ものつくり大学には没頭できる学生プロジェクトがいくつもあります。「ろぼこんプロジェクト」もその1つ。2002年に結成され、現在に至るまで多くの卒業生・在学生がNHK学生ロボコンの優勝を目標に、ロボット開発のために切磋琢磨して大会出場に向けてロボットの製作を行ってきました。今回は、NHK学生ロボコンに出場経験のある川村迪隆さん(総合機械学科4年・三井研究室、上記写真:右)と荒川龍聖さん(大学院2年・三井研究室、上記写真:左)にプロジェクトについて、また、先輩から後輩に引き継がれる技術や思いなどについてインタビューしました。 われらの「ろぼこんプロジェクト」 -ものつくり大学の「ろぼこんプロジェクト」に関わることになったきっかけは。 【川村】高校時代からロボコンに関わっていて、2019年には全国高等学校ロボット競技大会にも出場しました。しかし、高校3年生だった2020年はコロナ禍で大会に出場できず、不完全燃焼で終わってしまって。大学の進学先はロボコンに集中できるところと決めていました。 ものつくり大学進学の決め手は、特に加工設備が整っていることと、新潟出身なので学内に寮があることでした。「この大学ならロボット作りに好きなだけ時間が割ける」と思い選んだといっても過言ではありません。 【荒川】中学生の頃、テレビでNHK学生ロボコンを見て「ロボコンに関わりたい」と強く思いました。ただ、進学した工業高校にはロボコンに取り組める部活がなく、中高とも独学で学びました。大学はNHK学生ロボコンに関われるところを探し、ものつくり大学は第一志望ではありませんでしたが、特待生として入学できました。やっとNHK学生ロボコンに向けていい機体を作れる環境になりました。 -プロジェクトに関わり、高校時代に比べ変化したことは。 【川村】大会出場に向けての熱意です。全国高等学校ロボット競技大会とNHK学生ロボコンの大きな違いは、大会に出場できる確率です。全国高等学校ロボット競技大会は各都道府県大会で入賞したチームから全国で約100チームが出場できます。一方、NHK学生ロボコンは狭き門で、全国の大学と高専から約20チームしか大会に出場することができません。 出場権を手にするためには、いくつものハードルがあります。8月にABUアジア・太平洋ロボットコンテストのテーマの発表があり、10月に日本語版のルールが発表されるので、戦略を考えます。11月にロボットの機構、アイデア、戦略を説明した書類審査を通過できると、翌年2月にロボットの戦術を書いた書類と手動機と自動機のロボットの動きや各種機構がわかる動画による1次ビデオ審査、4月に一連の流れや完成度がわかる動画による2次ビデオ審査があり、それらを1つずつ突破しないと大会には出場できません。 1年間かけてロボットの製作に取り組んでも、大会で1試合も出られずに終わることもあるので「絶対に大会に出場して、大きな舞台でロボットを動かすぞ」という思いでやってきました。 【荒川】高校生まではロボット作りに関われなかったので、大学に入ってからはプロジェクトマネージャー(プロマネ)を1年生からずっとやってきました。プロマネの役割は幅広く、重要なポジションです。プロジェクトを円滑に進めていくためにリーダーシップや高度なスキル、専門知識が求められます。 私が1年生だった2019年に、ものつくり大学がNHK学生ロボコンに出場したのですが、操縦者やピットクルーという表舞台に立てなくて。その後、4年生まで大会出場を果たすことができず、ずっともどかしさがありました。NHK学生ロボコンに出場して、成績を残すために、ロボット作りよりプロマネとして何ができるかを四六時中考えてきました。 2次ビデオ撮影前の様子 -1年間のスケジュールの中で、どんなことに力を入れていますか。 【荒川】私が担当するプロマネの仕事は1年を通してずっとあります。プロジェクト全体を指揮・管理するのがプロマネです。プロマネの存在が全体のスケジュールを支えているといっても過言ではありません。 全体のスケジュール管理に加え、チームメンバーのスキルを見極める能力も必要になります。ものつくり大学のロボット製作は、設計班・加工班・制御班の3つに分かれています。私は、3つの分野の知識や技術・技能などを日頃から研究し、それをマネジメントに生かしています。例えば、ロボットの製作期間中は、設計者の進捗を見る会議を週に1度開き、設計者にアドバイスを行ったり、設計のブラッシュアップをしたりしています。制御者や加工者としての視点で加工できる形を指摘することもあり、設計者側から嫌がられる立場でもあります。 なぜ私がプロマネとして必死にやってきたかというと、かつて同期のメンバー同士で人間関係がうまくいかなくなり、プロジェクト自体の存在が危うくなってしまった経験があるからです。「自分を捨ててでもなんとか後輩に思いをつなげなきゃ」とプロマネとしての役割を担ってきました。 【川村】荒川さんがメインのプロマネだとしたら私はサブのプロマネといった立ち位置で活動しています。また、操縦者としての視点で後輩にアドバイスもしています。ものつくり大学では、プロジェクトリーダーは2年生が担当と決まっています。私は2023年のNHK学生ロボコン出場に向けてプロジェクトリーダーを務めたり、2年連続大会に出場してチームリーダーを務めたりした経験も生かしています。 私がこのプロジェクトに加わった2021年は「学生同士に壁があるな」と感じました。高校時代にプロマネに近いことをやっていましたが、コミュニケーションがうまくいっているとプロジェクトも上手くいくことを実体験として持っていたんです。いい機体を作るために会議を月1回から週1回に増やすことも私が提案しました。その結果、機体の練度も上がっていきました。 設計講習会の様子 -プロジェクトの魅力や面白さは。 【川村】メンバー内の仲の良さです。今のプロジェクトメンバーは学年の壁がなく、後輩もしっかり意見を言える空気があります。 【荒川】一番はロボットに触れられることです。100人、200人単位のメンバーで構成されている大学も多く、ロボットに触れられずに4年間が終わってしまうケースもあります。しかし、ものつくり大学のろぼこんプロジェクトはやる気次第で1年生から関われます。「ロボットに関われる」というのは大きな魅力です。2024年もNHK学生ロボコンに出場を果たしましたが、ボールをつかむロボットの機構を設計したのは、なんと1年生です。 1年生が機構を設計したR1 NHK学生ロボコン2024での成果と課題 -6月9日にNHK学生ロボコンが開催され、2年連続の出場を果たしましたがどんな成果がありましたか。 【川村】昨年に続き2年連続チームリーダーを務めました。今年は「Harvest Day」をテーマに田植え、収穫をR1(手動機ロボット)が行い、収穫された穀物の倉庫への輸送をR2(自動機ロボット)が行い点を取り合うという競技でした。 昨年は予選リーグで2敗してしまいましたが、今年は1勝できたというのが何より大きな成果です。昨年残り数秒で負けてしまったチームに勝利でき、雪辱を晴らすことができました。また、昨年はコントローラーと受信機の通信トラブルがあったため、今年はコントローラーの電波が届きやすいように受信機の取り付け位置を工夫し、トラブルを回避しました。 【荒川】出場したことが何よりの成果です。連続出場したことで分かったことがたくさんありました。例えば、会場に持ち込む工具類は昨年の多さから見れば、今年は少なく済みました。逆に、チーム紹介ビデオの制作スケジュールの管理は大変でした。 また、昨年の経験から、競技には関われない大学院生の私は、多忙な大会前の1か月をプロマネに専念しました。結果的に大学での練習量を増やすことができて、出場メンバーは自信を持って大会に臨むことができました。 -大会ではどんな課題に直面し、今後どのように解決していこうと考えていますか。 【川村】一番の課題は、ロボットを制御できる人材の不足です。現プロジェクトの制御班にはメンバーが8人いますが、メイン担当は1人です。今大会のR1とR2のロボットの両機体ともほぼ1人で作ったため、R2にリソースを割けませんでした。ブラッシュアップも十分できず、制御自体ができたのが大会の1週間前でした。 ロボットを制御できるようになるためには、実際にロボットを動かす機会が必要です。実体験を通して、自分が関わっているロボットに求められる動きや機構について理解も深まります。今後は、制御について相談できる人がいなくなるという現状を解決していきたいと考えます。 【荒川】制御担当の負担を減らすために製作時間を短くすることが課題になると思います。そのためにスライドガイド付きシリンダーや一体型になっている部品などのロボットの組み立てを短縮できる資産を増やすことも大事だと思います。また、大会会場ではコントローラーの電波障害が起きやすいので、使用されていない電波を探したり、新たな技術を使っていったりする必要があります。 R2の制御を行うメンバー 引き継ぎたい知識や技術、そして思い -これから卒業までにどのように後輩を育成し、どんなことを継承しようとしていますか。 【川村】2年連続チームリーダーを務めた経験から言うと、今のプロジェクトチームの中にチームを導ける人は少ないと思っています。リーダーには些細なことでも気付けたり、周りを見て足りないところを補ったりする力が求められます。卒業までの間に人を育てるというのが大きな役目の1つだと考えています。 また、分からないことは人それぞれで異なるため、データで残すよりは言葉で伝えることが大事だと考えます。2023年のNHK学生ロボコンに向けて1次と2次ビデオ審査に必要な動画作成を担当しました。今大会は後輩に任せ、やらせてみて、分からないことは教えるというスタンスをとりました。会話することでしか伝わらないことも多いのでコミュニケーションを通して私のスキルを引き継いでもらいたいです。 【荒川】大会に出場し続けるための思いや技術を伝えていきたいと考えています。今後チームが大会に出場できないことがあっても、やる気のあるメンバーがいればいつでも活用できるデータを残したいです。取扱説明書や制御の仕組みのテンプレートなどの作成にすでに取り組んでいます。 それから、後輩たちには、ぜひOBを頼ってほしいです。そのためにも「手伝い続けたくなるチーム」「応援したくなるチーム」を目指すことが大事だと思います。 また、大会に出場した経験を強みに、工業高校などに出向いて、デモンストレーションを実施するなどして仲間を募る活動も川村君たちプロジェクトメンバーと行っています。 -直近の目標は9月に開催される大学1年生を対象とするF^3RC(エフキューブロボットコンテスト)優勝ですが、どのように関わっていますか。 【川村】設計・加工・制御のうち、設計と制御の基礎的なところを教えています。設計のほうは、セミナーを1週間行って、実際のものを作ったりしています。特に、やる気が出るように士気を上げる環境づくりを大事にしています。ぜひリーダーには周りを巻き込んでさまざまな問題を解消してほしいと思います。 1年生向けに設計の講習の一環として、設計したコマを3Dプリンタで印刷して大会を開催 【荒川】基板・はんだ付け・制御・プログラムなどの方法を教えています。方法を教えれば道具をうまく使って応用が利くと考えています。 2022年にF^3RCで優勝したメンバーの藤野君には回路基板のはんだ付けやロボットの制御の基礎をマンツーマンで教えたことで、驚くほど成長しました。伸びる学生は伸びます。やはりやる気が大事で、やる気のある1年生をどう育てるか、また、やる気を出させるために全体のモチベーションアップもしていきたいです。 1年生の中に、プロマネの後任になれそうな学生もいます。プロマネの難しいところは、メンバーから嫌われたら終わり。プロジェクトが成立しなくなるというリスクもあります。また、その年の部員たちの個性もあるので、その個性を潰さないように、プロマネがどうあるべきか常に悩みながら関わっているのが正直なところです。 1年生に加工機の操作方法を教える荒川さん -後輩に引き継ぎたい目標や思いは。 【川村】NHK学生ロボコンの優勝ですね。過去にはグループリーグを突破して準優勝まで進んでいます。出場するだけではなく、後輩には上を目指してほしいです。 また、明るくないと士気も上がらないので、メンバーには「明るく、楽しく」をモットーにプロジェクトでの活動を大事にした環境づくりを引き継いでほしいです。 【荒川】やはり、優勝してほしいです。そして、自立してほしい。私は後輩からの「先輩もう大丈夫です」という言葉を最高だと思っていて。その言葉を聞いたら身を引きたいです。それから、「出場だけしていてはだめだよ」と伝えたいです。出場して強豪校という状態になってほしいです。 後輩たちには多くのOBたちの思いが募って今の状態があることを心に刻み、4年生の思いをつなげてほしいと思います。 関連リンク ・ロボコンはスポ根だ!優勝目指してひた走れ!①・ロボコンはスポ根だ!優勝目指してひた走れ!②・ろぼこんプロジェクト「イエロージャケッツ」Webページ・情報メカトロニクス学科Webページ
日本の建築文化について ものつくり大学では実習授業が豊富に組まれており、他の大学では体験できない実務的な技術を学べる授業内容になっています。私が担当している授業では、大工道具の使い方、木材の加工方法、原寸大での木造建築の施工など様々なことを学び、木造建築に関わる技術の基礎の習得を目指します。 日本の建築文化は木の文化とともに育まれてきました。しかし、時代を経ていく中で、日本の建築文化は多様化し、木造建築は主流から外されてきました。ところが、最近では木造建築の価値や魅力が見直され、これまで鉄やコンクリートなどで造られていた中高層ビルにも木材を用いようとする新しい試みが実行に移されてきており、大規模な木造建築物を目にする機会も増えてきました。 ものづくりによって創造される人々の生活の豊かさ 人々の生活の豊かさは、ものづくりによって創造されてきたといえます。ものづくりにおける建築物を建てる技術は、古くから引き継がれてきた技術を根幹としつつ、時代の流れの中で新たな技術の受容を繰り返し、革新され進化を続けてきました。中でも木造建築に関する技術は古くから脈々と引き継がれてきた部分が多いです。それは、日本人が生活の中で、四季を通して日本独特の気候と向き合い、木と密接に関わり合いながら豊かな文化を形成してきたことによります。 そして、木造の技術を使って建築された民家や社寺建築など多くの建築物が、修復を繰り返しながら現在まで大切に保存されてきました。それによって、古い時代に建てられた建築物の存在を、現代に生きる私たちが体感し、そこから多くのことを学ぶことができています。 特に重要なのは、その背景にある高度な技術を備えた技術者の存在です。修復には、的確な技術を備えた技術者が必要であり、その技術は後世に伝えていかなければなりません。技術を的確に伝える上では、理論や知識だけではなく人の手によって伝えていくことが不可欠であり、そのためには、その技術を扱える技術者を育成することが必要です。 技術者がいて、その技術力を発揮できる環境があってこそ、それらが絶えることなく伝わるのです。ものづくりの技術の継承には、技術を習得し、活用していく技能が必要であり、そのためには手を動かして実践し、ものづくりを体験することが必要です。体験することは、自ら考えることにつながり、理論や知識を学び、技術を習得することにつながります。 現在の研究とこれから 私は、近世から近代にかけて活動していた大工家の建築生産に関する研究を行っています。研究では、それら大工による社寺建築の遺構や社寺建築を建てる上で作成された造営史料などの分析を行います。そこには、技術者である大工の技術・技能に関する情報がつまっています。その技術・技能は現代に通じるものがたくさんあります。現代の技術・技能は、過去の技術・技能を工夫し、研鑽し、発展させたものなのです。過去の技術・技能を知ることは、現代の技術・技能の発展に不可欠なことです。 ものつくり大学の教育を通して、過去にも目を向けて学び、新たなことを創造し、培った技術・技能を後進へと伝播していけるような技術者を輩出できるよう努めてまいりたいと思います。 埼玉新聞「知・技の創造」(2024年7月5日号)掲載 profile 奥崎 優(おくざき ゆう)建設学科助教 芝浦工業大学大学院修士課程修了、工務店勤務を経て芝浦工業大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。2024年4月より現職。 関連リンク ・建設学科WEBページ
マネジメントの世界的先覚者 渋沢栄一(1840~1931年) 「プロフェッショナルとしてのマネジメントの必要性を世界で最初に理解したのが渋沢だった。明治における日本の経済的な躍進は、渋沢の経営思想と行動力によるところが大きかった」『マネジメント --課題、責任、実践』(1973年)。経営学の大家として知られるピーター・F・ドラッカーによる渋沢評である。マネジメントの必要性を「世界で最初に理解した」とはいささか大仰に感じられなくもないが、渋沢を世界的先覚者の一人と目していたのは確かであろう。ドラッカーは、1909年ウィーンに生を受け、2005年にカリフォルニアに没している。しばしば「マネジメントの父」とも称される彼だが、いわゆる経営学者とは異なるもう一つの顔はあまり知られていないかもしれない。日本美術収集家としての顔である。若きドラッカーはナチズムの支配するドイツを嫌い、イギリスを経て、1937年にニューヨークに渡り、コンサルタントあるいは経営学者として活躍している。 貿易省高官だった父の影響もあり、東洋への関心は早くから芽生えていたようだ。そんな彼に、1934年のロンドンで、精神の全細胞を組み替えるがごとき衝撃体験が襲う。シティでの金融機関からの帰宅途中、不意の通り雨をよけたバーリントン・アーケード--。偶然開催されていた日本美術の展覧会だった。1934年のことである。ほとんどパウロの宗教的回心を想起させるほどの人生の決定的瞬間だったと後に回顧している。日本美術熱はやがて生涯の伴侶となる妻ドリスとともに、鑑識眼と収集で世界的名声を獲得するようになる。日本でもドラッカー・コレクションは根津美術館、千葉市美術館をはじめ巡回展を含めていくたびも開催されている。 『断絶の時代』 いかにして渋沢の人と事績に触れたかは定かではないものの、彼の渋沢理解は決して浅薄なものではない。その証拠に、著作に登場する渋沢への評価は引用件数がすくないとはいえきわめて正確である。 書き物をする晩年のドラッカー とりわけ『断絶の時代』(1969年)は、今なおドラッカーの渋沢観を知るうえで格好の書としてよい。同書は英独日の同時出版を経てベストセラーとなり、やがて「断絶」は同年の世界的流行語の位置を占める。日本版序文に「明治維新百年を個人として祝う意味もあった」と記述されるのは、なまなかな感慨とはいいがたいであろう。『断絶の時代』で次のように述べる。「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、日本の外では、わずかの日本研究家が知るだけである。(略)渋沢は、90年の生涯において、600以上の会社をつくった。この二人が、当時の製造業と過半をつくった。彼ら二人ほど、大きな存在は他の国にはなかった」かかる渋沢観はともすれば、日本への強い期待とも重なって見えてくる。そればかりか、時代精神を領導し、極東の小国を大国に押し上げた人物の一人とする、最大級の賛辞としても見当外れとは言えまい。とりわけ、渋沢を評価するポイントとしては、彼が経営を責任職、すなわちプロフェッショナリズムの観点からとらえていた点にある。プロフェッショナルの「プロフェス」は、神への信仰告白を意味する。偉大な見えざる次元への畏敬の念をもってなすべき仕事として経営を見ていたドラッカーにとって、「論語とそろばん」の渋沢はわが意を十全に実践したかに見えたろう。 「渋い」世界観 晩年まで、渋沢を明治の偉人(The Great Men of Meiji)として特筆し、企業を経済的次元のみでなく、社会的次元、あるいは理念的次元でとらえていた人物と見ている。むろん企業は財サービスを生産・流通させ、利益を上げる。しかし、社会の中心的な機関として、文明の継続と発展に資するべき理念的、道徳的、精神的存在として企業を見る。企業の実相を洞察するうえで、渋沢のヴィジョンは、ドラッカーに深い直観あるいは霊感さえ与えているのだ。というのは、ドラッカーのマネジメントとは美的世界観と切り離しては考えられない。ドラッカーは禅画や観音などの宗教的深みを伴う画風を愛し、しばしば自らのコレクションに加えた。収集の過程で多くの日本の古美術商や専門家と会話し、片言の日本語を解するようにさえなったが、とりわけ好んだ日本語表現が渋い(Shibui)であった。考えてみれば、「渋い」とは苦いとか辛いとも異なる。ある種の精神的深みをにおわせる語である(渋の漢字を見るといかにも「渋い」感じがしないだろうか)。ドラッカーの収集作品に千葉市美術館で接したとき、筆者自身あまりの渋さに、軽い脱魂の感に見舞われさえした。精神世界の蘊奥に触れる広大無辺の世界--。東洋の精神を解したヨーロッパ人の境域を指し示していた。今次、一万円札のデザインが「福沢」から「渋沢」に変わる。「福」から「渋」への転換である。戦後の高度成長からバブルの1990年まで、日本は控えめに言って経済の観点から成功してきたと言ってよいだろう。一転、「失われた30年」という暗く寂しい時が流れたと一般には受けとめられている。だが、果たしてそうなのだろうか。ドラッカーが評価した渋沢は、必ずしも経済業績ではない。むしろ倫理と並行的に事業に邁進する「大人」の人格にある。一国の紙幣の象徴たる人物が代わっても利用価値が変わるわけではない。しかし、そこにはある種、象徴的な精神的指針の暗示を見出すことも不可能ではないだろう。偶然と片付けるのは簡単である。あるいは言葉遊びに過ぎないかもしれない。しかし、「言葉遊びが文明を作る」と述べたのは、ドラッカーの尊敬した批評家カール・クラウスである。「断絶の時代」を経て、新たな文明が始まるのは2020~2025年あたりだろうとドラッカーは予期していた。現在はくしくもその新時代の起点に当たっている。渋沢の名にドラッカーの好んだ「渋」が包含されるのも、一つの時代精神の先触れなのかもしれない。少なくとも、私はそう確信している。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。
ものつくり大学には没頭できる学生プロジェクトがいくつもあります。「ろぼこんプロジェクト」もその1つ。2002年に結成され、現在に至るまで多くの卒業生・在学生がNHK学生ロボコンの優勝を目標に、ロボット開発のために切磋琢磨して大会出場に向けてロボットの製作を行ってきました。今回は、NHK学生ロボコンに出場経験のある川村迪隆さん(総合機械学科4年・三井研究室、上記写真:右)と荒川龍聖さん(大学院2年・三井研究室、上記写真:左)にプロジェクトについて、また、先輩から後輩に引き継がれる技術や思いなどについてインタビューしました。 われらの「ろぼこんプロジェクト」 -ものつくり大学の「ろぼこんプロジェクト」に関わることになったきっかけは。 【川村】高校時代からロボコンに関わっていて、2019年には全国高等学校ロボット競技大会にも出場しました。しかし、高校3年生だった2020年はコロナ禍で大会に出場できず、不完全燃焼で終わってしまって。大学の進学先はロボコンに集中できるところと決めていました。 ものつくり大学進学の決め手は、特に加工設備が整っていることと、新潟出身なので学内に寮があることでした。「この大学ならロボット作りに好きなだけ時間が割ける」と思い選んだといっても過言ではありません。 【荒川】中学生の頃、テレビでNHK学生ロボコンを見て「ロボコンに関わりたい」と強く思いました。ただ、進学した工業高校にはロボコンに取り組める部活がなく、中高とも独学で学びました。大学はNHK学生ロボコンに関われるところを探し、ものつくり大学は第一志望ではありませんでしたが、特待生として入学できました。やっとNHK学生ロボコンに向けていい機体を作れる環境になりました。 -プロジェクトに関わり、高校時代に比べ変化したことは。 【川村】大会出場に向けての熱意です。全国高等学校ロボット競技大会とNHK学生ロボコンの大きな違いは、大会に出場できる確率です。全国高等学校ロボット競技大会は各都道府県大会で入賞したチームから全国で約100チームが出場できます。一方、NHK学生ロボコンは狭き門で、全国の大学と高専から約20チームしか大会に出場することができません。 出場権を手にするためには、いくつものハードルがあります。8月にABUアジア・太平洋ロボットコンテストのテーマの発表があり、10月に日本語版のルールが発表されるので、戦略を考えます。11月にロボットの機構、アイデア、戦略を説明した書類審査を通過できると、翌年2月にロボットの戦術を書いた書類と手動機と自動機のロボットの動きや各種機構がわかる動画による1次ビデオ審査、4月に一連の流れや完成度がわかる動画による2次ビデオ審査があり、それらを1つずつ突破しないと大会には出場できません。 1年間かけてロボットの製作に取り組んでも、大会で1試合も出られずに終わることもあるので「絶対に大会に出場して、大きな舞台でロボットを動かすぞ」という思いでやってきました。 【荒川】高校生まではロボット作りに関われなかったので、大学に入ってからはプロジェクトマネージャー(プロマネ)を1年生からずっとやってきました。プロマネの役割は幅広く、重要なポジションです。プロジェクトを円滑に進めていくためにリーダーシップや高度なスキル、専門知識が求められます。 私が1年生だった2019年に、ものつくり大学がNHK学生ロボコンに出場したのですが、操縦者やピットクルーという表舞台に立てなくて。その後、4年生まで大会出場を果たすことができず、ずっともどかしさがありました。NHK学生ロボコンに出場して、成績を残すために、ロボット作りよりプロマネとして何ができるかを四六時中考えてきました。 2次ビデオ撮影前の様子 -1年間のスケジュールの中で、どんなことに力を入れていますか。 【荒川】私が担当するプロマネの仕事は1年を通してずっとあります。プロジェクト全体を指揮・管理するのがプロマネです。プロマネの存在が全体のスケジュールを支えているといっても過言ではありません。 全体のスケジュール管理に加え、チームメンバーのスキルを見極める能力も必要になります。ものつくり大学のロボット製作は、設計班・加工班・制御班の3つに分かれています。私は、3つの分野の知識や技術・技能などを日頃から研究し、それをマネジメントに生かしています。例えば、ロボットの製作期間中は、設計者の進捗を見る会議を週に1度開き、設計者にアドバイスを行ったり、設計のブラッシュアップをしたりしています。制御者や加工者としての視点で加工できる形を指摘することもあり、設計者側から嫌がられる立場でもあります。 なぜ私がプロマネとして必死にやってきたかというと、かつて同期のメンバー同士で人間関係がうまくいかなくなり、プロジェクト自体の存在が危うくなってしまった経験があるからです。「自分を捨ててでもなんとか後輩に思いをつなげなきゃ」とプロマネとしての役割を担ってきました。 【川村】荒川さんがメインのプロマネだとしたら私はサブのプロマネといった立ち位置で活動しています。また、操縦者としての視点で後輩にアドバイスもしています。ものつくり大学では、プロジェクトリーダーは2年生が担当と決まっています。私は2023年のNHK学生ロボコン出場に向けてプロジェクトリーダーを務めたり、2年連続大会に出場してチームリーダーを務めたりした経験も生かしています。 私がこのプロジェクトに加わった2021年は「学生同士に壁があるな」と感じました。高校時代にプロマネに近いことをやっていましたが、コミュニケーションがうまくいっているとプロジェクトも上手くいくことを実体験として持っていたんです。いい機体を作るために会議を月1回から週1回に増やすことも私が提案しました。その結果、機体の練度も上がっていきました。 設計講習会の様子 -プロジェクトの魅力や面白さは。 【川村】メンバー内の仲の良さです。今のプロジェクトメンバーは学年の壁がなく、後輩もしっかり意見を言える空気があります。 【荒川】一番はロボットに触れられることです。100人、200人単位のメンバーで構成されている大学も多く、ロボットに触れられずに4年間が終わってしまうケースもあります。しかし、ものつくり大学のろぼこんプロジェクトはやる気次第で1年生から関われます。「ロボットに関われる」というのは大きな魅力です。2024年もNHK学生ロボコンに出場を果たしましたが、ボールをつかむロボットの機構を設計したのは、なんと1年生です。 1年生が機構を設計したR1 NHK学生ロボコン2024での成果と課題 -6月9日にNHK学生ロボコンが開催され、2年連続の出場を果たしましたがどんな成果がありましたか。 【川村】昨年に続き2年連続チームリーダーを務めました。今年は「Harvest Day」をテーマに田植え、収穫をR1(手動機ロボット)が行い、収穫された穀物の倉庫への輸送をR2(自動機ロボット)が行い点を取り合うという競技でした。 昨年は予選リーグで2敗してしまいましたが、今年は1勝できたというのが何より大きな成果です。昨年残り数秒で負けてしまったチームに勝利でき、雪辱を晴らすことができました。また、昨年はコントローラーと受信機の通信トラブルがあったため、今年はコントローラーの電波が届きやすいように受信機の取り付け位置を工夫し、トラブルを回避しました。 【荒川】出場したことが何よりの成果です。連続出場したことで分かったことがたくさんありました。例えば、会場に持ち込む工具類は昨年の多さから見れば、今年は少なく済みました。逆に、チーム紹介ビデオの制作スケジュールの管理は大変でした。 また、昨年の経験から、競技には関われない大学院生の私は、多忙な大会前の1か月をプロマネに専念しました。結果的に大学での練習量を増やすことができて、出場メンバーは自信を持って大会に臨むことができました。 -大会ではどんな課題に直面し、今後どのように解決していこうと考えていますか。 【川村】一番の課題は、ロボットを制御できる人材の不足です。現プロジェクトの制御班にはメンバーが8人いますが、メイン担当は1人です。今大会のR1とR2のロボットの両機体ともほぼ1人で作ったため、R2にリソースを割けませんでした。ブラッシュアップも十分できず、制御自体ができたのが大会の1週間前でした。 ロボットを制御できるようになるためには、実際にロボットを動かす機会が必要です。実体験を通して、自分が関わっているロボットに求められる動きや機構について理解も深まります。今後は、制御について相談できる人がいなくなるという現状を解決していきたいと考えます。 【荒川】制御担当の負担を減らすために製作時間を短くすることが課題になると思います。そのためにスライドガイド付きシリンダーや一体型になっている部品などのロボットの組み立てを短縮できる資産を増やすことも大事だと思います。また、大会会場ではコントローラーの電波障害が起きやすいので、使用されていない電波を探したり、新たな技術を使っていったりする必要があります。 R2の制御を行うメンバー 引き継ぎたい知識や技術、そして思い -これから卒業までにどのように後輩を育成し、どんなことを継承しようとしていますか。 【川村】2年連続チームリーダーを務めた経験から言うと、今のプロジェクトチームの中にチームを導ける人は少ないと思っています。リーダーには些細なことでも気付けたり、周りを見て足りないところを補ったりする力が求められます。卒業までの間に人を育てるというのが大きな役目の1つだと考えています。 また、分からないことは人それぞれで異なるため、データで残すよりは言葉で伝えることが大事だと考えます。2023年のNHK学生ロボコンに向けて1次と2次ビデオ審査に必要な動画作成を担当しました。今大会は後輩に任せ、やらせてみて、分からないことは教えるというスタンスをとりました。会話することでしか伝わらないことも多いのでコミュニケーションを通して私のスキルを引き継いでもらいたいです。 【荒川】大会に出場し続けるための思いや技術を伝えていきたいと考えています。今後チームが大会に出場できないことがあっても、やる気のあるメンバーがいればいつでも活用できるデータを残したいです。取扱説明書や制御の仕組みのテンプレートなどの作成にすでに取り組んでいます。 それから、後輩たちには、ぜひOBを頼ってほしいです。そのためにも「手伝い続けたくなるチーム」「応援したくなるチーム」を目指すことが大事だと思います。 また、大会に出場した経験を強みに、工業高校などに出向いて、デモンストレーションを実施するなどして仲間を募る活動も川村君たちプロジェクトメンバーと行っています。 -直近の目標は9月に開催される大学1年生を対象とするF^3RC(エフキューブロボットコンテスト)優勝ですが、どのように関わっていますか。 【川村】設計・加工・制御のうち、設計と制御の基礎的なところを教えています。設計のほうは、セミナーを1週間行って、実際のものを作ったりしています。特に、やる気が出るように士気を上げる環境づくりを大事にしています。ぜひリーダーには周りを巻き込んでさまざまな問題を解消してほしいと思います。 1年生向けに設計の講習の一環として、設計したコマを3Dプリンタで印刷して大会を開催 【荒川】基板・はんだ付け・制御・プログラムなどの方法を教えています。方法を教えれば道具をうまく使って応用が利くと考えています。 2022年にF^3RCで優勝したメンバーの藤野君には回路基板のはんだ付けやロボットの制御の基礎をマンツーマンで教えたことで、驚くほど成長しました。伸びる学生は伸びます。やはりやる気が大事で、やる気のある1年生をどう育てるか、また、やる気を出させるために全体のモチベーションアップもしていきたいです。 1年生の中に、プロマネの後任になれそうな学生もいます。プロマネの難しいところは、メンバーから嫌われたら終わり。プロジェクトが成立しなくなるというリスクもあります。また、その年の部員たちの個性もあるので、その個性を潰さないように、プロマネがどうあるべきか常に悩みながら関わっているのが正直なところです。 1年生に加工機の操作方法を教える荒川さん -後輩に引き継ぎたい目標や思いは。 【川村】NHK学生ロボコンの優勝ですね。過去にはグループリーグを突破して準優勝まで進んでいます。出場するだけではなく、後輩には上を目指してほしいです。 また、明るくないと士気も上がらないので、メンバーには「明るく、楽しく」をモットーにプロジェクトでの活動を大事にした環境づくりを引き継いでほしいです。 【荒川】やはり、優勝してほしいです。そして、自立してほしい。私は後輩からの「先輩もう大丈夫です」という言葉を最高だと思っていて。その言葉を聞いたら身を引きたいです。それから、「出場だけしていてはだめだよ」と伝えたいです。出場して強豪校という状態になってほしいです。 後輩たちには多くのOBたちの思いが募って今の状態があることを心に刻み、4年生の思いをつなげてほしいと思います。 関連リンク ・ロボコンはスポ根だ!優勝目指してひた走れ!①・ロボコンはスポ根だ!優勝目指してひた走れ!②・ろぼこんプロジェクト「イエロージャケッツ」Webページ・情報メカトロニクス学科Webページ
日本の建築文化について ものつくり大学では実習授業が豊富に組まれており、他の大学では体験できない実務的な技術を学べる授業内容になっています。私が担当している授業では、大工道具の使い方、木材の加工方法、原寸大での木造建築の施工など様々なことを学び、木造建築に関わる技術の基礎の習得を目指します。 日本の建築文化は木の文化とともに育まれてきました。しかし、時代を経ていく中で、日本の建築文化は多様化し、木造建築は主流から外されてきました。ところが、最近では木造建築の価値や魅力が見直され、これまで鉄やコンクリートなどで造られていた中高層ビルにも木材を用いようとする新しい試みが実行に移されてきており、大規模な木造建築物を目にする機会も増えてきました。 ものづくりによって創造される人々の生活の豊かさ 人々の生活の豊かさは、ものづくりによって創造されてきたといえます。ものづくりにおける建築物を建てる技術は、古くから引き継がれてきた技術を根幹としつつ、時代の流れの中で新たな技術の受容を繰り返し、革新され進化を続けてきました。中でも木造建築に関する技術は古くから脈々と引き継がれてきた部分が多いです。それは、日本人が生活の中で、四季を通して日本独特の気候と向き合い、木と密接に関わり合いながら豊かな文化を形成してきたことによります。 そして、木造の技術を使って建築された民家や社寺建築など多くの建築物が、修復を繰り返しながら現在まで大切に保存されてきました。それによって、古い時代に建てられた建築物の存在を、現代に生きる私たちが体感し、そこから多くのことを学ぶことができています。 特に重要なのは、その背景にある高度な技術を備えた技術者の存在です。修復には、的確な技術を備えた技術者が必要であり、その技術は後世に伝えていかなければなりません。技術を的確に伝える上では、理論や知識だけではなく人の手によって伝えていくことが不可欠であり、そのためには、その技術を扱える技術者を育成することが必要です。 技術者がいて、その技術力を発揮できる環境があってこそ、それらが絶えることなく伝わるのです。ものづくりの技術の継承には、技術を習得し、活用していく技能が必要であり、そのためには手を動かして実践し、ものづくりを体験することが必要です。体験することは、自ら考えることにつながり、理論や知識を学び、技術を習得することにつながります。 現在の研究とこれから 私は、近世から近代にかけて活動していた大工家の建築生産に関する研究を行っています。研究では、それら大工による社寺建築の遺構や社寺建築を建てる上で作成された造営史料などの分析を行います。そこには、技術者である大工の技術・技能に関する情報がつまっています。その技術・技能は現代に通じるものがたくさんあります。現代の技術・技能は、過去の技術・技能を工夫し、研鑽し、発展させたものなのです。過去の技術・技能を知ることは、現代の技術・技能の発展に不可欠なことです。 ものつくり大学の教育を通して、過去にも目を向けて学び、新たなことを創造し、培った技術・技能を後進へと伝播していけるような技術者を輩出できるよう努めてまいりたいと思います。 埼玉新聞「知・技の創造」(2024年7月5日号)掲載 profile 奥崎 優(おくざき ゆう)建設学科助教 芝浦工業大学大学院修士課程修了、工務店勤務を経て芝浦工業大学大学院博士後期課程修了。博士(工学)。2024年4月より現職。 関連リンク ・建設学科WEBページ
マネジメントの世界的先覚者 渋沢栄一(1840~1931年) 「プロフェッショナルとしてのマネジメントの必要性を世界で最初に理解したのが渋沢だった。明治における日本の経済的な躍進は、渋沢の経営思想と行動力によるところが大きかった」『マネジメント --課題、責任、実践』(1973年)。経営学の大家として知られるピーター・F・ドラッカーによる渋沢評である。マネジメントの必要性を「世界で最初に理解した」とはいささか大仰に感じられなくもないが、渋沢を世界的先覚者の一人と目していたのは確かであろう。ドラッカーは、1909年ウィーンに生を受け、2005年にカリフォルニアに没している。しばしば「マネジメントの父」とも称される彼だが、いわゆる経営学者とは異なるもう一つの顔はあまり知られていないかもしれない。日本美術収集家としての顔である。若きドラッカーはナチズムの支配するドイツを嫌い、イギリスを経て、1937年にニューヨークに渡り、コンサルタントあるいは経営学者として活躍している。 貿易省高官だった父の影響もあり、東洋への関心は早くから芽生えていたようだ。そんな彼に、1934年のロンドンで、精神の全細胞を組み替えるがごとき衝撃体験が襲う。シティでの金融機関からの帰宅途中、不意の通り雨をよけたバーリントン・アーケード--。偶然開催されていた日本美術の展覧会だった。1934年のことである。ほとんどパウロの宗教的回心を想起させるほどの人生の決定的瞬間だったと後に回顧している。日本美術熱はやがて生涯の伴侶となる妻ドリスとともに、鑑識眼と収集で世界的名声を獲得するようになる。日本でもドラッカー・コレクションは根津美術館、千葉市美術館をはじめ巡回展を含めていくたびも開催されている。 『断絶の時代』 いかにして渋沢の人と事績に触れたかは定かではないものの、彼の渋沢理解は決して浅薄なものではない。その証拠に、著作に登場する渋沢への評価は引用件数がすくないとはいえきわめて正確である。 書き物をする晩年のドラッカー とりわけ『断絶の時代』(1969年)は、今なおドラッカーの渋沢観を知るうえで格好の書としてよい。同書は英独日の同時出版を経てベストセラーとなり、やがて「断絶」は同年の世界的流行語の位置を占める。日本版序文に「明治維新百年を個人として祝う意味もあった」と記述されるのは、なまなかな感慨とはいいがたいであろう。『断絶の時代』で次のように述べる。「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、日本の外では、わずかの日本研究家が知るだけである。(略)渋沢は、90年の生涯において、600以上の会社をつくった。この二人が、当時の製造業と過半をつくった。彼ら二人ほど、大きな存在は他の国にはなかった」かかる渋沢観はともすれば、日本への強い期待とも重なって見えてくる。そればかりか、時代精神を領導し、極東の小国を大国に押し上げた人物の一人とする、最大級の賛辞としても見当外れとは言えまい。とりわけ、渋沢を評価するポイントとしては、彼が経営を責任職、すなわちプロフェッショナリズムの観点からとらえていた点にある。プロフェッショナルの「プロフェス」は、神への信仰告白を意味する。偉大な見えざる次元への畏敬の念をもってなすべき仕事として経営を見ていたドラッカーにとって、「論語とそろばん」の渋沢はわが意を十全に実践したかに見えたろう。 「渋い」世界観 晩年まで、渋沢を明治の偉人(The Great Men of Meiji)として特筆し、企業を経済的次元のみでなく、社会的次元、あるいは理念的次元でとらえていた人物と見ている。むろん企業は財サービスを生産・流通させ、利益を上げる。しかし、社会の中心的な機関として、文明の継続と発展に資するべき理念的、道徳的、精神的存在として企業を見る。企業の実相を洞察するうえで、渋沢のヴィジョンは、ドラッカーに深い直観あるいは霊感さえ与えているのだ。というのは、ドラッカーのマネジメントとは美的世界観と切り離しては考えられない。ドラッカーは禅画や観音などの宗教的深みを伴う画風を愛し、しばしば自らのコレクションに加えた。収集の過程で多くの日本の古美術商や専門家と会話し、片言の日本語を解するようにさえなったが、とりわけ好んだ日本語表現が渋い(Shibui)であった。考えてみれば、「渋い」とは苦いとか辛いとも異なる。ある種の精神的深みをにおわせる語である(渋の漢字を見るといかにも「渋い」感じがしないだろうか)。ドラッカーの収集作品に千葉市美術館で接したとき、筆者自身あまりの渋さに、軽い脱魂の感に見舞われさえした。精神世界の蘊奥に触れる広大無辺の世界--。東洋の精神を解したヨーロッパ人の境域を指し示していた。今次、一万円札のデザインが「福沢」から「渋沢」に変わる。「福」から「渋」への転換である。戦後の高度成長からバブルの1990年まで、日本は控えめに言って経済の観点から成功してきたと言ってよいだろう。一転、「失われた30年」という暗く寂しい時が流れたと一般には受けとめられている。だが、果たしてそうなのだろうか。ドラッカーが評価した渋沢は、必ずしも経済業績ではない。むしろ倫理と並行的に事業に邁進する「大人」の人格にある。一国の紙幣の象徴たる人物が代わっても利用価値が変わるわけではない。しかし、そこにはある種、象徴的な精神的指針の暗示を見出すことも不可能ではないだろう。偶然と片付けるのは簡単である。あるいは言葉遊びに過ぎないかもしれない。しかし、「言葉遊びが文明を作る」と述べたのは、ドラッカーの尊敬した批評家カール・クラウスである。「断絶の時代」を経て、新たな文明が始まるのは2020~2025年あたりだろうとドラッカーは予期していた。現在はくしくもその新時代の起点に当たっている。渋沢の名にドラッカーの好んだ「渋」が包含されるのも、一つの時代精神の先触れなのかもしれない。少なくとも、私はそう確信している。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。