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2023年5月の記事一覧

  • 4年間しかない学生時代だから、とことん学びたい

    1年生が入学してキャンパスに活気が戻ってきた4月。製造棟の廊下には、「学生プロジェクト総合案内所」が設置されていました。情報メカトロニクス学科には、学生が主体となって興味のある分野について企画・製作・研究などを行う学生プロジェクトが8団体あります。総合案内所の設置を企画し、1年生を積極的に勧誘する小林駿祐さん(総合機械学科3年)は、3つの学生プロジェクトに所属しています。なぜそこまで精力的に活動するのか。小林さんを突き動かすものは何か。まるで遊びのような感覚で学んでいるという小林さんに、学生プロジェクトの魅力、ものつくり大学の魅力を伺いました。 3つの学生プロジェクトに挑戦 現在は、学生フォーミュラプロジェクトの活動がメインですが、1年生の時に、学生フォーミュラプロジェクト「MONO Racing」、宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」、スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」の3つの学生プロジェクトに参加しました。3つのプロジェクトに参加した理由は、加工に興味があって、それぞれのプロジェクトで違った加工機や材料について学べることと、自分に向いている事は色々やっていくうちに分かってくると思ったからです。プロジェクトを掛け持ちする学生は他にあまりいないので、先輩にお願いしたところ「大変だと思うけどとりあえず入ってくれると嬉しい」ということで、参加することができました。 各プロジェクトにはそれぞれ個性があります。「宇宙研究開発プロジェクト」は、1年生教育に力を入れていて、SOLIDWORKSという設計ソフトを動画を使いながら学びました。また、成績優秀な先輩も多かったので、授業のことも教えてもらっていました。 宇宙研究開発プロジェクトのメンバーと 「スターリングエンジンプロジェクト」は、小さい部品を旋盤で加工するような職人的な技術が身につくと思って参加しました。設計ソフトについても、Fusion 360を使っていて、使えるソフトが増えました。3年生になった現在は、あまり活動に参加していませんが、スターリングエンジンプロジェクトの活動で分かったのは、私がやりたい事は一人で加工してものづくりをするよりも、皆で1つのものを作り上げることだという事でした。 Fusion360で設計したスターリングエンジンの図面 「学生フォーミュラプロジェクト」は、オープンキャンパスに参加した時に知りました。元々、乗り物が好きで、高校時代にEne-1という単三電池40本で人が乗った車を走らせる大会に参加していました。高校時代と違い、フォーミュラの製作には費用がかかります。スポンサー交渉も学生が行うなど、社会とのつながりが多いプロジェクトなので、やりがいも大きいです。1年生の頃は、当初の希望どおり加工を担当していました。先輩から旋盤やフライス盤を教えてもらい、設計ソフト同様、授業の前から使えるようになっていました。 3つのプロジェクトに参加してからは、忙しいというよりも充実感が上回っていました。はじめは、プロジェクト活動と学業の両立に不安を感じていましたが、先輩たちが課題について教えてくれるので、どんどん部室に行くようになっていきました。家で課題をやっていても分からないところがあると諦めてしまい、全然進まないんです。それが、部室だと先輩に質問できるし、疲れた時は息抜きに友人や先輩と食事に行ったりしました。 プロジェクトでは課題や授業に近いことをやっているので、授業もすぐに理解できます。課題が出ても、すでにプロジェクトで経験していて、スムーズに終わらせることができ、「よし。プロジェクト行こう」ってこともありました。 加工に興味があったはずが・・・ 2年生になってからは、学生フォーミュラでEV車を作るために電気系統を担当するようになりました、高校からずっと加工ばかりやっていて、大学でも加工をやりたいと思っていたのですが、いつの間にか、電気に興味を持ち、調べていくうちに楽しくなってしまいました。今は回路の異常を検知して電源が切れるような、安全を守るための回路を設計しています。学生フォーミュラはレギュレーションが決まっていますが、回路の細かいところは自分たちで考えて作るため、何の部品を選んでどういうふうに作るか、条件はどうするのかといったことを考えています。 今年の学生フォーミュラ日本大会ではEV車を走行させることを目標に頑張っています。EV車は多くの回路を設計しなければなりません。また、多くの法則やコツが必要なため難しく、先輩たちから引き継いでいる技術もありますが、未開拓なことも多く、調べながら進めています。それで解決策を見つけられた時は楽しいです。これが大学の授業になると話は変わってくると思いますが(笑)。やりたい事だからできます。壁にぶつかった時に、やらされているとか、人のせいにしてしまうと失敗した理由も人のせいにしてしまうから、「失敗は成功の元」なのに成長につながらないと思っています。それに、せっかく学ぶのであれば楽しく学びたい。学んだことをプロジェクトに使えるように考えながら授業を受けたり、勉強したら実現したかったことができるようになったり、ワクワクしながらだと授業にも身が入ります。 最終的には、これまでに学んできた知識を生かして、フォーミュラに入っているシステム全ての指揮を執って作り上げたんだと言えるようになりたいです。色々勉強して、やっとできたというものを形として一つ残せるというのがすごい楽しみです。 学生プロジェクトの魅力 ものつくり大学に入ったのなら、学生プロジェクトに参加しないのは「もったいない」と思います。大学には多くの加工機がありますが、授業の中だけでは深く学べないこともあります。プロジェクトに参加すれば、授業以外にも加工機に触れる機会が多くなります。家で遊んでいるのは、もったいない。学生時代は4年間しかなくて、せっかくものつくり大学に入学したなら使い倒したいなって思います。 学生フォーミュラはチームとして1台の車体を作り上げていくので、メンバーに迷惑をかけないために失敗は避けなくてはいけないのですが、例え失敗してしまっても自分一人の責任にはなりません。皆でカバーし合える。チームで1つのものを作る醍醐味があります。社会人になる前に、失敗を恐れず挑戦できる、色々試せるというのは自信につながります。 もし、学生プロジェクトに入ろうか迷っている人がいたら、やらずに後悔するよりも挑戦してほしいと思います。例え失敗したとしても次にどんどん生かせます。「挑戦と失敗を恐れるな。次に行こう」と伝えたいです。 充実した加工機と幅広い学び そもそも、ものつくり大学を選んだ理由は大きく分けると2つあります。1つは学生フォーミュラプロジェクトに参加したいということ。もう1つは、オープンキャンパスで加工機の種類の多さを見てびっくりしたということです。高校の授業では教科書で様々な加工機を見ましたが、写真では「ふーん。色んな加工機があるんだな」って思うくらいで実感がありませんでした。その後、進学を考えた時に色々な大学のオープンキャンパスに参加しました。他大学には教科書で見たことがあるような加工機が1台くらいはありました。でも、ものつくり大学には教科書に載っているような加工機がほぼ全て揃っていて、「おぉ~!色々な技術が身につけられるじゃん!」って思いました。こんなに多くの機械に触れることができるのなら、入学する意味があるのではないかと思いました。 今、振り返って思うことは、ものつくり大学を面白いと感じたのは、鋳造から始まって最終的に製品になるまでの一連の工程が大学内で完結しているところです。他大学には加工機はあっても、前後の工程のつながりを感じませんでした。自分が今加工しているものがどういう部品になるのか、元々の材料は何なのかという製造の流れが紐づいていくところが魅力的でした。 入学してから2年が経って、実際に色々な加工機を操作していくうちに、技術の幅を広げることを意識するようになりました。幅広く学んでいた方が色々なことを吸収できると感じています。だから、やりたい事が何となく決まっている人たちに、ものつくり大学は向いているのかなと思います。加工を学びたいと思って入学して、ずっと加工をやるんだろうなって思っていましたけど、途中で電気に興味を持っても学べる。機械も電気も設計も学べて、途中で路線変更ができる学びの幅が広い大学だと思います。 これからの目標 小さい頃から図工や美術やデザインなどが好きで色々作っていて、想像しているものが形になっていくことを楽しんでいました。しかし、大きくなるにつれ、想像していることに対して技術が追いつかなくなっていきました。それから、工業系の高校に入学して金属という新しい材料を学んで、硬いものや大きいものを作れるようになって。大学では、樹脂も勉強してプラスチックでものを作れるようになりました。学生プロジェクトに入ることによって、コミュニケーションやマネジメントも学んで、時間の足りなさを人で補えるようになり、どんどん大きくて複雑なものが作れるようになっています。目標は、アイデアをそのまま形にできるようになることです。 関連リンク ・学費以上の経験が得られる⁉学生フォーミュラプロジェクトの魅力とは・学生フォーミュラ「MONO Racing」・宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」・スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」・情報メカトロニクス学科

  • 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング

    1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、外資系企業を中心に7社の在籍経験があり、約23年にわたってマーケティングに従事している平賀敦巳氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 マーケティングとは何か 本日の話の流れとして、まず初めに、「マーケティング」とは何を意味する言葉なのかを説明して、全体像をつかみ、その上で「マーケティング」に含まれる具体的な仕事の種類を説明します。そして、より個別具体的に、私が在籍してきた企業でどんな仕事に実際に取り組んで来たのか、事例を紹介しながら説明します。 現在、担当している商品、当日学生に配布された まず、大家と言われる3名の方が、「マーケティング」をどのように定義しているか?ハーバード大学教授のレビットは、マーケティングとは「顧客の創造」だと言いました。「マーケティングの父」の異名をとるコトラーは、「個人や集団が、製品および価値の創造と交換を通じて、そのニーズやウォンツを満たす社会的・管理的プロセス」という、大変緻密な定義を行っています。そして、有名な経営学者であるドラッカーは、マーケティングとは「セリング(販売)を不要にすること」だと語りました。では、私は、マーケティングをどのように定義しているか。二つの○と、それを結び付ける両向きの矢印を使って、図で説明をすると分かりやすいのです。片方の○は、生活していく中で様々な課題なり欲求を抱える消費者、生活者。もう片方の○は、そういった課題を解決し、欲求を満たすリソースを持つ事業者。これら二つの○を結び付けてあげると、そこに取引が生まれ、市場が生まれます。この、市場をつくるために両者を結び付けてあげることがマーケティングなのですね。 MarketingというのはMarketにingが付いていることから分かる通り、「Marketすること」という意味。要は、「市場を作ること」がマーケティング、市場をつくり、より大きくするために、色々な働きかけることが全てマーケティング活動と言えます。こう定義すると、マーケティングというのはとても広い概念で、ほぼ「経営」と同じ意味合いになります。とはいえ、経営活動の中には、人事、経理・財務、IT等々、確かにマーケティングとは言いにくいものも含まれるので、私は以下のように整理しています。経営=直接お客様に働きかけて市場を作る広義のマーケティング+間接業務広義のマーケティング=狭義のマーケティング+セリングコトラーは、このマーケティングの全体像を、「R-STP-MM-I-Cモデル」という枠組みで整理しました。R=Research(リサーチ・調査や情報収集)STP=Segmentation(セグメンテーション・市場を分類すること)、Targeting(ターゲティング・お客様を絞ること)、Positioning(ポジショニング・お客様の頭の中での居場所、位置付けを決めること)、これらの頭文字で、マーケティングの戦略部分。MM=Marketing Mixの略でいわゆる「4P」と言われるものと同じ意味。4Pとは、Product(商品)、Price(価格)、Place(販路)、Promotion(販促)の4つのPから始まる要素を指し、マーケティングの戦術部分。I=Implementation(実行)の頭文字。頭の中で考えた戦略や戦術は、実際に実行に移されないことには現実が変化しないので、実行はとても大切です。C=Control(改善)の頭文字。俗にいう「PDCA」。実行したら必ず結果を評価して、上手くいった点は維持し、上手くいかなかったことは改善する。そのプロセスを繰り返すことが重要です。 「お客様」を知ること ビジネスをする場合、通常何らかの目的を持って始めます。その目的を達成するために、様々な商品を取り扱い、その商品を市場で売れるようにするために、先程の「R-STP-MM-I-Cモデル」に沿って、戦略を考え、戦術を練り、それらを実行に移していきます。マーケティング戦略を考える上では、まず何よりも先に、市場の一方当事者である「お客様」を知ることが重要です。お客様は、何かしらモノを買うまでに、様々な段階を経て意思決定しますが、この時の心の流れを「パーチェスファネル」などと呼びます。ファネルとは、漏斗(じょうご/ろうと)で、必ず上が広く、下に行くに従って細くなります。基本的に、認知、興味、行動、比較、購入という段階を踏んで、ようやくモノを買ってくれることになるわけで、段階を進むごとに離脱する人も出て来るため、必ず下へ行くほど細い。このパーチェスファネルを、出来るだけ横に広げていくことで、市場がつくられ、大きくなる。また、下の方をより太らせて逆三角形から台形に近付けていくことで、更に市場が大きくなる。なので、各段階の間口を広げること、そして次の段階へと進む確率を上げること、それを実現することがマーケティングの仕事のイメージとなります。お客様が持っている顕在ニーズと潜在ニーズ(ホンネ)を、質的調査(ヒアリングや観察)や量的調査(アンケート、データ分析)を通じて調べ上げたら、そのニーズを満たすことを考えなければなりません。そのために、「コンセプト」を練り上げます。コンセプトの要素は、よくABCで整理されます。A:Audience・お客様B:Benefit・便益、嬉しさC:Compelling Reason Why・お客様がその嬉しさを得られると信じるに足る理由お客様に選ばれる商品をつくるには、Aの誰を相手にするのか、Bの相手が喜んでくれそうな何を提供するのか、そしてCのそれがいかに良い商品だと分かるような根拠をどうやって伝えるか、これらABCをワンセットで提供しなくてはなりません。3つ目の、お客様に提供する「根拠」については、3つの「差別化軸」(①手軽軸、②品質軸、③密着軸)を活用します。 私が在籍してきた企業の具体例 ①女性用カミソリのポジショニング圧倒的なシェアを持っていた競合の商品が、ハッキリとしたポジショニングを持っていない点に気付き、消費者のニーズに基づいた明確なポジショニングで「挟み込み」を行った結果、多くの売場を獲得し、シェアの逆転につなげることができました。②商品をラッピングしてギフト化し、価値を高めて価格を上げる一つだと安価なキャンディを、沢山集めてお花のブーケのようなラッピング仕立てにすることで、単価を上げて発売しています。キャンディだけで比較すると割高ですが、ギフトとしての価値を創り出すことで多くの方に買い求めていただいています。 ③商品カテゴリによるコスト構造の違いと値付け化粧品や日用雑貨で様々な商品を扱ってきた中で、売価と原価の関係はカテゴリによってバラバラであることを見て来ました。より多くの粗利を稼げるカテゴリでは、その粗利を原資にして、広告や販促を展開し、逆に粗利が低いカテゴリでは、ギリギリ安値でとにかく数をさばくというやり方になっています。④小売店のバイヤーとの「棚割」商談における資料作成小売店では半年に一度、「棚割」といって棚に並べる商品の入れ替えを実施しています。消費者に商品を買ってもらう機会を確保するために、棚割で自分のところの商品がなぜ必要なのか、ロジックを組み立て、説得を試みます。⑤TVCM制作広告代理店に依頼をして、誰にどんなメッセージを伝えたいのかを説明し、目的に応じたクリエイティブを制作してきました。⑥店頭販促消費者は、「期間限定」だったり「お買い得」といったメッセージ、見た目に反応することが多いので、店頭でより多くの人に、より頻度高く買っていただくための工夫を様々に行ってきました。⑦DMを用いた店頭への集客化粧品会社で、愛用顧客の方に再び店頭へと足を運んでもらうために、凝りに凝ったDMを送付していました。頻繁に新商品を出し、常に店頭を新鮮に保って、DMによる集客でにぎわいを創り出していました。 Profile 平賀 敦巳(ひらが・あつみ) 1972年東京都出身、横浜市在住1996年慶應義塾大学大学院法学研究科修了(法学修士)外資系企業を中心に7社の在籍経験。27年強のキャリアのうち、約23年マーケティングに一貫して従事。これまでに取り扱ってきた商品は、主に日用雑貨と化粧品を中心に、洗剤や家庭紙(トイレットペーパーやティッシュペーパーなど)、スキンケアやヘアケアやボディケア、カミソリ、香水、キャンドル、保険などが挙げられる。マーケティング戦略の立案から、商品・コンセプトの調査や開発、値決め、チャネル開拓、広告宣伝・PR、販売促進に至るまで、幅広い経験を積んで来た。現在は、ベルフェッティ・ヴァン・メレ・ジャパン・サービス株式会社に勤務、カテゴリーマネージャーとしてメントスとチュッパチャップスの二つのブランドを管掌。 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践 【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク 原稿井坂 康志(いさか・やすし)ものつくり大学教養教育センター教授

  • でっかいロケットを作りたい-1年生ながらリーダーとして種子島ロケットコンテストで優勝!-

    宇宙開発研究プロジェクト「MAXS」は情報メカトロニクス学科の学生プロジェクトの1つで、ロケットの構造や制御、整備、運用体制を学生が主体となって学んでいるプロジェクトです。 第19回種子島ロケットコンテスト(2023年3月2日~3月5日開催)に、6チームが参加し、ロケット部門の種目3「高度※」で優勝、種目2「ペイロード有翼滞空※」でベストデザイン賞(川崎重工賞)を受賞しました。 「高度」で優勝した機体「KYLEEROCKET-Ⅱ」をチームの中心となって製作したのは、ボートライト 海里さん(情報メカトロニクス学科2年)です。機体製作で工夫したことや初めてロケットコンテストに出場した印象などを伺いました。 最後にはロケット打ち上げの様子を動画で見ることができます。そちらもぜひご覧ください。 幼い頃のワクワクが蘇ってロケット製作へ 工業高校に通っていて、高校生の時から親にものつくり大学を勧められていました。大学進学はあまり考えていませんでしたが、宇宙開発研究プロジェクト(以下、宇宙研)というロケットを作っているプロジェクトがある事を聞きました。その時、幼い頃の記憶がふと蘇ってきました。当時の私はアメリカに住んでいて、広い平野の一角で、父が趣味で全長1mくらいの小さなロケットを打ち上げていました。その光景を見て「ロケットって楽しそうだな」と思っていました。親から勧められた進学でしたが、ロケット目当てに入学し、宇宙研に参加しました。 高校生の時は電子の勉強をしていて、CADは苦手でしたが、ロケットを設計するようになってからは苦手意識がなくなりました。宇宙研は1年生教育がしっかりしていて、入ってすぐにCADの勉強をさせてもらえます。特に、ロケットのトップの部分などは、SOLIDWORKSという3DCADソフトで作ります。CADだけではなく、ロケットの翼の部分はレーザー加工機でバルサ材から切り出して作っています。 種子島ロケットコンテストについて 種子島ロケットコンテストは、小型のモデルロケットを打ち上げる大会です。競技はロケット部門とCanSat部門に分かれています。私はロケット部門の4種目(「滞空・定点回収」、「ペイロード有翼滞空」、「高度」、「インテリジェント」)のうちの1つ「高度」に出場して、優勝することができました。この種目は、大会が支給する高度測定装置をロケットに搭載して、どれだけ高く飛ばせたかを競います。 競技のルールとして、打ち上げた後に機体からパラシュートが開かなかった場合や、落下途中に機体が分離してしまうと失格になります。また、射点から半径400m以内に落下しなかった場合も失格です。それから、高度ロケットは高度計や位置情報を把握するビーコンをロケットの先端に収納するのですが、落下した衝撃で中の機材が壊れたら失格になる可能性もあります。だから、他の部門のロケットに比べて頑丈に作る必要があります。 競技以外にも技術発表会があり、3分という限られた時間の中で機体のプレゼンテーションをします。その後、実行委員から技術面について質問を受けます。技術発表会は大会の結果にも影響があります。晴天であれば、ロケットを打ち上げた結果で順位が決まりますが、雨で競技が中止になってしまった時はこのプレゼンテーションで決まります。だから、必死です。 宇宙研から出場した機体たち(最奥が「KYLEEROCKET-Ⅱ」) 優勝よりも記録を狙った機体づくり 初期デザインや設計計画書の作成は2022年度卒業の先輩に手伝ってもらいましたが、その他はほぼ一人で作りました。他にもチームメイトはいたのですが、他のプロジェクトが忙しかったり、アルバイトが忙しかったりしてなかなか来れなくて。だから、機体名も自分の名前から取って「KYLEEROCKET-Ⅱ」と名付けました(笑)。コンテストの前の試し打ちや機体の改良、技術発表会のプレゼンテーション資料の作成などもほとんど一人でやりました。機体の改良は先輩が残してくれた初期設計を元にして、自分で設計しながら作り上げていきました。 ロケットは打ち上げた後、落下時にバックファイアが開くのですが、初期デザインではチューブの細いところから出る設計でした。試し打ちした時は、展開せずに自由落下して壊れてしまったり、そのまま飛んでいって機体を無くしてしまったりしました。コンテストが迫ってくる中で、このままではいけないと思い、もっとチューブが太くなっている位置からバックファイアを出るようにデザインし直したら、上手く開くようになりました。 改良後の機体 また、機体の強度を上げるために、尾翼のバルサ材を硬化樹脂でコーティングして、落ちても割れないようにしました。他の部分にも硬化されたガラス繊維を使って、軽くて硬い機体を製作しました。それから、フィンの形状も工夫しています。ロケットのシミュレーションが可能な「オープンロケット」というアプリで、遊び心でデザインしてみたら今までで一番高く飛ぶという結果が出ました。たまたまだったのですが、よく考えてみると、先端の方が急な角度になっていて打ち上げた際に空気抵抗を受けにくいデザインになっていました。 今回の機体は、シミュレーション上は319mの高さまで飛びます。大会では280mくらいの高さでした。過去に優勝した機体は500m近くまで飛んだ機体もあって、今回の大会でも私の機体より高く飛んだ機体もひょっとしたらあったのかもしれません。しかし、他のチームは高く飛んでも機体が壊れてしまったり、強風に煽られて紛失したりして失格になってしまったチームも少なからずありました。その結果、私の機体が優勝ということになりました。初めての大会ですから、優勝を狙うよりも記録を残そうと思って頑丈に作っていましたが、それが結果として優勝につながりました。だから、優勝するためには高さをだすことも重要ですが強度のある設計も必要です。優勝した後も機体の改良を続けていて、5月に開かれるプロジェクト内の部内戦でその機体を打ち上げたいと思っています。 初めて大会に出場してみて 初めてロケットの大会に出場しましたが、めちゃくちゃ楽しかったです。競技の他にワークショップという、自分の機体を他の参加者にアピールできる時間があり、その時に私のロケットに興味を持ってくれた人が何人かいました。競技の時も話しかけてもらえて、表彰式の時に「何でこのフィンの形にしたの?」とか質問攻めでした。初めての大会で、1年生でチームのリーダーとして出場できて、優勝できるって言葉にならないくらい嬉しいです。 種目2「ペイロード有翼滞空」でベストデザイン賞(川崎重工賞)を受賞したチームとともに 種子島まで宇宙研のメンバーと行って楽しい思い出もできたかと思われるかもしれませんが、大会のことで頭がいっぱいですごく疲れてしまい、観光する余裕はありませんでした。宿泊していた旅館の近くに鉄砲館があったので、興味があった先輩にノリでついて行ったくらいです(笑)。大会が終わって種子島を離れる時に、ちょうどH3ロケットの打ち上げを港から見ることができました。ロケットを打ち上げる時って赤く光るのですが、その赤い物体がものすごい速さで高くまで上がっていくのを生で見て、遠くからでも凄さを感じました。実際に打ち上げの瞬間を自分の目で見ることができたのは良い体験でした。いつか、自分もでっかいロケットを作りたいです。 関連リンク ・宇宙開発研究プロジェクト 航空機製作への新たな挑戦・宇宙開発研究プロジェクト「MAXS」・情報メカトロニクス学科・種子島ロケットコンテストWEBサイト (※競技内容の詳細は上記のリンクを参照してください)

  • 創造しいモノ・ガタリ 03 ~「問い」を学ぶ。だから学問は楽しい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は教養教育センター 土居浩教授に伺いました。 Profile 土居 浩(どい ひろし)教養教育センター 教授総合研究大学院大学 博士課程(国際日本研究専攻)修了。博士(学術)。2001年ものつくり大学開学当初から着任。関心領域は、日常意匠論。 少年時代から先生になりたいと思っていたのでしょうか。 中高時代は学校の先生になれればいいなとは思っていましたね。先生のロールモデルで記憶しているのは理科の先生です。科目は理科なので思い出されるのは白衣姿なのですが、器楽演奏をはじめ音楽にも造詣が深く、ギター・マンドリン部の顧問としてお世話になりました。今にして思えば、学びを楽しまれている先生方との出会いに、恵まれてましたね。大学教員とは無縁の幼少期でしたので、その具体的イメージは皆無だったのですが、それでも、大学入学後に教わりました先生方は、とても楽しそうに見えたことが印象に残っています。 先生の専門分野は民俗学、宗教学ですが、専門分野に進む上でのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。 平成になってから、京都の伏見にある教育大学に進学しました。振り返れば当時の日本はバブル経済の只中でしたが、その恩恵を私自身は感じなかったですね。それよりも、天安門事件やベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった激動する世界各地のニュースが流れる中、東京から距離を置いた京都で、ゆったりとした学生生活に浸った良き時代でありました。結局、十二年ほど京都で暮らしたので、私にとって京都は古里のひとつですし、今でも私の半分くらいは京都時代の要素で形成されている、とすら感じます。大学時代は地理学を専攻しておりまして、しばしば先生とともに現地を観察する機会が多かったことは大きかったと思います。それがフィールドワークという調査手法であることを後から学ぶわけですが、むしろ、歩くとそこが調査対象の現場になる体験が強烈でした。都会だろうが田舎だろうが、先生に同行すると、何とはない風景から何かが見出される。そんな「見方」を教わるわけです。この体験は私にとって研究者の眼の凄みを思い知らされる点で決定的でした。いま私が思い浮かべているのは、地理学の恩師である坂口慶治先生で、廃村研究が御専門です(これまでの研究が『廃村の研究:山地集落消滅の機構と要因』にまとめられています)。活きた地理学を学ぶ上で本当にお世話になりました。坂口先生は、大学時代に得ることのできた大切なロールモデルのお一人です。フィールドワークに同行すると、いつも楽しんでおられたことは印象的でしたね。先生が誰よりもその現地を楽しんで学んでいる。中高時代の先生もそうだったのですが、この学ぶ楽しさを全身で示していただいたことは、私の学びの原体験の一つとして、かつ現在の私の教育姿勢の根本として刷り込まれているかと思います。学部3回生の時に(講義とは全く関係なく)書いたレポート。すでにこの時から現在の専門に近い関心があったらしい。そんな影響の一端かと思いますが、私のゼミでの卒業研究のテーマを、学生以上に私が面白がっていることが、しばしばあります。たとえばコイン精米所についての研究(概要を研究室ウェブサイトに掲載してます)です。調査を重ねると、田舎よりも都市に近い土地に立地しているとか、勝手に思い込んでいた常識が覆る面白さがありました。このような身近なところにあるモノのような、小さな歴史を調べていくのは本当に楽しいことです。どんなありふれた(と思い込んでいる)風景にも、ありふれていない固有の物語があるのですから。おそらく私が大学で学んだことは、先生たちから座学として教わる知識よりも、先生のフィールドワークに同行することで、研究対象を楽しがる・面白がる技能を身につけたことだと思います。ある種の感染ですよね。次世代へわずかなりとも感染させたいものです。 コロナ禍で24時間営業を停止したコイン精米所(鴻巣市) コロナ禍でマスクするパチンコホールのキャラクター(さいたま市) 先生は「お墓」の研究でも知られていますが、専門分野に進む契機を教えてください。 やはり京都で暮らしたことが大きいです。京都の繁華街を散策していた時に、映画館の裏手に寺院が並んでいて、墓地だらけなことに気付いたんですね。私自身が生まれ育った実家のお墓は、市街地から離れた市営墓地の一角にあります。ですから初発の問いは「京都の墓はなぜ街の中心部にあるのか」でしたね。この問いが解けたら次の問いが生じて、今に至るような「墓ばかり調べている」人になりました。地区の納骨堂(福岡県筑後市)散骨の島として知られるカズラ島(島根県海士町)を対岸から眺める問いがイモヅル式に連鎖する過程で、地理学に限定されず、より幅広い視点から研究したいと考え、博士課程では総合研究大学院大学の国際日本研究専攻へ進学しました。この組織は国際日本文化研究センター(日文研)が受入機関で、京都の桂坂という、当時まだまだ開発中だったニュータウン地区の最辺縁部に位置してました。たいへん恵まれた研究環境で、特に図書館は、蔵書はもちろん研究支援サービスも含め、極めて充実していました。曲りなりとも私が博士論文をまとめることができたのは、日文研の図書館の支援なくしては、ありえなかったですね。日文研という機関がようやく創立十年になる頃で、私が在学した専攻としては四期生で、集団としても若かったですね。教員(教授・助教授・助手)も院生も、サロンのような交流部屋で活発に議論していたことを思い出します。実はその仮想敵として想定されるのが、梅原先生でした。何しろ日文研の初代所長として、当時の日本文化論に大きな影響を与えておられましたので、いかに梅原日本学を乗り越えるかが、教員も院生も共通する課題でした。この日文研での縁、梅原先生と縁が結ばれたことが、ものつくり大学に関わることになりました。 梅原先生について教えてください。 この大学の関係者からは、私が梅原先生の直弟子だと勘違いされたこともありましたが、私は世代的に「孫弟子」にあたります。さらには、直接にお会いしたのが日文研という研究所でしたので、研究会に同席するというヨコの繋がりで対面しましたので、教壇から教わるようなタテの繋がりとは違います。梅原先生といえば、本当に愉しげに研究について語るお姿しか思い出せないほど、「学問は楽しい」を根底に据えておられた方でした。これは私が梅原先生からいただいた最大の学恩です。ここまで口頭では「梅原先生」と申し上げておりますが、正直、言い慣れないです。隔絶した偉人ですから、むしろ「梅原猛」と呼ぶのが相応しい。そう感じています。以前もエッセイに書きましたが、夏目漱石や和辻哲郎のように教科書に載るような、あるいは吉本隆明や司馬遼太郎のような高名な人に「先生」をつけると違和感がありますよね。個として強烈な人物だからでしょう。強烈な人物からは、熱気・元気・覇気の類が感じられるものですが、私が直接にその気にあてられ続けているのが「梅原猛」です。ものつくり大学着任直後、開学時の入学式の式辞を今もよく覚えています。それは「伝説」の式辞と呼ぶにふわさしいものでした。一般的に式辞と言えば、長くても5分程度かと思うのですが、梅原猛の式辞は1時間を超えて行われた大演説だったからです。途中に一度休憩を挟まざるをえないほどの熱弁を梅原猛はふるわれました。それは、ものつくり大学にかける思いの燃え上がるがごとき祝辞だったのです。「なぜものつくり大学が必要なのか」。その文明史的な観点から語っておられたのですが、そのとき浴びた熱気が、今でも私にとっての教育の熱源になっているのでしょう。 そのような影響は先生の現在の教育姿勢にも強く反映されていますね。 そうですね。学生だった頃、私たちを導いてくれた先生方の姿がとてもいきいきと楽しそうだったことが、現在の私の精神的細胞を形づくっているようにも感じています。学生がどう感じているかわかりませんが、私自身はいつも楽しく、ともに学生と学べることをありがたく思いながら教員生活を送ってきました。それに、楽しく学ぶことは、新しい問いを連れてきてくれます。学問とは「問いを学ぶ」とも読める。現在、AI(人工知能)が速やかに滑らかに何らかの回答を導き出してくれるのが話題になっていますが、ここで私のいう「問いを学ぶ」について、AIはどんな回答を提供してくれるのでしょうか。ごく最近のChatGPTを巡る議論は、私から眺めると「適切な問いとは何か」との延長上でしかありません。つまるところ、適切な答えへと至る「問いを学ぶ」姿勢を鍛えるしかない。これこそ教養として、誰もが身につけるべき基礎技能だと、私は確信しています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・教養教育センター 日常意匠研究室(土居研究室)

  • 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践

    1年次の「Fゼミ」は、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招聘し、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。大企業勤務、起業、コンサルティングなど多様な活動をし、現在は日本工芸株式会社 代表取締役を務める松澤斉之氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 とにかくいろんな仕事をしてきた この27年を振り返ると、私は大企業に勤めたこともありますし、第三者としてコンサルをしたこともあります。自分で会社を立ち上げて経営してきたこともあります。とにかくいろいろな活動に携わってきた自負はあるのですね。 現在も、自分の会社を経営していますが、SBI大学院大学のMBAコースで講師も務めていますし、企業の研修を行ったり新規事業のコンサルティングもしています。早稲田大学、広島大学などで「デジタルマーケティングとオンライン販売の実践」について講義をしたり、福岡県物産振興会、東京都中小企業振興公社、新宿区立高田馬場創業支援センターなどで「企画発想力人材」の育成・活用、EC活用などについて相談に乗ったりもしています。その他企業内では事業開発、EC加速、越境EC立上げ、など様々なテーマでレクチャー+立上げ支援を実施しています。 こういう生き方は、学生時代、すなわち皆さんと同じころのつまり二十歳あたりの頃のある思いに遡れると思っていますが、それについては最後にお話ししたいと思います。 新卒で就職した会社の倒産 私は東京理科大学の出身です。とにかく旅行が好きで、バックパックを背負って世界中を旅行して回っていました。在学中は中国の四川大学に1年間の短期留学もしました。これには元来の『三国志』好きが大いに関係していたと思います。 1996年に大学を卒業してから、ヤオハンジャパン社に入社しました。大学時代中国に留学したこともあり、アジア展開に注力する会社で働きたいと考えたからです。ヤオハンは小売業で、1990年代の前半までは飛ぶ鳥を落とす勢いの躍進を続けていました。ところが、この巨大な一部上場企業が、私が入社した翌年に倒産してしまいます。これは日本の企業史に残る巨大な倒産としても知られています。これはなかなかショックな出来事でありましたが、就職先の倒産を機に私の人生が本格的に始まったと言ってもよいかもしれません。その後、しばらくの間、東南アジアなどからの輸入水産商社にて製品開発・輸入及び国内販売に従事していました。やはりアジア諸国との仕事をしたくてヤオハンに入ったわけですから、その思いはずっと心にとどまっていたからです。日々とても忙しかったけれども、充実していました。 たいてい人は何かに一生懸命打ち込んでいれば、必要な出会いは向こうからやってきてくれるものです。私の場合、勤め先の倒産から数年してからでした。それは日本を代表するコンサルタント・大前研一氏との出会いです。このご縁から、1999年、大前氏の起業家育成学校(㈱ビジネス・ブレークスルー)の立ち上げに参画する幸運に恵まれました。私が従事したのは国内最大規模の起業家育成プログラムを提供するスクールです。これを機に、同スクールの企画運営に関する統括責任者となり事業戦略・マーケティングを立案・実行してきました。社内新規事業として、企業内アントレプレナー育成サポート事業を立ち上げ、リクルート、三井不動産、NTTドコモなどの大手クライアントを獲得することに成功し、マザーズ上場にも貢献できました。 ビジネス・ブレークスルーから約7年がたち、自分自身もいつか起業することを考えていましたので、2006年、新規事業開発支援のコンサルティング会社フロイデの設立に参画し、役員に就任しています。これは、事業規模に関わりなく、新規事業をスタートしたいという企業は実に多いものの、そのための人員もリソースも不足していて、なかなか着手できずにいる状況を機会と考えたためです。新規事業の専門家は世の中にさほど多くなかったのも理由の一つです。実際に着手してみると、相談件数も着々と伸びて、ホンダ、日経新聞、パナソニック、NEC、東京電力などかなり大手企業の事業開発事案に携わることができました。このフロイデという会社は現在も関わりを持っており、私の複数の活動の一つとして、現在も新規事業のコンサルティングを続けています。 40歳を目前にAmazonへの転職 その間世の中は大きく変化を続けており、私としても、ネットによる世の変化を直接目で見て、学び取りたいという思いがふつふつと湧き上がってきました。そんなときに、Amazonジャパンの求人があることを知り、すでに40歳を目前としていたにもかかわらず応募したら合格してしまいました。ここから、私の大企業との関わりが再度始まったことになります。就職して翌年で倒産したヤオハン以来です。 私がAmazonに入ったのは2012年6月でした。このAmazon体験は、私にとってとても大きなものをもたらしてくれたと思います。まずはインターネット通販 Amazonジャパンホーム&キッチン事業部に配属され、バイイングマネージャーとして販売戦略の立案と実行を任されました。これはかなり重要なポジションで、会社としても私のこれまでの経験やスキルを十分に生かせるように配慮してくれたのだろうと思います。 Amazonで得たことは実に多いのですが、私は三つあると考えています。一つはEC、すなわちネットビジネスの基本が理解できたことです。ECとは何のことかといえば、6つの要素、商品、物流、集客、販売、決済、顧客からなっています。これらへの対応、作戦計画を行うのがバイヤーの仕事です。AmazonのECは世界最高と言ってよく、仕入れはもちろんのこと、マーケティングやアフターサービスまで、多くを学ぶことができました。この体験は独立している現在、とても役に立っています。 第二が世界最高レベルの組織です。Amazonの構築した組織は、巨大でありながら実に柔軟であり、機能的でした。Amazonの組織の一員であることによって、特に大きな組織を動かすためのエッセンスのようなものが会得できたと思っています。 最後がビジネス・パートナーです。仕事をしていると仲間ができます。その仲間がいろいろな情報をもたらしてくれますし、私もいろいろな情報をシェアしたりします。そのような人間関係は、会社を辞めた後も続きます。「人脈」という言い方もしますが、これは仕事の醍醐味だと思います。 Amazonは今あげた三つの要素のどれをとっても一流であったのは間違いありません。その恵まれた環境の中で、とにかく日々の商談を行いました。結果として2,000社以上のEC化サポートの経験を積み上げることができました。 日本工芸㈱を設立--想いをつなぐ工芸ギフトショップ 私がAmazonに在籍したのは約4年です。いつかは独立しようと考えていましたから、退職は当初より織り込み済みでした。私が再び事業を立ち上げたのは、2016年12月のことです。Amazonを退職し、工芸品の越境EC運営を生業とする日本工芸株式会社を設立しました。「想いをつなぐ工芸ギフトショップ」をキャッチコピーにしています。仕事内容は伝統工芸領域のプロデュース・販売事業です。日本の伝統工芸のすばらしさを世界に知っていただきたいと思い、スタートしました。 詳しくはHPをご覧ください。https://japanesecrafts.com/ それ以前から、新規事業開発アドバイザーは長く従事しており、専門領域は、新規事業案策定、実行支援、事業創出の仕組みづくり、人材育成、EC戦略立案、集客支援など多様に展開させていただいています。 私は日本工芸㈱のビジョンを「日本の工芸、職人の技と精神性・製法・技法に宿るこだわりやプロセスを理解し、商品流通・教育など通して製品を愛する日本内外の人、世の中に広げていく」としました。日本ではたくさんの優れた職人がおられ、日々逸品の製作に励んでいます。しかし、伝統工芸品は1983年の5,410億円をピークに、2015年は1,020億円と5分の1にまで減少しています。売上減少に伴い、人手の不足、新商品開発への対応不足なども加わって産地の生産・流通は構造的に疲弊してきているのが現状です。これには、昨今の百均などに見られるように、消費者動向に添う効率よい商品調達・流通が大きく関係しています。所得・消費も減少していますので、「安くてそこそこの」ものに消費者がどんどん吸い寄せられているのでしょう。それに対して、専門店やECなどが十分に対応できていないのではないかということも、日本工芸㈱立ち上げの原動力になっています。 そのために、選定したブランド、産地、工芸品を不易流行なブランドとして発掘するところから始めます。職人さんとじっくり語り合い、文章と画像で語り、販売するようにしています。こうすることによって、国内でハンドメイドによる工芸品をセレクトしてお客様に提供する、目利き役も務めています。それぞれの職人は小規模ですから、広告や大規模なプロモーションを打つことはできませんし、その知識も乏しいのが実情です。日本工芸㈱が行いたいと考えるのは、職人さんに職人さんらしい仕事をしてもらうことです。そのほかの面倒なことは引き受ける。その価値を理解してくれる全国のお客さんをインターネットによって仲介・プロデュースしています。最近では法人による購入も増えてきました。 死ぬまで挑戦したい 私は現在で50歳です。今までいろいろな事業に携わってきました。大企業勤務、企業、コンサルティングなどなかなか経験できない多様な活動ができたのは本当にありがたかったと思います。 事業の形態は実にいろいろあるのですが、私は一番大事なのは「人」だと思うのですね。経営学者のドラッカーも、経営的問題は結局は人の問題に帰着すると語っていたかと思います。私にとっては、仕事そのものの大切さもさることながら、その仕事が社会的に意味を持つためには、やはり人との関係を創生するものがなくてはならないと考えています。新規事業のコンサルを始めたときも、Amazonでの開発業務も、日本工芸㈱の企業もつまるところは、人の力になりたいし、私自身もそこから力を得たいという思いがあったためだと思います。早いうちに海外に出たことで、いろいろな人に会うことができましたし、多くの体験をすることができました。社会人になってからも、ずいぶんたくさんの国を旅行やビジネスで訪れました。これは私が職場を始め居場所をどんどん変えてきたことも関係していると思うのですが、それによって変化していくことが恐くなくなってきたということは言えると思います。世の中は何もしなくても変わっていくものです。むしろ変わっていくことがこの世の本来の姿です。変化していくことを後ろ向きにではなく、積極的に活用していくような生き方を結果としてしてきたように思います。 私は社会人になって27年目になります。その意味では私は一社に就職して長く勤め上げる人生を送ってきたわけではありません。現在もなお複数の仕事を同時に行っています。おそらく現在学生の皆さんも、一社で勤め上げるのではなく、適宜ふさわしい仕事や会社で働いていく人生になると思います。 思い起こせば、学生時代、私はあることを考えるようになりました。それは人はいつか死ぬということです。それはいつかの問題であり、避けることのできないことです。そうであるならば、私は死ぬときに100名の友人がいる状態を理想と思うようになりました。死ぬときに100名。これを実現するためにこれから生きていこうと思ったのです。私の人生ビジョンは「挑戦する精神とともに成長する」です。死ぬまで挑戦して生きたいと日々考えています。挑戦するとは、いつでも生き方を変える準備があるということです。 大学生の皆さんは、現在基礎を築く大事な時期にいるのですから、ぜひ日々を大切に送っていただきたいと思います。技能や技術を担うテクノロジストの皆さんにとって本日のお話が何らかの参考になればと願っております。 Profile 松澤 斉之(まつざわ・なりゆき)1996年 東京理科大学卒業、在学中に中国四川大学に留学同年、ヤオハンジャパンに入社するも翌年倒産1999~2006年 大前研一氏のベンチャー(現㈱ビジネス・ブレークスルー)に参画、マザーズ上場2006年~現在 新規事業開発会社(㈱フロイデ)に参画2012~2016年 アマゾンジャパン ホーム&キッチン事業部シニアバイイングマネージャー2016年~現在 日本工芸㈱ 代表取締役、国内外EC事業、プロデュース事業(卸)、販路開拓支援事業を実施2017年~ SBI大学院大学講師(事業計画演習)2019年~ 独立行政法人中小企業基盤整備機構 中小企業支援アドバイザー 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング 【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク

  • 4年間しかない学生時代だから、とことん学びたい

    1年生が入学してキャンパスに活気が戻ってきた4月。製造棟の廊下には、「学生プロジェクト総合案内所」が設置されていました。情報メカトロニクス学科には、学生が主体となって興味のある分野について企画・製作・研究などを行う学生プロジェクトが8団体あります。総合案内所の設置を企画し、1年生を積極的に勧誘する小林駿祐さん(総合機械学科3年)は、3つの学生プロジェクトに所属しています。なぜそこまで精力的に活動するのか。小林さんを突き動かすものは何か。まるで遊びのような感覚で学んでいるという小林さんに、学生プロジェクトの魅力、ものつくり大学の魅力を伺いました。 3つの学生プロジェクトに挑戦 現在は、学生フォーミュラプロジェクトの活動がメインですが、1年生の時に、学生フォーミュラプロジェクト「MONO Racing」、宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」、スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」の3つの学生プロジェクトに参加しました。3つのプロジェクトに参加した理由は、加工に興味があって、それぞれのプロジェクトで違った加工機や材料について学べることと、自分に向いている事は色々やっていくうちに分かってくると思ったからです。プロジェクトを掛け持ちする学生は他にあまりいないので、先輩にお願いしたところ「大変だと思うけどとりあえず入ってくれると嬉しい」ということで、参加することができました。 各プロジェクトにはそれぞれ個性があります。「宇宙研究開発プロジェクト」は、1年生教育に力を入れていて、SOLIDWORKSという設計ソフトを動画を使いながら学びました。また、成績優秀な先輩も多かったので、授業のことも教えてもらっていました。 宇宙研究開発プロジェクトのメンバーと 「スターリングエンジンプロジェクト」は、小さい部品を旋盤で加工するような職人的な技術が身につくと思って参加しました。設計ソフトについても、Fusion 360を使っていて、使えるソフトが増えました。3年生になった現在は、あまり活動に参加していませんが、スターリングエンジンプロジェクトの活動で分かったのは、私がやりたい事は一人で加工してものづくりをするよりも、皆で1つのものを作り上げることだという事でした。 Fusion360で設計したスターリングエンジンの図面 「学生フォーミュラプロジェクト」は、オープンキャンパスに参加した時に知りました。元々、乗り物が好きで、高校時代にEne-1という単三電池40本で人が乗った車を走らせる大会に参加していました。高校時代と違い、フォーミュラの製作には費用がかかります。スポンサー交渉も学生が行うなど、社会とのつながりが多いプロジェクトなので、やりがいも大きいです。1年生の頃は、当初の希望どおり加工を担当していました。先輩から旋盤やフライス盤を教えてもらい、設計ソフト同様、授業の前から使えるようになっていました。 3つのプロジェクトに参加してからは、忙しいというよりも充実感が上回っていました。はじめは、プロジェクト活動と学業の両立に不安を感じていましたが、先輩たちが課題について教えてくれるので、どんどん部室に行くようになっていきました。家で課題をやっていても分からないところがあると諦めてしまい、全然進まないんです。それが、部室だと先輩に質問できるし、疲れた時は息抜きに友人や先輩と食事に行ったりしました。 プロジェクトでは課題や授業に近いことをやっているので、授業もすぐに理解できます。課題が出ても、すでにプロジェクトで経験していて、スムーズに終わらせることができ、「よし。プロジェクト行こう」ってこともありました。 加工に興味があったはずが・・・ 2年生になってからは、学生フォーミュラでEV車を作るために電気系統を担当するようになりました、高校からずっと加工ばかりやっていて、大学でも加工をやりたいと思っていたのですが、いつの間にか、電気に興味を持ち、調べていくうちに楽しくなってしまいました。今は回路の異常を検知して電源が切れるような、安全を守るための回路を設計しています。学生フォーミュラはレギュレーションが決まっていますが、回路の細かいところは自分たちで考えて作るため、何の部品を選んでどういうふうに作るか、条件はどうするのかといったことを考えています。 今年の学生フォーミュラ日本大会ではEV車を走行させることを目標に頑張っています。EV車は多くの回路を設計しなければなりません。また、多くの法則やコツが必要なため難しく、先輩たちから引き継いでいる技術もありますが、未開拓なことも多く、調べながら進めています。それで解決策を見つけられた時は楽しいです。これが大学の授業になると話は変わってくると思いますが(笑)。やりたい事だからできます。壁にぶつかった時に、やらされているとか、人のせいにしてしまうと失敗した理由も人のせいにしてしまうから、「失敗は成功の元」なのに成長につながらないと思っています。それに、せっかく学ぶのであれば楽しく学びたい。学んだことをプロジェクトに使えるように考えながら授業を受けたり、勉強したら実現したかったことができるようになったり、ワクワクしながらだと授業にも身が入ります。 最終的には、これまでに学んできた知識を生かして、フォーミュラに入っているシステム全ての指揮を執って作り上げたんだと言えるようになりたいです。色々勉強して、やっとできたというものを形として一つ残せるというのがすごい楽しみです。 学生プロジェクトの魅力 ものつくり大学に入ったのなら、学生プロジェクトに参加しないのは「もったいない」と思います。大学には多くの加工機がありますが、授業の中だけでは深く学べないこともあります。プロジェクトに参加すれば、授業以外にも加工機に触れる機会が多くなります。家で遊んでいるのは、もったいない。学生時代は4年間しかなくて、せっかくものつくり大学に入学したなら使い倒したいなって思います。 学生フォーミュラはチームとして1台の車体を作り上げていくので、メンバーに迷惑をかけないために失敗は避けなくてはいけないのですが、例え失敗してしまっても自分一人の責任にはなりません。皆でカバーし合える。チームで1つのものを作る醍醐味があります。社会人になる前に、失敗を恐れず挑戦できる、色々試せるというのは自信につながります。 もし、学生プロジェクトに入ろうか迷っている人がいたら、やらずに後悔するよりも挑戦してほしいと思います。例え失敗したとしても次にどんどん生かせます。「挑戦と失敗を恐れるな。次に行こう」と伝えたいです。 充実した加工機と幅広い学び そもそも、ものつくり大学を選んだ理由は大きく分けると2つあります。1つは学生フォーミュラプロジェクトに参加したいということ。もう1つは、オープンキャンパスで加工機の種類の多さを見てびっくりしたということです。高校の授業では教科書で様々な加工機を見ましたが、写真では「ふーん。色んな加工機があるんだな」って思うくらいで実感がありませんでした。その後、進学を考えた時に色々な大学のオープンキャンパスに参加しました。他大学には教科書で見たことがあるような加工機が1台くらいはありました。でも、ものつくり大学には教科書に載っているような加工機がほぼ全て揃っていて、「おぉ~!色々な技術が身につけられるじゃん!」って思いました。こんなに多くの機械に触れることができるのなら、入学する意味があるのではないかと思いました。 今、振り返って思うことは、ものつくり大学を面白いと感じたのは、鋳造から始まって最終的に製品になるまでの一連の工程が大学内で完結しているところです。他大学には加工機はあっても、前後の工程のつながりを感じませんでした。自分が今加工しているものがどういう部品になるのか、元々の材料は何なのかという製造の流れが紐づいていくところが魅力的でした。 入学してから2年が経って、実際に色々な加工機を操作していくうちに、技術の幅を広げることを意識するようになりました。幅広く学んでいた方が色々なことを吸収できると感じています。だから、やりたい事が何となく決まっている人たちに、ものつくり大学は向いているのかなと思います。加工を学びたいと思って入学して、ずっと加工をやるんだろうなって思っていましたけど、途中で電気に興味を持っても学べる。機械も電気も設計も学べて、途中で路線変更ができる学びの幅が広い大学だと思います。 これからの目標 小さい頃から図工や美術やデザインなどが好きで色々作っていて、想像しているものが形になっていくことを楽しんでいました。しかし、大きくなるにつれ、想像していることに対して技術が追いつかなくなっていきました。それから、工業系の高校に入学して金属という新しい材料を学んで、硬いものや大きいものを作れるようになって。大学では、樹脂も勉強してプラスチックでものを作れるようになりました。学生プロジェクトに入ることによって、コミュニケーションやマネジメントも学んで、時間の足りなさを人で補えるようになり、どんどん大きくて複雑なものが作れるようになっています。目標は、アイデアをそのまま形にできるようになることです。 関連リンク ・学費以上の経験が得られる⁉学生フォーミュラプロジェクトの魅力とは・学生フォーミュラ「MONO Racing」・宇宙研究開発プロジェクト「MAXS」・スターリングエンジンプロジェクト「MSEP」・情報メカトロニクス学科

  • 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング

    1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、外資系企業を中心に7社の在籍経験があり、約23年にわたってマーケティングに従事している平賀敦巳氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 マーケティングとは何か 本日の話の流れとして、まず初めに、「マーケティング」とは何を意味する言葉なのかを説明して、全体像をつかみ、その上で「マーケティング」に含まれる具体的な仕事の種類を説明します。そして、より個別具体的に、私が在籍してきた企業でどんな仕事に実際に取り組んで来たのか、事例を紹介しながら説明します。 現在、担当している商品、当日学生に配布された まず、大家と言われる3名の方が、「マーケティング」をどのように定義しているか?ハーバード大学教授のレビットは、マーケティングとは「顧客の創造」だと言いました。「マーケティングの父」の異名をとるコトラーは、「個人や集団が、製品および価値の創造と交換を通じて、そのニーズやウォンツを満たす社会的・管理的プロセス」という、大変緻密な定義を行っています。そして、有名な経営学者であるドラッカーは、マーケティングとは「セリング(販売)を不要にすること」だと語りました。では、私は、マーケティングをどのように定義しているか。二つの○と、それを結び付ける両向きの矢印を使って、図で説明をすると分かりやすいのです。片方の○は、生活していく中で様々な課題なり欲求を抱える消費者、生活者。もう片方の○は、そういった課題を解決し、欲求を満たすリソースを持つ事業者。これら二つの○を結び付けてあげると、そこに取引が生まれ、市場が生まれます。この、市場をつくるために両者を結び付けてあげることがマーケティングなのですね。 MarketingというのはMarketにingが付いていることから分かる通り、「Marketすること」という意味。要は、「市場を作ること」がマーケティング、市場をつくり、より大きくするために、色々な働きかけることが全てマーケティング活動と言えます。こう定義すると、マーケティングというのはとても広い概念で、ほぼ「経営」と同じ意味合いになります。とはいえ、経営活動の中には、人事、経理・財務、IT等々、確かにマーケティングとは言いにくいものも含まれるので、私は以下のように整理しています。経営=直接お客様に働きかけて市場を作る広義のマーケティング+間接業務広義のマーケティング=狭義のマーケティング+セリングコトラーは、このマーケティングの全体像を、「R-STP-MM-I-Cモデル」という枠組みで整理しました。R=Research(リサーチ・調査や情報収集)STP=Segmentation(セグメンテーション・市場を分類すること)、Targeting(ターゲティング・お客様を絞ること)、Positioning(ポジショニング・お客様の頭の中での居場所、位置付けを決めること)、これらの頭文字で、マーケティングの戦略部分。MM=Marketing Mixの略でいわゆる「4P」と言われるものと同じ意味。4Pとは、Product(商品)、Price(価格)、Place(販路)、Promotion(販促)の4つのPから始まる要素を指し、マーケティングの戦術部分。I=Implementation(実行)の頭文字。頭の中で考えた戦略や戦術は、実際に実行に移されないことには現実が変化しないので、実行はとても大切です。C=Control(改善)の頭文字。俗にいう「PDCA」。実行したら必ず結果を評価して、上手くいった点は維持し、上手くいかなかったことは改善する。そのプロセスを繰り返すことが重要です。 「お客様」を知ること ビジネスをする場合、通常何らかの目的を持って始めます。その目的を達成するために、様々な商品を取り扱い、その商品を市場で売れるようにするために、先程の「R-STP-MM-I-Cモデル」に沿って、戦略を考え、戦術を練り、それらを実行に移していきます。マーケティング戦略を考える上では、まず何よりも先に、市場の一方当事者である「お客様」を知ることが重要です。お客様は、何かしらモノを買うまでに、様々な段階を経て意思決定しますが、この時の心の流れを「パーチェスファネル」などと呼びます。ファネルとは、漏斗(じょうご/ろうと)で、必ず上が広く、下に行くに従って細くなります。基本的に、認知、興味、行動、比較、購入という段階を踏んで、ようやくモノを買ってくれることになるわけで、段階を進むごとに離脱する人も出て来るため、必ず下へ行くほど細い。このパーチェスファネルを、出来るだけ横に広げていくことで、市場がつくられ、大きくなる。また、下の方をより太らせて逆三角形から台形に近付けていくことで、更に市場が大きくなる。なので、各段階の間口を広げること、そして次の段階へと進む確率を上げること、それを実現することがマーケティングの仕事のイメージとなります。お客様が持っている顕在ニーズと潜在ニーズ(ホンネ)を、質的調査(ヒアリングや観察)や量的調査(アンケート、データ分析)を通じて調べ上げたら、そのニーズを満たすことを考えなければなりません。そのために、「コンセプト」を練り上げます。コンセプトの要素は、よくABCで整理されます。A:Audience・お客様B:Benefit・便益、嬉しさC:Compelling Reason Why・お客様がその嬉しさを得られると信じるに足る理由お客様に選ばれる商品をつくるには、Aの誰を相手にするのか、Bの相手が喜んでくれそうな何を提供するのか、そしてCのそれがいかに良い商品だと分かるような根拠をどうやって伝えるか、これらABCをワンセットで提供しなくてはなりません。3つ目の、お客様に提供する「根拠」については、3つの「差別化軸」(①手軽軸、②品質軸、③密着軸)を活用します。 私が在籍してきた企業の具体例 ①女性用カミソリのポジショニング圧倒的なシェアを持っていた競合の商品が、ハッキリとしたポジショニングを持っていない点に気付き、消費者のニーズに基づいた明確なポジショニングで「挟み込み」を行った結果、多くの売場を獲得し、シェアの逆転につなげることができました。②商品をラッピングしてギフト化し、価値を高めて価格を上げる一つだと安価なキャンディを、沢山集めてお花のブーケのようなラッピング仕立てにすることで、単価を上げて発売しています。キャンディだけで比較すると割高ですが、ギフトとしての価値を創り出すことで多くの方に買い求めていただいています。 ③商品カテゴリによるコスト構造の違いと値付け化粧品や日用雑貨で様々な商品を扱ってきた中で、売価と原価の関係はカテゴリによってバラバラであることを見て来ました。より多くの粗利を稼げるカテゴリでは、その粗利を原資にして、広告や販促を展開し、逆に粗利が低いカテゴリでは、ギリギリ安値でとにかく数をさばくというやり方になっています。④小売店のバイヤーとの「棚割」商談における資料作成小売店では半年に一度、「棚割」といって棚に並べる商品の入れ替えを実施しています。消費者に商品を買ってもらう機会を確保するために、棚割で自分のところの商品がなぜ必要なのか、ロジックを組み立て、説得を試みます。⑤TVCM制作広告代理店に依頼をして、誰にどんなメッセージを伝えたいのかを説明し、目的に応じたクリエイティブを制作してきました。⑥店頭販促消費者は、「期間限定」だったり「お買い得」といったメッセージ、見た目に反応することが多いので、店頭でより多くの人に、より頻度高く買っていただくための工夫を様々に行ってきました。⑦DMを用いた店頭への集客化粧品会社で、愛用顧客の方に再び店頭へと足を運んでもらうために、凝りに凝ったDMを送付していました。頻繁に新商品を出し、常に店頭を新鮮に保って、DMによる集客でにぎわいを創り出していました。 Profile 平賀 敦巳(ひらが・あつみ) 1972年東京都出身、横浜市在住1996年慶應義塾大学大学院法学研究科修了(法学修士)外資系企業を中心に7社の在籍経験。27年強のキャリアのうち、約23年マーケティングに一貫して従事。これまでに取り扱ってきた商品は、主に日用雑貨と化粧品を中心に、洗剤や家庭紙(トイレットペーパーやティッシュペーパーなど)、スキンケアやヘアケアやボディケア、カミソリ、香水、キャンドル、保険などが挙げられる。マーケティング戦略の立案から、商品・コンセプトの調査や開発、値決め、チャネル開拓、広告宣伝・PR、販売促進に至るまで、幅広い経験を積んで来た。現在は、ベルフェッティ・ヴァン・メレ・ジャパン・サービス株式会社に勤務、カテゴリーマネージャーとしてメントスとチュッパチャップスの二つのブランドを管掌。 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践 【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク 原稿井坂 康志(いさか・やすし)ものつくり大学教養教育センター教授

  • でっかいロケットを作りたい-1年生ながらリーダーとして種子島ロケットコンテストで優勝!-

    宇宙開発研究プロジェクト「MAXS」は情報メカトロニクス学科の学生プロジェクトの1つで、ロケットの構造や制御、整備、運用体制を学生が主体となって学んでいるプロジェクトです。 第19回種子島ロケットコンテスト(2023年3月2日~3月5日開催)に、6チームが参加し、ロケット部門の種目3「高度※」で優勝、種目2「ペイロード有翼滞空※」でベストデザイン賞(川崎重工賞)を受賞しました。 「高度」で優勝した機体「KYLEEROCKET-Ⅱ」をチームの中心となって製作したのは、ボートライト 海里さん(情報メカトロニクス学科2年)です。機体製作で工夫したことや初めてロケットコンテストに出場した印象などを伺いました。 最後にはロケット打ち上げの様子を動画で見ることができます。そちらもぜひご覧ください。 幼い頃のワクワクが蘇ってロケット製作へ 工業高校に通っていて、高校生の時から親にものつくり大学を勧められていました。大学進学はあまり考えていませんでしたが、宇宙開発研究プロジェクト(以下、宇宙研)というロケットを作っているプロジェクトがある事を聞きました。その時、幼い頃の記憶がふと蘇ってきました。当時の私はアメリカに住んでいて、広い平野の一角で、父が趣味で全長1mくらいの小さなロケットを打ち上げていました。その光景を見て「ロケットって楽しそうだな」と思っていました。親から勧められた進学でしたが、ロケット目当てに入学し、宇宙研に参加しました。 高校生の時は電子の勉強をしていて、CADは苦手でしたが、ロケットを設計するようになってからは苦手意識がなくなりました。宇宙研は1年生教育がしっかりしていて、入ってすぐにCADの勉強をさせてもらえます。特に、ロケットのトップの部分などは、SOLIDWORKSという3DCADソフトで作ります。CADだけではなく、ロケットの翼の部分はレーザー加工機でバルサ材から切り出して作っています。 種子島ロケットコンテストについて 種子島ロケットコンテストは、小型のモデルロケットを打ち上げる大会です。競技はロケット部門とCanSat部門に分かれています。私はロケット部門の4種目(「滞空・定点回収」、「ペイロード有翼滞空」、「高度」、「インテリジェント」)のうちの1つ「高度」に出場して、優勝することができました。この種目は、大会が支給する高度測定装置をロケットに搭載して、どれだけ高く飛ばせたかを競います。 競技のルールとして、打ち上げた後に機体からパラシュートが開かなかった場合や、落下途中に機体が分離してしまうと失格になります。また、射点から半径400m以内に落下しなかった場合も失格です。それから、高度ロケットは高度計や位置情報を把握するビーコンをロケットの先端に収納するのですが、落下した衝撃で中の機材が壊れたら失格になる可能性もあります。だから、他の部門のロケットに比べて頑丈に作る必要があります。 競技以外にも技術発表会があり、3分という限られた時間の中で機体のプレゼンテーションをします。その後、実行委員から技術面について質問を受けます。技術発表会は大会の結果にも影響があります。晴天であれば、ロケットを打ち上げた結果で順位が決まりますが、雨で競技が中止になってしまった時はこのプレゼンテーションで決まります。だから、必死です。 宇宙研から出場した機体たち(最奥が「KYLEEROCKET-Ⅱ」) 優勝よりも記録を狙った機体づくり 初期デザインや設計計画書の作成は2022年度卒業の先輩に手伝ってもらいましたが、その他はほぼ一人で作りました。他にもチームメイトはいたのですが、他のプロジェクトが忙しかったり、アルバイトが忙しかったりしてなかなか来れなくて。だから、機体名も自分の名前から取って「KYLEEROCKET-Ⅱ」と名付けました(笑)。コンテストの前の試し打ちや機体の改良、技術発表会のプレゼンテーション資料の作成などもほとんど一人でやりました。機体の改良は先輩が残してくれた初期設計を元にして、自分で設計しながら作り上げていきました。 ロケットは打ち上げた後、落下時にバックファイアが開くのですが、初期デザインではチューブの細いところから出る設計でした。試し打ちした時は、展開せずに自由落下して壊れてしまったり、そのまま飛んでいって機体を無くしてしまったりしました。コンテストが迫ってくる中で、このままではいけないと思い、もっとチューブが太くなっている位置からバックファイアを出るようにデザインし直したら、上手く開くようになりました。 改良後の機体 また、機体の強度を上げるために、尾翼のバルサ材を硬化樹脂でコーティングして、落ちても割れないようにしました。他の部分にも硬化されたガラス繊維を使って、軽くて硬い機体を製作しました。それから、フィンの形状も工夫しています。ロケットのシミュレーションが可能な「オープンロケット」というアプリで、遊び心でデザインしてみたら今までで一番高く飛ぶという結果が出ました。たまたまだったのですが、よく考えてみると、先端の方が急な角度になっていて打ち上げた際に空気抵抗を受けにくいデザインになっていました。 今回の機体は、シミュレーション上は319mの高さまで飛びます。大会では280mくらいの高さでした。過去に優勝した機体は500m近くまで飛んだ機体もあって、今回の大会でも私の機体より高く飛んだ機体もひょっとしたらあったのかもしれません。しかし、他のチームは高く飛んでも機体が壊れてしまったり、強風に煽られて紛失したりして失格になってしまったチームも少なからずありました。その結果、私の機体が優勝ということになりました。初めての大会ですから、優勝を狙うよりも記録を残そうと思って頑丈に作っていましたが、それが結果として優勝につながりました。だから、優勝するためには高さをだすことも重要ですが強度のある設計も必要です。優勝した後も機体の改良を続けていて、5月に開かれるプロジェクト内の部内戦でその機体を打ち上げたいと思っています。 初めて大会に出場してみて 初めてロケットの大会に出場しましたが、めちゃくちゃ楽しかったです。競技の他にワークショップという、自分の機体を他の参加者にアピールできる時間があり、その時に私のロケットに興味を持ってくれた人が何人かいました。競技の時も話しかけてもらえて、表彰式の時に「何でこのフィンの形にしたの?」とか質問攻めでした。初めての大会で、1年生でチームのリーダーとして出場できて、優勝できるって言葉にならないくらい嬉しいです。 種目2「ペイロード有翼滞空」でベストデザイン賞(川崎重工賞)を受賞したチームとともに 種子島まで宇宙研のメンバーと行って楽しい思い出もできたかと思われるかもしれませんが、大会のことで頭がいっぱいですごく疲れてしまい、観光する余裕はありませんでした。宿泊していた旅館の近くに鉄砲館があったので、興味があった先輩にノリでついて行ったくらいです(笑)。大会が終わって種子島を離れる時に、ちょうどH3ロケットの打ち上げを港から見ることができました。ロケットを打ち上げる時って赤く光るのですが、その赤い物体がものすごい速さで高くまで上がっていくのを生で見て、遠くからでも凄さを感じました。実際に打ち上げの瞬間を自分の目で見ることができたのは良い体験でした。いつか、自分もでっかいロケットを作りたいです。 関連リンク ・宇宙開発研究プロジェクト 航空機製作への新たな挑戦・宇宙開発研究プロジェクト「MAXS」・情報メカトロニクス学科・種子島ロケットコンテストWEBサイト (※競技内容の詳細は上記のリンクを参照してください)

  • 創造しいモノ・ガタリ 03 ~「問い」を学ぶ。だから学問は楽しい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は教養教育センター 土居浩教授に伺いました。 Profile 土居 浩(どい ひろし)教養教育センター 教授総合研究大学院大学 博士課程(国際日本研究専攻)修了。博士(学術)。2001年ものつくり大学開学当初から着任。関心領域は、日常意匠論。 少年時代から先生になりたいと思っていたのでしょうか。 中高時代は学校の先生になれればいいなとは思っていましたね。先生のロールモデルで記憶しているのは理科の先生です。科目は理科なので思い出されるのは白衣姿なのですが、器楽演奏をはじめ音楽にも造詣が深く、ギター・マンドリン部の顧問としてお世話になりました。今にして思えば、学びを楽しまれている先生方との出会いに、恵まれてましたね。大学教員とは無縁の幼少期でしたので、その具体的イメージは皆無だったのですが、それでも、大学入学後に教わりました先生方は、とても楽しそうに見えたことが印象に残っています。 先生の専門分野は民俗学、宗教学ですが、専門分野に進む上でのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。 平成になってから、京都の伏見にある教育大学に進学しました。振り返れば当時の日本はバブル経済の只中でしたが、その恩恵を私自身は感じなかったですね。それよりも、天安門事件やベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった激動する世界各地のニュースが流れる中、東京から距離を置いた京都で、ゆったりとした学生生活に浸った良き時代でありました。結局、十二年ほど京都で暮らしたので、私にとって京都は古里のひとつですし、今でも私の半分くらいは京都時代の要素で形成されている、とすら感じます。大学時代は地理学を専攻しておりまして、しばしば先生とともに現地を観察する機会が多かったことは大きかったと思います。それがフィールドワークという調査手法であることを後から学ぶわけですが、むしろ、歩くとそこが調査対象の現場になる体験が強烈でした。都会だろうが田舎だろうが、先生に同行すると、何とはない風景から何かが見出される。そんな「見方」を教わるわけです。この体験は私にとって研究者の眼の凄みを思い知らされる点で決定的でした。いま私が思い浮かべているのは、地理学の恩師である坂口慶治先生で、廃村研究が御専門です(これまでの研究が『廃村の研究:山地集落消滅の機構と要因』にまとめられています)。活きた地理学を学ぶ上で本当にお世話になりました。坂口先生は、大学時代に得ることのできた大切なロールモデルのお一人です。フィールドワークに同行すると、いつも楽しんでおられたことは印象的でしたね。先生が誰よりもその現地を楽しんで学んでいる。中高時代の先生もそうだったのですが、この学ぶ楽しさを全身で示していただいたことは、私の学びの原体験の一つとして、かつ現在の私の教育姿勢の根本として刷り込まれているかと思います。学部3回生の時に(講義とは全く関係なく)書いたレポート。すでにこの時から現在の専門に近い関心があったらしい。そんな影響の一端かと思いますが、私のゼミでの卒業研究のテーマを、学生以上に私が面白がっていることが、しばしばあります。たとえばコイン精米所についての研究(概要を研究室ウェブサイトに掲載してます)です。調査を重ねると、田舎よりも都市に近い土地に立地しているとか、勝手に思い込んでいた常識が覆る面白さがありました。このような身近なところにあるモノのような、小さな歴史を調べていくのは本当に楽しいことです。どんなありふれた(と思い込んでいる)風景にも、ありふれていない固有の物語があるのですから。おそらく私が大学で学んだことは、先生たちから座学として教わる知識よりも、先生のフィールドワークに同行することで、研究対象を楽しがる・面白がる技能を身につけたことだと思います。ある種の感染ですよね。次世代へわずかなりとも感染させたいものです。 コロナ禍で24時間営業を停止したコイン精米所(鴻巣市) コロナ禍でマスクするパチンコホールのキャラクター(さいたま市) 先生は「お墓」の研究でも知られていますが、専門分野に進む契機を教えてください。 やはり京都で暮らしたことが大きいです。京都の繁華街を散策していた時に、映画館の裏手に寺院が並んでいて、墓地だらけなことに気付いたんですね。私自身が生まれ育った実家のお墓は、市街地から離れた市営墓地の一角にあります。ですから初発の問いは「京都の墓はなぜ街の中心部にあるのか」でしたね。この問いが解けたら次の問いが生じて、今に至るような「墓ばかり調べている」人になりました。地区の納骨堂(福岡県筑後市)散骨の島として知られるカズラ島(島根県海士町)を対岸から眺める問いがイモヅル式に連鎖する過程で、地理学に限定されず、より幅広い視点から研究したいと考え、博士課程では総合研究大学院大学の国際日本研究専攻へ進学しました。この組織は国際日本文化研究センター(日文研)が受入機関で、京都の桂坂という、当時まだまだ開発中だったニュータウン地区の最辺縁部に位置してました。たいへん恵まれた研究環境で、特に図書館は、蔵書はもちろん研究支援サービスも含め、極めて充実していました。曲りなりとも私が博士論文をまとめることができたのは、日文研の図書館の支援なくしては、ありえなかったですね。日文研という機関がようやく創立十年になる頃で、私が在学した専攻としては四期生で、集団としても若かったですね。教員(教授・助教授・助手)も院生も、サロンのような交流部屋で活発に議論していたことを思い出します。実はその仮想敵として想定されるのが、梅原先生でした。何しろ日文研の初代所長として、当時の日本文化論に大きな影響を与えておられましたので、いかに梅原日本学を乗り越えるかが、教員も院生も共通する課題でした。この日文研での縁、梅原先生と縁が結ばれたことが、ものつくり大学に関わることになりました。 梅原先生について教えてください。 この大学の関係者からは、私が梅原先生の直弟子だと勘違いされたこともありましたが、私は世代的に「孫弟子」にあたります。さらには、直接にお会いしたのが日文研という研究所でしたので、研究会に同席するというヨコの繋がりで対面しましたので、教壇から教わるようなタテの繋がりとは違います。梅原先生といえば、本当に愉しげに研究について語るお姿しか思い出せないほど、「学問は楽しい」を根底に据えておられた方でした。これは私が梅原先生からいただいた最大の学恩です。ここまで口頭では「梅原先生」と申し上げておりますが、正直、言い慣れないです。隔絶した偉人ですから、むしろ「梅原猛」と呼ぶのが相応しい。そう感じています。以前もエッセイに書きましたが、夏目漱石や和辻哲郎のように教科書に載るような、あるいは吉本隆明や司馬遼太郎のような高名な人に「先生」をつけると違和感がありますよね。個として強烈な人物だからでしょう。強烈な人物からは、熱気・元気・覇気の類が感じられるものですが、私が直接にその気にあてられ続けているのが「梅原猛」です。ものつくり大学着任直後、開学時の入学式の式辞を今もよく覚えています。それは「伝説」の式辞と呼ぶにふわさしいものでした。一般的に式辞と言えば、長くても5分程度かと思うのですが、梅原猛の式辞は1時間を超えて行われた大演説だったからです。途中に一度休憩を挟まざるをえないほどの熱弁を梅原猛はふるわれました。それは、ものつくり大学にかける思いの燃え上がるがごとき祝辞だったのです。「なぜものつくり大学が必要なのか」。その文明史的な観点から語っておられたのですが、そのとき浴びた熱気が、今でも私にとっての教育の熱源になっているのでしょう。 そのような影響は先生の現在の教育姿勢にも強く反映されていますね。 そうですね。学生だった頃、私たちを導いてくれた先生方の姿がとてもいきいきと楽しそうだったことが、現在の私の精神的細胞を形づくっているようにも感じています。学生がどう感じているかわかりませんが、私自身はいつも楽しく、ともに学生と学べることをありがたく思いながら教員生活を送ってきました。それに、楽しく学ぶことは、新しい問いを連れてきてくれます。学問とは「問いを学ぶ」とも読める。現在、AI(人工知能)が速やかに滑らかに何らかの回答を導き出してくれるのが話題になっていますが、ここで私のいう「問いを学ぶ」について、AIはどんな回答を提供してくれるのでしょうか。ごく最近のChatGPTを巡る議論は、私から眺めると「適切な問いとは何か」との延長上でしかありません。つまるところ、適切な答えへと至る「問いを学ぶ」姿勢を鍛えるしかない。これこそ教養として、誰もが身につけるべき基礎技能だと、私は確信しています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・教養教育センター 日常意匠研究室(土居研究室)

  • 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践

    1年次の「Fゼミ」は、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招聘し、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。大企業勤務、起業、コンサルティングなど多様な活動をし、現在は日本工芸株式会社 代表取締役を務める松澤斉之氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 とにかくいろんな仕事をしてきた この27年を振り返ると、私は大企業に勤めたこともありますし、第三者としてコンサルをしたこともあります。自分で会社を立ち上げて経営してきたこともあります。とにかくいろいろな活動に携わってきた自負はあるのですね。 現在も、自分の会社を経営していますが、SBI大学院大学のMBAコースで講師も務めていますし、企業の研修を行ったり新規事業のコンサルティングもしています。早稲田大学、広島大学などで「デジタルマーケティングとオンライン販売の実践」について講義をしたり、福岡県物産振興会、東京都中小企業振興公社、新宿区立高田馬場創業支援センターなどで「企画発想力人材」の育成・活用、EC活用などについて相談に乗ったりもしています。その他企業内では事業開発、EC加速、越境EC立上げ、など様々なテーマでレクチャー+立上げ支援を実施しています。 こういう生き方は、学生時代、すなわち皆さんと同じころのつまり二十歳あたりの頃のある思いに遡れると思っていますが、それについては最後にお話ししたいと思います。 新卒で就職した会社の倒産 私は東京理科大学の出身です。とにかく旅行が好きで、バックパックを背負って世界中を旅行して回っていました。在学中は中国の四川大学に1年間の短期留学もしました。これには元来の『三国志』好きが大いに関係していたと思います。 1996年に大学を卒業してから、ヤオハンジャパン社に入社しました。大学時代中国に留学したこともあり、アジア展開に注力する会社で働きたいと考えたからです。ヤオハンは小売業で、1990年代の前半までは飛ぶ鳥を落とす勢いの躍進を続けていました。ところが、この巨大な一部上場企業が、私が入社した翌年に倒産してしまいます。これは日本の企業史に残る巨大な倒産としても知られています。これはなかなかショックな出来事でありましたが、就職先の倒産を機に私の人生が本格的に始まったと言ってもよいかもしれません。その後、しばらくの間、東南アジアなどからの輸入水産商社にて製品開発・輸入及び国内販売に従事していました。やはりアジア諸国との仕事をしたくてヤオハンに入ったわけですから、その思いはずっと心にとどまっていたからです。日々とても忙しかったけれども、充実していました。 たいてい人は何かに一生懸命打ち込んでいれば、必要な出会いは向こうからやってきてくれるものです。私の場合、勤め先の倒産から数年してからでした。それは日本を代表するコンサルタント・大前研一氏との出会いです。このご縁から、1999年、大前氏の起業家育成学校(㈱ビジネス・ブレークスルー)の立ち上げに参画する幸運に恵まれました。私が従事したのは国内最大規模の起業家育成プログラムを提供するスクールです。これを機に、同スクールの企画運営に関する統括責任者となり事業戦略・マーケティングを立案・実行してきました。社内新規事業として、企業内アントレプレナー育成サポート事業を立ち上げ、リクルート、三井不動産、NTTドコモなどの大手クライアントを獲得することに成功し、マザーズ上場にも貢献できました。 ビジネス・ブレークスルーから約7年がたち、自分自身もいつか起業することを考えていましたので、2006年、新規事業開発支援のコンサルティング会社フロイデの設立に参画し、役員に就任しています。これは、事業規模に関わりなく、新規事業をスタートしたいという企業は実に多いものの、そのための人員もリソースも不足していて、なかなか着手できずにいる状況を機会と考えたためです。新規事業の専門家は世の中にさほど多くなかったのも理由の一つです。実際に着手してみると、相談件数も着々と伸びて、ホンダ、日経新聞、パナソニック、NEC、東京電力などかなり大手企業の事業開発事案に携わることができました。このフロイデという会社は現在も関わりを持っており、私の複数の活動の一つとして、現在も新規事業のコンサルティングを続けています。 40歳を目前にAmazonへの転職 その間世の中は大きく変化を続けており、私としても、ネットによる世の変化を直接目で見て、学び取りたいという思いがふつふつと湧き上がってきました。そんなときに、Amazonジャパンの求人があることを知り、すでに40歳を目前としていたにもかかわらず応募したら合格してしまいました。ここから、私の大企業との関わりが再度始まったことになります。就職して翌年で倒産したヤオハン以来です。 私がAmazonに入ったのは2012年6月でした。このAmazon体験は、私にとってとても大きなものをもたらしてくれたと思います。まずはインターネット通販 Amazonジャパンホーム&キッチン事業部に配属され、バイイングマネージャーとして販売戦略の立案と実行を任されました。これはかなり重要なポジションで、会社としても私のこれまでの経験やスキルを十分に生かせるように配慮してくれたのだろうと思います。 Amazonで得たことは実に多いのですが、私は三つあると考えています。一つはEC、すなわちネットビジネスの基本が理解できたことです。ECとは何のことかといえば、6つの要素、商品、物流、集客、販売、決済、顧客からなっています。これらへの対応、作戦計画を行うのがバイヤーの仕事です。AmazonのECは世界最高と言ってよく、仕入れはもちろんのこと、マーケティングやアフターサービスまで、多くを学ぶことができました。この体験は独立している現在、とても役に立っています。 第二が世界最高レベルの組織です。Amazonの構築した組織は、巨大でありながら実に柔軟であり、機能的でした。Amazonの組織の一員であることによって、特に大きな組織を動かすためのエッセンスのようなものが会得できたと思っています。 最後がビジネス・パートナーです。仕事をしていると仲間ができます。その仲間がいろいろな情報をもたらしてくれますし、私もいろいろな情報をシェアしたりします。そのような人間関係は、会社を辞めた後も続きます。「人脈」という言い方もしますが、これは仕事の醍醐味だと思います。 Amazonは今あげた三つの要素のどれをとっても一流であったのは間違いありません。その恵まれた環境の中で、とにかく日々の商談を行いました。結果として2,000社以上のEC化サポートの経験を積み上げることができました。 日本工芸㈱を設立--想いをつなぐ工芸ギフトショップ 私がAmazonに在籍したのは約4年です。いつかは独立しようと考えていましたから、退職は当初より織り込み済みでした。私が再び事業を立ち上げたのは、2016年12月のことです。Amazonを退職し、工芸品の越境EC運営を生業とする日本工芸株式会社を設立しました。「想いをつなぐ工芸ギフトショップ」をキャッチコピーにしています。仕事内容は伝統工芸領域のプロデュース・販売事業です。日本の伝統工芸のすばらしさを世界に知っていただきたいと思い、スタートしました。 詳しくはHPをご覧ください。https://japanesecrafts.com/ それ以前から、新規事業開発アドバイザーは長く従事しており、専門領域は、新規事業案策定、実行支援、事業創出の仕組みづくり、人材育成、EC戦略立案、集客支援など多様に展開させていただいています。 私は日本工芸㈱のビジョンを「日本の工芸、職人の技と精神性・製法・技法に宿るこだわりやプロセスを理解し、商品流通・教育など通して製品を愛する日本内外の人、世の中に広げていく」としました。日本ではたくさんの優れた職人がおられ、日々逸品の製作に励んでいます。しかし、伝統工芸品は1983年の5,410億円をピークに、2015年は1,020億円と5分の1にまで減少しています。売上減少に伴い、人手の不足、新商品開発への対応不足なども加わって産地の生産・流通は構造的に疲弊してきているのが現状です。これには、昨今の百均などに見られるように、消費者動向に添う効率よい商品調達・流通が大きく関係しています。所得・消費も減少していますので、「安くてそこそこの」ものに消費者がどんどん吸い寄せられているのでしょう。それに対して、専門店やECなどが十分に対応できていないのではないかということも、日本工芸㈱立ち上げの原動力になっています。 そのために、選定したブランド、産地、工芸品を不易流行なブランドとして発掘するところから始めます。職人さんとじっくり語り合い、文章と画像で語り、販売するようにしています。こうすることによって、国内でハンドメイドによる工芸品をセレクトしてお客様に提供する、目利き役も務めています。それぞれの職人は小規模ですから、広告や大規模なプロモーションを打つことはできませんし、その知識も乏しいのが実情です。日本工芸㈱が行いたいと考えるのは、職人さんに職人さんらしい仕事をしてもらうことです。そのほかの面倒なことは引き受ける。その価値を理解してくれる全国のお客さんをインターネットによって仲介・プロデュースしています。最近では法人による購入も増えてきました。 死ぬまで挑戦したい 私は現在で50歳です。今までいろいろな事業に携わってきました。大企業勤務、企業、コンサルティングなどなかなか経験できない多様な活動ができたのは本当にありがたかったと思います。 事業の形態は実にいろいろあるのですが、私は一番大事なのは「人」だと思うのですね。経営学者のドラッカーも、経営的問題は結局は人の問題に帰着すると語っていたかと思います。私にとっては、仕事そのものの大切さもさることながら、その仕事が社会的に意味を持つためには、やはり人との関係を創生するものがなくてはならないと考えています。新規事業のコンサルを始めたときも、Amazonでの開発業務も、日本工芸㈱の企業もつまるところは、人の力になりたいし、私自身もそこから力を得たいという思いがあったためだと思います。早いうちに海外に出たことで、いろいろな人に会うことができましたし、多くの体験をすることができました。社会人になってからも、ずいぶんたくさんの国を旅行やビジネスで訪れました。これは私が職場を始め居場所をどんどん変えてきたことも関係していると思うのですが、それによって変化していくことが恐くなくなってきたということは言えると思います。世の中は何もしなくても変わっていくものです。むしろ変わっていくことがこの世の本来の姿です。変化していくことを後ろ向きにではなく、積極的に活用していくような生き方を結果としてしてきたように思います。 私は社会人になって27年目になります。その意味では私は一社に就職して長く勤め上げる人生を送ってきたわけではありません。現在もなお複数の仕事を同時に行っています。おそらく現在学生の皆さんも、一社で勤め上げるのではなく、適宜ふさわしい仕事や会社で働いていく人生になると思います。 思い起こせば、学生時代、私はあることを考えるようになりました。それは人はいつか死ぬということです。それはいつかの問題であり、避けることのできないことです。そうであるならば、私は死ぬときに100名の友人がいる状態を理想と思うようになりました。死ぬときに100名。これを実現するためにこれから生きていこうと思ったのです。私の人生ビジョンは「挑戦する精神とともに成長する」です。死ぬまで挑戦して生きたいと日々考えています。挑戦するとは、いつでも生き方を変える準備があるということです。 大学生の皆さんは、現在基礎を築く大事な時期にいるのですから、ぜひ日々を大切に送っていただきたいと思います。技能や技術を担うテクノロジストの皆さんにとって本日のお話が何らかの参考になればと願っております。 Profile 松澤 斉之(まつざわ・なりゆき)1996年 東京理科大学卒業、在学中に中国四川大学に留学同年、ヤオハンジャパンに入社するも翌年倒産1999~2006年 大前研一氏のベンチャー(現㈱ビジネス・ブレークスルー)に参画、マザーズ上場2006年~現在 新規事業開発会社(㈱フロイデ)に参画2012~2016年 アマゾンジャパン ホーム&キッチン事業部シニアバイイングマネージャー2016年~現在 日本工芸㈱ 代表取締役、国内外EC事業、プロデュース事業(卸)、販路開拓支援事業を実施2017年~ SBI大学院大学講師(事業計画演習)2019年~ 独立行政法人中小企業基盤整備機構 中小企業支援アドバイザー 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング 【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク