2023年8月1日から2日にかけて静岡県静岡市で第18回若年者ものづくり競技大会が開催されました。本学では建設学科から2名(建築大工職種1名、木材加工職種1名)の学生が出場し、建築大工職種で金賞、木材加工職種で銀賞という好成績を残すことができました。 今回は建築大工職種で金賞を受賞した古舘 優羽さん(建設学科2年)に、大会に向けて積み重ねてきた努力などを伺いました。 ※建築大工職種の競技は、決められた時間内に木造小屋組の一部を製作し、出来栄えを競います。作業は、「カンナによる部材の木ごしらえ」→「正確な墨付け」→「ていねいで素早い加工仕上げ」の順で進められ、最後に各部材を組み立てて完成させます。 高校時代にやり残したこと 私は工業高校の建築科に通っていました。高校時代は部活動のバスケットボールばかりしていました。高校生の時から大工の検定や競技大会に興味はありましたが、先生から部活か競技大会か絞るように言われ、小学生から続けてきたバスケットボールを優先しました。進路を選択する際に、大工以外にも専門工事や設計など幅広く担える技術者になりたいと思い、木造建築以外にも様々なコースがあって、幅広く学べるものつくり大学への進学を決めました。大学に入学後は、まずは高校生の時にやりたかった検定に挑戦しようと思いました。1年生の時は、木材加工職種での出場を目指していましたが、学内予選で2位だったため出場することは叶いませんでした。今年は、建築大工職種の技能検定3級を受験し、学内で1位の成績を取ることができ、大会への出場権を得ました。大会に出場が決まってからは、インターンシップとして2か月間、家の巧株式会社にお世話になり練習に明け暮れました。家の巧株式会社には、非常勤講師で大会の検定員も務めている宮前 守先生や大会に出場経験がある卒業生の方がいて、指導していただきながら練習を進めました。 本番で100%の力を出すために 競技が終わった瞬間、練習の時より良いものができたという直感がありました。大会本番は練習の時より少し余裕を持って仕上げることができたので、最後に見落としがないか確認することができました。金賞とは言わないけど賞は取れると思いました。 金賞を受賞した課題 練習を見ていただいていた宮前先生から「練習で100%、120%のものを作れないと本番で同じように作れない」とずっと言われていました。大会の2週間前に製作時間が競技の標準時間内に入ることができました。それまでは時間内に完成させることを優先していて精度が低かったので、次は正確に作ることに集中していたら、また時間内に完成しなくなってしまいました。これはマズいと思って、休日にリフレッシュして最後の1週間を迎えました。この1週間は、製作時間の管理をしっかり行い、課題を5つ作りましたが、今までと比べ物にならないほど急に良いものが作れるようになりました。最後の最後で、100%に近いものを出せたと思えたので、大会で少し余裕を持つことができました。練習で一番のものを作れたからこそ本番でも金賞の課題を作れたのだと思います。 最後の1週間で製作した課題 課題の制作では「削り」と「墨付け」の工程が重要になります。「削り」は最初に渡される木材が仕上げの寸法よりも1.5㎜大きく製材されているため、寸法どおりに小さくしなければなりません。 カンナがけを行う古舘さん 「墨付け」については、墨を付ける場所が間違っていたら加工にも影響してしまい正確なものが完成しません。木材は全部で8本ほどありますが、ずっと練習をしていると墨を付けている時などに「何かこれおかしいな」って体が勝手に反応するようになります。例えば、練習中にいつもどおりに墨を付けたつもりが、墨付けが終わった時に木材全体を眺めると、ここの幅がいつもと違うなと思って、測ってみたら1㎝足りなかったという事がありました。こういった事も練習を繰り返していないと体に沁みつかないと思います。 墨付けをする古舘さん 練習では課題を20台作りました。月曜日から土曜日まで練習していましたが、1日は道具を研ぐ時間に充て、それ以外の日は課題を作っていました。道具をしっかり研いでおかないと摩耗して欠けてしまったり、切れ味が悪くなったりしてしまうため、道具を研ぐことも練習と同じくらい大切だと考えています。本番で使う道具だからこそ、練習の時から本番と同じ状態にしておかないと意味がないと思っていました。もちろん、毎日の練習が終わった後の手入れも欠かさずしていました。練習は、家の巧株式会社の工房で行っていました。宮前先生や卒業生の方は、日中は現場に出ていて、現場終わりや土曜の午前中に見に来てくださってアドバイスを受けていました。お二人のアドバイスはいつも的確で、すごく参考になりました。アドバイスをいただいた後は自分で考えて練習に落とし込んでいきました。ただ、基本的に1人で練習していたためペース配分が分からないことがあり、競う相手もいないから出来栄えの比較もできなくて苦労しました。気が滅入った時も1人ではなかなか切り替えるのが難しく、色々な面で1人というのが辛かったです。夢でも練習をしていて、失敗する夢でうなされて起きたこともあります。 頑張れた理由 高校生の時に特に何もできなかった私ですが、大学に入学してからでも努力すればできるということを実感したかったからストイックに練習することができました。それと、少しは母校である八戸工業高校にメッセージとして伝えたいという思いもありました。また、技能検定3級の課題で100点を取っていました。大会の課題は技能検定より少し難しい程度で、基本的な加工はほぼ同じだったので、大会の課題も100点に近いものができるよなって思い、自然と金賞が目標になりました。若年者ものづくり競技大会ではしばらく本学から金賞を受賞した人がいないと聞いていたこともあって、何とかして久しぶりに金賞を取って大学に帰りたいという思いもありました。母校には金賞受賞を報告していませんでしたが、担任の先生から「金賞取ったって話題になってるぞ」って連絡が来ました。今回の結果が、高校の後輩たちの励みになっていたら嬉しいです。これからは、入学前から考えていた技能五輪全国大会への出場を目標にします。そのためにまずは、2月に実施される技能検定2級で上位入賞を目指して練習していきます。それから、ものつくり大学に入学したからには大工の勉強をもっと専門的にしたいと思っています。入学してからの1年半は想像していたとおりの学生生活を送ることができています。すごく建築に詳しい先輩もいて、毎日が勉強です。入学前に思っていたよりも色々なことが学べています。将来は地元に帰るのか、関東で就職するのかはまだ決めていませんが、大学で学んだことをしっかり活かして、必要とされる人材になりたいと思います。そのためにも、学業を頑張っていきたいです。 関連リンク ・先輩たちへの感謝を胸に大会へ ~第18回若年者ものづくり競技大会②~・若年者ものづくり競技大会 大会後インタビュー・若年者ものづくり競技大会実績WEBページ・建設学科WEBページ
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、秩父の土地に宿る精神に思いを馳せます。 秩父がある 「埼玉県に何があるのですか?」--あなたはこう問うかもしれない(あるいは問わないかもしれない)。私ならこう答えるだろう。「埼玉には秩父がある」と。秩父というと誰でも思い出す、巡礼。そうと聞くと、これという理由もなしに、心の深層にかすかなさざ波が立つ。なぜだろう。なぜ秩父。なぜ巡礼。 東京に隣接した埼玉からすれば、秩父はその無意識に沈む無音の精神空間を表現しているように見える。だがそれはごく最近、近代以後の現象である。なぜなら埼玉はその空間的存在論からすれば、初めから巡礼の地だったからである。これはうかつにも注意されていないように思える。秩父は、その意味で土地というより、霊性をそのまま差し出してくれる、埼玉の奥の院だ。巡礼は、元来霊的な情報システムである。それは現代人工的に編み上げられた新しい情報システムを突き破ってしばしばその顔を表す。高度な情報の時代といっても、霊性が土地ときっぱりと切り離されてしまうことはないし、また霊性を伴って初めて土地の特性は人々の意識に入ってくる。もともと埼玉のみならず、技術と霊性とはいわば二重写しをなしている。埼玉では常にそれらは密接不離の絡み合いとして現在に至っている。言い方を変えれば、日常の陰に潜んで裏側から埼玉県民の認識作用に参画し、微妙な重心として作用している。そのことを今年の夏に足を運んで得心した。 旅の始まりは秩父線 霊道としての秩父線 秩父に至る巡礼路は今は鉄路である。熊谷から秩父線に乗ると、人と自然の取り扱われ方が、まるで違っていることに気づく。訪れる者の頭脳に訴えるとともに、感覚として、ほとんど生理的に働きかけてくる。平たく言えば、「びりびりくる」のだ。秩父線ホームには意外に乗客がいる。空は曇っているけど、紫外線はかなり強そうである。初めはまばらに住宅街やショッピングモールが目に入るが、いつしか寄居を越える頃にもなれば山の中を鉄路は走る。時々貨物列車とすれ違う。ただの列車ではない。異様に長く、貨車には石灰石がぎりぎりまで小器用に積み上げられている。それは精密で美しい。武甲山から採掘されたのだろう。やがて長瀞に到着する。鉄道と言ったところで、近代以後の枠にはめられた埼玉の生態を決して表現し尽くせるものではない。ところで埼玉と鉄道の関係はほとんど信じられないくらい深い。いや、深すぎて、埼玉に住む多くの人の頭脳の地図を完全に書き換えてしまってさえいる。現在の埼玉イメージのほとんどは鉄道によって重たいローラーをかけられて、完全にすりつぶされてしまったと言ってもいいだろう。地理感覚を鉄道と混同しながら育ってきたのだ。鉄道駅で表現すれば、たちまちその土地がわかった気になるのは、そのまま怠惰な鉄道脳のしわざである。そんな簡単な事柄も、巡礼と重なってくるといささか話が違ってくる。秩父線は埼玉の鉄道の中ではむしろ唯一といってよい例外だ。この精神史と鉄路の重複は、肉眼には映らないが、長瀞に到達してはじめて、心眼に映ずる古人の確信に思いをいたすことができた気がする。こんなに気ぜわしい世の中に生きているのだから、たまには旧習がいかに土地に深く根ざしたものであるか、現地に足を運んで思いをいたしてもばちは当たらないだろう。そこには埼玉県の日常意識からぽっかり抜けた真空がそのまま横たわっていたからだ。 山中の寺社には太古の風が吹いていた 長瀞駅から徒歩10分程度のところに宝登山神社がある。参道を登っていく先からは太鼓が遠く聞こえる。それが次第に近づいてくる。この神聖性の土台を外してしまっては、土地の神秘に触れることはできない。どれほど都市文化と切り結ぼうとも、最深部では歴史からの叫びがなければ文化というものは成り立たないからだ。それらは住む人々がめいめい期せずして持ち寄り差し出しあうことで現在まで永らえている何かでもある。 それがどうだろう。現在の「埼玉」という長持ちに収まると、何か別のイメージに変質してしまう。そこにしまい込まれているのは、このような素朴な信仰や習俗であるに違いない。奥の稲荷を抜け、古寺の境内にいつしか立ち入ると、そこは清新な空気に支配された静謐な一画である。赤い鳥居はほとんど均等に山の奥まで配分されている。古代の神々の寓居にばったり立ち入ってしまったかのようだ。 どんなに慌ただしい生活をしていたとしても、ときには果てしない歴史や人の生き死にについて問うくらいの用意は誰にでもあるだろう。埼玉の中心と考えられている東京都の隣接地域では、こんな山深いエリアが埼玉に存在していることなどまず念頭に上らないのがふつうである。いわば埼玉県の東半分は生と動の支配する世界であるが、西半分からは死と静の支配する世界から日々内省を迫られていると考えてみたらどうか。モーツァルトの『魔笛』のような夜と昼の世界--。 生と動もこの世にあるしばらくの間である。しかし、死と静はほとんど永遠である。このような基本的な意識の枠組みが、すでに埼玉県には歴史地理的に表現されている。 荒川源流 徒歩で駅まで戻って、今度は反対側の小道を下りてみた。商店には笛やぞうりなどの土産が並ぶ。坂の突き当りで、長瀞の岩畳をはじめて見た。そのとき、荒川という名称の由来を肌で感じた気がした。ふだん赤羽と川口の間の鉄橋下を流れる荒川は見たところ決して荒くれた川ではない。きちんとコントロールされ、取り立てて屈託もなしにたゆたっているように見える。源流に近い秩父の荒川を目にしたとき、古代の人たちが何を求めていたか、何を恐れていたかがはっきりした気がした。私は源流にほど近い荒川の実物を前にして、人間の精神と自然の精神との純粋な対話、近代の人工的な観念の介入を許さぬ瞑想に似た感覚に否応なく行き着いた。気づけば、私は広い岩の上に横になっていた。どうも土地の神々の胎内にいるような気分になる。それは土地の育んできた「夢」なのではないか。そんな風にも思いたくなる。少なくともそこには都市部の明瞭判然たる人間の怜悧な観念は存在しなかった。おそらく土地の精神とは比喩でも観念でもない。それは勝手にひねり出されたものではなかった。古代人の中では、主体と客体などという二元論はなかっただろう。ただ荒く呼吸して大地から湧出する滔々たる水流と一体になっていただけだろう。それを知るのに学問もいらないし、書物もいらない。古人の生活に直接問いかけるだけの素朴な心があれば十分だ。きっと昔の人は、現実と観念の対立をまるで感じていなかったに違いない。自然全体のうちに人はいるのだし、人の全体のうちに自然はあるというのが、彼らの生きていく意味だったのだ。彼らは、自然が差し出してくる何かを受け取るポイントを特別な場所として認知した。このような自己を取り巻く自然が十分に内面化された場所、自己とはかくのごときのものであり、かくあるべきものであるという場所で、彼らはあえて祭祀を行ったに違いない。 寝転んで川風に吹かれてみれば、土地の精神を支えているのは、存在と切り結ぶ自然感情であることは、明らかなように思える。秩父にあるのは論理ではない。言葉でさえない。あえて言えばそれはとてつもなく古い体験である。それがうまく言葉にならないというそのことが、かえって一種の表現を求めてやまない、どこかくぐもった呼び声として内面にこだましてくる。 「埼玉には何もない」などと気楽に自嘲し、ごく最近つくられた観念に戯れることしかできないのはあまりにさびしいことだ。何もないのではない。正体を見極めがたいほどに果てしなく、あまりに何かが「あり過ぎる」のだ。 長瀞の岩畳に横になり、江風に吹かれてみる Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口
もっと手軽に化学実験を 化学実験と聞くと何を思い浮かべるだろうか。試験官、ビーカー、フラスコ、ピペット、秤、バーナーなどのような実験器具・機材であろうか。学校で行った化学実験は準備や後片付けに時間がかかったのを覚えている。先生はさらに時間をかけていたに違いない。もっと手軽に化学実験を行えるようにはできないか。化学変化はつねに身近で起きている。なにしろ人間自体が大規模で複雑な化学実験の舞台であるからだ。全身に張り巡らされた血管の中を血液が流れ、脳内では神経細胞がさまざまな物質を使って情報処理を行っている。流れを利用して化学実験を行い、さらに流路を自在に組み換えることができれば、いろいろな化学実験を簡単に行えるではないか。筆者が子供の頃、電子ブロックというものが販売されていた。親指大のプラスチックのブロックの中に抵抗、コンデンサ、コイル、トランジスタなどいろいろな電子部品が内蔵されていて、ブロックの側面は接続端子になっている。ブロックを並べ替えることで、基礎的な電気回路の実験からラジオのような応用的な回路を組むことができた。 流体ブロックの研究 リソグラフィ技術を使ってガラス基板にマイクロメートル幅の流路をつくり、極微量サンプルの科学分析を行う研究(Micro-TAS)は30年くらい前から行われ、多くの成果をあげている。しかしながら、部品の再利用を前提とし自由に組み換えて実験を行うというよりは、特定の目的のために設計・調整されたものが主流である。微細な流路のため層流となり溶液の混合でさえもひと手間かける必要がある。本研究室では、試験官やビーカーよりは小さく、Micro-TAS が扱う領域より大きなサイズ、すなわち数ミリメートルの流路幅をターゲットにしている。このサイズは、重力が支配的になる世界と表面張力が支配的になる世界の境界である。さらに条件によっては層流にも乱流にもなる。流体ブロックの材質は透明で薬剤耐性に優れた PDMS (ポリジメチルシロキサン)である。PDMS は自己吸着性があるのでブロック同士やガラス面などによく密着する。このため並べるだけで3次元の流体回路も簡単に組むことができる。3Dプリンタなどを用いて流路の樹脂型をつくり、PDMS が硬化した後、樹脂型を溶解させれば所望の流体ブロックができあがる。 写真は製作した流体ブロックの1例である。今後、流路中にヒーター、熱電対などの様々なパーツを組み込んだ流体ブロックを製作していく予定である。埼玉新聞「知・技の創造」(2023年10月6日号)掲載 Profile 堀内 勉(ほりうち・つとむ) 情報メカトロニクス学科教授早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。博士(理学)。日本電信電話株式会社研究所を経て2014年4月より現職。
2023年8月1日から2日にかけて静岡県静岡市で第18回若年者ものづくり競技大会が開催されました。本学では建設学科から2名(建築大工職種1名、木材加工職種1名)の学生が出場し、建築大工職種で金賞、木材加工職種で銀賞という好成績を残すことができました。 今回は建築大工職種で金賞を受賞した古舘 優羽さん(建設学科2年)に、大会に向けて積み重ねてきた努力などを伺いました。 ※建築大工職種の競技は、決められた時間内に木造小屋組の一部を製作し、出来栄えを競います。作業は、「カンナによる部材の木ごしらえ」→「正確な墨付け」→「ていねいで素早い加工仕上げ」の順で進められ、最後に各部材を組み立てて完成させます。 高校時代にやり残したこと 私は工業高校の建築科に通っていました。高校時代は部活動のバスケットボールばかりしていました。高校生の時から大工の検定や競技大会に興味はありましたが、先生から部活か競技大会か絞るように言われ、小学生から続けてきたバスケットボールを優先しました。進路を選択する際に、大工以外にも専門工事や設計など幅広く担える技術者になりたいと思い、木造建築以外にも様々なコースがあって、幅広く学べるものつくり大学への進学を決めました。大学に入学後は、まずは高校生の時にやりたかった検定に挑戦しようと思いました。1年生の時は、木材加工職種での出場を目指していましたが、学内予選で2位だったため出場することは叶いませんでした。今年は、建築大工職種の技能検定3級を受験し、学内で1位の成績を取ることができ、大会への出場権を得ました。大会に出場が決まってからは、インターンシップとして2か月間、家の巧株式会社にお世話になり練習に明け暮れました。家の巧株式会社には、非常勤講師で大会の検定員も務めている宮前 守先生や大会に出場経験がある卒業生の方がいて、指導していただきながら練習を進めました。 本番で100%の力を出すために 競技が終わった瞬間、練習の時より良いものができたという直感がありました。大会本番は練習の時より少し余裕を持って仕上げることができたので、最後に見落としがないか確認することができました。金賞とは言わないけど賞は取れると思いました。 金賞を受賞した課題 練習を見ていただいていた宮前先生から「練習で100%、120%のものを作れないと本番で同じように作れない」とずっと言われていました。大会の2週間前に製作時間が競技の標準時間内に入ることができました。それまでは時間内に完成させることを優先していて精度が低かったので、次は正確に作ることに集中していたら、また時間内に完成しなくなってしまいました。これはマズいと思って、休日にリフレッシュして最後の1週間を迎えました。この1週間は、製作時間の管理をしっかり行い、課題を5つ作りましたが、今までと比べ物にならないほど急に良いものが作れるようになりました。最後の最後で、100%に近いものを出せたと思えたので、大会で少し余裕を持つことができました。練習で一番のものを作れたからこそ本番でも金賞の課題を作れたのだと思います。 最後の1週間で製作した課題 課題の制作では「削り」と「墨付け」の工程が重要になります。「削り」は最初に渡される木材が仕上げの寸法よりも1.5㎜大きく製材されているため、寸法どおりに小さくしなければなりません。 カンナがけを行う古舘さん 「墨付け」については、墨を付ける場所が間違っていたら加工にも影響してしまい正確なものが完成しません。木材は全部で8本ほどありますが、ずっと練習をしていると墨を付けている時などに「何かこれおかしいな」って体が勝手に反応するようになります。例えば、練習中にいつもどおりに墨を付けたつもりが、墨付けが終わった時に木材全体を眺めると、ここの幅がいつもと違うなと思って、測ってみたら1㎝足りなかったという事がありました。こういった事も練習を繰り返していないと体に沁みつかないと思います。 墨付けをする古舘さん 練習では課題を20台作りました。月曜日から土曜日まで練習していましたが、1日は道具を研ぐ時間に充て、それ以外の日は課題を作っていました。道具をしっかり研いでおかないと摩耗して欠けてしまったり、切れ味が悪くなったりしてしまうため、道具を研ぐことも練習と同じくらい大切だと考えています。本番で使う道具だからこそ、練習の時から本番と同じ状態にしておかないと意味がないと思っていました。もちろん、毎日の練習が終わった後の手入れも欠かさずしていました。練習は、家の巧株式会社の工房で行っていました。宮前先生や卒業生の方は、日中は現場に出ていて、現場終わりや土曜の午前中に見に来てくださってアドバイスを受けていました。お二人のアドバイスはいつも的確で、すごく参考になりました。アドバイスをいただいた後は自分で考えて練習に落とし込んでいきました。ただ、基本的に1人で練習していたためペース配分が分からないことがあり、競う相手もいないから出来栄えの比較もできなくて苦労しました。気が滅入った時も1人ではなかなか切り替えるのが難しく、色々な面で1人というのが辛かったです。夢でも練習をしていて、失敗する夢でうなされて起きたこともあります。 頑張れた理由 高校生の時に特に何もできなかった私ですが、大学に入学してからでも努力すればできるということを実感したかったからストイックに練習することができました。それと、少しは母校である八戸工業高校にメッセージとして伝えたいという思いもありました。また、技能検定3級の課題で100点を取っていました。大会の課題は技能検定より少し難しい程度で、基本的な加工はほぼ同じだったので、大会の課題も100点に近いものができるよなって思い、自然と金賞が目標になりました。若年者ものづくり競技大会ではしばらく本学から金賞を受賞した人がいないと聞いていたこともあって、何とかして久しぶりに金賞を取って大学に帰りたいという思いもありました。母校には金賞受賞を報告していませんでしたが、担任の先生から「金賞取ったって話題になってるぞ」って連絡が来ました。今回の結果が、高校の後輩たちの励みになっていたら嬉しいです。これからは、入学前から考えていた技能五輪全国大会への出場を目標にします。そのためにまずは、2月に実施される技能検定2級で上位入賞を目指して練習していきます。それから、ものつくり大学に入学したからには大工の勉強をもっと専門的にしたいと思っています。入学してからの1年半は想像していたとおりの学生生活を送ることができています。すごく建築に詳しい先輩もいて、毎日が勉強です。入学前に思っていたよりも色々なことが学べています。将来は地元に帰るのか、関東で就職するのかはまだ決めていませんが、大学で学んだことをしっかり活かして、必要とされる人材になりたいと思います。そのためにも、学業を頑張っていきたいです。 関連リンク ・先輩たちへの感謝を胸に大会へ ~第18回若年者ものづくり競技大会②~・若年者ものづくり競技大会 大会後インタビュー・若年者ものづくり競技大会実績WEBページ・建設学科WEBページ
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、秩父の土地に宿る精神に思いを馳せます。 秩父がある 「埼玉県に何があるのですか?」--あなたはこう問うかもしれない(あるいは問わないかもしれない)。私ならこう答えるだろう。「埼玉には秩父がある」と。秩父というと誰でも思い出す、巡礼。そうと聞くと、これという理由もなしに、心の深層にかすかなさざ波が立つ。なぜだろう。なぜ秩父。なぜ巡礼。 東京に隣接した埼玉からすれば、秩父はその無意識に沈む無音の精神空間を表現しているように見える。だがそれはごく最近、近代以後の現象である。なぜなら埼玉はその空間的存在論からすれば、初めから巡礼の地だったからである。これはうかつにも注意されていないように思える。秩父は、その意味で土地というより、霊性をそのまま差し出してくれる、埼玉の奥の院だ。巡礼は、元来霊的な情報システムである。それは現代人工的に編み上げられた新しい情報システムを突き破ってしばしばその顔を表す。高度な情報の時代といっても、霊性が土地ときっぱりと切り離されてしまうことはないし、また霊性を伴って初めて土地の特性は人々の意識に入ってくる。もともと埼玉のみならず、技術と霊性とはいわば二重写しをなしている。埼玉では常にそれらは密接不離の絡み合いとして現在に至っている。言い方を変えれば、日常の陰に潜んで裏側から埼玉県民の認識作用に参画し、微妙な重心として作用している。そのことを今年の夏に足を運んで得心した。 旅の始まりは秩父線 霊道としての秩父線 秩父に至る巡礼路は今は鉄路である。熊谷から秩父線に乗ると、人と自然の取り扱われ方が、まるで違っていることに気づく。訪れる者の頭脳に訴えるとともに、感覚として、ほとんど生理的に働きかけてくる。平たく言えば、「びりびりくる」のだ。秩父線ホームには意外に乗客がいる。空は曇っているけど、紫外線はかなり強そうである。初めはまばらに住宅街やショッピングモールが目に入るが、いつしか寄居を越える頃にもなれば山の中を鉄路は走る。時々貨物列車とすれ違う。ただの列車ではない。異様に長く、貨車には石灰石がぎりぎりまで小器用に積み上げられている。それは精密で美しい。武甲山から採掘されたのだろう。やがて長瀞に到着する。鉄道と言ったところで、近代以後の枠にはめられた埼玉の生態を決して表現し尽くせるものではない。ところで埼玉と鉄道の関係はほとんど信じられないくらい深い。いや、深すぎて、埼玉に住む多くの人の頭脳の地図を完全に書き換えてしまってさえいる。現在の埼玉イメージのほとんどは鉄道によって重たいローラーをかけられて、完全にすりつぶされてしまったと言ってもいいだろう。地理感覚を鉄道と混同しながら育ってきたのだ。鉄道駅で表現すれば、たちまちその土地がわかった気になるのは、そのまま怠惰な鉄道脳のしわざである。そんな簡単な事柄も、巡礼と重なってくるといささか話が違ってくる。秩父線は埼玉の鉄道の中ではむしろ唯一といってよい例外だ。この精神史と鉄路の重複は、肉眼には映らないが、長瀞に到達してはじめて、心眼に映ずる古人の確信に思いをいたすことができた気がする。こんなに気ぜわしい世の中に生きているのだから、たまには旧習がいかに土地に深く根ざしたものであるか、現地に足を運んで思いをいたしてもばちは当たらないだろう。そこには埼玉県の日常意識からぽっかり抜けた真空がそのまま横たわっていたからだ。 山中の寺社には太古の風が吹いていた 長瀞駅から徒歩10分程度のところに宝登山神社がある。参道を登っていく先からは太鼓が遠く聞こえる。それが次第に近づいてくる。この神聖性の土台を外してしまっては、土地の神秘に触れることはできない。どれほど都市文化と切り結ぼうとも、最深部では歴史からの叫びがなければ文化というものは成り立たないからだ。それらは住む人々がめいめい期せずして持ち寄り差し出しあうことで現在まで永らえている何かでもある。 それがどうだろう。現在の「埼玉」という長持ちに収まると、何か別のイメージに変質してしまう。そこにしまい込まれているのは、このような素朴な信仰や習俗であるに違いない。奥の稲荷を抜け、古寺の境内にいつしか立ち入ると、そこは清新な空気に支配された静謐な一画である。赤い鳥居はほとんど均等に山の奥まで配分されている。古代の神々の寓居にばったり立ち入ってしまったかのようだ。 どんなに慌ただしい生活をしていたとしても、ときには果てしない歴史や人の生き死にについて問うくらいの用意は誰にでもあるだろう。埼玉の中心と考えられている東京都の隣接地域では、こんな山深いエリアが埼玉に存在していることなどまず念頭に上らないのがふつうである。いわば埼玉県の東半分は生と動の支配する世界であるが、西半分からは死と静の支配する世界から日々内省を迫られていると考えてみたらどうか。モーツァルトの『魔笛』のような夜と昼の世界--。 生と動もこの世にあるしばらくの間である。しかし、死と静はほとんど永遠である。このような基本的な意識の枠組みが、すでに埼玉県には歴史地理的に表現されている。 荒川源流 徒歩で駅まで戻って、今度は反対側の小道を下りてみた。商店には笛やぞうりなどの土産が並ぶ。坂の突き当りで、長瀞の岩畳をはじめて見た。そのとき、荒川という名称の由来を肌で感じた気がした。ふだん赤羽と川口の間の鉄橋下を流れる荒川は見たところ決して荒くれた川ではない。きちんとコントロールされ、取り立てて屈託もなしにたゆたっているように見える。源流に近い秩父の荒川を目にしたとき、古代の人たちが何を求めていたか、何を恐れていたかがはっきりした気がした。私は源流にほど近い荒川の実物を前にして、人間の精神と自然の精神との純粋な対話、近代の人工的な観念の介入を許さぬ瞑想に似た感覚に否応なく行き着いた。気づけば、私は広い岩の上に横になっていた。どうも土地の神々の胎内にいるような気分になる。それは土地の育んできた「夢」なのではないか。そんな風にも思いたくなる。少なくともそこには都市部の明瞭判然たる人間の怜悧な観念は存在しなかった。おそらく土地の精神とは比喩でも観念でもない。それは勝手にひねり出されたものではなかった。古代人の中では、主体と客体などという二元論はなかっただろう。ただ荒く呼吸して大地から湧出する滔々たる水流と一体になっていただけだろう。それを知るのに学問もいらないし、書物もいらない。古人の生活に直接問いかけるだけの素朴な心があれば十分だ。きっと昔の人は、現実と観念の対立をまるで感じていなかったに違いない。自然全体のうちに人はいるのだし、人の全体のうちに自然はあるというのが、彼らの生きていく意味だったのだ。彼らは、自然が差し出してくる何かを受け取るポイントを特別な場所として認知した。このような自己を取り巻く自然が十分に内面化された場所、自己とはかくのごときのものであり、かくあるべきものであるという場所で、彼らはあえて祭祀を行ったに違いない。 寝転んで川風に吹かれてみれば、土地の精神を支えているのは、存在と切り結ぶ自然感情であることは、明らかなように思える。秩父にあるのは論理ではない。言葉でさえない。あえて言えばそれはとてつもなく古い体験である。それがうまく言葉にならないというそのことが、かえって一種の表現を求めてやまない、どこかくぐもった呼び声として内面にこだましてくる。 「埼玉には何もない」などと気楽に自嘲し、ごく最近つくられた観念に戯れることしかできないのはあまりにさびしいことだ。何もないのではない。正体を見極めがたいほどに果てしなく、あまりに何かが「あり過ぎる」のだ。 長瀞の岩畳に横になり、江風に吹かれてみる Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口
もっと手軽に化学実験を 化学実験と聞くと何を思い浮かべるだろうか。試験官、ビーカー、フラスコ、ピペット、秤、バーナーなどのような実験器具・機材であろうか。学校で行った化学実験は準備や後片付けに時間がかかったのを覚えている。先生はさらに時間をかけていたに違いない。もっと手軽に化学実験を行えるようにはできないか。化学変化はつねに身近で起きている。なにしろ人間自体が大規模で複雑な化学実験の舞台であるからだ。全身に張り巡らされた血管の中を血液が流れ、脳内では神経細胞がさまざまな物質を使って情報処理を行っている。流れを利用して化学実験を行い、さらに流路を自在に組み換えることができれば、いろいろな化学実験を簡単に行えるではないか。筆者が子供の頃、電子ブロックというものが販売されていた。親指大のプラスチックのブロックの中に抵抗、コンデンサ、コイル、トランジスタなどいろいろな電子部品が内蔵されていて、ブロックの側面は接続端子になっている。ブロックを並べ替えることで、基礎的な電気回路の実験からラジオのような応用的な回路を組むことができた。 流体ブロックの研究 リソグラフィ技術を使ってガラス基板にマイクロメートル幅の流路をつくり、極微量サンプルの科学分析を行う研究(Micro-TAS)は30年くらい前から行われ、多くの成果をあげている。しかしながら、部品の再利用を前提とし自由に組み換えて実験を行うというよりは、特定の目的のために設計・調整されたものが主流である。微細な流路のため層流となり溶液の混合でさえもひと手間かける必要がある。本研究室では、試験官やビーカーよりは小さく、Micro-TAS が扱う領域より大きなサイズ、すなわち数ミリメートルの流路幅をターゲットにしている。このサイズは、重力が支配的になる世界と表面張力が支配的になる世界の境界である。さらに条件によっては層流にも乱流にもなる。流体ブロックの材質は透明で薬剤耐性に優れた PDMS (ポリジメチルシロキサン)である。PDMS は自己吸着性があるのでブロック同士やガラス面などによく密着する。このため並べるだけで3次元の流体回路も簡単に組むことができる。3Dプリンタなどを用いて流路の樹脂型をつくり、PDMS が硬化した後、樹脂型を溶解させれば所望の流体ブロックができあがる。 写真は製作した流体ブロックの1例である。今後、流路中にヒーター、熱電対などの様々なパーツを組み込んだ流体ブロックを製作していく予定である。埼玉新聞「知・技の創造」(2023年10月6日号)掲載 Profile 堀内 勉(ほりうち・つとむ) 情報メカトロニクス学科教授早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。博士(理学)。日本電信電話株式会社研究所を経て2014年4月より現職。