「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 埼玉学第5回は、埼玉県日高市にある「サイボク」が埼玉に作れられた歴史と背景、そして現在に至るまでの挑戦について触れていきます。 サイボク創立者の夢 埼玉県日高市に位置するサイボクは、食のアミューズメント・パークと呼ぶにふさわしい。その広大な敷地は、東京ドーム2.5個分に相当し、自家製の精肉やハム、ソーセージの直売店、レストラン、地元野菜や花きの販売所、そして天然温泉「花鳥風月」まで備えている。年間約400万人もの人々が訪れ、埼玉のみならず、関東一円にファンを持っている。たいていのガイドブックにもその名は記載されている。そんなサイボクには日本の戦後復興とともに歩んできた歴史が背景にある。 愛らしいマスコットキャラたちもお出迎え。 1946年、埼玉県入間郡高萩村(現在の日高市)にて「埼玉種畜牧場」が開設された。この牧場で、原種豚の育種改良が行われ、美味で安心な豚肉生産の基盤が築かれた。当時、国内には養豚学科を有する大学や農業高校がなく、創業者・笹﨑龍雄は、獅子奮迅の努力によってこの地に牧場を開いた。そんな笹﨑龍雄は、1916年、長野県の農家の8人兄妹の次男として生まれている。幼い頃から牛・馬・豚等の家畜に囲まれて育ち、中でも豚の飼育係を担当した笹﨑は、その魅力に夢中になり、いつしか「獣医」を志すようになる。しかし、8人兄妹を賄う家計は決して豊かでなく、一念発起して超難関の陸軍依託学生として東京帝国大学農学部実科(現・東京農工大学)を受験し合格する。卒業した1941年、日米開戦と同時に陸軍の獣医部将校として旧満州とフィリピンの戦地に派遣された。1945年日本が敗戦を迎えると、物資不足と食糧難を目の当たりにした笹﨑は、「食」で日本の復興に寄与しようとした。笹﨑の夢と情熱がサイボクを築き上げた。 自慢のソーセージ。 店舗の様子。 なぜ埼玉か 長野県生まれの笹﨑龍雄はなぜ埼玉に目を付けたのか。理由はいくつか考えられるが、一つ挙げるなら、埼玉の農業と深い関係がある。埼玉は何よりさつまいもと麦の生産地であった。埼玉においては、さつまいもは「主食」と言ってよかった。その地下で育つさつまいもは人間の飢えを満たし、地上で育つ葉や茎は、豚にとって良好な飼料となった。食の中心であった麦は、明治から昭和30年代中頃にかけて4種の麦を中心に生産されていた。戦前には小麦、六条大麦、二条大麦、はだか麦を合わせた4麦の生産が全国一を占めていた時期もあったが、それもまた養豚にとって恵まれた飼料の補給を可能にした。その歴史的背景を遡れば、「麦翁(ばくおう)」と呼ばれた権田愛三の存在が浮かび上がってくる。1850年に埼玉県北部の東別府村(現在の熊谷市)に生まれた権田は、一生を農業の改良に捧げた。中でも麦の栽培方法に関して功績を残し、麦の収量を4~5倍も増加させる多収栽培方法を開発したとされている。後にはその集大成ともいえる「実験麦作栽培改良法」を無償で配布、県内はもとより日本全国への技術普及に尽力した食のイノベーターだった。このような豊かな農業生産地・埼玉の「地の利」を背景に、笹﨑は養豚のイノベーションに着手していった。1931年に開通した八高線によって、豚や飼料等の運搬が容易になったこともそこに加えられるべきだろう。 埼玉の精神にふれる サイボクは現状に甘んずることなく、新しい挑戦を追求してきた。1975年には、日高牧場内に日本初の養豚家が直接販売するミートショップが開店し、その後も施設の拡大や改善が続けられた。1997年にはオランダで開催された「国際ハム・ソーセージ競技会」に初出品し、多くの賞を受賞した。さらに、2002年、周囲の猛反対を押し切り温泉堀削を試み、驚くほどの量の良質な温泉を発見した。それをきっかけに、温泉施設の建設が始まり、21世紀型の「食と健康の理想郷」をめざす施設として整備された。 今回話を聞かせてくださった現会長・笹﨑静雄氏と。 サイボクのレストランの裏手には、広大な緑の芝生と森が広がる「サイボクの森」がある。「緑の空間と空気は人々の心を癒すもとになる」「一日30~60分の日光浴は骨を丈夫にする」「子どもの近眼の主因である、屋外での遊びの欠如と日光浴不足を解消するためのこのようなアスレチック施設や、大人のための散策路やくつろぎのスペースを準備しよう」。サイボクの森は、女性スタッフ中心の発想で実現した。三世代の家族が遊べる空間として計画され、コロナ後はとりわけ得がたい憩いの場になっている。現会長・笹﨑静雄氏は、父・龍雄の存命時、豚が不調に見舞われた時の対処のし方を聞きに行くと、そのたびに「豚は何て言っていたんだ」と問い返されたと言う。「わかりません」と答えると、「豚舎に寝ないとわからないだろうな」と言われたと振り返っている。現在のサイボクの活動はすべて豚とお客さんが教えてくれたことを愚直に実践してきた結果と笹﨑氏は語る。現在のサイボクの歴史は、対話の歴史だった。客と対話し、自然と対話し、地域住民と対話し、何より豚と対話する。相手の言うことに耳を傾け、次に何が求められるかを模索する。これは郷土の偉人・渋澤栄一が事業を始めるときにこだわった方法でもある。サイボクは食のアミューズメント・パークにとどまらず、埼玉の「埼玉らしさ」にふれられるイノベーションの宝庫である。ぜひ一度訪れ、味わい、体感してみてください。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-古代のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口・【埼玉学③】秩父-巡礼の道・【埼玉学④】『翔んで埼玉-琵琶湖より愛をこめて』を公開当日に観に行くということ・教養教育センターWEBページ
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、秩父の土地に宿る精神に思いを馳せます。 秩父がある 「埼玉県に何があるのですか?」--あなたはこう問うかもしれない(あるいは問わないかもしれない)。私ならこう答えるだろう。「埼玉には秩父がある」と。秩父というと誰でも思い出す、巡礼。そうと聞くと、これという理由もなしに、心の深層にかすかなさざ波が立つ。なぜだろう。なぜ秩父。なぜ巡礼。 東京に隣接した埼玉からすれば、秩父はその無意識に沈む無音の精神空間を表現しているように見える。だがそれはごく最近、近代以後の現象である。なぜなら埼玉はその空間的存在論からすれば、初めから巡礼の地だったからである。これはうかつにも注意されていないように思える。秩父は、その意味で土地というより、霊性をそのまま差し出してくれる、埼玉の奥の院だ。巡礼は、元来霊的な情報システムである。それは現代人工的に編み上げられた新しい情報システムを突き破ってしばしばその顔を表す。高度な情報の時代といっても、霊性が土地ときっぱりと切り離されてしまうことはないし、また霊性を伴って初めて土地の特性は人々の意識に入ってくる。もともと埼玉のみならず、技術と霊性とはいわば二重写しをなしている。埼玉では常にそれらは密接不離の絡み合いとして現在に至っている。言い方を変えれば、日常の陰に潜んで裏側から埼玉県民の認識作用に参画し、微妙な重心として作用している。そのことを今年の夏に足を運んで得心した。 旅の始まりは秩父線 霊道としての秩父線 秩父に至る巡礼路は今は鉄路である。熊谷から秩父線に乗ると、人と自然の取り扱われ方が、まるで違っていることに気づく。訪れる者の頭脳に訴えるとともに、感覚として、ほとんど生理的に働きかけてくる。平たく言えば、「びりびりくる」のだ。秩父線ホームには意外に乗客がいる。空は曇っているけど、紫外線はかなり強そうである。初めはまばらに住宅街やショッピングモールが目に入るが、いつしか寄居を越える頃にもなれば山の中を鉄路は走る。時々貨物列車とすれ違う。ただの列車ではない。異様に長く、貨車には石灰石がぎりぎりまで小器用に積み上げられている。それは精密で美しい。武甲山から採掘されたのだろう。やがて長瀞に到着する。鉄道と言ったところで、近代以後の枠にはめられた埼玉の生態を決して表現し尽くせるものではない。ところで埼玉と鉄道の関係はほとんど信じられないくらい深い。いや、深すぎて、埼玉に住む多くの人の頭脳の地図を完全に書き換えてしまってさえいる。現在の埼玉イメージのほとんどは鉄道によって重たいローラーをかけられて、完全にすりつぶされてしまったと言ってもいいだろう。地理感覚を鉄道と混同しながら育ってきたのだ。鉄道駅で表現すれば、たちまちその土地がわかった気になるのは、そのまま怠惰な鉄道脳のしわざである。そんな簡単な事柄も、巡礼と重なってくるといささか話が違ってくる。秩父線は埼玉の鉄道の中ではむしろ唯一といってよい例外だ。この精神史と鉄路の重複は、肉眼には映らないが、長瀞に到達してはじめて、心眼に映ずる古人の確信に思いをいたすことができた気がする。こんなに気ぜわしい世の中に生きているのだから、たまには旧習がいかに土地に深く根ざしたものであるか、現地に足を運んで思いをいたしてもばちは当たらないだろう。そこには埼玉県の日常意識からぽっかり抜けた真空がそのまま横たわっていたからだ。 山中の寺社には太古の風が吹いていた 長瀞駅から徒歩10分程度のところに宝登山神社がある。参道を登っていく先からは太鼓が遠く聞こえる。それが次第に近づいてくる。この神聖性の土台を外してしまっては、土地の神秘に触れることはできない。どれほど都市文化と切り結ぼうとも、最深部では歴史からの叫びがなければ文化というものは成り立たないからだ。それらは住む人々がめいめい期せずして持ち寄り差し出しあうことで現在まで永らえている何かでもある。 それがどうだろう。現在の「埼玉」という長持ちに収まると、何か別のイメージに変質してしまう。そこにしまい込まれているのは、このような素朴な信仰や習俗であるに違いない。奥の稲荷を抜け、古寺の境内にいつしか立ち入ると、そこは清新な空気に支配された静謐な一画である。赤い鳥居はほとんど均等に山の奥まで配分されている。古代の神々の寓居にばったり立ち入ってしまったかのようだ。 どんなに慌ただしい生活をしていたとしても、ときには果てしない歴史や人の生き死にについて問うくらいの用意は誰にでもあるだろう。埼玉の中心と考えられている東京都の隣接地域では、こんな山深いエリアが埼玉に存在していることなどまず念頭に上らないのがふつうである。いわば埼玉県の東半分は生と動の支配する世界であるが、西半分からは死と静の支配する世界から日々内省を迫られていると考えてみたらどうか。モーツァルトの『魔笛』のような夜と昼の世界--。 生と動もこの世にあるしばらくの間である。しかし、死と静はほとんど永遠である。このような基本的な意識の枠組みが、すでに埼玉県には歴史地理的に表現されている。 荒川源流 徒歩で駅まで戻って、今度は反対側の小道を下りてみた。商店には笛やぞうりなどの土産が並ぶ。坂の突き当りで、長瀞の岩畳をはじめて見た。そのとき、荒川という名称の由来を肌で感じた気がした。ふだん赤羽と川口の間の鉄橋下を流れる荒川は見たところ決して荒くれた川ではない。きちんとコントロールされ、取り立てて屈託もなしにたゆたっているように見える。源流に近い秩父の荒川を目にしたとき、古代の人たちが何を求めていたか、何を恐れていたかがはっきりした気がした。私は源流にほど近い荒川の実物を前にして、人間の精神と自然の精神との純粋な対話、近代の人工的な観念の介入を許さぬ瞑想に似た感覚に否応なく行き着いた。気づけば、私は広い岩の上に横になっていた。どうも土地の神々の胎内にいるような気分になる。それは土地の育んできた「夢」なのではないか。そんな風にも思いたくなる。少なくともそこには都市部の明瞭判然たる人間の怜悧な観念は存在しなかった。おそらく土地の精神とは比喩でも観念でもない。それは勝手にひねり出されたものではなかった。古代人の中では、主体と客体などという二元論はなかっただろう。ただ荒く呼吸して大地から湧出する滔々たる水流と一体になっていただけだろう。それを知るのに学問もいらないし、書物もいらない。古人の生活に直接問いかけるだけの素朴な心があれば十分だ。きっと昔の人は、現実と観念の対立をまるで感じていなかったに違いない。自然全体のうちに人はいるのだし、人の全体のうちに自然はあるというのが、彼らの生きていく意味だったのだ。彼らは、自然が差し出してくる何かを受け取るポイントを特別な場所として認知した。このような自己を取り巻く自然が十分に内面化された場所、自己とはかくのごときのものであり、かくあるべきものであるという場所で、彼らはあえて祭祀を行ったに違いない。 寝転んで川風に吹かれてみれば、土地の精神を支えているのは、存在と切り結ぶ自然感情であることは、明らかなように思える。秩父にあるのは論理ではない。言葉でさえない。あえて言えばそれはとてつもなく古い体験である。それがうまく言葉にならないというそのことが、かえって一種の表現を求めてやまない、どこかくぐもった呼び声として内面にこだましてくる。 「埼玉には何もない」などと気楽に自嘲し、ごく最近つくられた観念に戯れることしかできないのはあまりにさびしいことだ。何もないのではない。正体を見極めがたいほどに果てしなく、あまりに何かが「あり過ぎる」のだ。 長瀞の岩畳に横になり、江風に吹かれてみる Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代の末期(6世紀末~7世紀末)に造られたとされる吉見百穴を訪れ、その不思議な魅力に触れていきます。 埼玉の不思議なもの 古人の建造物は、石や土、木とは限りません。岩の壁面に穿たれた「穴」もあるからです。吉見百穴の存在を最初に私に教えてくれたのは、学研という出版社が刊行していた「まんがひみつシリーズ」でした。シリーズ発刊は1972年だから、ほぼ半世紀前になります。自然や社会について子供でも理解できる工夫を見ると、仕事は丁寧、文章は達意、じつに卓越したクラフツマンシップの発揮された本に仕上がっています。 思わずため息が出るくらい、よくできたシリーズでした。たとえば、「野球」「切手」「宇宙」「からだ」「昆虫」など子供にとっては何ともいえず心惹かれるテーマ。実に軽快な手さばきで、面白おかしく編み直していく。私もかつては編集の仕事をしていたのですが、大いに脱帽させられたものでした。 とくに気に入っていたのは、『日本のひみつ探検』(「学研まんがひみつシリーズ29」)です。今みたいにスマホもネットもなかったので、暇さえあれば目を落としました。ただめくるだけのときにもありました。各ページ欄外には一つずつ「豆知識」が配されて、それだけで心が揺らめくのです。日本の地殻変動の目覚ましい働きから、自然的造形や名所旧跡などをとても親しげに、子供に寄り添って示してくれる。鬼の洗濯板、琵琶湖、青木ヶ原樹海、天橋立など、神秘の予感に彩られた地名はたぶんこの本で知ったと思います。 子供の頃の愛読書 一つが吉見百穴です(確か本には「ひゃっけつ」とルビが振られていた記憶がありますが、「ひゃくあな」が一般的のようですね)。古代の旧跡が自分の住む埼玉県にあるというので、根拠なく湧いてきた誇らしい気持ちだけは覚えています。いつか訪れてみたいと思いました。ですが、埼玉県民を悩ませる複雑怪奇の鉄道事情も相まって、訪れることができずに今日に至ってしまいました。(余談となりますが、私の勤める行田市の大学から隣町・加須市の実家に行くのに、高崎線の吹上駅まで15分、一度大宮まで出て宇都宮線に乗り換えて栗橋まで約1時間、徒歩で15分と計90分かかります。ちなみに、同地点から新宿までとほぼ同じ時間です。あるいは所沢あたりに出ようと思ったら、東京より遠い) 百穴を訪ねてみた 鴻巣駅からバスが出ていることは聞いていました。初夏の汗ばむような暑い日、吉見百穴を訪ねてみました。とにかく長い荒川の橋を抜けていきます。対岸まで続く緑の農地を眺めるともなく眺めながら、表れては消える田野や林と心の中で対話していると、唐突に現れたのが吉見百穴でした。日本の昔から名勝や景勝と言われている地はたいていは素朴な演出が施されているのが常ですが、完全にむき出し、空に向かって露出しています。 異様な無数の穴は唐突に現れる 川一つ隔てた向こうの灰色の岩壁には、蜂の巣のように詰まった感じの穴が目に入る。現代でいうところのカプセルホテルを思わせるところがあります。異様な穴がある時代に突如として出現したのに、どのような事情があったのは、私にはわかりません。実は、この疑問はすでに『日本のひみつ探検』を読んだ頃から私の頭を占めていました。 穴の用途については二つのまったく異質の説が存在していました。一つは、コロボックルの住処とする住居説、もう一つは墓所説です。両説は、考えるほど不明瞭になる気がします。ある時代にこのような構造物の突如とした出現について、どのような詳細があったのか、私は知りません。というか、知りたくもない。かくも得体の知れない穴についての説明など、どんな本を読んでも、人から聞いても、とうてい自分を納得させる自信がないからです。 異様な300の目 私はひたすら穴ばかり凝視していました。私のごとき素人には見当もつかないながらも、何か理解を求めてやまぬ生き物のように私には感じられました。あるいは、近くを流れる川向こうの平地の動静を監視している諜報施設のようにも。いずれにしても、近代に汚染された頭脳では及ばない、神妙な調和が付随するのは間違いなく、いつまでも見ていても見飽きることがなかった。これが本当のところです。見ているうちになんだか見られているのはこちらのほうではないか、そんな不気味な感覚に支配されるのです。穴の中に入ってみました。入口は大人一人がやっと入れるくらい、ひんやりとしている。 穴の一つに入ってみる 岩の壁面に穿たれた穴は300を超えるという。百とは「数の多さ」を意味する寓意でしょう。現実はその寓意をはるかに上回っている。しかもただの穴と言っても、300以上の穴を硬い岩壁に穿つ作業が生半可でない以上、何らかの強い意志と固く結ばれていないわけがない。思いつきの気まぐれでないことは確かでしょう。 もちろんその意思が何なのか、どこに通じているのかは私にわかるはずもないのですが、その場に身を置いて私が抱いた勝手な印象は、「戦への備え」でした。いくつもの穿たれた穴から敵方の動静を虎視眈々と監視する「目」です。第二次大戦中、軍事施設が存在していました。現在は柵で仕切られていますが、いくつかの穴の奥は軍需工場に通じていたとのこと。埼玉県には桶川や所沢、戦時中の空を担う重要施設がいくつも設置されていました。時に人は土地に一種のにおいを感じることがあります。古代人の感じ取ったものと同系の土地に染み付くかすかな匂い。そして張り詰めた決死の思い――。これらの穴は一体どこにつながっているのでしょうか。 ここはかつて軍事施設だった。怖い profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク 【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めます。 わからないところが魅力 ものつくり大学の初代総長である哲学者の梅原猛は、「法隆寺の魅力は分からないところにある」と述べています。同じように埼玉を見るとき、魅力の淵源はその「分からなさ」にあるように思えてなりません。分からないなかでもとりわけ茫洋としているのが、行田をはじめとする県北です。実はこのエリアこそが古代と地続きのつながりを持ち、古墳や万葉の文化が今なお濃厚に息づく土地であることはあまり知られていません。その証拠を一つあげるなら、行田市には、埼玉(さきたま)の地名があり、埼玉県名発祥の地と称されています。この地が歴史上、文化・文明の中心だったことを思わせるに十分でしょう。 行田には埼玉(さきたま)の地名がある。 では、現在の埼玉県はどうでしょうか。埼玉県は、2つの時間意識を同時に持ち合わせている県のように見えます。東京という先端都市に追いつこうとする衝動と、太古の精神を穏やかに保存しようとする念慮の2つの動きが同時に存在している。この「二重の動き」によって、埼玉県は最も現代的であるとともにもっとも原始的であり、結果としてどことなく不確かで混沌としています。同時に、この2つの異なる時間意識の中でせめぎ合いつつ、アイデンティティの確立を先延ばしして現在に至っているようにも見えます。 「登れる」古墳がある そんな埼玉県の知られざる太古のリズムに触れたいのであれば、繰り返しになりますが、なるべく北部、特に行田、羽生、加須のあたりを訪れることをお勧めいたします。特に行田に広がる田野に身を置くと、まるで古代の本能が呼び起され、いつしか自己と大地が一体化したような錯覚さえ起ってくるから不思議です。 古墳に登るときの心持ちはどこか神妙である。 典型は古墳です。「さきたま古墳公園」は都心からわずか一時間ほど、にもかかわらず案外知られていません。まずは大きさに関係なく、目に付いた古墳に登ってみましょう。この「古墳に登る」というのは、考えてみれば他でなかなか味わうことの難しい刺激的な体験です。近畿地方の巨大古墳などは、実際に行ってみても、前方後円墳の形がそのまま目視できるわけではなく、沼地の先に森が広がっているようにしか見えません。それが行田の稲荷山古墳に登ってみると、前方後円墳の名称の由来がくっきりと解像度高く感じられるのです。さらには、登ってみることで、古墳を作った人たちの気持ちに触れられるというか、古墳建造の現場に立ち会っているかのような親密な感情さえ湧いてきます。 現代では、建築物の形式はスタイルやデザインによって表現されますが、古墳においては古代の美意識がそのまま何の衒いもなく露出しています。それは土木の力を通じて形成された、太古の人々の精神のフォルムです。たとえば稲荷山古墳の上をゆっくり歩くと、太古の人々の歌が素朴な抑揚と共に聞こえてくるような気さえしてきます。 小埼沼と万葉歌碑 もう一つ、行田には万葉の歌碑があります。比較的近くの小埼沼を私は先日訪れてみました。立てられたプレートは、行田市教育委員会によるものです。それによると、小埼沼は江戸時代には現在もほぼ同じ形状を保っているごく小さな水たまりであったと言います(私が見た時は水はなく、草で覆われていました)。この場所は、古代には東京湾の入り江として埼玉の港だったと伝えられていますが、プレートの説明によればその可能性は低いようです。 涸れた小埼沼のほとりにたたずむ 沼の脇の碑は、阿部正允(忍城主)によって1753年に設置されたものです。万葉集から2つの歌が刻まれており、その一つは次のようなものでした。 「佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛許登奈多延曽祢(埼玉の 津に居る船の 風を疾み 綱は絶ゆとも 言な絶えそね)」 時代が進み、AIやDXが私たちの認識を高度にシステム化していったとしても、ここには、変わることのない認識の原風景のようなものが表現されています。言霊を信じた万葉の歌人は、「綱は切れても言葉は絶やさないようにしてくださいね」と歌っています。言葉は手紙であったり、実際に交わされる音であったり、あるいは、心の中のつぶやきであったりもする。そこには言葉の実在への絶対的な信仰のようなものが見て取れます。それがなければ、このような深い感情は詠み切られるはずもなかったでしょう。 埼玉は長い間に多くの変化を経験してきました。農村はいつしか都市になり、河川が鉄道に置き換えられました。家業から巨大組織へと人間の活動現場は変化を遂げてきました。この明滅するごとき百年余りの変動の時代において、これらの原型は、確固たる意志をもって歴史の重みを静かに指し示しているように見えました。 人間の営みは、古墳であれ歌であれ、広い意味でのものづくりです。言うまでもなく、古代においても、古墳や歌は作り手にとってとても大切な存在でした。おそらく、今以上に古代の人々は、自身の活動が後世に与える影響を真摯に考え抜いて、その責任を引き受けようとしていたのではないでしょうか。だからこそ、千数百年後を経た現代でさえ、私たちは、残された偉大な文物を介して太古の精神の動きに触れられるし、また感動もできる。 埼玉県名発祥の地・行田。ここは埼玉の最も古い意識に導く入口のように感じられます。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク 【埼玉学②】吉見百穴――異界への入り口 【埼玉学③】秩父--巡礼の道
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 埼玉学第5回は、埼玉県日高市にある「サイボク」が埼玉に作れられた歴史と背景、そして現在に至るまでの挑戦について触れていきます。 サイボク創立者の夢 埼玉県日高市に位置するサイボクは、食のアミューズメント・パークと呼ぶにふさわしい。その広大な敷地は、東京ドーム2.5個分に相当し、自家製の精肉やハム、ソーセージの直売店、レストラン、地元野菜や花きの販売所、そして天然温泉「花鳥風月」まで備えている。年間約400万人もの人々が訪れ、埼玉のみならず、関東一円にファンを持っている。たいていのガイドブックにもその名は記載されている。そんなサイボクには日本の戦後復興とともに歩んできた歴史が背景にある。 愛らしいマスコットキャラたちもお出迎え。 1946年、埼玉県入間郡高萩村(現在の日高市)にて「埼玉種畜牧場」が開設された。この牧場で、原種豚の育種改良が行われ、美味で安心な豚肉生産の基盤が築かれた。当時、国内には養豚学科を有する大学や農業高校がなく、創業者・笹﨑龍雄は、獅子奮迅の努力によってこの地に牧場を開いた。そんな笹﨑龍雄は、1916年、長野県の農家の8人兄妹の次男として生まれている。幼い頃から牛・馬・豚等の家畜に囲まれて育ち、中でも豚の飼育係を担当した笹﨑は、その魅力に夢中になり、いつしか「獣医」を志すようになる。しかし、8人兄妹を賄う家計は決して豊かでなく、一念発起して超難関の陸軍依託学生として東京帝国大学農学部実科(現・東京農工大学)を受験し合格する。卒業した1941年、日米開戦と同時に陸軍の獣医部将校として旧満州とフィリピンの戦地に派遣された。1945年日本が敗戦を迎えると、物資不足と食糧難を目の当たりにした笹﨑は、「食」で日本の復興に寄与しようとした。笹﨑の夢と情熱がサイボクを築き上げた。 自慢のソーセージ。 店舗の様子。 なぜ埼玉か 長野県生まれの笹﨑龍雄はなぜ埼玉に目を付けたのか。理由はいくつか考えられるが、一つ挙げるなら、埼玉の農業と深い関係がある。埼玉は何よりさつまいもと麦の生産地であった。埼玉においては、さつまいもは「主食」と言ってよかった。その地下で育つさつまいもは人間の飢えを満たし、地上で育つ葉や茎は、豚にとって良好な飼料となった。食の中心であった麦は、明治から昭和30年代中頃にかけて4種の麦を中心に生産されていた。戦前には小麦、六条大麦、二条大麦、はだか麦を合わせた4麦の生産が全国一を占めていた時期もあったが、それもまた養豚にとって恵まれた飼料の補給を可能にした。その歴史的背景を遡れば、「麦翁(ばくおう)」と呼ばれた権田愛三の存在が浮かび上がってくる。1850年に埼玉県北部の東別府村(現在の熊谷市)に生まれた権田は、一生を農業の改良に捧げた。中でも麦の栽培方法に関して功績を残し、麦の収量を4~5倍も増加させる多収栽培方法を開発したとされている。後にはその集大成ともいえる「実験麦作栽培改良法」を無償で配布、県内はもとより日本全国への技術普及に尽力した食のイノベーターだった。このような豊かな農業生産地・埼玉の「地の利」を背景に、笹﨑は養豚のイノベーションに着手していった。1931年に開通した八高線によって、豚や飼料等の運搬が容易になったこともそこに加えられるべきだろう。 埼玉の精神にふれる サイボクは現状に甘んずることなく、新しい挑戦を追求してきた。1975年には、日高牧場内に日本初の養豚家が直接販売するミートショップが開店し、その後も施設の拡大や改善が続けられた。1997年にはオランダで開催された「国際ハム・ソーセージ競技会」に初出品し、多くの賞を受賞した。さらに、2002年、周囲の猛反対を押し切り温泉堀削を試み、驚くほどの量の良質な温泉を発見した。それをきっかけに、温泉施設の建設が始まり、21世紀型の「食と健康の理想郷」をめざす施設として整備された。 今回話を聞かせてくださった現会長・笹﨑静雄氏と。 サイボクのレストランの裏手には、広大な緑の芝生と森が広がる「サイボクの森」がある。「緑の空間と空気は人々の心を癒すもとになる」「一日30~60分の日光浴は骨を丈夫にする」「子どもの近眼の主因である、屋外での遊びの欠如と日光浴不足を解消するためのこのようなアスレチック施設や、大人のための散策路やくつろぎのスペースを準備しよう」。サイボクの森は、女性スタッフ中心の発想で実現した。三世代の家族が遊べる空間として計画され、コロナ後はとりわけ得がたい憩いの場になっている。現会長・笹﨑静雄氏は、父・龍雄の存命時、豚が不調に見舞われた時の対処のし方を聞きに行くと、そのたびに「豚は何て言っていたんだ」と問い返されたと言う。「わかりません」と答えると、「豚舎に寝ないとわからないだろうな」と言われたと振り返っている。現在のサイボクの活動はすべて豚とお客さんが教えてくれたことを愚直に実践してきた結果と笹﨑氏は語る。現在のサイボクの歴史は、対話の歴史だった。客と対話し、自然と対話し、地域住民と対話し、何より豚と対話する。相手の言うことに耳を傾け、次に何が求められるかを模索する。これは郷土の偉人・渋澤栄一が事業を始めるときにこだわった方法でもある。サイボクは食のアミューズメント・パークにとどまらず、埼玉の「埼玉らしさ」にふれられるイノベーションの宝庫である。ぜひ一度訪れ、味わい、体感してみてください。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-古代のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口・【埼玉学③】秩父-巡礼の道・【埼玉学④】『翔んで埼玉-琵琶湖より愛をこめて』を公開当日に観に行くということ・教養教育センターWEBページ
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、秩父の土地に宿る精神に思いを馳せます。 秩父がある 「埼玉県に何があるのですか?」--あなたはこう問うかもしれない(あるいは問わないかもしれない)。私ならこう答えるだろう。「埼玉には秩父がある」と。秩父というと誰でも思い出す、巡礼。そうと聞くと、これという理由もなしに、心の深層にかすかなさざ波が立つ。なぜだろう。なぜ秩父。なぜ巡礼。 東京に隣接した埼玉からすれば、秩父はその無意識に沈む無音の精神空間を表現しているように見える。だがそれはごく最近、近代以後の現象である。なぜなら埼玉はその空間的存在論からすれば、初めから巡礼の地だったからである。これはうかつにも注意されていないように思える。秩父は、その意味で土地というより、霊性をそのまま差し出してくれる、埼玉の奥の院だ。巡礼は、元来霊的な情報システムである。それは現代人工的に編み上げられた新しい情報システムを突き破ってしばしばその顔を表す。高度な情報の時代といっても、霊性が土地ときっぱりと切り離されてしまうことはないし、また霊性を伴って初めて土地の特性は人々の意識に入ってくる。もともと埼玉のみならず、技術と霊性とはいわば二重写しをなしている。埼玉では常にそれらは密接不離の絡み合いとして現在に至っている。言い方を変えれば、日常の陰に潜んで裏側から埼玉県民の認識作用に参画し、微妙な重心として作用している。そのことを今年の夏に足を運んで得心した。 旅の始まりは秩父線 霊道としての秩父線 秩父に至る巡礼路は今は鉄路である。熊谷から秩父線に乗ると、人と自然の取り扱われ方が、まるで違っていることに気づく。訪れる者の頭脳に訴えるとともに、感覚として、ほとんど生理的に働きかけてくる。平たく言えば、「びりびりくる」のだ。秩父線ホームには意外に乗客がいる。空は曇っているけど、紫外線はかなり強そうである。初めはまばらに住宅街やショッピングモールが目に入るが、いつしか寄居を越える頃にもなれば山の中を鉄路は走る。時々貨物列車とすれ違う。ただの列車ではない。異様に長く、貨車には石灰石がぎりぎりまで小器用に積み上げられている。それは精密で美しい。武甲山から採掘されたのだろう。やがて長瀞に到着する。鉄道と言ったところで、近代以後の枠にはめられた埼玉の生態を決して表現し尽くせるものではない。ところで埼玉と鉄道の関係はほとんど信じられないくらい深い。いや、深すぎて、埼玉に住む多くの人の頭脳の地図を完全に書き換えてしまってさえいる。現在の埼玉イメージのほとんどは鉄道によって重たいローラーをかけられて、完全にすりつぶされてしまったと言ってもいいだろう。地理感覚を鉄道と混同しながら育ってきたのだ。鉄道駅で表現すれば、たちまちその土地がわかった気になるのは、そのまま怠惰な鉄道脳のしわざである。そんな簡単な事柄も、巡礼と重なってくるといささか話が違ってくる。秩父線は埼玉の鉄道の中ではむしろ唯一といってよい例外だ。この精神史と鉄路の重複は、肉眼には映らないが、長瀞に到達してはじめて、心眼に映ずる古人の確信に思いをいたすことができた気がする。こんなに気ぜわしい世の中に生きているのだから、たまには旧習がいかに土地に深く根ざしたものであるか、現地に足を運んで思いをいたしてもばちは当たらないだろう。そこには埼玉県の日常意識からぽっかり抜けた真空がそのまま横たわっていたからだ。 山中の寺社には太古の風が吹いていた 長瀞駅から徒歩10分程度のところに宝登山神社がある。参道を登っていく先からは太鼓が遠く聞こえる。それが次第に近づいてくる。この神聖性の土台を外してしまっては、土地の神秘に触れることはできない。どれほど都市文化と切り結ぼうとも、最深部では歴史からの叫びがなければ文化というものは成り立たないからだ。それらは住む人々がめいめい期せずして持ち寄り差し出しあうことで現在まで永らえている何かでもある。 それがどうだろう。現在の「埼玉」という長持ちに収まると、何か別のイメージに変質してしまう。そこにしまい込まれているのは、このような素朴な信仰や習俗であるに違いない。奥の稲荷を抜け、古寺の境内にいつしか立ち入ると、そこは清新な空気に支配された静謐な一画である。赤い鳥居はほとんど均等に山の奥まで配分されている。古代の神々の寓居にばったり立ち入ってしまったかのようだ。 どんなに慌ただしい生活をしていたとしても、ときには果てしない歴史や人の生き死にについて問うくらいの用意は誰にでもあるだろう。埼玉の中心と考えられている東京都の隣接地域では、こんな山深いエリアが埼玉に存在していることなどまず念頭に上らないのがふつうである。いわば埼玉県の東半分は生と動の支配する世界であるが、西半分からは死と静の支配する世界から日々内省を迫られていると考えてみたらどうか。モーツァルトの『魔笛』のような夜と昼の世界--。 生と動もこの世にあるしばらくの間である。しかし、死と静はほとんど永遠である。このような基本的な意識の枠組みが、すでに埼玉県には歴史地理的に表現されている。 荒川源流 徒歩で駅まで戻って、今度は反対側の小道を下りてみた。商店には笛やぞうりなどの土産が並ぶ。坂の突き当りで、長瀞の岩畳をはじめて見た。そのとき、荒川という名称の由来を肌で感じた気がした。ふだん赤羽と川口の間の鉄橋下を流れる荒川は見たところ決して荒くれた川ではない。きちんとコントロールされ、取り立てて屈託もなしにたゆたっているように見える。源流に近い秩父の荒川を目にしたとき、古代の人たちが何を求めていたか、何を恐れていたかがはっきりした気がした。私は源流にほど近い荒川の実物を前にして、人間の精神と自然の精神との純粋な対話、近代の人工的な観念の介入を許さぬ瞑想に似た感覚に否応なく行き着いた。気づけば、私は広い岩の上に横になっていた。どうも土地の神々の胎内にいるような気分になる。それは土地の育んできた「夢」なのではないか。そんな風にも思いたくなる。少なくともそこには都市部の明瞭判然たる人間の怜悧な観念は存在しなかった。おそらく土地の精神とは比喩でも観念でもない。それは勝手にひねり出されたものではなかった。古代人の中では、主体と客体などという二元論はなかっただろう。ただ荒く呼吸して大地から湧出する滔々たる水流と一体になっていただけだろう。それを知るのに学問もいらないし、書物もいらない。古人の生活に直接問いかけるだけの素朴な心があれば十分だ。きっと昔の人は、現実と観念の対立をまるで感じていなかったに違いない。自然全体のうちに人はいるのだし、人の全体のうちに自然はあるというのが、彼らの生きていく意味だったのだ。彼らは、自然が差し出してくる何かを受け取るポイントを特別な場所として認知した。このような自己を取り巻く自然が十分に内面化された場所、自己とはかくのごときのものであり、かくあるべきものであるという場所で、彼らはあえて祭祀を行ったに違いない。 寝転んで川風に吹かれてみれば、土地の精神を支えているのは、存在と切り結ぶ自然感情であることは、明らかなように思える。秩父にあるのは論理ではない。言葉でさえない。あえて言えばそれはとてつもなく古い体験である。それがうまく言葉にならないというそのことが、かえって一種の表現を求めてやまない、どこかくぐもった呼び声として内面にこだましてくる。 「埼玉には何もない」などと気楽に自嘲し、ごく最近つくられた観念に戯れることしかできないのはあまりにさびしいことだ。何もないのではない。正体を見極めがたいほどに果てしなく、あまりに何かが「あり過ぎる」のだ。 長瀞の岩畳に横になり、江風に吹かれてみる Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク ・【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく・【埼玉学②】吉見百穴-異界への入口
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めました。 今回は、埼玉県比企郡吉見町にある古墳時代の末期(6世紀末~7世紀末)に造られたとされる吉見百穴を訪れ、その不思議な魅力に触れていきます。 埼玉の不思議なもの 古人の建造物は、石や土、木とは限りません。岩の壁面に穿たれた「穴」もあるからです。吉見百穴の存在を最初に私に教えてくれたのは、学研という出版社が刊行していた「まんがひみつシリーズ」でした。シリーズ発刊は1972年だから、ほぼ半世紀前になります。自然や社会について子供でも理解できる工夫を見ると、仕事は丁寧、文章は達意、じつに卓越したクラフツマンシップの発揮された本に仕上がっています。 思わずため息が出るくらい、よくできたシリーズでした。たとえば、「野球」「切手」「宇宙」「からだ」「昆虫」など子供にとっては何ともいえず心惹かれるテーマ。実に軽快な手さばきで、面白おかしく編み直していく。私もかつては編集の仕事をしていたのですが、大いに脱帽させられたものでした。 とくに気に入っていたのは、『日本のひみつ探検』(「学研まんがひみつシリーズ29」)です。今みたいにスマホもネットもなかったので、暇さえあれば目を落としました。ただめくるだけのときにもありました。各ページ欄外には一つずつ「豆知識」が配されて、それだけで心が揺らめくのです。日本の地殻変動の目覚ましい働きから、自然的造形や名所旧跡などをとても親しげに、子供に寄り添って示してくれる。鬼の洗濯板、琵琶湖、青木ヶ原樹海、天橋立など、神秘の予感に彩られた地名はたぶんこの本で知ったと思います。 子供の頃の愛読書 一つが吉見百穴です(確か本には「ひゃっけつ」とルビが振られていた記憶がありますが、「ひゃくあな」が一般的のようですね)。古代の旧跡が自分の住む埼玉県にあるというので、根拠なく湧いてきた誇らしい気持ちだけは覚えています。いつか訪れてみたいと思いました。ですが、埼玉県民を悩ませる複雑怪奇の鉄道事情も相まって、訪れることができずに今日に至ってしまいました。(余談となりますが、私の勤める行田市の大学から隣町・加須市の実家に行くのに、高崎線の吹上駅まで15分、一度大宮まで出て宇都宮線に乗り換えて栗橋まで約1時間、徒歩で15分と計90分かかります。ちなみに、同地点から新宿までとほぼ同じ時間です。あるいは所沢あたりに出ようと思ったら、東京より遠い) 百穴を訪ねてみた 鴻巣駅からバスが出ていることは聞いていました。初夏の汗ばむような暑い日、吉見百穴を訪ねてみました。とにかく長い荒川の橋を抜けていきます。対岸まで続く緑の農地を眺めるともなく眺めながら、表れては消える田野や林と心の中で対話していると、唐突に現れたのが吉見百穴でした。日本の昔から名勝や景勝と言われている地はたいていは素朴な演出が施されているのが常ですが、完全にむき出し、空に向かって露出しています。 異様な無数の穴は唐突に現れる 川一つ隔てた向こうの灰色の岩壁には、蜂の巣のように詰まった感じの穴が目に入る。現代でいうところのカプセルホテルを思わせるところがあります。異様な穴がある時代に突如として出現したのに、どのような事情があったのは、私にはわかりません。実は、この疑問はすでに『日本のひみつ探検』を読んだ頃から私の頭を占めていました。 穴の用途については二つのまったく異質の説が存在していました。一つは、コロボックルの住処とする住居説、もう一つは墓所説です。両説は、考えるほど不明瞭になる気がします。ある時代にこのような構造物の突如とした出現について、どのような詳細があったのか、私は知りません。というか、知りたくもない。かくも得体の知れない穴についての説明など、どんな本を読んでも、人から聞いても、とうてい自分を納得させる自信がないからです。 異様な300の目 私はひたすら穴ばかり凝視していました。私のごとき素人には見当もつかないながらも、何か理解を求めてやまぬ生き物のように私には感じられました。あるいは、近くを流れる川向こうの平地の動静を監視している諜報施設のようにも。いずれにしても、近代に汚染された頭脳では及ばない、神妙な調和が付随するのは間違いなく、いつまでも見ていても見飽きることがなかった。これが本当のところです。見ているうちになんだか見られているのはこちらのほうではないか、そんな不気味な感覚に支配されるのです。穴の中に入ってみました。入口は大人一人がやっと入れるくらい、ひんやりとしている。 穴の一つに入ってみる 岩の壁面に穿たれた穴は300を超えるという。百とは「数の多さ」を意味する寓意でしょう。現実はその寓意をはるかに上回っている。しかもただの穴と言っても、300以上の穴を硬い岩壁に穿つ作業が生半可でない以上、何らかの強い意志と固く結ばれていないわけがない。思いつきの気まぐれでないことは確かでしょう。 もちろんその意思が何なのか、どこに通じているのかは私にわかるはずもないのですが、その場に身を置いて私が抱いた勝手な印象は、「戦への備え」でした。いくつもの穿たれた穴から敵方の動静を虎視眈々と監視する「目」です。第二次大戦中、軍事施設が存在していました。現在は柵で仕切られていますが、いくつかの穴の奥は軍需工場に通じていたとのこと。埼玉県には桶川や所沢、戦時中の空を担う重要施設がいくつも設置されていました。時に人は土地に一種のにおいを感じることがあります。古代人の感じ取ったものと同系の土地に染み付くかすかな匂い。そして張り詰めた決死の思い――。これらの穴は一体どこにつながっているのでしょうか。 ここはかつて軍事施設だった。怖い profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク 【埼玉学①】行田-太古のリズムは今も息づく
「埼玉学」とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理・自然など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載を始めます。 わからないところが魅力 ものつくり大学の初代総長である哲学者の梅原猛は、「法隆寺の魅力は分からないところにある」と述べています。同じように埼玉を見るとき、魅力の淵源はその「分からなさ」にあるように思えてなりません。分からないなかでもとりわけ茫洋としているのが、行田をはじめとする県北です。実はこのエリアこそが古代と地続きのつながりを持ち、古墳や万葉の文化が今なお濃厚に息づく土地であることはあまり知られていません。その証拠を一つあげるなら、行田市には、埼玉(さきたま)の地名があり、埼玉県名発祥の地と称されています。この地が歴史上、文化・文明の中心だったことを思わせるに十分でしょう。 行田には埼玉(さきたま)の地名がある。 では、現在の埼玉県はどうでしょうか。埼玉県は、2つの時間意識を同時に持ち合わせている県のように見えます。東京という先端都市に追いつこうとする衝動と、太古の精神を穏やかに保存しようとする念慮の2つの動きが同時に存在している。この「二重の動き」によって、埼玉県は最も現代的であるとともにもっとも原始的であり、結果としてどことなく不確かで混沌としています。同時に、この2つの異なる時間意識の中でせめぎ合いつつ、アイデンティティの確立を先延ばしして現在に至っているようにも見えます。 「登れる」古墳がある そんな埼玉県の知られざる太古のリズムに触れたいのであれば、繰り返しになりますが、なるべく北部、特に行田、羽生、加須のあたりを訪れることをお勧めいたします。特に行田に広がる田野に身を置くと、まるで古代の本能が呼び起され、いつしか自己と大地が一体化したような錯覚さえ起ってくるから不思議です。 古墳に登るときの心持ちはどこか神妙である。 典型は古墳です。「さきたま古墳公園」は都心からわずか一時間ほど、にもかかわらず案外知られていません。まずは大きさに関係なく、目に付いた古墳に登ってみましょう。この「古墳に登る」というのは、考えてみれば他でなかなか味わうことの難しい刺激的な体験です。近畿地方の巨大古墳などは、実際に行ってみても、前方後円墳の形がそのまま目視できるわけではなく、沼地の先に森が広がっているようにしか見えません。それが行田の稲荷山古墳に登ってみると、前方後円墳の名称の由来がくっきりと解像度高く感じられるのです。さらには、登ってみることで、古墳を作った人たちの気持ちに触れられるというか、古墳建造の現場に立ち会っているかのような親密な感情さえ湧いてきます。 現代では、建築物の形式はスタイルやデザインによって表現されますが、古墳においては古代の美意識がそのまま何の衒いもなく露出しています。それは土木の力を通じて形成された、太古の人々の精神のフォルムです。たとえば稲荷山古墳の上をゆっくり歩くと、太古の人々の歌が素朴な抑揚と共に聞こえてくるような気さえしてきます。 小埼沼と万葉歌碑 もう一つ、行田には万葉の歌碑があります。比較的近くの小埼沼を私は先日訪れてみました。立てられたプレートは、行田市教育委員会によるものです。それによると、小埼沼は江戸時代には現在もほぼ同じ形状を保っているごく小さな水たまりであったと言います(私が見た時は水はなく、草で覆われていました)。この場所は、古代には東京湾の入り江として埼玉の港だったと伝えられていますが、プレートの説明によればその可能性は低いようです。 涸れた小埼沼のほとりにたたずむ 沼の脇の碑は、阿部正允(忍城主)によって1753年に設置されたものです。万葉集から2つの歌が刻まれており、その一つは次のようなものでした。 「佐吉多萬能 津尓乎流布祢乃 可是乎伊多美 都奈波多由登毛許登奈多延曽祢(埼玉の 津に居る船の 風を疾み 綱は絶ゆとも 言な絶えそね)」 時代が進み、AIやDXが私たちの認識を高度にシステム化していったとしても、ここには、変わることのない認識の原風景のようなものが表現されています。言霊を信じた万葉の歌人は、「綱は切れても言葉は絶やさないようにしてくださいね」と歌っています。言葉は手紙であったり、実際に交わされる音であったり、あるいは、心の中のつぶやきであったりもする。そこには言葉の実在への絶対的な信仰のようなものが見て取れます。それがなければ、このような深い感情は詠み切られるはずもなかったでしょう。 埼玉は長い間に多くの変化を経験してきました。農村はいつしか都市になり、河川が鉄道に置き換えられました。家業から巨大組織へと人間の活動現場は変化を遂げてきました。この明滅するごとき百年余りの変動の時代において、これらの原型は、確固たる意志をもって歴史の重みを静かに指し示しているように見えました。 人間の営みは、古墳であれ歌であれ、広い意味でのものづくりです。言うまでもなく、古代においても、古墳や歌は作り手にとってとても大切な存在でした。おそらく、今以上に古代の人々は、自身の活動が後世に与える影響を真摯に考え抜いて、その責任を引き受けようとしていたのではないでしょうか。だからこそ、千数百年後を経た現代でさえ、私たちは、残された偉大な文物を介して太古の精神の動きに触れられるし、また感動もできる。 埼玉県名発祥の地・行田。ここは埼玉の最も古い意識に導く入口のように感じられます。 Profile 井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 1972年、埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、社会情報学。 関連リンク 【埼玉学②】吉見百穴――異界への入り口 【埼玉学③】秩父--巡礼の道