研究室の先輩が卒業研究として熊谷まちなか再生エリアプラットフォームに関わり、熊谷まちなか再生未来ビジョン策定に向けたプロジェクトを行っていることを知りました。地域の課題解決に向けた取り組みである国土交通省のプロジェクトの一環で、官民学連携のまちなか再生推進事業として、ものつくり大学も立正大学、千葉大学などに加わり、熊谷市、地元企業、団体と一緒にコロナ禍でも定例会を行っているとのことでした。オンライン授業で福岡にいた私はリアルに活動している先輩の姿を目の当たりにし、温度差を感じました。今井先生からプロジェクトの協力に誘われたのを機に「全然分からないけど、何でもやってみよう」と思い、友人と一緒に携わることにしました。 卒論と同時進行で挑んだプロジェクト 4年次の進路選択は、兄が大学院に進んでいたり、熊谷のプロジェクトにも関わり続けたりしたかったので大学院進学を決めました。早い段階で進学が決まっていたこともあり、修士論文を書く勉強にもなると考え、卒業論文に挑戦しました。ル・コルビュジエによるロンシャンの礼拝堂を研究のテーマにして「窓から入る光が内部にどう影響を与えるか」といった問いを立て、夏と冬の太陽の角度の違いについて論じました。建物の窓の位置が及ぼす影響や論文の書き方を学ぶことで、大学院に進む準備ができました。 卒業論文と同時並行して熊谷でのプロジェクトに協力していました。アットホームな雰囲気で学生の意見を尊重してくれる環境で「何でも1回言ってみる」というスタンスが次第に育ち、いろいろ挑戦ができました。実際、星川沿いで行われる星川夜市に参加し、星川きらきらプロジェクトを実施し、光るカプセルなどを星川に浮かべるイベントをしたり、YATAIプロジェクトを実施し、折りたたんでコンパクトに移動できる屋台製作や活用をしたりしました。 星川夜市に参加する栗原さん(左) 熊谷まちなか再生エリアプラットフォームには大学3年生から大学院1年生(2020年度~2022年度)の3年間関わり、アイデアや意見を形にする経験ができました。 プロジェクトの成果物を発表した栗原さん(右から2人目) 行田まちなか再生プロジェクトに自身の経験を活かしたい 熊谷でのプロジェクト終了後、千葉大学や他の方から「行田市は歴史や文化、自然など豊富な資源を活用して、今抱える地域課題を解決できるのでは」という提案があり、行田まちなか再生エリアプラットフォームが立ち上がりました。ものつくり大学や商工団体、NPO法人などが中心に官民学連携で協力して、キックオフミーティングが2023年3月に行われ、2023年4月にスタートしました。私も「行田は観光名所があったり、テレビドラマの舞台になったり魅力的な街だ」と感じていたのと、「熊谷のプロジェクトに関わってきた経験を活かせるのでは」と参加することにしました。行田市は足袋産業がかつて盛んだったこともあり、「足袋」と「旅」を掛けて「たび・あるくが楽しい街、住む人々の豊かな暮らしの実現」を目指し、行田まちなか未来ビジョン策定に向けて動き出しました。 行田まちなか再生エリアプラットフォームのミーティング 行田の商店街に自宅兼店舗のカフェを自主設計することに 実は、キックオフミーティングと同時期、行田市内に自宅を建てることが決まっていました。私は大学進学に伴い、福岡から埼玉に来ましたが、兄の結婚を機に2年前、両親も埼玉に移住し、現在一緒に上尾の借家に住んでいます。父には以前から「カフェをやりたい」という夢があり、たまたま行田市の商店街にちょうどいい物件があったため、土地を購入し、自宅兼店舗のカフェを建てることになりました。大学進学をきっかけに埼玉に来て、行田市の大学で学んできたのですが、まさか自分がこの地に住むことになるとは想像もしていませんでした。 今井先生に経緯を話すと「自宅兼店舗のカフェを自主設計してみては」と勧められました。ものづくりが好きで、様々な実習を設備の充実した大学で行い、インターンシップも設計事務所に行き、設計の面白さや楽しさを経験してきた大学生活でもありました。行田まちなか未来ビジョン策定にも関わることになったので、「行田まちなか」にカフェを自主設計することで中心市街地活性化につなげたいと考えました。そして、本学での6年間の学びの集大成として「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」を修士論文の研究テーマにすることにしました。 自宅兼店舗のカフェを自主設計する過程で直面した課題とやりがい 自宅兼店舗のカフェの設計を私が自らすることを両親に伝えると、特に父はとても喜んでくれました。自主設計に際し、今井先生の知り合いの工務店が施工を請け負ってくださることになりました。2023年3月から設計の案を考えたのですが、行田市は蔵の街でもあるので「蔵の街並みに合う、まちなかの交流の場としてのカフェの設計」をコンセプトに決めました。現代風の蔵の外観にし、周囲の景観に馴染むような設計にしました。 自宅兼店舗の立面図 先ず直面した課題は限られた予算や坪数の中で、いかに両親の希望に沿った建築設計にするかということでした。2階建ての建物の1階はカフェの店舗に、2階は自宅にといった構想の下、様々な案を練りました。なかなか前に進めない時は今井先生からアドバイスをいただいたことで新たな視点を入れて設計に取り組むことができました、5カ月間構想を練り、繰り返し設計図を書き直し、2023年の夏頃に設計図が完成しました。自主設計したものが実際の建物になっていくのを目にし、達成感を感じています。両親の思いを大切にして自宅兼店舗のカフェを自主設計するやりがいや喜びを体感できたのは、本学での学びや実践があったからこそ叶ったことです。 建築中の店舗兼自宅 行田まちなか未来ビジョン策定に向けた研究を活かしたい 2023年3月から関わっている行田まちなか未来ビジョン策定に向けての行田まちなか再生エリアプラットフォーム。2023年4月から毎月1回まちづくりミュージアムにて定例会を開催したり、講師の先生をお呼びし「行田まちなか再生エリアプラットフォーム・フォーラム」を現時点で3回開催したりして、率先して運営に関わっていますが、なかなか学生の意見が反映されないもどかしさを抱えています。まだ構築段階にあり、1年目なので難しさを感じるのは当然ともいえます。定例会で参加者の発言を記録したり、フォーラム開催時にはアンケートも取ってまとめたりしているのですが、時間がかかり根気もいります。しかし、こういった地道な活動を通し、参加者の声を聞くことで、様々な課題が見えて情報共有もできます。実際少しずつプラットフォームの構築に関わる団体や個人も増えていて、これからが正念場と感じています。 行田市について、正直まだ知らないことが多く、明確にイメージが湧いていないのが実感としてあります。1年間関わってきた中だけでは分からない魅力があるとも思います。修士論文では「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」を研究してきたので、「あるくステーションの設計提案」を通して中心市街地活性化につなげられるように今後もものつくり大学の卒業生としてプロジェクトに関わりたいです。 卒業後は都内の内装系の会社に就職し、店舗の設計から施工の仕事に携わることになりますが、地元になる「行田まちなか」の父のカフェに市内外から歩いて来てくださる人たちとの交流を深められたら嬉しいです。 関連リンク ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) ・ものつくり学研究科WEBページ

  • 【埼玉学⑤】「食」のアミューズメント・パーク サイボク

    「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 埼玉学第5回は、埼玉県日高市にある「サイボク」が埼玉に作れられた歴史と背景、そして現在に至るまでの挑戦について触れていきます。 サイボク創立者の夢 埼玉県日高市に位置するサイボクは、食のアミューズメント・パークと呼ぶにふさわしい。その広大な敷地は、東京ドーム2.5個分に相当し、自家製の精肉やハム、ソーセージの直売店、レストラン、地元野菜や花きの販売所、そして天然温泉「花鳥風月」まで備えている。年間約400万人もの人々が訪れ、埼玉のみならず、関東一円にファンを持っている。たいていのガイドブックにもその名は記載されている。そんなサイボクには日本の戦後復興とともに歩んできた歴史が背景にある。 愛らしいマスコットキャラたちもお出迎え。 1946年、埼玉県入間郡高萩村(現在の日高市)にて「埼玉種畜牧場」が開設された。この牧場で、原種豚の育種改良が行われ、美味で安心な豚肉生産の基盤が築かれた。当時、国内には養豚学科を有する大学や農業高校がなく、創業者・笹﨑龍雄は、獅子奮迅の努力によってこの地に牧場を開いた。そんな笹﨑龍雄は、1916年、長野県の農家の8人兄妹の次男として生まれている。幼い頃から牛・馬・豚等の家畜に囲まれて育ち、中でも豚の飼育係を担当した笹﨑は、その魅力に夢中になり、いつしか「獣医」を志すようになる。しかし、8人兄妹を賄う家計は決して豊かでなく、一念発起して超難関の陸軍依託学生として東京帝国大学農学部実科(現・東京農工大学)を受験し合格する。卒業した1941年、日米開戦と同時に陸軍の獣医部将校として旧満州とフィリピンの戦地に派遣された。1945年日本が敗戦を迎えると、物資不足と食糧難を目の当たりにした笹﨑は、「食」で日本の復興に寄与しようとした。笹﨑の夢と情熱がサイボクを築き上げた。 自慢のソーセージ。 店舗の様子。 なぜ埼玉か 長野県生まれの笹﨑龍雄はなぜ埼玉に目を付けたのか。理由はいくつか考えられるが、一つ挙げるなら、埼玉の農業と深い関係がある。埼玉は何よりさつまいもと麦の生産地であった。埼玉においては、さつまいもは「主食」と言ってよかった。その地下で育つさつまいもは人間の飢えを満たし、地上で育つ葉や茎は、豚にとって良好な飼料となった。食の中心であった麦は、明治から昭和30年代中頃にかけて4種の麦を中心に生産されていた。戦前には小麦、六条大麦、二条大麦、はだか麦を合わせた4麦の生産が全国一を占めていた時期もあったが、それもまた養豚にとって恵まれた飼料の補給を可能にした。その歴史的背景を遡れば、「麦翁(ばくおう)」と呼ばれた権田愛三の存在が浮かび上がってくる。1850年に埼玉県北部の東別府村(現在の熊谷市)に生まれた権田は、一生を農業の改良に捧げた。中でも麦の栽培方法に関して功績を残し、麦の収量を4~5倍も増加させる多収栽培方法を開発したとされている。後にはその集大成ともいえる「実験麦作栽培改良法」を無償で配布、県内はもとより日本全国への技術普及に尽力した食のイノベーターだった。このような豊かな農業生産地・埼玉の「地の利」を背景に、笹﨑は養豚のイノベーションに着手していった。1931年に開通した八高線によって、豚や飼料等の運搬が容易になったこともそこに加えられるべきだろう。 埼玉の精神にふれる サイボクは現状に甘んずることなく、新しい挑戦を追求してきた。1975年には、日高牧場内に日本初の養豚家が直接販売するミートショップが開店し、その後も施設の拡大や改善が続けられた。1997年にはオランダで開催された「国際ハム・ソーセージ競技会」に初出品し、多くの賞を受賞した。さらに、2002年、周囲の猛反対を押し切り温泉堀削を試み、驚くほどの量の良質な温泉を発見した。それをきっかけに、温泉施設の建設が始まり、21世紀型の「食と健康の理想郷」をめざす施設として整備された。 今回話を聞かせてくださった現会長・笹﨑静雄氏と。 サイボクのレストランの裏手には、広大な緑の芝生と森が広がる「サイボクの森」がある。「緑の空間と空気は人々の心を癒すもとになる」「一日30~60分の日光浴は骨を丈夫にする」「子どもの近眼の主因である、屋外での遊びの欠如と日光浴不足を解消するためのこのようなアスレチック施設や、大人のための散策路やくつろぎのスペースを準備しよう」。サイボクの森は、女性スタッフ中心の発想で実現した。三世代の家族が遊べる空間として計画され、コロナ後はとりわけ得がたい憩いの場になっている。現会長・笹﨑静雄氏は、父・龍雄の存命時、豚が不調に見舞われた時の対処のし方を聞きに行くと、そのたびに「豚は何て言っていたんだ」と問い返されたと言う。「わかりません」と答えると、「豚舎に寝ないとわからないだろうな」と言われたと振り返っている。現在のサイボクの活動はすべて豚とお客さんが教えてくれたことを愚直に実践してきた結果と笹﨑氏は語る。現在のサイボクの歴史は、対話の歴史だった。客と対話し、自然と対話し、地域住民と対話し、何より豚と対話する。相手の言うことに耳を傾け、次に何が求められるかを模索する。これは郷土の偉人・渋澤栄一が事業を始めるときにこだわった方法でもある。サイボクは食のアミューズメント・パークにとどまらず、埼玉の「埼玉らしさ」にふれられるイノベーションの宝庫である。ぜひ一度訪れ、味わい、体感してみてください。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-古代のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口・【埼玉学③】秩父-巡礼の道・【埼玉学④】『翔んで埼玉-琵琶湖より愛をこめて』を公開当日に観に行くということ・教養教育センターWEBページ

  • 【大学院生による研究紹介】途上国の災害における居住空間の変化に関する研究

    2018年9月28日にインドネシア・スラウェシ島で発生したマグニチュード7.5の地震により、近傍の都市は死者・行方不明者4,547人、家屋損壊100,405という甚大な被害を受けました。浦上龍兵さん(大学院2年・今井研究室)は、復興が進むインドネシア中部スラウェシ州に赴き、災害復興住宅の住環境の分析を行いました。 研究のきっかけ 私が所属している研究室の今井教授は、海外の被災地の復興について研究や実験を行っています。学部生の頃に、今井教授からインドネシア・スラウェシ島地震の被害状況を教えていただき、復興の仕方についてお話を聞くことが度々ありました。今井教授のお話を聞くうちに災害復興について興味を持ち、研究したいと思い大学院への進学を決めました。当初、大地震が発生した2018年にインドネシアでの調査を実施する予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で延期になり、2022年に実現することになりました。今井教授に本学と千葉大学の合同調査メンバーに選んでいただいて、私がメインで被災地の住環境について調査を行い、論文を発表することになりました。 現地での調査 インドネシアには、2022年9月に10日間行きました。地震の発生から2年が経った現地は、被害が大きかった村でもNGOの活動により復興住宅の建築が進んでいました。しかし、沿岸部は津波によって地盤沈下が起こり集団移転している村もあり、そういったところはまだ瓦礫が散乱していました。私たちは、NGOの方に被害の大きかった村を6か所案内していただいて、その中からランダムに住民を選んでもらい、その住民のご自宅でアンケート調査を行いながら、並行して復興住宅の実測調査を行いました。現地の方たちは明るい人が多くて気さくに話しかけられることが度々ありました。コミュニケーションを取るために翻訳アプリを使っていましたが、見ず知らずの日本人に対して、「この村にヒーローが来た」と言ってくれました。私たちが何か変えられるわけではありませんが期待していただいて、住宅に入る時もウェルカムな対応をしていただきました。 調査に協力いただいた家族と(前列左が浦上さん) 住民の方たちのアンケート調査では、復興住宅の満足度を質問したのですが、「良い環境に住ませてもらっている」という回答が多く、復興は順調に進んでいるという印象を受けました。住環境に関するアンケートは各項目を地震前、避難期間中、復興住宅の3つのフェーズに分けて質問しています。アンケートの内容は、それぞれの時期の家族構成や、誰が住宅を建てたか、水回りの変化、地震前と復興住宅の家の広さ、住宅の満足度など基本的には生活に関することを聞いています。 アンケート調査の様子 復興住宅というと、日本ではプレハブ住宅のような一時的な避難先という印象がありますが、インドネシアでは永住することを前提とした家を建てています。インドネシアは、「ノンエンジニアド住宅」と呼ばれる専門的な知識を持たない人が施工した住宅が多くあります。ノンエンジニアド住宅が地震で崩れることにより被害が大きくなることが問題視されていました。そのため、NGOの方が「コアハウス」という頑丈な家を建てることで、また大地震が発生しても被害を抑えることができます。この復興住宅は建築当初は、リビングや寝室などの最低限の住居スペースしか確保されていません。他に必要なキッチンやトイレなどのスペースは住民が各自で増築を行います。せっかく頑丈な家を建てたのに、ノンエンジニアドが増築したらまた災害時に被害が大きくなってしまうのではないかと思うかもしれません。しかし、復興住宅は被災者に最低限の身を守れる場所を提供することが目的で、増築されることが前提の住宅です。支援金には限りがあるので最低限の耐久性がある住宅を提供しています。復興住宅は、3人家族であっても10人家族であっても同じ広さの住居が提供されます。そのため、実測調査は家族構成によってどの程度の面積を増築したか、どういう用途のスペースを増築したのか明らかにすることを目的に行いました。 復興住宅が立ち並ぶ村の様子 調査結果からの提案 今回の研究は、住宅の耐震性ではなく、住民の生活水準や満足度を調査するものです。アンケートを行った住民からの意見をまとめ、安心感や快適さ、住宅の満足度を明らかにしようと思いました。アンケートの結果から、現在の生活が地震前よりも安心や安全を感じているということが分かりました。地震前の住宅はインフラが整っていなくで川に洗濯に行っていたのが、復興と同時にインフラの整備が進み、水道や電気が使えるようになり生活水準が地震前より上がっている影響も考えられます。調査をした村の中で特に満足度が低い村がありました。その村は復興が進んでいますが、被害が大きかった他の村から多くの人が転入してきていました。その影響で元々の住民たちの安心感や安全に関する項目が大きく低下していました。原因は、他の村にはある「コミュニティスペース」という村の人たちの交流の場になる施設が無く、転入者とのコミュニケーションが取れていないことだと考察しました。村が集団移転して3年経ってもコミュニティスペースが無いということは、これから建設される可能性は低い。そこで私は、村の土地性に合ったにコミュニティスペースを建設して住民の不安を取り除くことを提案しようと思いました。コミュニティスペースは、復興住宅のスケールを考慮します。正面5メートル、奥行き6メートルの空間を中心に置き、周りに用途を付け足していきます。中心部は、屋根はかかっていますが基本的に屋外で、開放的なスペースで住民同士がコミュニケーションを行うことを想定しています。 他の村のコミュニティでの一幕 コミュニティの設計は、復興のシンボルになっている「大きなクロス型」をコンセプトにしています。復興住宅の壁には大きなクロス型があしらわれているのですが、このデザインについて37%の人が満足していたからです。復興住宅は、ジャケッティング構法と呼ばれている組積造というレンガブロックを積み上げて壁を作っています。これはインドネシアの伝統的な構法ですが、耐震性が低く地震の時に崩れてしまうため壁にワイヤーメッシュを貼り、その上からモルタルで仕上げています。その金属のメッシュがクロスの形をして浮き出ています。その壁を住民たちが好きな色に塗って仕上げています。 玄関横の大きなクロスは復興のシンボルになっている。 私の設計は、あくまで修士論文の範囲で行うものでインドネシアの村に必ず建設されるというものではありません。2024年に行われる WCEE(世界地震工学会議)にて今井教授に発表していただく予定です。今後、後輩が研究を引き継いで、いつか村にコミュニティスペースが建設されることを願っています。 関連リンク ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室)・ものつくり学研究科WEBページ

  • 【知・技の創造】インフラ構造物更新技術

    近年は公共構造物の更新や補修補強時代のニーズに即した研究開発を行っています。橋梁(きょうりょう)等のインフラ構造物は、その約半数が建設後50年以上を経過し老朽化しています。これらの構造物をいかに再生させるか、あるいは更新させるかが喫緊の課題です。 本学には、画像の3000kNの万能試験機があり、これを使って新材料や新技術を用いた補修・補強や更新に必要な工法の共同研究をしています。 万能試験機 鋼部材の補修・補強 橋梁等の鋼部材の腐食劣化部や耐震耐荷力不足等の部位に炭素繊維強化ポリマー(以下、CFRP)で補強する技術開発をNEXCO総合技術研究所や材料メーカーと共同研究をしています。この技術はCFRPシートを含浸接着して必要枚数積層するものですが、鋼材とCFRPシートの間に高伸度弾性パテ材を挿入する世界的にも新しい技術です。最近では、CFRP成形部材を使えるように工夫しています。これらの技術は鋼桁橋、トラス橋、鋼床版橋に適用されてきていますが、今後、煙突、タンク、水圧鉄管等に用途拡大が期待できます。 FRP歩道橋 浦添大公園歩道橋(沖縄県浦添市) 塩害地域の対策で注目されているFRPを用いた歩道橋が注目されています。2019年に真空含浸法により製作したGFRP積層成形材を、集成接着した箱桁歩道橋が沖縄県浦添市に建設されました。本橋は橋長18.5mです。今後、さらなる支間長増大に対応すべく、現場接合構造の研究を行いました。また、木製歩道橋をFRPで補強する工法についても、県内自治体と共同で今後事業展開を図ります。 弾性合成桁 古くから施工されている橋梁の多くは、鋼桁の上に鉄筋コンクリート床版を固定した構造形式です。近年、NEXCOをはじめ関係各所で大規模更新事業として劣化した床版の取替えを行っています。この更新後において、床版と鋼桁を完全固定と考える合成桁設計法と、両者を重ねただけの非合成設計法がありますが、その中間的な考えである弾性合成桁の研究を行っています。この設計法を用いれば、合成桁の利点を取り入れつつ、両者の接合方法を合理化することができ、品質の良いプレキャスト床版の採用が容易になります。画像は本学で実施した弾性合成桁の載荷実験の様子です。 弾性合成桁の載荷実験の様子 まとめ 大規模更新時代を迎え、上述の新材料や新技術を用いた工法で、インフラ構造物の安全・安心に繋がる研究開発を続けています。また、埼玉橋梁メンテナンス研究会の活動にも参加し、埼玉大学、埼玉県、国土交通省大宮国道事務所、ならびに埼玉建設コンサルタント技術研修協会の方々と連携して、このような新技術の紹介を行っています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2024年3月8日号)掲載 profile 大垣 賀津雄(おおがき かづお)建設学科教授 大阪市立大学前期博士課程修了。博士(工学)。技術士(建設部門、総合技術監理部門)。川崎重工業を経て、2015年よりものつくり大学教授。専門分野は橋梁、鋼構造、複合構造、維持管理。 関連リンク ・橋梁・構造研究室(大垣研究室)・建設学科WEBページ

  • 偶然を必然に ~6年間の集大成は自宅兼カフェの自主設計で行田まちなかの活性化に~

    行田市内に自宅兼店舗のカフェを自ら設計し、行田まちなか再生エリアプラットフォームに携わっている栗原里奈さん(大学院2年・今井研究室)。修士論文のテーマは「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」。ものつくり大学での学生生活の中で、偶然を確かな自身のスキルアップにつなげている栗原さんに6年間の歩みをインタビューしました。 実習の多さと充実した設備が進学の決め手に 大学の進路選択に悩んでいる時、たまたま見たテレビ番組で、ものつくり大学のことが紹介されていました。ものづくりが好きでペーパークラフトや料理など何でも作っていたので、実習が多い大学だと知り興味を持ちました。福岡県出身ですが、実際大学を見学したいと思ったので、オープンキャンパスに参加しました。「ものつくり大学はとても設備が充実していて、今まで見学してきた他の大学とは違う」という印象を受けました。 ただ、福岡から埼玉県行田市までの距離があまりに遠かったので「行田に来ることは一生ない」と正直その時は思いました。しかし、福岡に戻りよく考え、他大学とも比較した結果、ものつくり大学一本に絞ることを決め、指定校推薦で進学しました。 自分の設計でコンクリートの家のオブジェが 自分で想像したものを自由に設計してみるのが好きだったので、2年生では、建設学科の建築デザインコースに進みました。コンクリートのオブジェをつくる授業があり、私が設計したものがチームの中で選ばれました。コンクリートのように机上に収まらないものを作れるのは本学だからこそ可能なことだと思います。実際、自分の設計による家の形をしたオブジェが完成した時はとても嬉しかったです。 インターンシップでは将来は住宅等の設計がやりたかったので、設計事務所に行くことを決めていました。事務所選びに迷いましたが、小さい事務所の雰囲気を味わいたいと思い、3人で運営している川口市の事務所にお世話になりました。実務につながるさまざまなことを学ぶことができ「建物の中でも住宅を設計したい」という思いがさらに強くなりました。 コロナ禍でリアルな先輩の卒業制作に携わることに 3年生(2020年)の頃はコロナ禍で、福岡の実家でオンライン授業を2、3カ月受けていました。今井研究室に所属しましたが、キャンパスに戻ると同研究室の先輩が卒業研究として熊谷まちなか再生エリアプラットフォームに関わり、熊谷まちなか再生未来ビジョン策定に向けたプロジェクトを行っていることを知りました。地域の課題解決に向けた取り組みである国土交通省のプロジェクトの一環で、官民学連携のまちなか再生推進事業として、ものつくり大学も立正大学、千葉大学などに加わり、熊谷市、地元企業、団体と一緒にコロナ禍でも定例会を行っているとのことでした。オンライン授業で福岡にいた私はリアルに活動している先輩の姿を目の当たりにし、温度差を感じました。今井先生からプロジェクトの協力に誘われたのを機に「全然分からないけど、何でもやってみよう」と思い、友人と一緒に携わることにしました。 卒論と同時進行で挑んだプロジェクト 4年次の進路選択は、兄が大学院に進んでいたり、熊谷のプロジェクトにも関わり続けたりしたかったので大学院進学を決めました。早い段階で進学が決まっていたこともあり、修士論文を書く勉強にもなると考え、卒業論文に挑戦しました。ル・コルビュジエによるロンシャンの礼拝堂を研究のテーマにして「窓から入る光が内部にどう影響を与えるか」といった問いを立て、夏と冬の太陽の角度の違いについて論じました。建物の窓の位置が及ぼす影響や論文の書き方を学ぶことで、大学院に進む準備ができました。 卒業論文と同時並行して熊谷でのプロジェクトに協力していました。アットホームな雰囲気で学生の意見を尊重してくれる環境で「何でも1回言ってみる」というスタンスが次第に育ち、いろいろ挑戦ができました。実際、星川沿いで行われる星川夜市に参加し、星川きらきらプロジェクトを実施し、光るカプセルなどを星川に浮かべるイベントをしたり、YATAIプロジェクトを実施し、折りたたんでコンパクトに移動できる屋台製作や活用をしたりしました。 星川夜市に参加する栗原さん(左) 熊谷まちなか再生エリアプラットフォームには大学3年生から大学院1年生(2020年度~2022年度)の3年間関わり、アイデアや意見を形にする経験ができました。 プロジェクトの成果物を発表した栗原さん(右から2人目) 行田まちなか再生プロジェクトに自身の経験を活かしたい 熊谷でのプロジェクト終了後、千葉大学や他の方から「行田市は歴史や文化、自然など豊富な資源を活用して、今抱える地域課題を解決できるのでは」という提案があり、行田まちなか再生エリアプラットフォームが立ち上がりました。ものつくり大学や商工団体、NPO法人などが中心に官民学連携で協力して、キックオフミーティングが2023年3月に行われ、2023年4月にスタートしました。私も「行田は観光名所があったり、テレビドラマの舞台になったり魅力的な街だ」と感じていたのと、「熊谷のプロジェクトに関わってきた経験を活かせるのでは」と参加することにしました。行田市は足袋産業がかつて盛んだったこともあり、「足袋」と「旅」を掛けて「たび・あるくが楽しい街、住む人々の豊かな暮らしの実現」を目指し、行田まちなか未来ビジョン策定に向けて動き出しました。 行田まちなか再生エリアプラットフォームのミーティング 行田の商店街に自宅兼店舗のカフェを自主設計することに 実は、キックオフミーティングと同時期、行田市内に自宅を建てることが決まっていました。私は大学進学に伴い、福岡から埼玉に来ましたが、兄の結婚を機に2年前、両親も埼玉に移住し、現在一緒に上尾の借家に住んでいます。父には以前から「カフェをやりたい」という夢があり、たまたま行田市の商店街にちょうどいい物件があったため、土地を購入し、自宅兼店舗のカフェを建てることになりました。大学進学をきっかけに埼玉に来て、行田市の大学で学んできたのですが、まさか自分がこの地に住むことになるとは想像もしていませんでした。 今井先生に経緯を話すと「自宅兼店舗のカフェを自主設計してみては」と勧められました。ものづくりが好きで、様々な実習を設備の充実した大学で行い、インターンシップも設計事務所に行き、設計の面白さや楽しさを経験してきた大学生活でもありました。行田まちなか未来ビジョン策定にも関わることになったので、「行田まちなか」にカフェを自主設計することで中心市街地活性化につなげたいと考えました。そして、本学での6年間の学びの集大成として「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」を修士論文の研究テーマにすることにしました。 自宅兼店舗のカフェを自主設計する過程で直面した課題とやりがい 自宅兼店舗のカフェの設計を私が自らすることを両親に伝えると、特に父はとても喜んでくれました。自主設計に際し、今井先生の知り合いの工務店が施工を請け負ってくださることになりました。2023年3月から設計の案を考えたのですが、行田市は蔵の街でもあるので「蔵の街並みに合う、まちなかの交流の場としてのカフェの設計」をコンセプトに決めました。現代風の蔵の外観にし、周囲の景観に馴染むような設計にしました。 自宅兼店舗の立面図 先ず直面した課題は限られた予算や坪数の中で、いかに両親の希望に沿った建築設計にするかということでした。2階建ての建物の1階はカフェの店舗に、2階は自宅にといった構想の下、様々な案を練りました。なかなか前に進めない時は今井先生からアドバイスをいただいたことで新たな視点を入れて設計に取り組むことができました、5カ月間構想を練り、繰り返し設計図を書き直し、2023年の夏頃に設計図が完成しました。自主設計したものが実際の建物になっていくのを目にし、達成感を感じています。両親の思いを大切にして自宅兼店舗のカフェを自主設計するやりがいや喜びを体感できたのは、本学での学びや実践があったからこそ叶ったことです。 建築中の店舗兼自宅 行田まちなか未来ビジョン策定に向けた研究を活かしたい 2023年3月から関わっている行田まちなか未来ビジョン策定に向けての行田まちなか再生エリアプラットフォーム。2023年4月から毎月1回まちづくりミュージアムにて定例会を開催したり、講師の先生をお呼びし「行田まちなか再生エリアプラットフォーム・フォーラム」を現時点で3回開催したりして、率先して運営に関わっていますが、なかなか学生の意見が反映されないもどかしさを抱えています。まだ構築段階にあり、1年目なので難しさを感じるのは当然ともいえます。定例会で参加者の発言を記録したり、フォーラム開催時にはアンケートも取ってまとめたりしているのですが、時間がかかり根気もいります。しかし、こういった地道な活動を通し、参加者の声を聞くことで、様々な課題が見えて情報共有もできます。実際少しずつプラットフォームの構築に関わる団体や個人も増えていて、これからが正念場と感じています。 行田市について、正直まだ知らないことが多く、明確にイメージが湧いていないのが実感としてあります。1年間関わってきた中だけでは分からない魅力があるとも思います。修士論文では「行田まちなか未来ビジョン策定に向けた中心市街地活性化に関する研究-あるくステーションの設計提案を通して-」を研究してきたので、「あるくステーションの設計提案」を通して中心市街地活性化につなげられるように今後もものつくり大学の卒業生としてプロジェクトに関わりたいです。 卒業後は都内の内装系の会社に就職し、店舗の設計から施工の仕事に携わることになりますが、地元になる「行田まちなか」の父のカフェに市内外から歩いて来てくださる人たちとの交流を深められたら嬉しいです。 関連リンク ・建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) ・ものつくり学研究科WEBページ