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#創造しいモノ・ガタリ

  • 創造しいモノ・ガタリ 04 ~私の原動力-「誰も想像していなかったもの」をつくりたい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は、的場やすし客員教授に伺いました。 Profile 的場 やすし(まとば やすし)的場ラボ(個人事業主)主宰信州大学理学部生物学科卒業後、本田技術研究所における自動車材料研究、認知症高齢者介護施設運営に理事として参画等を経て現在は、ものつくり大学客員教授、お茶の水女子大学学部教育研究協力員。仮想世界と実物体を融合した新しいインターフェースを研究中。これまでに、ACM SIGGRAPH Art Gallery(2000、2007)、Emerging Technologies(2011、2012、2013年)や、Ars Electronica(1999年)への作品出展をはじめ、デジタルコンテンツグランプリ アート部門インタラクティブ賞(2001年)、アジアデジタルアート大賞展 インタラクティブアート部門優秀賞(2012、2013年)、Laval Virtual Awards 部門賞(2011、2012、2013年)グランプリ(2013年)、CEDEC インタラクティブ賞(2017年)、経済産業省 Innovative Technologies 特別賞(2013、2017年)、テレビ東京 WBS トレンドたまご年間大賞(2013、2017年)他受賞 先生の研究の原点はどのようなものだったのでしょうか。 子どもの頃からアイディアを考えるのが好きでした。優れたアイディアを見るのも大好きで、小さい頃に初めてトイレットペーパーをワンタッチで交換できる機構を見たときに、ものすごく感動した記憶があります(それまでは伸縮する棒で固定する、面倒くさい機構しか知らなかったので)。小さい頃から面倒くさがりで、常に「楽をしたい」と思っていたので「苦労して行っていた作業がアイディアひとつで楽になる」というのは非常に素晴らしいことだと考えていました。大学時代は信州大学理学部の生物学科に在籍し、蚕のさなぎの休眠時の呼吸について研究していました。卒業後は、バイク好きだったこともあり、本田技術研究所で材料関係の研究職に就いて、内装材の研究開発などに従事していましたが、20代の後半に違うことをしたいと思って研究所を辞めて、介護施設の運営に関わる仕事などを行ってきました。このころから「HCI」(ヒューマンコンピュータインタラクション)分野に興味を持ち、メディアアート作品の制作を始めました。ものつくり大学との出会いは2008年、修士課程入学を機としています。ずっとものをつくるのは好きだったので木工などは得意でしたが、金属加工などはわからないことが多かったので、菅谷諭先生のもとで取り組みました。2009年の大学祭の「ものつくりコンペ」に「シャボン玉 空気砲」という作品を出展して優勝したこともあります。ものつくり大学を卒業した後、電気通信大学の博士課程に籍を置き、約8年インターフェースの研究を続けました。 2009年ものつくりコンペ優勝作品「シャボン玉 空気砲」 現在先生は流動床で知られていますね。きっかけを教えてください。 流動床という現象は古くから様々な産業で使われてきましたが、一般にはほとんど知られていませんでした。私は流動床と仕事の上で直接の関係があったわけではありません。そのおもしろさを見つけることができたのは半ば偶然の出合いであり、非常に幸運だったと感じています。きっかけは、ある日 YouTube で流動床焼却炉の動画を目にしたことです。それを見ていた時、「普通の状態では、その上を歩くことのできる砂が、スイッチを入れると液状化して、中で泳げるようになる」という世界初の装置が作れると思いました。そしてこれをインターフェースとして、面白いエンターテイメントシステムが絶対作れると確信したわけです。このアイディアが始まりでした。そして2016年に「流動床インターフェース」を作ったのですが、作ってみたら液状化した砂の感触が想像以上に面白くてびっくりしました。 それまでもいろいろなディスプレイを作ってこられたのですね。その話を伺えますか。 2011年に制作した「スプラッシュディスプレイ(SplashDisplay)」があります。たとえば、通常のテレビや映画では爆発のシーンが映っても実際に画面上で物理的に物体が飛び散る現象が起きるわけではありませんが、物理的な物体の移動を伴うことで、リアルに爆発したように見えるディスプレイを実現しました。底面120センチ×90センチ、深さ30センチの容器を発砲ビーズで満たし、上方に設置したプロジェクターからビーズの表面へ映像を投影して水平型のディスプレイを構成します。容器の底は網状になっており、その下に多数の送風機または移動できる送風機を設置して、投影される爆発の映像に合わせて送風機を作動させ、風によってビーズを上方に吹き飛ばします。このため、ユーザーからはディスプレイ表面にリアルな爆発が発生したように見えるのです。この作品は、2012年の SIGGRAPH(北米で行われるCGやインタラクション技術などを扱う世界最大の学会)における発表、2012年の Laval Virtual Award(フランスで行われる世界最大の VR・3Dなどのコンテスト)における「3D Games and Entertainment 賞」の受賞、アジアデジタルアート大賞優秀賞受賞などでの発表の機会に加えて、国内外50か所以上の美術館などでの展示を行い、好評を博することができました。もう一つ、「アクアトップ ディスプレイ(Aquatop Display」は、お風呂の水面をタッチパネルディスプレイにしたものです。お風呂に入浴剤を入れて真っ白にした状態で、上からプロジェクターで映像を投影することで水面をディスプレイにします。さらに「キネクト」という特殊なセンサーカメラで、水面にタッチした指や、水の中から水面上へ突き出した指の位置を検出することで、お風呂の水面がタッチパネル付きディスプレイになるという作品です。フランスで開催された Laval Virtual 2013 でのグランプリ受賞や、WBS 2013 トレンドたまご年間大賞 他、数々の賞を受賞することができました。 その他にも触ると痛いタッチパネルディスプレイ「Biri-Biri」や、生きた魚のディスプレイ「ChatFish」、水の滝のディスプレイ「AquaFall Display」他を作っています。 スプラッシュディスプレイ アクアトップ ディスプレイ 流動床に戻りますが、どのようにして世に出していったのでしょうか。 「流動床インターフェース」を制作したのは2016年ですが、発表で最も早いものは、2017年3月3日明治大学で行われた、情報処理学会主催のシンポジウム「インタラクション2017」でのデモ発表ですね。このシンポジウムには多数の HCI 研究者が参加していたのですが、流動床について知識を持っている来場者はほとんどいないことがわかりました。デモ発表では、HCI 研究者から大きな驚きと興味をもって迎えられ、一般参加者の投票で選ばれる賞とプログラム委員で決定する賞の2つのデモ賞を受賞することができました。得票数は「断トツ」ということでした。テレビや新聞にもこれまでに40回以上取り上げられています。2017年3月17日テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」というニュース番組の「トレンドたまご」コーナーで、最初に取り上げてもらいました。スタジオの方々には「流動床による砂の液状化や HMD を使ったVR」のハイテクな要素と「人間の手を介して実現されるアナログな演出」のローテクの要素のギャップに、ユニークな印象を持っていただけたようです。同年12月に「2017トレンドたまご年間大賞」を受賞しています。これまでに何度も大学外で展示を行っていますが、ほとんどの人が水のように変化する砂に初めて接することで、驚き、歓声を上げていました。また流動化した砂に腕を入れてかき混ぜる体験は、水のようになめらかなのに濡れることがない何とも言えない不思議な感覚で、「気持ちが良い」「目を閉じれば水」「癒される」「家に欲しい」という意見が多く聞かれました。流動床を世に出すにあたっては、ものつくり大学の菅谷諭先生のご尽力に触れないわけにはいきません。菅谷先生は砂1トンを必要とする本装置のために、学内に場所を提供してくださいました。また、特許取得にあたっても、菅谷先生はお知り合いの弁理士の紹介等、特許取得を後押ししてくださいました。 初期の流動床インターフェース テレビ収録の様子 他に印象に残っているものは。 幕張メッセ及び ZOZO マリンスタジアムで開催されたロックフェスティバル「SUMMER SONIC 2017」(2017年8月19~20日)にて、江崎グリコ社ブース内の体験型アトラクション「なめらカヌー」の流動床部分を制作し、展示を行いました。江崎グリコ社は毎年、同社のアイス製品「パピコ」のなめらかさを表現する趣旨のアトラクションを展示しています。2017年は「なめらかに流動化した砂の上でパピコの形をしたカヌーに乗り、複数の小型バスケットゴールに投げ入れる」という競技の要素を持った展示を行うことになり、これまでにない大規模な装置を製作しました(4メートル×3メートル、深さ30センチ、砂を約5トン使用)。カヌーはパピコをそのまま大きくした形状にしたため、胴体が円筒状となり、底が丸く非常に不安定で転覆しやすい状態になってしまいました。このため、砂の中に隠れて見えないように、底からワイヤーを伸ばしてカヌーにつなげ、傾く角度に制限をつけて転覆しない構造にしました。来場者は、乗り込むまでは安定しているのですが、その後のスイッチ操作で砂が突如液状化し、不安定な状態になるアトラクションに、新鮮な驚きを感じてくれたようです。 最後に、ものつくり大学の学生にメッセージをお願いします。 私にとって創造の原動力になっているのは、「今まで誰も想像していなかったアイディアを考え、新しくてすごい物を作りたい」という思いでした。これまで、思いついたアイディアをいろいろな場で提案してきました。ただ、変わった発想のアイディアって認めてもらえないことが多いですね。特に日本ではそうなのかもしれません。将来、学生の皆さんが提案したアイディアが周りの人から認められない、ということがあるかもしれません。でも、めげないでください。よくあることです。実は、私が今まで作ってきた研究作品の中で、もっとも優れたアイディアだと自分で思うのは「信号機カメラ」と「ツイドア」という作品です。「信号機カメラ」は全盲の方に歩行者用信号機の色を音声で伝えるスマホアプリで、「ツイドア」は認知症高齢者の徘徊の発生をツイッターを利用して写真付きで伝える装置です。「福祉関係だから良い」という訳ではなく、アイディアのシンプルさや効果など、総合的に考えて今までの作品の中でダントツに良いと思っています。しかしこの2つとも今までの学会発表やテレビでの紹介では(自分では不思議に思うのですが)ほとんど評価されていません。評価基準が人とずれているのかも…とも思いますが。電気通信大学時代に開発した「アクアトップ ディスプレイ」も、大学でこのアイディアを私が最初に提案したときの周りの反応は「お風呂はそういうことをするところじゃないでしょ」といったように芳しくないもので、共同研究者を探すのも苦労するほどでした。しかし、実際に開発すると高い評価を受け、数々の賞を受賞しました。流動床インターフェースも開発当初、都内にある知り合いの大学の研究室に共同研究を持ちかけたものの、共同研究には至らなかった経緯があります。もしも、おもしろいアイディアを思いついたけれど他人から評価されなかったときは、説明がうまく出来ていないのかもしれません(本当におもしろくないという可能性もありますが…)。そんなときは試作品を作って見せると、理解してもらえることも多いです。ものつくり大学は機材が充実しているし、すぐれた技術を持つ先生方からアドバイスをもらえます。アイディアがあればどんどん実現させることができる環境があるので、ものつくり大学の学生の皆さんにも、どんどんおもしろいものを作り出してほしいと思っています。モチベーションは何でもいいと思います。私の場合、流動床が世の中の関心を集めたこともあって、テレビ取材を多く受けました。たくさんの芸能人に会うこともできました。そのような動機でもいいと思います。また、おもしろいものをおもしろいと思える感性も大切だと思います。他人の意見に左右されず、感性を磨きましょう。おもしろいものを作るためにはアイディアをたくさん考え、たくさん試して、たくさん失敗することも大事だと思います。たくさん失敗を経験することで「失敗しない作り方」がわかってきます。ぜひどんどん挑戦して、優れたアイディアを世の中に出してほしいと願っています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・的場やすし YouTubeチャンネル

  • 創造しいモノ・ガタリ 03 ~「問い」を学ぶ。だから学問は楽しい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は教養教育センター 土居浩教授に伺いました。 Profile 土居 浩(どい ひろし)教養教育センター 教授総合研究大学院大学 博士課程(国際日本研究専攻)修了。博士(学術)。2001年ものつくり大学開学当初から着任。関心領域は、日常意匠論。 少年時代から先生になりたいと思っていたのでしょうか。 中高時代は学校の先生になれればいいなとは思っていましたね。先生のロールモデルで記憶しているのは理科の先生です。科目は理科なので思い出されるのは白衣姿なのですが、器楽演奏をはじめ音楽にも造詣が深く、ギター・マンドリン部の顧問としてお世話になりました。今にして思えば、学びを楽しまれている先生方との出会いに、恵まれてましたね。大学教員とは無縁の幼少期でしたので、その具体的イメージは皆無だったのですが、それでも、大学入学後に教わりました先生方は、とても楽しそうに見えたことが印象に残っています。 先生の専門分野は民俗学、宗教学ですが、専門分野に進む上でのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。 平成になってから、京都の伏見にある教育大学に進学しました。振り返れば当時の日本はバブル経済の只中でしたが、その恩恵を私自身は感じなかったですね。それよりも、天安門事件やベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった激動する世界各地のニュースが流れる中、東京から距離を置いた京都で、ゆったりとした学生生活に浸った良き時代でありました。結局、十二年ほど京都で暮らしたので、私にとって京都は古里のひとつですし、今でも私の半分くらいは京都時代の要素で形成されている、とすら感じます。大学時代は地理学を専攻しておりまして、しばしば先生とともに現地を観察する機会が多かったことは大きかったと思います。それがフィールドワークという調査手法であることを後から学ぶわけですが、むしろ、歩くとそこが調査対象の現場になる体験が強烈でした。都会だろうが田舎だろうが、先生に同行すると、何とはない風景から何かが見出される。そんな「見方」を教わるわけです。この体験は私にとって研究者の眼の凄みを思い知らされる点で決定的でした。いま私が思い浮かべているのは、地理学の恩師である坂口慶治先生で、廃村研究が御専門です(これまでの研究が『廃村の研究:山地集落消滅の機構と要因』にまとめられています)。活きた地理学を学ぶ上で本当にお世話になりました。坂口先生は、大学時代に得ることのできた大切なロールモデルのお一人です。フィールドワークに同行すると、いつも楽しんでおられたことは印象的でしたね。先生が誰よりもその現地を楽しんで学んでいる。中高時代の先生もそうだったのですが、この学ぶ楽しさを全身で示していただいたことは、私の学びの原体験の一つとして、かつ現在の私の教育姿勢の根本として刷り込まれているかと思います。学部3回生の時に(講義とは全く関係なく)書いたレポート。すでにこの時から現在の専門に近い関心があったらしい。そんな影響の一端かと思いますが、私のゼミでの卒業研究のテーマを、学生以上に私が面白がっていることが、しばしばあります。たとえばコイン精米所についての研究(概要を研究室ウェブサイトに掲載してます)です。調査を重ねると、田舎よりも都市に近い土地に立地しているとか、勝手に思い込んでいた常識が覆る面白さがありました。このような身近なところにあるモノのような、小さな歴史を調べていくのは本当に楽しいことです。どんなありふれた(と思い込んでいる)風景にも、ありふれていない固有の物語があるのですから。おそらく私が大学で学んだことは、先生たちから座学として教わる知識よりも、先生のフィールドワークに同行することで、研究対象を楽しがる・面白がる技能を身につけたことだと思います。ある種の感染ですよね。次世代へわずかなりとも感染させたいものです。 コロナ禍で24時間営業を停止したコイン精米所(鴻巣市) コロナ禍でマスクするパチンコホールのキャラクター(さいたま市) 先生は「お墓」の研究でも知られていますが、専門分野に進む契機を教えてください。 やはり京都で暮らしたことが大きいです。京都の繁華街を散策していた時に、映画館の裏手に寺院が並んでいて、墓地だらけなことに気付いたんですね。私自身が生まれ育った実家のお墓は、市街地から離れた市営墓地の一角にあります。ですから初発の問いは「京都の墓はなぜ街の中心部にあるのか」でしたね。この問いが解けたら次の問いが生じて、今に至るような「墓ばかり調べている」人になりました。地区の納骨堂(福岡県筑後市)散骨の島として知られるカズラ島(島根県海士町)を対岸から眺める問いがイモヅル式に連鎖する過程で、地理学に限定されず、より幅広い視点から研究したいと考え、博士課程では総合研究大学院大学の国際日本研究専攻へ進学しました。この組織は国際日本文化研究センター(日文研)が受入機関で、京都の桂坂という、当時まだまだ開発中だったニュータウン地区の最辺縁部に位置してました。たいへん恵まれた研究環境で、特に図書館は、蔵書はもちろん研究支援サービスも含め、極めて充実していました。曲りなりとも私が博士論文をまとめることができたのは、日文研の図書館の支援なくしては、ありえなかったですね。日文研という機関がようやく創立十年になる頃で、私が在学した専攻としては四期生で、集団としても若かったですね。教員(教授・助教授・助手)も院生も、サロンのような交流部屋で活発に議論していたことを思い出します。実はその仮想敵として想定されるのが、梅原先生でした。何しろ日文研の初代所長として、当時の日本文化論に大きな影響を与えておられましたので、いかに梅原日本学を乗り越えるかが、教員も院生も共通する課題でした。この日文研での縁、梅原先生と縁が結ばれたことが、ものつくり大学に関わることになりました。 梅原先生について教えてください。 この大学の関係者からは、私が梅原先生の直弟子だと勘違いされたこともありましたが、私は世代的に「孫弟子」にあたります。さらには、直接にお会いしたのが日文研という研究所でしたので、研究会に同席するというヨコの繋がりで対面しましたので、教壇から教わるようなタテの繋がりとは違います。梅原先生といえば、本当に愉しげに研究について語るお姿しか思い出せないほど、「学問は楽しい」を根底に据えておられた方でした。これは私が梅原先生からいただいた最大の学恩です。ここまで口頭では「梅原先生」と申し上げておりますが、正直、言い慣れないです。隔絶した偉人ですから、むしろ「梅原猛」と呼ぶのが相応しい。そう感じています。以前もエッセイに書きましたが、夏目漱石や和辻哲郎のように教科書に載るような、あるいは吉本隆明や司馬遼太郎のような高名な人に「先生」をつけると違和感がありますよね。個として強烈な人物だからでしょう。強烈な人物からは、熱気・元気・覇気の類が感じられるものですが、私が直接にその気にあてられ続けているのが「梅原猛」です。ものつくり大学着任直後、開学時の入学式の式辞を今もよく覚えています。それは「伝説」の式辞と呼ぶにふわさしいものでした。一般的に式辞と言えば、長くても5分程度かと思うのですが、梅原猛の式辞は1時間を超えて行われた大演説だったからです。途中に一度休憩を挟まざるをえないほどの熱弁を梅原猛はふるわれました。それは、ものつくり大学にかける思いの燃え上がるがごとき祝辞だったのです。「なぜものつくり大学が必要なのか」。その文明史的な観点から語っておられたのですが、そのとき浴びた熱気が、今でも私にとっての教育の熱源になっているのでしょう。 そのような影響は先生の現在の教育姿勢にも強く反映されていますね。 そうですね。学生だった頃、私たちを導いてくれた先生方の姿がとてもいきいきと楽しそうだったことが、現在の私の精神的細胞を形づくっているようにも感じています。学生がどう感じているかわかりませんが、私自身はいつも楽しく、ともに学生と学べることをありがたく思いながら教員生活を送ってきました。それに、楽しく学ぶことは、新しい問いを連れてきてくれます。学問とは「問いを学ぶ」とも読める。現在、AI(人工知能)が速やかに滑らかに何らかの回答を導き出してくれるのが話題になっていますが、ここで私のいう「問いを学ぶ」について、AIはどんな回答を提供してくれるのでしょうか。ごく最近のChatGPTを巡る議論は、私から眺めると「適切な問いとは何か」との延長上でしかありません。つまるところ、適切な答えへと至る「問いを学ぶ」姿勢を鍛えるしかない。これこそ教養として、誰もが身につけるべき基礎技能だと、私は確信しています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・教養教育センター 日常意匠研究室(土居研究室)

  • 創造しいモノ・ガタリ 02 ~「本物」を見に行こう~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は建設学科 八代克彦教授に伺いました。 Profile 八代 克彦(やしろ かつひこ)技能工芸学部建設学科 教授 1957年、群馬県沼田市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。博士(工学)。札幌市立高等専門学校助教授を経て、2005年にものつくり大学へ移籍。専門は建築意匠・計画 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 専門の建築意匠・計画の分野だけでなく、いろいろなモノに対して自然と関心が向いてきた研究人生であったと思います。一見すると寄り道に見えることが、後々意外なところで新しい活動につながったり触発されたりといったこともずいぶん体験してきました。 やはり研究人生の基点となったのが、東京工業大学の4年次に所属した茶谷正洋研究室です。茶谷先生は世間では「折り紙建築」の創始者として有名ですが、実は建築意匠・構法の研究者として環太平洋の民家を精力的にサーヴェイされており、その総仕上げともいえる中国の地下住居に研究室所属時に出くわし、一辺で魅了されました。時は1980年代初頭、中国北部の黄土高原に見られる伝統的な住居形態・窰洞(ヤオトン)と呼ばれる地面に穴を掘って生活する人々がなんと4,000万人もいました。これは、中国の陝西省北部、甘粛省東部、山西省中南部、河南省西部などの農村では普通に見られる住宅形式です。地坑院ともいわれており、現在では国家級無形文化遺産にも登録され、今でもかなりの数の人々(約1,000万人?)の人々が崖や地面に掘った穴を住居として利用しています。 その研究を行ったのが、1980年代中葉、天安門事件の前の時代でした。西安に留学し、住居の構造はもちろんのこと、文化人類学的な関心からも研究を深めることができました。黄土高原の表土である黄土は、柔らかく、非常に多孔質であるために簡単に掘り抜くことができ、住居全体を地下に沈めた「下沈式」と呼ばれる、世界的にも特異なものでした。今ならドローンで比較的安易に撮影可能と思いますが、当時はそのようなものはありませんので、横2m×縦2.7mほどの大きな六角凧で空撮を敢行しました。どこに行っても住人が凧の紐を持つのを争って手伝ってくれたのが懐かしい思い出です。 ヤオトン空撮写真(河南省洛陽) その経験が後々まで力を持ったということですね。 そうだと思います。やはり最初に関心を持った分野というのは、後々まで影響するようで、現在に至っても、私の建築デザインの原型にはあの洞窟住居があるように感じています。東工大の後は札幌市立高等専門学校に務めました。この学校は全国初かつ唯一のデザイン系の高専で、校長が建築家の清家清先生です。この学校で研究からデザイン教育にフォーカスしていったのですが、一貫して地下住居への関心は持ち続けてきました。なぜか気になる。そこには、必ず何かがあるはずなのです。その何かが研究を継続するうえでの芯のようなものを提供してくれたのかとも思う。まさに穴だらけの研究人生です。その後、2005年からものつくり大学で教鞭を執るようになりました。ものつくり大学では、手と頭を動かしてモノをつくる、ものづくりにこだわりを持つ学生が多く、刺激的な教育研究生活を送ってこられたと思います。これからも、学生には自分の中にある関心の芽を大切にしてほしいと思いますね。私の場合それは中国の地下住居だった。関心対象はどんどん形を変えていくかもしれないけれど、核にあるものはたぶん変わらない。二十歳前後の頃に、なぜかはっとさせられたもの、心を温めてくれたもの、存分に時間とエネルギーを費やしたものは、一生の主軸になってくれます。 ものつくり大学で最も強い思いのある作品は何ですか。 いろいろあるのですが、とりわけル・コルビュジエ(1887~1965年)の休暇小屋原寸レプリカが第一に挙げられると思います。現在ものつくり大学のキャンパスに設置されています。コルビュジエは、スイス生まれのフランス人建築家で、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスと並んで近代建築の四大巨匠の一人に数えられる人です。これは正確には、「カップ・マルタンの休暇小屋」と言います。地中海イタリア国境近くの保養地リヴィエラにあるコルビュジエ夫婦のわずか5坪の別荘です。1951年にコルビュジエ64歳の折、妻の誕生祝いとして即興で設計して翌年に完成させた建築物です。打ち放しのコンクリートがコルビュジエの一般的なイメージなのですが、休暇小屋はきわめて珍しい木造建築なのですね。日本でのコルビュジエ作品としては、上野の国立西洋美術館が有名です。彼が設計者に指名されたのは1955年ですから、国立西洋美術館の構想も休暇小屋で練り上げられた可能性もあります。 どんなプロジェクトだったのでしょうか。 レプリカ制作に着手したのは、2010年6月、当時神本武征学長の頃でした。学長プロジェクトとして「とにかく大学を元気にする企画」という募集があって、さっそく有志を募ってプロジェクトを立ち上げました。「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」がそれです。建設学科と製造学科(現 情報メカトロニクス学科)両方の教職員学生を巻き込み、世界的名作とされる住宅や工業製品を原寸で忠実に再現することを通して、本物のものづくりを直に体験してほしいと考えて始めました。第一弾となったのが、この小さな休暇小屋であったわけです。そのこともあって、2010年9月に急いでフランスに渡り、必要な手続きを行うことになりましたが、これがとても刺激的でした。ありがたいことに、パリのル・コルビュジエ財団からは、翌10月には無事に許諾を得ることができました。2011年2月には、カップ・マルタンに学生10名、教職員6名とともに実物を見に行きました。これは現地の実測調査も兼ねており、約2年間の卒業制作として、設計、確認申請、施工とものつくり大学の学生たちが、ネジ一個から建具金物、照明、家具に至るまで丸ごと再現しています。実際に現地で見て、自分たちの手で原寸制作する。本人たちにとって本物のすさまじさを思い知らされる体験だったはずです。繰り返しになりますが、休暇小屋は私にとって、両学科協働で制作したものですから、両学科の叡智を結集した象徴的作品といってよい。現在は遠方からも足を運んで見に来てくださる方が大勢おられます。 カップマルタン実測調査の様子 教育研究にあたって心がけていることは何でしょう。 私はオプティミスティック(楽観的)な性格だと思っています。やはり学生に対しても希望と好奇心の大切さを語りたいと常々思っています。悲観的なことを語るのは、なんとなく知的に見えるかもしれないけど、現実には何も生み出さないのですね。特に本学の学生は、テクノロジストとして、将来ものづくりのリーダーになっていくわけですから、まずは自分がそれに惚れていないと明るい未来を堂々と語れないと思う。リーダーは不退転の決意で明朗なビジョンを語れなければ、誰もついていきたいとは思わないでしょう。そのこともあって、教育や研究の中でも、いつも学生には希望と好奇心、プラス一歩前に出る勇気を伝えてきたと思います。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 私自身は「タンジブル」なもの、いわゆる五感で見て触れることを大切にしてきました。それらは物質という形式をとっているわけですけれども、創造した人の精神や思いの結晶でもあるわけです。そうであるならば、現在のようにオンラインとかネットで見られる時代だからこそ、なおさら本物に触れてほしいと思います。本物に触れなければどうしても伝わらないものがこの世界には偏在しているから。たとえば、「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」も、実物のみが語る声に対して繊細に耳を澄ませる体験がぜひとも必要だった。だから、カップ・マルタンまで足を運んだのです。それは私が大学時代、洞窟住居を研究するために中国に留学したのと同じ動機です。まさに、ホンモノ《・・・・》というのは千里を遠しとせず足を運ばせるにふさわしい熱量を持っているものなのです。フランスに本物があればフランスに行くし、中国に本物があれば中国に行く。そんな具合に私は世界中を見て回ってきたと思います。だから、ぜひ学生諸君には本物を相手にしてほしい。本物に触れ、その熱度に打たれてほしい。そのためにはどんどん外に行ってほしいと思います。まずはコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。上野にあるわけですから。電車に乗れば一時間程度。たいした距離ではありません。実際に行って五感をフルに働かせてほしい。頭だけで想像したのとはまったく違う質感、コルビュジエの手触り感が伝わってくるはずです。 カップ・マルタンの休暇小屋レプリカの室内 八代教授と藤原名誉教授の著書「図解 世界遺産 ル・コルビュジエの小屋ができるまで」(エクスナレッジ刊) 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 デザインプロセス研究室(八代研究室)

  • 創造しいモノ・ガタリ 01 ~ドラッカーの助言「まず模範となる人を探しなさい」~

    ものつくり大学では様々な教員が、それぞれの専門分野の教育・研究を行っています。「創造しいモノ・ガタリ」では、教育や研究にのめり込むきっかけとなったヒト・モノ・コトを起点に自身について語ります。第1回はドラッカー研究の第一人者である教養教育センターの井坂康志教授に伺いました。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 大学卒業後、編集とメディア・プロデュースの仕事に従事していたのですが、入社して数年の2001年にドラッカーについてのインタビュー記事を担当したのです。当時ドラッカーのリバイバル・ブームが巻き起こっていて、書店でも『プロフェッショナルの条件』『チェンジ・リーダーの条件』などが大ベストセラーとなっていました。 ドラッカーの著作のほぼすべてを翻訳し、日本の無二の友人でもあった上田惇生先生に8回にわたるロングインタビューを行ったのが、私とマネジメントとの出会いでした。 上田先生に接して、ドラッカー経営のフレームをはるかに超越したすさまじさに触れた気がしました。私は28歳で、本格的な活動領域を見定めようと考えていたことも手伝って、ほとんど直観的に「あ、この人についていこう」と感じたのをはっきりと覚えています。あのインタビューが私の人生と仕事にとっての岐路だったのだと今にして実感します。 それは、どんなインタビューだったのですか? 上田先生とはじめてお目にかかった2001年、ちょうど日本経団連からものつくり大学教授に移籍された頃でした。大学設立にかかる東奔西走のなか、都心で1時間足らずの時間をいただけたときの喜びは今も胸に残っています。初対面時は少し謹厳な印象でしたが、お付き合いするうちに人を年齢や立場で分け隔てしない、風通しのいいお人柄とすぐにわかりました。インタビューは総計80時間にも及ぶもので、「ドラッカーの8つの顔」と題して『週刊東洋経済』に8週にわたって連載されました。今も読むことができます。いわゆる経営やマネジメントだけでなく、ドラッカーの持つ幅広い発言領域にも言及し、人となりや思想・哲学にも踏み込んでいます。インタビューは英訳されて、当時存命だったドラッカー本人にも読んでもらうことができました。「私を知る上でこのインタビューにまさるものはない」との評価をいただけたのは、一生の思い出です。 上田先生との出会いからご自分が変容したと感じるのはどのようなことでしょうか。 上田先生からいただいた宝物はあまりにも豊か過ぎて簡単に要約できませんが、やはり「強みを見よ」とのメッセージだと思います。それまでは強みという言葉さえ知りませんでしたから、はっと胸を突かれたことを記憶しています。上田先生ご自身が、人の強みしか見ない方でした。人には多くの弱みがある一方で、強みも必ずあります。要は見ようとするかしないかだけの問題です。その強みに最大の仕事をしてもらうことが大事なのだと上田先生はよく語っていました。いわば強みをかなてこ代わりに世界の重たい扉をぶち破る感覚です。これはマネジメントの底流にある考え方でもあります。 2005年5月7日、ドラッカーへのインタビュー風景(クレアモントの自宅) 加えて、2005年5月、亡くなる半年前のドラッカーに会うことができた。一生ものの僥倖でした。強力な後押しをしてくださったのもやはり上田先生でした。ちょうどその頃上田先生とともにドラッカー学会設立に動き始めてもおり、ほかならぬ本人から学会設立の許諾と賛意を得るという得難い副産物もありました。 さらにもう一つ、上田先生の生き方自体が私にとって偉大な規範として作用したこともあります。あえて言えば、自分を一つの箱に閉じ込めてはいけない、二つ以上のフィールドを同時に生きなければならないということです。上田先生は日本経団連退職後、本学開学に合わせて教授に着任され、第二の人生を教育研究に移されました。大学を退職されてからは、独立翻訳家として卓越した訳業を成し遂げられています。上田先生には日本経団連職員、ものつくり大学教授、翻訳家の三つの顔があったことになります。人生百年とも言われる昨今、一つの分野にアイデンティティを預けるのはある意味でリスクなのですね。複数の課題を自らに課して、強みをエンジンにして多面的に貢献していく。そんな考えを上田先生から学んだように感じています。 どうして編集者から大学に転身したのでしょうか。 上田惇生先生と共著とともに。 専任教員として着任したのは2022年なのですが、ずっと前の2004年から上田先生とともに「マネジメント論」「一般社会学」などの社会科学系科目を非常勤講師として教えていました。起点をそこにとれば、ものつくり大学とのご縁は20年近くになります。ものつくり大学はテクノロジスト養成の高等教育機関です。上田先生はよく「畳の上の水練」ではいけないとおっしゃっていました。知識を頭の中だけに閉じ込めてはいけない。知識とは自由なものだからです。 私は出版社で本や雑誌など500点ほどを手がける機会に恵まれました。私の解釈では、編集者もアイデアを形にする意味では、テクノロジストの一種です。その体験を若い人たちと共有したいという思いはかねてからありました。ちょうど50歳を目前としていた時期でもあり、転身によい頃合いとも思えました。 教養教育センターでは、現在どのような活動を行っていますか。 学部向けの授業として「Druckerのマネジメント論」などの講義を持っています。学生とともに、とりわけ関心を惹く企業や団体を選定し、統合報告書やESGレポートの読解を通してマネジメント特性を分析する事例研究を行っています。研究としては、ドラッカーの残した書簡や講義などの一次資料を用いて、著作やコンサルティング活動の関係性の調査、それと第二次大戦後形成された日本的経営、経営ジャーナリズムに与えたドラッカーの影響を考察したりしています。 学外向けの活動としてはどのようなものがありますか。 社会人向けの講座をいくつか開講しています。2022年度は「現場で生かすマネジメント」として、中間管理職を想定した講義をオンデマンドで配信しました。時間管理、意思決定、フィードバック分析など比較的即効性の高いマネジメント手法についてお話ししています。2023年度は、お世話になった上田先生の人と業績を顕彰する意味で、「上田惇生記念講座 ドラッカー経営学の真髄」という連続講義を開講する予定です。上田先生と公私ともに親しくされた外部講師数名を招き、それぞれの視点からドラッカー経営学の要諦を語っていただくというものです。こちらもオンデマンドで配信されます。将来的には埼玉の地元中小企業、学校、病院等にドラッカーのマネジメントを広く活用していただけるプラットフォームづくりを行っていきたいと思っています。というのも、本学の位置する埼玉県には優れた資源が少なくありません。近隣の深谷市はドラッカーが尊敬した渋澤栄一翁の故郷でもありますし、高い技術を持つ中小企業も多く集積しています。私自身、近隣自治体の加須市出身でもありますので、地域に根差した発展に多少とも貢献できればと願っているところです。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 生きていればもちろん失敗など数限りなくあります。歩いていれば誰でも転びます。転んでいない人は、まだ歩みを始めてさえいない人だと思う。そこで大切なのは、したたかに学び続けることですね。とくに歴史から学ぶことです。私はしばしば学生に「起こったこと・考えたことをその日のうちに書きとめておくように」と伝えるのですが、日記を書くことは時間を味方につけることであり、振り返りを通して自己成長に大きく寄与することは間違いありません。「あのとき、困難をこんな風に乗り越えたんだ」という自信にもなりますし、何より自分についての貴重なデータベースになります。それともう一つ。どこへいっても最初に尊敬できる人を探してほしい。この人から学びたい、こんな風になりたいという人を真っ先に探すことです。見つけ出したら、決して離れないことです。学べるものは何でも学ばせてもらうといい。きっと喜んで経験や知恵を分け与えてくれるでしょう。ドラッカーは常々若い人に、「まず模範となる人を探しなさい」と助言していたそうです。私自身若い頃に多くの尊敬できる方々をお会いできたことはつくづく幸運であったと実感します。上田先生やドラッカーは私にとってまさしくその最たる存在でした。若い方の心の片隅にとどめておいてもらえたら嬉しいと思います。 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・上田惇生名誉教授連載インタビュー

  • 創造しいモノ・ガタリ 04 ~私の原動力-「誰も想像していなかったもの」をつくりたい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は、的場やすし客員教授に伺いました。 Profile 的場 やすし(まとば やすし)的場ラボ(個人事業主)主宰信州大学理学部生物学科卒業後、本田技術研究所における自動車材料研究、認知症高齢者介護施設運営に理事として参画等を経て現在は、ものつくり大学客員教授、お茶の水女子大学学部教育研究協力員。仮想世界と実物体を融合した新しいインターフェースを研究中。これまでに、ACM SIGGRAPH Art Gallery(2000、2007)、Emerging Technologies(2011、2012、2013年)や、Ars Electronica(1999年)への作品出展をはじめ、デジタルコンテンツグランプリ アート部門インタラクティブ賞(2001年)、アジアデジタルアート大賞展 インタラクティブアート部門優秀賞(2012、2013年)、Laval Virtual Awards 部門賞(2011、2012、2013年)グランプリ(2013年)、CEDEC インタラクティブ賞(2017年)、経済産業省 Innovative Technologies 特別賞(2013、2017年)、テレビ東京 WBS トレンドたまご年間大賞(2013、2017年)他受賞 先生の研究の原点はどのようなものだったのでしょうか。 子どもの頃からアイディアを考えるのが好きでした。優れたアイディアを見るのも大好きで、小さい頃に初めてトイレットペーパーをワンタッチで交換できる機構を見たときに、ものすごく感動した記憶があります(それまでは伸縮する棒で固定する、面倒くさい機構しか知らなかったので)。小さい頃から面倒くさがりで、常に「楽をしたい」と思っていたので「苦労して行っていた作業がアイディアひとつで楽になる」というのは非常に素晴らしいことだと考えていました。大学時代は信州大学理学部の生物学科に在籍し、蚕のさなぎの休眠時の呼吸について研究していました。卒業後は、バイク好きだったこともあり、本田技術研究所で材料関係の研究職に就いて、内装材の研究開発などに従事していましたが、20代の後半に違うことをしたいと思って研究所を辞めて、介護施設の運営に関わる仕事などを行ってきました。このころから「HCI」(ヒューマンコンピュータインタラクション)分野に興味を持ち、メディアアート作品の制作を始めました。ものつくり大学との出会いは2008年、修士課程入学を機としています。ずっとものをつくるのは好きだったので木工などは得意でしたが、金属加工などはわからないことが多かったので、菅谷諭先生のもとで取り組みました。2009年の大学祭の「ものつくりコンペ」に「シャボン玉 空気砲」という作品を出展して優勝したこともあります。ものつくり大学を卒業した後、電気通信大学の博士課程に籍を置き、約8年インターフェースの研究を続けました。 2009年ものつくりコンペ優勝作品「シャボン玉 空気砲」 現在先生は流動床で知られていますね。きっかけを教えてください。 流動床という現象は古くから様々な産業で使われてきましたが、一般にはほとんど知られていませんでした。私は流動床と仕事の上で直接の関係があったわけではありません。そのおもしろさを見つけることができたのは半ば偶然の出合いであり、非常に幸運だったと感じています。きっかけは、ある日 YouTube で流動床焼却炉の動画を目にしたことです。それを見ていた時、「普通の状態では、その上を歩くことのできる砂が、スイッチを入れると液状化して、中で泳げるようになる」という世界初の装置が作れると思いました。そしてこれをインターフェースとして、面白いエンターテイメントシステムが絶対作れると確信したわけです。このアイディアが始まりでした。そして2016年に「流動床インターフェース」を作ったのですが、作ってみたら液状化した砂の感触が想像以上に面白くてびっくりしました。 それまでもいろいろなディスプレイを作ってこられたのですね。その話を伺えますか。 2011年に制作した「スプラッシュディスプレイ(SplashDisplay)」があります。たとえば、通常のテレビや映画では爆発のシーンが映っても実際に画面上で物理的に物体が飛び散る現象が起きるわけではありませんが、物理的な物体の移動を伴うことで、リアルに爆発したように見えるディスプレイを実現しました。底面120センチ×90センチ、深さ30センチの容器を発砲ビーズで満たし、上方に設置したプロジェクターからビーズの表面へ映像を投影して水平型のディスプレイを構成します。容器の底は網状になっており、その下に多数の送風機または移動できる送風機を設置して、投影される爆発の映像に合わせて送風機を作動させ、風によってビーズを上方に吹き飛ばします。このため、ユーザーからはディスプレイ表面にリアルな爆発が発生したように見えるのです。この作品は、2012年の SIGGRAPH(北米で行われるCGやインタラクション技術などを扱う世界最大の学会)における発表、2012年の Laval Virtual Award(フランスで行われる世界最大の VR・3Dなどのコンテスト)における「3D Games and Entertainment 賞」の受賞、アジアデジタルアート大賞優秀賞受賞などでの発表の機会に加えて、国内外50か所以上の美術館などでの展示を行い、好評を博することができました。もう一つ、「アクアトップ ディスプレイ(Aquatop Display」は、お風呂の水面をタッチパネルディスプレイにしたものです。お風呂に入浴剤を入れて真っ白にした状態で、上からプロジェクターで映像を投影することで水面をディスプレイにします。さらに「キネクト」という特殊なセンサーカメラで、水面にタッチした指や、水の中から水面上へ突き出した指の位置を検出することで、お風呂の水面がタッチパネル付きディスプレイになるという作品です。フランスで開催された Laval Virtual 2013 でのグランプリ受賞や、WBS 2013 トレンドたまご年間大賞 他、数々の賞を受賞することができました。 その他にも触ると痛いタッチパネルディスプレイ「Biri-Biri」や、生きた魚のディスプレイ「ChatFish」、水の滝のディスプレイ「AquaFall Display」他を作っています。 スプラッシュディスプレイ アクアトップ ディスプレイ 流動床に戻りますが、どのようにして世に出していったのでしょうか。 「流動床インターフェース」を制作したのは2016年ですが、発表で最も早いものは、2017年3月3日明治大学で行われた、情報処理学会主催のシンポジウム「インタラクション2017」でのデモ発表ですね。このシンポジウムには多数の HCI 研究者が参加していたのですが、流動床について知識を持っている来場者はほとんどいないことがわかりました。デモ発表では、HCI 研究者から大きな驚きと興味をもって迎えられ、一般参加者の投票で選ばれる賞とプログラム委員で決定する賞の2つのデモ賞を受賞することができました。得票数は「断トツ」ということでした。テレビや新聞にもこれまでに40回以上取り上げられています。2017年3月17日テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」というニュース番組の「トレンドたまご」コーナーで、最初に取り上げてもらいました。スタジオの方々には「流動床による砂の液状化や HMD を使ったVR」のハイテクな要素と「人間の手を介して実現されるアナログな演出」のローテクの要素のギャップに、ユニークな印象を持っていただけたようです。同年12月に「2017トレンドたまご年間大賞」を受賞しています。これまでに何度も大学外で展示を行っていますが、ほとんどの人が水のように変化する砂に初めて接することで、驚き、歓声を上げていました。また流動化した砂に腕を入れてかき混ぜる体験は、水のようになめらかなのに濡れることがない何とも言えない不思議な感覚で、「気持ちが良い」「目を閉じれば水」「癒される」「家に欲しい」という意見が多く聞かれました。流動床を世に出すにあたっては、ものつくり大学の菅谷諭先生のご尽力に触れないわけにはいきません。菅谷先生は砂1トンを必要とする本装置のために、学内に場所を提供してくださいました。また、特許取得にあたっても、菅谷先生はお知り合いの弁理士の紹介等、特許取得を後押ししてくださいました。 初期の流動床インターフェース テレビ収録の様子 他に印象に残っているものは。 幕張メッセ及び ZOZO マリンスタジアムで開催されたロックフェスティバル「SUMMER SONIC 2017」(2017年8月19~20日)にて、江崎グリコ社ブース内の体験型アトラクション「なめらカヌー」の流動床部分を制作し、展示を行いました。江崎グリコ社は毎年、同社のアイス製品「パピコ」のなめらかさを表現する趣旨のアトラクションを展示しています。2017年は「なめらかに流動化した砂の上でパピコの形をしたカヌーに乗り、複数の小型バスケットゴールに投げ入れる」という競技の要素を持った展示を行うことになり、これまでにない大規模な装置を製作しました(4メートル×3メートル、深さ30センチ、砂を約5トン使用)。カヌーはパピコをそのまま大きくした形状にしたため、胴体が円筒状となり、底が丸く非常に不安定で転覆しやすい状態になってしまいました。このため、砂の中に隠れて見えないように、底からワイヤーを伸ばしてカヌーにつなげ、傾く角度に制限をつけて転覆しない構造にしました。来場者は、乗り込むまでは安定しているのですが、その後のスイッチ操作で砂が突如液状化し、不安定な状態になるアトラクションに、新鮮な驚きを感じてくれたようです。 最後に、ものつくり大学の学生にメッセージをお願いします。 私にとって創造の原動力になっているのは、「今まで誰も想像していなかったアイディアを考え、新しくてすごい物を作りたい」という思いでした。これまで、思いついたアイディアをいろいろな場で提案してきました。ただ、変わった発想のアイディアって認めてもらえないことが多いですね。特に日本ではそうなのかもしれません。将来、学生の皆さんが提案したアイディアが周りの人から認められない、ということがあるかもしれません。でも、めげないでください。よくあることです。実は、私が今まで作ってきた研究作品の中で、もっとも優れたアイディアだと自分で思うのは「信号機カメラ」と「ツイドア」という作品です。「信号機カメラ」は全盲の方に歩行者用信号機の色を音声で伝えるスマホアプリで、「ツイドア」は認知症高齢者の徘徊の発生をツイッターを利用して写真付きで伝える装置です。「福祉関係だから良い」という訳ではなく、アイディアのシンプルさや効果など、総合的に考えて今までの作品の中でダントツに良いと思っています。しかしこの2つとも今までの学会発表やテレビでの紹介では(自分では不思議に思うのですが)ほとんど評価されていません。評価基準が人とずれているのかも…とも思いますが。電気通信大学時代に開発した「アクアトップ ディスプレイ」も、大学でこのアイディアを私が最初に提案したときの周りの反応は「お風呂はそういうことをするところじゃないでしょ」といったように芳しくないもので、共同研究者を探すのも苦労するほどでした。しかし、実際に開発すると高い評価を受け、数々の賞を受賞しました。流動床インターフェースも開発当初、都内にある知り合いの大学の研究室に共同研究を持ちかけたものの、共同研究には至らなかった経緯があります。もしも、おもしろいアイディアを思いついたけれど他人から評価されなかったときは、説明がうまく出来ていないのかもしれません(本当におもしろくないという可能性もありますが…)。そんなときは試作品を作って見せると、理解してもらえることも多いです。ものつくり大学は機材が充実しているし、すぐれた技術を持つ先生方からアドバイスをもらえます。アイディアがあればどんどん実現させることができる環境があるので、ものつくり大学の学生の皆さんにも、どんどんおもしろいものを作り出してほしいと思っています。モチベーションは何でもいいと思います。私の場合、流動床が世の中の関心を集めたこともあって、テレビ取材を多く受けました。たくさんの芸能人に会うこともできました。そのような動機でもいいと思います。また、おもしろいものをおもしろいと思える感性も大切だと思います。他人の意見に左右されず、感性を磨きましょう。おもしろいものを作るためにはアイディアをたくさん考え、たくさん試して、たくさん失敗することも大事だと思います。たくさん失敗を経験することで「失敗しない作り方」がわかってきます。ぜひどんどん挑戦して、優れたアイディアを世の中に出してほしいと願っています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・的場やすし YouTubeチャンネル

  • 創造しいモノ・ガタリ 03 ~「問い」を学ぶ。だから学問は楽しい~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は教養教育センター 土居浩教授に伺いました。 Profile 土居 浩(どい ひろし)教養教育センター 教授総合研究大学院大学 博士課程(国際日本研究専攻)修了。博士(学術)。2001年ものつくり大学開学当初から着任。関心領域は、日常意匠論。 少年時代から先生になりたいと思っていたのでしょうか。 中高時代は学校の先生になれればいいなとは思っていましたね。先生のロールモデルで記憶しているのは理科の先生です。科目は理科なので思い出されるのは白衣姿なのですが、器楽演奏をはじめ音楽にも造詣が深く、ギター・マンドリン部の顧問としてお世話になりました。今にして思えば、学びを楽しまれている先生方との出会いに、恵まれてましたね。大学教員とは無縁の幼少期でしたので、その具体的イメージは皆無だったのですが、それでも、大学入学後に教わりました先生方は、とても楽しそうに見えたことが印象に残っています。 先生の専門分野は民俗学、宗教学ですが、専門分野に進む上でのきっかけとなったのはどんなことでしょうか。 平成になってから、京都の伏見にある教育大学に進学しました。振り返れば当時の日本はバブル経済の只中でしたが、その恩恵を私自身は感じなかったですね。それよりも、天安門事件やベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった激動する世界各地のニュースが流れる中、東京から距離を置いた京都で、ゆったりとした学生生活に浸った良き時代でありました。結局、十二年ほど京都で暮らしたので、私にとって京都は古里のひとつですし、今でも私の半分くらいは京都時代の要素で形成されている、とすら感じます。大学時代は地理学を専攻しておりまして、しばしば先生とともに現地を観察する機会が多かったことは大きかったと思います。それがフィールドワークという調査手法であることを後から学ぶわけですが、むしろ、歩くとそこが調査対象の現場になる体験が強烈でした。都会だろうが田舎だろうが、先生に同行すると、何とはない風景から何かが見出される。そんな「見方」を教わるわけです。この体験は私にとって研究者の眼の凄みを思い知らされる点で決定的でした。いま私が思い浮かべているのは、地理学の恩師である坂口慶治先生で、廃村研究が御専門です(これまでの研究が『廃村の研究:山地集落消滅の機構と要因』にまとめられています)。活きた地理学を学ぶ上で本当にお世話になりました。坂口先生は、大学時代に得ることのできた大切なロールモデルのお一人です。フィールドワークに同行すると、いつも楽しんでおられたことは印象的でしたね。先生が誰よりもその現地を楽しんで学んでいる。中高時代の先生もそうだったのですが、この学ぶ楽しさを全身で示していただいたことは、私の学びの原体験の一つとして、かつ現在の私の教育姿勢の根本として刷り込まれているかと思います。学部3回生の時に(講義とは全く関係なく)書いたレポート。すでにこの時から現在の専門に近い関心があったらしい。そんな影響の一端かと思いますが、私のゼミでの卒業研究のテーマを、学生以上に私が面白がっていることが、しばしばあります。たとえばコイン精米所についての研究(概要を研究室ウェブサイトに掲載してます)です。調査を重ねると、田舎よりも都市に近い土地に立地しているとか、勝手に思い込んでいた常識が覆る面白さがありました。このような身近なところにあるモノのような、小さな歴史を調べていくのは本当に楽しいことです。どんなありふれた(と思い込んでいる)風景にも、ありふれていない固有の物語があるのですから。おそらく私が大学で学んだことは、先生たちから座学として教わる知識よりも、先生のフィールドワークに同行することで、研究対象を楽しがる・面白がる技能を身につけたことだと思います。ある種の感染ですよね。次世代へわずかなりとも感染させたいものです。 コロナ禍で24時間営業を停止したコイン精米所(鴻巣市) コロナ禍でマスクするパチンコホールのキャラクター(さいたま市) 先生は「お墓」の研究でも知られていますが、専門分野に進む契機を教えてください。 やはり京都で暮らしたことが大きいです。京都の繁華街を散策していた時に、映画館の裏手に寺院が並んでいて、墓地だらけなことに気付いたんですね。私自身が生まれ育った実家のお墓は、市街地から離れた市営墓地の一角にあります。ですから初発の問いは「京都の墓はなぜ街の中心部にあるのか」でしたね。この問いが解けたら次の問いが生じて、今に至るような「墓ばかり調べている」人になりました。地区の納骨堂(福岡県筑後市)散骨の島として知られるカズラ島(島根県海士町)を対岸から眺める問いがイモヅル式に連鎖する過程で、地理学に限定されず、より幅広い視点から研究したいと考え、博士課程では総合研究大学院大学の国際日本研究専攻へ進学しました。この組織は国際日本文化研究センター(日文研)が受入機関で、京都の桂坂という、当時まだまだ開発中だったニュータウン地区の最辺縁部に位置してました。たいへん恵まれた研究環境で、特に図書館は、蔵書はもちろん研究支援サービスも含め、極めて充実していました。曲りなりとも私が博士論文をまとめることができたのは、日文研の図書館の支援なくしては、ありえなかったですね。日文研という機関がようやく創立十年になる頃で、私が在学した専攻としては四期生で、集団としても若かったですね。教員(教授・助教授・助手)も院生も、サロンのような交流部屋で活発に議論していたことを思い出します。実はその仮想敵として想定されるのが、梅原先生でした。何しろ日文研の初代所長として、当時の日本文化論に大きな影響を与えておられましたので、いかに梅原日本学を乗り越えるかが、教員も院生も共通する課題でした。この日文研での縁、梅原先生と縁が結ばれたことが、ものつくり大学に関わることになりました。 梅原先生について教えてください。 この大学の関係者からは、私が梅原先生の直弟子だと勘違いされたこともありましたが、私は世代的に「孫弟子」にあたります。さらには、直接にお会いしたのが日文研という研究所でしたので、研究会に同席するというヨコの繋がりで対面しましたので、教壇から教わるようなタテの繋がりとは違います。梅原先生といえば、本当に愉しげに研究について語るお姿しか思い出せないほど、「学問は楽しい」を根底に据えておられた方でした。これは私が梅原先生からいただいた最大の学恩です。ここまで口頭では「梅原先生」と申し上げておりますが、正直、言い慣れないです。隔絶した偉人ですから、むしろ「梅原猛」と呼ぶのが相応しい。そう感じています。以前もエッセイに書きましたが、夏目漱石や和辻哲郎のように教科書に載るような、あるいは吉本隆明や司馬遼太郎のような高名な人に「先生」をつけると違和感がありますよね。個として強烈な人物だからでしょう。強烈な人物からは、熱気・元気・覇気の類が感じられるものですが、私が直接にその気にあてられ続けているのが「梅原猛」です。ものつくり大学着任直後、開学時の入学式の式辞を今もよく覚えています。それは「伝説」の式辞と呼ぶにふわさしいものでした。一般的に式辞と言えば、長くても5分程度かと思うのですが、梅原猛の式辞は1時間を超えて行われた大演説だったからです。途中に一度休憩を挟まざるをえないほどの熱弁を梅原猛はふるわれました。それは、ものつくり大学にかける思いの燃え上がるがごとき祝辞だったのです。「なぜものつくり大学が必要なのか」。その文明史的な観点から語っておられたのですが、そのとき浴びた熱気が、今でも私にとっての教育の熱源になっているのでしょう。 そのような影響は先生の現在の教育姿勢にも強く反映されていますね。 そうですね。学生だった頃、私たちを導いてくれた先生方の姿がとてもいきいきと楽しそうだったことが、現在の私の精神的細胞を形づくっているようにも感じています。学生がどう感じているかわかりませんが、私自身はいつも楽しく、ともに学生と学べることをありがたく思いながら教員生活を送ってきました。それに、楽しく学ぶことは、新しい問いを連れてきてくれます。学問とは「問いを学ぶ」とも読める。現在、AI(人工知能)が速やかに滑らかに何らかの回答を導き出してくれるのが話題になっていますが、ここで私のいう「問いを学ぶ」について、AIはどんな回答を提供してくれるのでしょうか。ごく最近のChatGPTを巡る議論は、私から眺めると「適切な問いとは何か」との延長上でしかありません。つまるところ、適切な答えへと至る「問いを学ぶ」姿勢を鍛えるしかない。これこそ教養として、誰もが身につけるべき基礎技能だと、私は確信しています。 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・教養教育センター 日常意匠研究室(土居研究室)

  • 創造しいモノ・ガタリ 02 ~「本物」を見に行こう~

    教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は建設学科 八代克彦教授に伺いました。 Profile 八代 克彦(やしろ かつひこ)技能工芸学部建設学科 教授 1957年、群馬県沼田市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。博士(工学)。札幌市立高等専門学校助教授を経て、2005年にものつくり大学へ移籍。専門は建築意匠・計画 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 専門の建築意匠・計画の分野だけでなく、いろいろなモノに対して自然と関心が向いてきた研究人生であったと思います。一見すると寄り道に見えることが、後々意外なところで新しい活動につながったり触発されたりといったこともずいぶん体験してきました。 やはり研究人生の基点となったのが、東京工業大学の4年次に所属した茶谷正洋研究室です。茶谷先生は世間では「折り紙建築」の創始者として有名ですが、実は建築意匠・構法の研究者として環太平洋の民家を精力的にサーヴェイされており、その総仕上げともいえる中国の地下住居に研究室所属時に出くわし、一辺で魅了されました。時は1980年代初頭、中国北部の黄土高原に見られる伝統的な住居形態・窰洞(ヤオトン)と呼ばれる地面に穴を掘って生活する人々がなんと4,000万人もいました。これは、中国の陝西省北部、甘粛省東部、山西省中南部、河南省西部などの農村では普通に見られる住宅形式です。地坑院ともいわれており、現在では国家級無形文化遺産にも登録され、今でもかなりの数の人々(約1,000万人?)の人々が崖や地面に掘った穴を住居として利用しています。 その研究を行ったのが、1980年代中葉、天安門事件の前の時代でした。西安に留学し、住居の構造はもちろんのこと、文化人類学的な関心からも研究を深めることができました。黄土高原の表土である黄土は、柔らかく、非常に多孔質であるために簡単に掘り抜くことができ、住居全体を地下に沈めた「下沈式」と呼ばれる、世界的にも特異なものでした。今ならドローンで比較的安易に撮影可能と思いますが、当時はそのようなものはありませんので、横2m×縦2.7mほどの大きな六角凧で空撮を敢行しました。どこに行っても住人が凧の紐を持つのを争って手伝ってくれたのが懐かしい思い出です。 ヤオトン空撮写真(河南省洛陽) その経験が後々まで力を持ったということですね。 そうだと思います。やはり最初に関心を持った分野というのは、後々まで影響するようで、現在に至っても、私の建築デザインの原型にはあの洞窟住居があるように感じています。東工大の後は札幌市立高等専門学校に務めました。この学校は全国初かつ唯一のデザイン系の高専で、校長が建築家の清家清先生です。この学校で研究からデザイン教育にフォーカスしていったのですが、一貫して地下住居への関心は持ち続けてきました。なぜか気になる。そこには、必ず何かがあるはずなのです。その何かが研究を継続するうえでの芯のようなものを提供してくれたのかとも思う。まさに穴だらけの研究人生です。その後、2005年からものつくり大学で教鞭を執るようになりました。ものつくり大学では、手と頭を動かしてモノをつくる、ものづくりにこだわりを持つ学生が多く、刺激的な教育研究生活を送ってこられたと思います。これからも、学生には自分の中にある関心の芽を大切にしてほしいと思いますね。私の場合それは中国の地下住居だった。関心対象はどんどん形を変えていくかもしれないけれど、核にあるものはたぶん変わらない。二十歳前後の頃に、なぜかはっとさせられたもの、心を温めてくれたもの、存分に時間とエネルギーを費やしたものは、一生の主軸になってくれます。 ものつくり大学で最も強い思いのある作品は何ですか。 いろいろあるのですが、とりわけル・コルビュジエ(1887~1965年)の休暇小屋原寸レプリカが第一に挙げられると思います。現在ものつくり大学のキャンパスに設置されています。コルビュジエは、スイス生まれのフランス人建築家で、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスと並んで近代建築の四大巨匠の一人に数えられる人です。これは正確には、「カップ・マルタンの休暇小屋」と言います。地中海イタリア国境近くの保養地リヴィエラにあるコルビュジエ夫婦のわずか5坪の別荘です。1951年にコルビュジエ64歳の折、妻の誕生祝いとして即興で設計して翌年に完成させた建築物です。打ち放しのコンクリートがコルビュジエの一般的なイメージなのですが、休暇小屋はきわめて珍しい木造建築なのですね。日本でのコルビュジエ作品としては、上野の国立西洋美術館が有名です。彼が設計者に指名されたのは1955年ですから、国立西洋美術館の構想も休暇小屋で練り上げられた可能性もあります。 どんなプロジェクトだったのでしょうか。 レプリカ制作に着手したのは、2010年6月、当時神本武征学長の頃でした。学長プロジェクトとして「とにかく大学を元気にする企画」という募集があって、さっそく有志を募ってプロジェクトを立ち上げました。「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」がそれです。建設学科と製造学科(現 情報メカトロニクス学科)両方の教職員学生を巻き込み、世界的名作とされる住宅や工業製品を原寸で忠実に再現することを通して、本物のものづくりを直に体験してほしいと考えて始めました。第一弾となったのが、この小さな休暇小屋であったわけです。そのこともあって、2010年9月に急いでフランスに渡り、必要な手続きを行うことになりましたが、これがとても刺激的でした。ありがたいことに、パリのル・コルビュジエ財団からは、翌10月には無事に許諾を得ることができました。2011年2月には、カップ・マルタンに学生10名、教職員6名とともに実物を見に行きました。これは現地の実測調査も兼ねており、約2年間の卒業制作として、設計、確認申請、施工とものつくり大学の学生たちが、ネジ一個から建具金物、照明、家具に至るまで丸ごと再現しています。実際に現地で見て、自分たちの手で原寸制作する。本人たちにとって本物のすさまじさを思い知らされる体験だったはずです。繰り返しになりますが、休暇小屋は私にとって、両学科協働で制作したものですから、両学科の叡智を結集した象徴的作品といってよい。現在は遠方からも足を運んで見に来てくださる方が大勢おられます。 カップマルタン実測調査の様子 教育研究にあたって心がけていることは何でしょう。 私はオプティミスティック(楽観的)な性格だと思っています。やはり学生に対しても希望と好奇心の大切さを語りたいと常々思っています。悲観的なことを語るのは、なんとなく知的に見えるかもしれないけど、現実には何も生み出さないのですね。特に本学の学生は、テクノロジストとして、将来ものづくりのリーダーになっていくわけですから、まずは自分がそれに惚れていないと明るい未来を堂々と語れないと思う。リーダーは不退転の決意で明朗なビジョンを語れなければ、誰もついていきたいとは思わないでしょう。そのこともあって、教育や研究の中でも、いつも学生には希望と好奇心、プラス一歩前に出る勇気を伝えてきたと思います。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 私自身は「タンジブル」なもの、いわゆる五感で見て触れることを大切にしてきました。それらは物質という形式をとっているわけですけれども、創造した人の精神や思いの結晶でもあるわけです。そうであるならば、現在のようにオンラインとかネットで見られる時代だからこそ、なおさら本物に触れてほしいと思います。本物に触れなければどうしても伝わらないものがこの世界には偏在しているから。たとえば、「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」も、実物のみが語る声に対して繊細に耳を澄ませる体験がぜひとも必要だった。だから、カップ・マルタンまで足を運んだのです。それは私が大学時代、洞窟住居を研究するために中国に留学したのと同じ動機です。まさに、ホンモノ《・・・・》というのは千里を遠しとせず足を運ばせるにふさわしい熱量を持っているものなのです。フランスに本物があればフランスに行くし、中国に本物があれば中国に行く。そんな具合に私は世界中を見て回ってきたと思います。だから、ぜひ学生諸君には本物を相手にしてほしい。本物に触れ、その熱度に打たれてほしい。そのためにはどんどん外に行ってほしいと思います。まずはコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。上野にあるわけですから。電車に乗れば一時間程度。たいした距離ではありません。実際に行って五感をフルに働かせてほしい。頭だけで想像したのとはまったく違う質感、コルビュジエの手触り感が伝わってくるはずです。 カップ・マルタンの休暇小屋レプリカの室内 八代教授と藤原名誉教授の著書「図解 世界遺産 ル・コルビュジエの小屋ができるまで」(エクスナレッジ刊) 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 デザインプロセス研究室(八代研究室)

  • 創造しいモノ・ガタリ 01 ~ドラッカーの助言「まず模範となる人を探しなさい」~

    ものつくり大学では様々な教員が、それぞれの専門分野の教育・研究を行っています。「創造しいモノ・ガタリ」では、教育や研究にのめり込むきっかけとなったヒト・モノ・コトを起点に自身について語ります。第1回はドラッカー研究の第一人者である教養教育センターの井坂康志教授に伺いました。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 大学卒業後、編集とメディア・プロデュースの仕事に従事していたのですが、入社して数年の2001年にドラッカーについてのインタビュー記事を担当したのです。当時ドラッカーのリバイバル・ブームが巻き起こっていて、書店でも『プロフェッショナルの条件』『チェンジ・リーダーの条件』などが大ベストセラーとなっていました。 ドラッカーの著作のほぼすべてを翻訳し、日本の無二の友人でもあった上田惇生先生に8回にわたるロングインタビューを行ったのが、私とマネジメントとの出会いでした。 上田先生に接して、ドラッカー経営のフレームをはるかに超越したすさまじさに触れた気がしました。私は28歳で、本格的な活動領域を見定めようと考えていたことも手伝って、ほとんど直観的に「あ、この人についていこう」と感じたのをはっきりと覚えています。あのインタビューが私の人生と仕事にとっての岐路だったのだと今にして実感します。 それは、どんなインタビューだったのですか? 上田先生とはじめてお目にかかった2001年、ちょうど日本経団連からものつくり大学教授に移籍された頃でした。大学設立にかかる東奔西走のなか、都心で1時間足らずの時間をいただけたときの喜びは今も胸に残っています。初対面時は少し謹厳な印象でしたが、お付き合いするうちに人を年齢や立場で分け隔てしない、風通しのいいお人柄とすぐにわかりました。インタビューは総計80時間にも及ぶもので、「ドラッカーの8つの顔」と題して『週刊東洋経済』に8週にわたって連載されました。今も読むことができます。いわゆる経営やマネジメントだけでなく、ドラッカーの持つ幅広い発言領域にも言及し、人となりや思想・哲学にも踏み込んでいます。インタビューは英訳されて、当時存命だったドラッカー本人にも読んでもらうことができました。「私を知る上でこのインタビューにまさるものはない」との評価をいただけたのは、一生の思い出です。 上田先生との出会いからご自分が変容したと感じるのはどのようなことでしょうか。 上田先生からいただいた宝物はあまりにも豊か過ぎて簡単に要約できませんが、やはり「強みを見よ」とのメッセージだと思います。それまでは強みという言葉さえ知りませんでしたから、はっと胸を突かれたことを記憶しています。上田先生ご自身が、人の強みしか見ない方でした。人には多くの弱みがある一方で、強みも必ずあります。要は見ようとするかしないかだけの問題です。その強みに最大の仕事をしてもらうことが大事なのだと上田先生はよく語っていました。いわば強みをかなてこ代わりに世界の重たい扉をぶち破る感覚です。これはマネジメントの底流にある考え方でもあります。 2005年5月7日、ドラッカーへのインタビュー風景(クレアモントの自宅) 加えて、2005年5月、亡くなる半年前のドラッカーに会うことができた。一生ものの僥倖でした。強力な後押しをしてくださったのもやはり上田先生でした。ちょうどその頃上田先生とともにドラッカー学会設立に動き始めてもおり、ほかならぬ本人から学会設立の許諾と賛意を得るという得難い副産物もありました。 さらにもう一つ、上田先生の生き方自体が私にとって偉大な規範として作用したこともあります。あえて言えば、自分を一つの箱に閉じ込めてはいけない、二つ以上のフィールドを同時に生きなければならないということです。上田先生は日本経団連退職後、本学開学に合わせて教授に着任され、第二の人生を教育研究に移されました。大学を退職されてからは、独立翻訳家として卓越した訳業を成し遂げられています。上田先生には日本経団連職員、ものつくり大学教授、翻訳家の三つの顔があったことになります。人生百年とも言われる昨今、一つの分野にアイデンティティを預けるのはある意味でリスクなのですね。複数の課題を自らに課して、強みをエンジンにして多面的に貢献していく。そんな考えを上田先生から学んだように感じています。 どうして編集者から大学に転身したのでしょうか。 上田惇生先生と共著とともに。 専任教員として着任したのは2022年なのですが、ずっと前の2004年から上田先生とともに「マネジメント論」「一般社会学」などの社会科学系科目を非常勤講師として教えていました。起点をそこにとれば、ものつくり大学とのご縁は20年近くになります。ものつくり大学はテクノロジスト養成の高等教育機関です。上田先生はよく「畳の上の水練」ではいけないとおっしゃっていました。知識を頭の中だけに閉じ込めてはいけない。知識とは自由なものだからです。 私は出版社で本や雑誌など500点ほどを手がける機会に恵まれました。私の解釈では、編集者もアイデアを形にする意味では、テクノロジストの一種です。その体験を若い人たちと共有したいという思いはかねてからありました。ちょうど50歳を目前としていた時期でもあり、転身によい頃合いとも思えました。 教養教育センターでは、現在どのような活動を行っていますか。 学部向けの授業として「Druckerのマネジメント論」などの講義を持っています。学生とともに、とりわけ関心を惹く企業や団体を選定し、統合報告書やESGレポートの読解を通してマネジメント特性を分析する事例研究を行っています。研究としては、ドラッカーの残した書簡や講義などの一次資料を用いて、著作やコンサルティング活動の関係性の調査、それと第二次大戦後形成された日本的経営、経営ジャーナリズムに与えたドラッカーの影響を考察したりしています。 学外向けの活動としてはどのようなものがありますか。 社会人向けの講座をいくつか開講しています。2022年度は「現場で生かすマネジメント」として、中間管理職を想定した講義をオンデマンドで配信しました。時間管理、意思決定、フィードバック分析など比較的即効性の高いマネジメント手法についてお話ししています。2023年度は、お世話になった上田先生の人と業績を顕彰する意味で、「上田惇生記念講座 ドラッカー経営学の真髄」という連続講義を開講する予定です。上田先生と公私ともに親しくされた外部講師数名を招き、それぞれの視点からドラッカー経営学の要諦を語っていただくというものです。こちらもオンデマンドで配信されます。将来的には埼玉の地元中小企業、学校、病院等にドラッカーのマネジメントを広く活用していただけるプラットフォームづくりを行っていきたいと思っています。というのも、本学の位置する埼玉県には優れた資源が少なくありません。近隣の深谷市はドラッカーが尊敬した渋澤栄一翁の故郷でもありますし、高い技術を持つ中小企業も多く集積しています。私自身、近隣自治体の加須市出身でもありますので、地域に根差した発展に多少とも貢献できればと願っているところです。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 生きていればもちろん失敗など数限りなくあります。歩いていれば誰でも転びます。転んでいない人は、まだ歩みを始めてさえいない人だと思う。そこで大切なのは、したたかに学び続けることですね。とくに歴史から学ぶことです。私はしばしば学生に「起こったこと・考えたことをその日のうちに書きとめておくように」と伝えるのですが、日記を書くことは時間を味方につけることであり、振り返りを通して自己成長に大きく寄与することは間違いありません。「あのとき、困難をこんな風に乗り越えたんだ」という自信にもなりますし、何より自分についての貴重なデータベースになります。それともう一つ。どこへいっても最初に尊敬できる人を探してほしい。この人から学びたい、こんな風になりたいという人を真っ先に探すことです。見つけ出したら、決して離れないことです。学べるものは何でも学ばせてもらうといい。きっと喜んで経験や知恵を分け与えてくれるでしょう。ドラッカーは常々若い人に、「まず模範となる人を探しなさい」と助言していたそうです。私自身若い頃に多くの尊敬できる方々をお会いできたことはつくづく幸運であったと実感します。上田先生やドラッカーは私にとってまさしくその最たる存在でした。若い方の心の片隅にとどめておいてもらえたら嬉しいと思います。 関連リンク ・教養教育センターWEBページ・上田惇生名誉教授連載インタビュー