創造しいモノ・ガタリ 03 ~「問い」を学ぶ。だから学問は楽しい~

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教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は教養教育センター 土居浩教授に伺いました。

Profile

土居 浩(どい ひろし)
教養教育センター 教授

総合研究大学院大学 博士課程(国際日本研究専攻)修了。博士(学術)。

2001年ものつくり大学開学当初から着任。関心領域は、日常意匠論。

少年時代から先生になりたいと思っていたのでしょうか。

中高時代は学校の先生になれればいいなとは思っていましたね。先生のロールモデルで記憶しているのは理科の先生です。科目は理科なので思い出されるのは白衣姿なのですが、器楽演奏をはじめ音楽にも造詣が深く、ギター・マンドリン部の顧問としてお世話になりました。

今にして思えば、学びを楽しまれている先生方との出会いに、恵まれてましたね。大学教員とは無縁の幼少期でしたので、その具体的イメージは皆無だったのですが、それでも、大学入学後に教わりました先生方は、とても楽しそうに見えたことが印象に残っています。

先生の専門分野は民俗学、宗教学ですが、専門分野に進む上でのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。

平成になってから、京都の伏見にある教育大学に進学しました。振り返れば当時の日本はバブル経済の只中でしたが、その恩恵を私自身は感じなかったですね。それよりも、天安門事件やベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった激動する世界各地のニュースが流れる中、東京から距離を置いた京都で、ゆったりとした学生生活に浸った良き時代でありました。結局、十二年ほど京都で暮らしたので、私にとって京都は古里のひとつですし、今でも私の半分くらいは京都時代の要素で形成されている、とすら感じます。

大学時代は地理学を専攻しておりまして、しばしば先生とともに現地を観察する機会が多かったことは大きかったと思います。それがフィールドワークという調査手法であることを後から学ぶわけですが、むしろ、歩くとそこが調査対象の現場になる体験が強烈でした。都会だろうが田舎だろうが、先生に同行すると、何とはない風景から何かが見出される。そんな「見方」を教わるわけです。この体験は私にとって研究者の眼の凄みを思い知らされる点で決定的でした。


いま私が思い浮かべているのは、地理学の恩師である坂口慶治先生で、廃村研究が御専門です(これまでの研究が『廃村の研究:山地集落消滅の機構と要因』にまとめられています)。活きた地理学を学ぶ上で本当にお世話になりました。坂口先生は、大学時代に得ることのできた大切なロールモデルのお一人です。フィールドワークに同行すると、いつも楽しんでおられたことは印象的でしたね。先生が誰よりもその現地を楽しんで学んでいる。中高時代の先生もそうだったのですが、この学ぶ楽しさを全身で示していただいたことは、私の学びの原体験の一つとして、かつ現在の私の教育姿勢の根本として刷り込まれているかと思います。


学部3回生の時に(講義とは全く関係なく)書いたレポート。すでにこの時から現在の専門に近い関心があったらしい。

そんな影響の一端かと思いますが、私のゼミでの卒業研究のテーマを、学生以上に私が面白がっていることが、しばしばあります。たとえばコイン精米所についての研究(概要を研究室ウェブサイトに掲載してます)です。調査を重ねると、田舎よりも都市に近い土地に立地しているとか、勝手に思い込んでいた常識が覆る面白さがありました。このような身近なところにあるモノのような、小さな歴史を調べていくのは本当に楽しいことです。どんなありふれた(と思い込んでいる)風景にも、ありふれていない固有の物語があるのですから。

おそらく私が大学で学んだことは、先生たちから座学として教わる知識よりも、先生のフィールドワークに同行することで、研究対象を楽しがる・面白がる技能を身につけたことだと思います。ある種の感染ですよね。次世代へわずかなりとも感染させたいものです。

コロナ禍で24時間営業を停止したコイン精米所(鴻巣市)
コロナ禍でマスクするパチンコホールのキャラクター(さいたま市)
先生は「お墓」の研究でも知られていますが、専門分野に進む契機を教えてください。

やはり京都で暮らしたことが大きいです。京都の繁華街を散策していた時に、映画館の裏手に寺院が並んでいて、墓地だらけなことに気付いたんですね。私自身が生まれ育った実家のお墓は、市街地から離れた市営墓地の一角にあります。ですから初発の問いは「京都の墓はなぜ街の中心部にあるのか」でしたね。この問いが解けたら次の問いが生じて、今に至るような「墓ばかり調べている」人になりました。


地区の納骨堂(福岡県筑後市)


散骨の島として知られるカズラ島(島根県海士町)を対岸から眺める

問いがイモヅル式に連鎖する過程で、地理学に限定されず、より幅広い視点から研究したいと考え、博士課程では総合研究大学院大学の国際日本研究専攻へ進学しました。この組織は国際日本文化研究センター(日文研)が受入機関で、京都の桂坂という、当時まだまだ開発中だったニュータウン地区の最辺縁部に位置してました。たいへん恵まれた研究環境で、特に図書館は、蔵書はもちろん研究支援サービスも含め、極めて充実していました。曲りなりとも私が博士論文をまとめることができたのは、日文研の図書館の支援なくしては、ありえなかったですね。

日文研という機関がようやく創立十年になる頃で、私が在学した専攻としては四期生で、集団としても若かったですね。教員(教授・助教授・助手)も院生も、サロンのような交流部屋で活発に議論していたことを思い出します。実はその仮想敵として想定されるのが、梅原先生でした。何しろ日文研の初代所長として、当時の日本文化論に大きな影響を与えておられましたので、いかに梅原日本学を乗り越えるかが、教員も院生も共通する課題でした。この日文研での縁、梅原先生と縁が結ばれたことが、ものつくり大学に関わることになりました。

梅原先生について教えてください。

この大学の関係者からは、私が梅原先生の直弟子だと勘違いされたこともありましたが、私は世代的に「孫弟子」にあたります。さらには、直接にお会いしたのが日文研という研究所でしたので、研究会に同席するというヨコの繋がりで対面しましたので、教団から教わるようなタテの繋がりとは違います。梅原先生といえば、本当に愉しげに研究について語るお姿しか思い出せないほど、「学問は楽しい」を根底に据えておられた方でした。これは私が梅原先生からいただいた最大の学恩です。

ここまで口頭では「梅原先生」と申し上げておりますが、正直、言い慣れないです。隔絶した偉人ですから、むしろ「梅原猛」と呼ぶのが相応しい。そう感じています。以前もエッセイに書きましたが、夏目漱石や和辻哲郎のように教科書に載るような、あるいは吉本隆明や司馬遼太郎のような高名な人に「先生」をつけると違和感がありますよね。個として強烈な人物だからでしょう。強烈な人物からは、熱気・元気・覇気の類が感じられるものですが、私が直接にその気にあてられ続けているのが「梅原猛」です。

ものつくり大学着任直後、開学時の入学式の式辞を今もよく覚えています。それは「伝説」の式辞と呼ぶにふわさしいものでした。一般的に式辞と言えば、長くても5分程度かと思うのですが、梅原猛の式辞は1時間を超えて行われた大演説だったからです。途中に一度休憩を挟まざるをえないほどの熱弁を梅原猛はふるわれました。それは、ものつくり大学にかける思いの燃え上がるがごとき祝辞だったのです。「なぜものつくり大学が必要なのか」。その文明史的な観点から語っておられたのですが、そのとき浴びた熱気が、今でも私にとっての教育の熱源になっているのでしょう。

そのような影響は先生の現在の教育姿勢にも強く反映されていますね。

そうですね。学生だった頃、私たちを導いてくれた先生方の姿がとてもいきいきと楽しそうだったことが、現在の私の精神的細胞を形づくっているようにも感じています。

学生がどう感じているかわかりませんが、私自身はいつも楽しく、ともに学生と学べることをありがたく思いながら教員生活を送ってきました。それに、楽しく学ぶことは、新しい問いを連れてきてくれます。学問とは「問いを学ぶ」とも読める。現在、AI(人工知能)が速やかに滑らかに何らかの回答を導き出してくれるのが話題になっていますが、ここで私のいう「問いを学ぶ」について、AIはどんな回答を提供してくれるのでしょうか。ごく最近のChatGPTを巡る議論は、私から眺めると「適切な問いとは何か」との延長上でしかありません。つまるところ、適切な答えへと至る「問いを学ぶ」姿勢を鍛えるしかない。これこそ教養として、誰もが身につけるべき基礎技能だと、私は確信しています。

取材・原稿
井坂 康志(いさか やすし)
ものつくり大学教養教育センター教授

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ものつくり大学

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