埼玉学とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載しています。
埼玉学第14回は、北埼玉の要衝、羽生を訪れます。田山花袋『田舎教師』の舞台として知られる静かな街で、井坂教授は41年前の熱狂の記憶を辿ります。冷戦下のドイツ・オーケストラと、一人の薄幸な青年教師の魂が交錯する、時を超えた旅路です。
北関東の鋼の下で
「四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた」(田山花袋『田舎教師』)。
羽生という地名は、埴(赤土)の生じる場所、あるいは鳥の羽が生まれる場所など諸説あるが、地形的な特性はあまりにもはっきりしている。関東平野の北端、利根川という巨大な暴れ馬の背中に張り付いた細長い鞍のような土地だ。
対岸はもう群馬県だ。広大な沖積低地が広がり、見渡す限りの平坦な地形は、空の広さを際立たせ、地平には上州の山並みが切り絵のように並ぶ。
窓の外は鋼の空が広がっている。重く、低く垂れ込めた冬の雲だ。
私は隣町の出身だから、懐かしい風景ではある。
羽生は、古くから交通の要衝であった。東武伊勢崎線と秩父鉄道が交差する地は、物資の集散地として栄えた。特に青縞と呼ばれる藍染めの織物は羽生の経済を支え、富が街の文化的な基盤を形成した。
鉄道が敷設される以前、利根川の水運と日光脇往還の宿場としての機能が人々の往来を生んでいた。
「羽生から大越に通う乗合馬車が泥濘を飛ばして通って行った」(『田舎教師』)。
花袋が描いた泥深い道は、いまや舗装され、車が行き交う。だが、土地が持つ移動の中継点としての記憶は、風の中にまだ残っているように思える。
羽生駅から徒歩数分の寺へと向かった。朝10時前の空気は冷たく、少し雨も混じっているようだ。曹洞宗の古刹・建福寺。田山花袋の小説『田舎教師』のモデルとなった小林秀三の墓がある。

田舎教師の悲哀と埋没
墓前で手を合わせる。小林秀三、享年二十一(数え年)。
肺結核で短い生涯を閉じた青年だ。石碑には「運命に抗う覚悟」、小林の日記に残された言葉が、胸を締め付ける。「あゝわれ終に堪えしや、あゝわれ終に田舎の一教師に埋んとするか……明日! 明日は万事定まるべし。……噫! 一語以て後日に寄す」。
立身出世を夢見ながら、貧困と病を得て、閉鎖的な田舎の現実に押しつぶされ、無名のまま死んでいった青年。
花袋は下宿先の住職・太田玉茗が義兄だった縁で小林の日記を目にし、悲劇的な物語を書き上げた。「さびしく死んでいく青年もあるのだ」。花袋は『東京の三十年』でこう記している。
近くの図書館にある郷土資料館へ足を運ぶと、かつて田舎教師研究会という熱心なサークルが存在したことを知った。1979年から断続的に刊行された『田舎教師研究』は、会員数100名を数えた時期もあったという。時は流れ、活動は縮小し、2021年の第9号を最後に事実上の終焉を迎えているようだ。
彼らが残した記録は、確かにこの地に生きた青年の魂を鎮魂し続けている。
二つの田圃
資料館を後にし、羽生市産業文化ホールへと歩を進めた。41年ぶりの訪問だ。
1984年12月8日。あの日、北関東の寒風吹きすさぶ田舎町のホールに、奇跡が舞い降りた。東ドイツ(当時)の名匠ハインツ・レークナー率いるベルリン放送交響楽団がやってきたのだ。私は脳裏のスクリーンにその日の映像を投影する。
当時、羽生市産業文化ホールは市政30周年を記念して1月に落成したばかりだった。衣料産業で栄えた羽生の経済力が、立派なホールを建設させ、さらに冷戦下の東側の名門オーケストラを招聘することを可能にした。控えめに言って、一種の文化的達成であったと言ってよいだろう。
私は小学6年生だった。プログラムはベートーヴェン「レオノーレ序曲」、シューベルト「未完成」、メインはベートーヴェン「交響曲第6番田圃」、アンコールはバッハの「G線上のアリア」。
ハインツ・レークナーとベルリン放送交響楽団。
正真正銘のドイツ音楽の真髄を聴かせる夜だった。
彼らは当時、鉄のカーテンの向こう側、東ドイツからやってきた。自由を制限された彼らが奏でる音楽には重厚さと、沈潜する内向性があったように記憶する。
出口のない青春を送ったかつての田舎教師の地で、分断された世界から届いた音色は、物理的な移動の自由を奪われた者同士が交わす、魂の密約のように耳に届いた。
ホールに入ると、青紫のステンドグラスが目に入る。むろん記憶のままだ。


帰路
地元合唱団と東京のオーケストラによる第九演奏が始まる。響きは私の耳の奥底で、41年前のレークナーのタクトと合流する。
演奏が終わった瞬間、拍手の中で、ふと隣の空席に気配を感じた気がした。気のせいかもしれない。もしここに小林秀三がいたとしたら、どんな顔をしていただろう。彼は音楽家になりたかった人だ。小説では東京音楽学校を受験し失敗している。
衣料産業で栄えた羽生の経済力が、文化の殿堂を築き、世界最高峰の芸術を招き入れた事実は、極めて健全な地方の意志を示している。経済的な成功を次代の感受性を育む文化的土壌へと還元した先人たちの気概。
日記に「あゝわれ終に田舎の一教師に埋んとするか」と嘆いた彼は、埋没した場所で、世界最高峰の『田圃』が鳴り響く未来を想像できたろうか。
ホールはただの文化施設ではない。夢破れ、土に還っていった無名の人々のための、巨大な慰霊碑なのだ。
小林秀三の絶望と、レークナーの希望。二つの残響は静かに平野を溶かしていた。
付記
本稿執筆にあたり、ベルリン放送交響楽団の演奏会が1984年12月8日に実施された事実確認にあたり、羽生市産業文化ホールの荻野栄一館長とメールでやり取りを交わすことができた。館長のご説明では、40年以上前であり、また運営主体の変遷もあったために、当該情報は確認できないとのことだったが、館長との対話は、文化施設がそこに携わる人々の誠実さと、訪れる者の記憶によって生かされる生命体であることを私に教えてくれた。貴重な情報共有と温かなお心遣いに、改めて謝意を表したい。

井坂 康志(いさか やすし)
ものつくり大学 教養教育センター教授
1972年埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、情報社会学。
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