「気がつく」ということ 人の特性のひとつに「慣れ」があります。はじめはおぼつかないことでも、慣れてくるとスムーズにできるようになります。これは良い例なのですが、悪い例もあります。何かが便利になるとはじめの内はありがたがるのですが、その便利さに慣れてしまうと当初の感謝の気持ちは薄れてきてしまいます。そして、急に不便になったときには腹を立てたりします。元に戻っただけなのだから腹を立てなくても、と思うのですが、そうはいきません。かく言う私も紛れもなくその一人です。そのときに今まで便利であったことに改めて気がつきます。 この「気がつく」ということは人には大事です。特に勉強でも研究でも趣味でもどんな場合でも、何か課題を解決しようとしているときにはとても大事だと思います。ところが日常的には中々気がつきません。周囲の多くのものに注意を払っていれば気がつくのではないかと思うのですが、多くのものに注意を払うのも大変です。メガネを使用している読者の方々は、メガネを掛けていることに気がつかずにメガネを探した、という経験はありませんか。私はあります。気がつくことは案外大変なのです。ただ、何かきっかけがあれば気がつくことができる、というのが先の「悪い例」です。もちろん良いことについても、きっかけがあると気がつきやすいはずです。 「気がつく」の応用 この「気がつく」ということを技能の修得に活用できないか、と考えています。技能の修得には一般的に時間が掛かります。例え仕事に関わる技能であっても、仕事中は技能の修得(つまり練習)のみに時間を割くことはできませんから、時間が掛かるのは仕方がありません。以前から「習うより慣れろ」という言葉がありますが、慣れるのにも時間が掛かるのです。そこで、慣れていく途中で自分より上手な他社との違いに「気がつく」ような指標を示すことができれば、技能の修得に役立つのではないかと考えています。また、当たり前のことですが、気がつくのは自分自身です。気がついたことをその人自身が自覚しなければなりません。自覚するためには自分自身あるいは成果を客観的にみる必要があります。ところが一生懸命にものごとに取り組むと、夢中になってしまって自分自身を客観的にみられなくなってしまう。あるいは目的を見失ってしまう、という状況に陥りやすくなります。そのようなときに、見失った自分や目的に気がつけるような仕組みの構築を目指しています。 何かを修得しようとする(上手にできるようになろうとする)ときには、まずは先達の物まねからはじめます。ところが物まねはできても、結果が伴わないことはしばしばあることです。これはスポーツを例にするとよくわかると思います。もし物まねで済むのであれば、皆同じ打ち方、投げ方になるはずです。しかし実際にはそうはなりません。なぜならば、人それぞれの体の大きさや関節の動く範囲、筋力などが異なるからです。 したがって人はまず物まねをしますが、その後何かに気がついて、自分なりの方法を見つけることになります。何に気がつくか、についても人それぞれです。ただ気がつくきっかけを提示できればと考えています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年9月8日号)掲載 Profile 髙橋 宏樹(たかはし・ひろき) 建設学科教授順天堂大学体育学部卒。同大大学院修士課程修了後、東京工業大学工学部建築学科助手を経て02年ものつくり大学講師。08年より現職。博士(工学)。 関連リンク ・人の生活と建築材料の研究室(髙橋研究室)WEBサイト・建設学科WEBページ
木造の住宅設計における「4号特例」とは 私の研究室では建築物の構造設計を通じて物の仕組みや成り立ちを考える研究を行っています。皆さんは木造の住宅設計において「4号特例」という制度があるのをご存じでしょうか?4号特例について新築の設計を例に説明すると、建築基準法第6条1項4号で定める建築物を建築士が設計する場合、建築確認の際に構造耐力関係規定などの審査を省略できる制度の事です。つまり対象となる建築物を設計する際に一部の書類提出を省略できるため、建築士も施主が望まない限りは審査に不要な書類の作成は行ってきませんでした。ここで対象となる建築物とは住宅等の木造建築物で2階建て以下の建物、延べ面積が500㎡以下で建物高さが13mまたは軒の高さが9m以下の建物で、これらの建物については建築確認審査を簡略化するという規定が「4号特例」と呼ばれる制度です。 ただし、建築士の責任で基準法に適合させることが前提です。4号特例は1983年に法改正してできた制度で当時の4号建築物の着工件数は今の倍程度あり確認審査側の人手との兼ね合いで、設計業務の一部の範囲については建築士の判断に委ねようという経緯がありました。 その後、1998年の建築基準法改正による建築確認・検査の民営化等によって、建築確認審査の実施率が向上し続ける一方で、4号特例制度を活用した多数の住宅において不適切な設計・工事監理が行われ、構造強度不足が明らかになる事案が断続的に発生したことなどを受け、制度の見直しの必要性が検討されてきました。 4号特例の縮小と課題 そのような状況の中、地球規模の課題である気候変動問題の解決に向けて、2050年までにカーボンニュートラルと呼ばれている脱炭素社会の実現に向けて国土交通省は建築物省エネ法と建築基準法を改正しました。2025年の全面施行に向け、段階的に政省令や告示などを定めていく予定で、その改正の中に「4号特例の縮小」と呼ばれる審査制度の見直し案が盛り込まれることになりました。改正後は4号の規定内容は新3号というものに引き継がれ特例となる対象は、平屋建て、床面積200㎡以下に範囲が縮小されます。 つまり2階建ての木造戸建て住宅は構造審査が必要になるという事です。これは建築業界にとっては大きな変化で建築士の業務量は増大し確認審査員の負担する審査件数も増大することで円滑な施工が実現できるのか懸念されています。木造住宅を手掛ける構造設計者の人数は、4号特例の縮小によって構造計算が必要になる住宅の物件数の増加に対して十分とは言えず、今後建設業界全体で木造住宅の構造計算を手掛けられる技術者を育てていく必要があります。もちろん4号特例の縮小は住宅を建てる施主側にとっては大きな安心につながります。より構造計画を重視した設計が求められることになり構造設計者の役割が重要になってきます。 私の研究室でも建築構造の基礎を学び構造設計の分野で活躍できる人材を社会に送り出していきたいと思っています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年7月7日)掲載 Profile 間藤 早太(まとう・はやた) 建設学科教授日本大学理工学部建築学科卒業。1級建築士・構造設計1級建築士。金箱構造設計事務所を経て間藤構造設計事務所を設立。2022年より現職。 関連リンク ・建設学科WEBページ
1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的な心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、歌手として都内のオペラ劇場を中心に活躍する他、作曲家、台本作家、指揮者、演出家の顔を持つ舞台の総合クリエイター、阿瀬見貴光氏を講師に迎えたプロゼミをお届けします。 肉声の魅力-声楽とは 私の職業は歌手です。声楽家です。主にオペラや舞台のクラシックコンサートに出演します。それと同時に故郷の加須市で市民ミュージカルのプロデュースも行っています。まずは歌手としての仕事についてお話したいと思います。 声楽家と現代的な歌手の大きな違いは何でしょう? そうです、マイクを使うか否かです。2,000人規模の大ホールでも60人以上のオーケストラと共演する場合も、基本的に声楽家はマイクを使いません。すなわち、肉声の魅力で音楽を表現します。肉声だからといって声はただ大きければよいというわけではありません。特にオペラは「声の芸術」とも言われていて、大事なのはよく響いて遠くまで通る声です。たとえば、「ストラディバリウス」というヴァイオリンの名器をご存知の方はいますか? ストラディバリウスの音色は実に繊細で密度が高い。そして近くで聴いているとそれほど大きな音に聞こえないのに、不思議と遠くの方まで響きが飛んでいくという特性があります。声楽家はそのような魅力的な音色をお手本にして技を身につけます。楽器である身体を鍛えたり、音声学を学びます。日々の発声練習も欠かしません。世界にはたくさんの種類の楽器がありますが、人間の声こそが最も美しく表現力豊かな楽器であると私は考えています。皆さんにはアコースティックサウンド、生の響きの醍醐味を感じていただきたいですし、そのようなコンサートに是非とも足を運んで欲しいと思います。 さて、ここで実演の意味も込めて歌ってみたいと思います。オペラ発祥の国イタリアから「オー ソレ ミーオ」というナポリの民謡です。高校1年の教科書に載っていますからご存知の方も多いかもしれませんね。私はイタリアに勉強に行ったことがあるのですが、イタリア南部の方の気質はとにかく陽気でおおらかです。この曲もまたそのような気質が現れていて、活きていることが素晴らしいと感じさせてくれます。 『オー ソレ ミーオ』 新国立劇場オペラの13年間 私は渋谷区初台にあるオペラ専用劇場を有する新国立劇場に所属し、約13年間インターナショナルな活動をしてまいりました。この劇場は、オペラのほか、舞踊と劇場の部門がありまして、どれも大変クオリティの高い公演が行われています。とくにオペラ部門は『ニューヨーク・タイムズ』のオペラ番付でも上位にランキングする実力があり、世界中のトップレベルの演奏家や演出家を招へいしています。 私はこの劇場の13年間オペラ公演で、延べ156演目、780のステージに立ちました。世界トップレベルの芸術家と一緒に舞台を創ること、それが私にとって何より刺激の源になりました。彼らとの日々のリハーサルや公演を通して、彼らの美の根底にある感性、思考、宗教観に触れることができたからです。近年ではウェブ上に舞台の情報が溢れる時代になりましたが、現場でしか味わえない貴重な経験をさせていただきました。日本にいながらにして、まるで海外留学をしているかのような気分です。 さて、オペラと言えばイタリア、ドイツ、フランス、イギリスなどヨーロッパを中心とした国々の芸術家との交流が多いのですが、「オペラ界のアジア」という視点で世界を見たとき、生涯忘れられないエピソードが2つありますのでご紹介したいと思います。 日中共同プロジェクト「アイーダ」と韓国人テノール ひとつ目は2012年の日中共同制作公演『アイーダ』です。日中国交正常化40周年の節目に日中の友好の象徴として共同制作されました。この前代未聞のプロダクションは、歌手およそ100名を新国立劇場と中国国家大劇院から集め、東京と北京で公演するというものです。国家大劇院は北京の中心部にありまして、国の威厳をかけて創設された大変立派な建築物です。近くには人民大会堂(日本の国会議事堂に相当する)があります。当時、中国の反日教育はよく知られていたので、劇場内でも日本人スタッフへのあたりが厳しいのではと心配したものでしたが、まったくの杞憂でした。むしろ国家大劇院の皆さんはとても友好的で、日本の音楽事情に興味津々といった様子でした。休日には関係者が北京市内を案内してくれもしました。リハーサルの後に、若いテノール歌手に食事に誘われ「遠くから来た要人には徹底的にもてなすのが中国人の流儀だ」と言って、約一カ月分のお給料に相当する額のご馳走を用意してくれたこともありました。そして肝心のオペラ公演も大成功を収めました。隣国同士の東洋人が心をひとつにして、西洋文化の象徴であるオペラに挑戦する。満席6,000人の巨大オペラ劇場が大いに湧きました。国家間の歴史認識の違いはあれど、芸術の世界に酔いしれるとき、国境が存在しないのだと感じました。しかし大変残念なことに、東京公演の一週間後、日中両国の外交関係が急速に悪化していきました。もし、このプロジェクトがあとひと月も遅ければ公演中止となっていたでしょう。 ふたつ目のエピソードは韓国です。皆さんは韓国アイドルの「推し」はありますか? 現在ではK-pop が大人気ですし、化粧品、美容グッズ、ファッションなど韓国のトレンドには力があります。若い皆さんは驚くかもしれませんが、2013年頃の日本では韓国に対する嫌悪感、いわゆる「嫌韓」の風潮が非常に高まっていました。その年の流行語のひとつは「ヘイト・スピーチ」でした。新宿区大久保などではデモがあり、激しいバッシングも見られました。そんな社会状況の中、新国立劇場ではオペラ『リゴレット』が公演されました。主役は韓国人の若手テノール歌手、ウーキュン・キム。それまで新国立劇場で韓国人が主役を張ることはほとんどなかったこともあり、過激な世論の中で彼がどんな評価をされるのか、私は興味深く見守っていました。彼の歌声は実に素晴らしいもので、客席は大きな拍手で彼を称えました。「日本の聴衆よ、よく公平な目で評価した!」隔たりを越えた美の世界を感じ、私はステージ上で静かに胸を熱くしました。 インターナショナルな活動の中で私がいつも思うことは、舞台製作の環境は常に政治の影響を受けていますが、政治に侵されない自由な領域を持つのもまた芸術の世界であるということです。だからこそ我々芸術家は、人間の普遍的な価値観や幅広い視点をもって世界の平和に貢献すべきだと考えています。 テクノロジーと古典芸能の融合-オペラ劇場の構造 今日は建設学科の講義ですので、オペラ劇場の構造について少し触れてみたいと思います。まず特徴的なのはステージと客席に挟まれた大きな窪みです。これは「オーケストラ・ピット」と言います。 ここにオーケストラ団員最大100名と指揮者が入り演奏します。ピットの床は上下に動きます。床が下がってピットが深くなるとオーケストラの音量が小さくなり、逆に床が上がると音量は大きくなります。これによって歌手の声量とバランスを取りながら、深さを調節するわけです。ピットの上には大きな反響板があります。オペラやクラシック音楽においては、いかに生の響きを客席に届けるかが大切ですから、音響工学の専門家が材質や形状にこだわり抜いてホール全体を設計しています。 これは劇場平面図です。客席から見える本舞台の左右と奥に同じ面積のスペースがありまして、これを四面舞台と言います。大きな床ごとスライドさせることができます。これによって、巨大な舞台セットを伴う場面転換がスムーズにできますし、場合によってはふたつの演目を日替わりで公演することも可能です。この機構をもつオペラ劇場は日本ではほんのいくつかしかありません。次は劇場断面図を見てみましょう。舞台の上には大きな空間がありまして、これは照明機材や舞台美術などを吊るためのものです。下側はというと「セリ」といって、舞台面の一部もしくは全体を昇降させることができます。そして、これらの機構の多くはコンピューターによって制御されています。最新のテクノロジーは古典芸能であるオペラ(400年の歴史)に新たな表現方法をもたらし続けているのです。 私のライフワーク-ミュージカルかぞ総監督として 「多世代交流の温かい心の居場所をつくろう」と思いついたのは約30年前のことです。私が大学3年生の夏に読んだ新聞記事がきっかけとなりました。若者の意思伝達能力の低下や家庭内暴力は、家庭問題というより社会の歪みに原因があるだろうと考えていました。「自分にできること、自分にしかできないこと」音楽や舞台表現を手段として、人間が人間に興味をもって、大いに笑い、平和を謳う。そんなコミュニティをつくろう!自分がオペラ歌手になるための勉強と並行して、文化団体の運営のイメージを実践方法を温め続けました。 2012年の夏に故郷である加須市で、市民劇団「ミュージカルかぞ」を立ち上げました。ありがたいことに、市長、教育長をはじめ、地元の実力派有志たちが私の掲げる活動理念に賛同、協力してくださいました。さらに嬉しいことに、一年目からすべての年代がバランスよく揃った『三世代ミュージカル』を実現したのです。また、ダンス講師、ピアニスト、照明家などプロの第一線で活躍する業界の仲間も加須に駆けつけてくれました。市民が主役の劇団ですから入団資格は『プロの舞台人でないこと』、以上。技と魂を兼ね備えたプロの舞台スタッフが環境を整え、地元のアマチュア俳優をステージで輝かせるのが私の手法です。団員たちが燃えるような魂で舞台に立つとき、キャラクター描写の奥に個々の圧倒的な生き様が放たれます。そこには見る者の魂を震えさせるほどの「人間の美しさ」があるのです。 しかし、そこにたどり着くまでには膨大な時間と労力、技術を要します。ほとんどの団員は演技や歌唱の経験がないからです。舞台での身体表現、呼吸法、発声法、楽曲分析、台本の読解法、そして舞台創りの精神など、私が日々舞台で実践していることを43名の団員たちに解りやすく愉快に伝えています。 ミュージカルかぞは年に2演目を10年間公演し続け(コロナ禍の中止はありましたが)、着実にレベルアップしています。いつも満員御礼の客席からは割れんばかりの拍手と「ブラボー!」が飛び交います。涙を流しながら客席を立つお客様の姿が増えました。県外からのファンや、教育や文化に携わる方も多くいらっしゃるようになりました。 『大人が笑えば子供も笑う』…劇団の稽古場は笑い声が絶えません。しかし、団員個々の心の事情には静かに話を聞いて、一緒に考えます。不登校、引きこもり、健康上の悩みなど事情は様々ですが、そこから社会の歪みが見えることは少なくないです。しかし、舞台表現を磨き続け、少しずつ自分の声と言葉で素直な自分を語れるようになった団員を見たとき、私も生きていて良かったと感じます。特に子どもや若者には、人と繋がって喜びを感じる『真実の時間』を過ごしてほしいと考えています。それは誰かを愛するための心の糧になると思うからです。 時空を超えるメッセージ-ミュージカル『いち』 さて皆さん、「愛」って何でしょうね? こういった漠然とした質問が一番困るんですよね。そのような抽象的なイメージを閃きに導かれながら具象化できるのが芸術文化のいいところです。愛をいかに表現するか、私も日々悩み続けています。 私の劇作家としての代表作にミュージカル『いち』があります。作品のもととなった加須古来からの伝承『いちっ子地蔵』を読んだ瞬間、作品のインスピレーションが稲妻のように降りてきました。眠るのを忘れるくらい無我夢中で台本と楽曲を書き留めました。全2幕8景、26曲、公演2時間と、なかなかのボリュームです。ドラマの舞台は天明6年(1786年)の加須です。水害などの度重なる困難に屈することなく、助け合って前を向いて生きるお百姓さんたちの姿を描いています。現代のような科学技術はなく、物質も情報も豊かではない村落共同体の人々は何に価値を感じて生きていたのか? 現代人が忘れかけた大切な「何か」を思い起こさせてくれるのです。そして、いつも忘れはならないのは「土地に生きた先人たちの努力、犠牲、愛があったからこそ、現在の我々がある」をいうことです。脈々とつながる命、先人からの愛に感謝することが、光ある未来を導くと『いち』は教えてくれます。 「大きな社会は変えられない、まずは小さな社会から」-。土壌づくりに20年。故郷で愛の種を蒔き始めて約10年。それらが今、芽吹きはじめました。埼玉の小さな街から田畑を越えて、時空を超えて、これから新たな愛の連鎖が広がっていくのだと思います。 『野菊』 『翼をください』 『帰れソレントへ』 Profile 阿瀬見 貴光(あせみ・たかみつ)昭和音楽大学声楽科卒業。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部18期修了。声楽を峰茂樹、L.Bertagnollio の各氏に師事。歌手としては都内のオペラ劇場を中心に活躍し、定期的なトークコンサート《あせみんシリーズ》では客席を笑いと涙の渦に巻く。その他、作曲家、台本作家、指揮者、演出家の顔を持つ部隊の総合クリエイター。完全オリジナル作品の代表作にミュージカル《いち》があり、これまでに5回の再演を重ねている。プロの舞台で培った技術や経験を地域社会に還元すべく、子どもの教育や生涯学習を目的としたアマチュア舞台芸術の発展に力を注ぐ。教育委員会等で講演を精力的に行い、芸術文化による地方創生の実践を伝えている。NPO法人ミュージカルかぞ総監督。ハーモニーかぞ常任指揮者。加須市観光大使。地元の酒をこよなく愛する四児の父。 関連リンク ・【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践・【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング・【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 原稿井坂 康志(いさか・やすし)教養教育センター教授
1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的な心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、OL時代、自身の体調不良が玄米で改善した経緯から大阪で玄米カフェ実身美(サンミ)を創業し、顧客の健康改善事例に多く立ち合ってきた大塚三紀子氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 学生時代から就職まで 私は現在、㈱実身美を経営しています。本日は「自分を活かす 人を活かす」というテーマで私の経験をお話ししたいと思います。 最初に私の学生時代から始めたいと思います。私は法学部の出身なのですが、大学時代は正直なところやりたいことがありませんでした。何をしようかわからなかったというのが実感でした。法学部に在籍したことから、税理士事務所に就職はしてみたものの、やりがいは感じられませんでした。そのようなこともあり、しばらくして体調を崩してしまったのですね。 そんなとき、玄米食に切り替えたところ、めきめきと回復したのです。この経験は私にとって鮮烈なものがありました。そのとき思いました。体調不良の悩みを持つ人はきっと日本全国にいるはず。ならば、同じような方法で体調が回復することで喜びを共有することはできるだろうと。私自身が苦労したことをもとに、世の中の問題を解決できるのではないかと考えたわけです。そこで、事業を始めることにしました。これが私が経営者になったきっかけでした。 起業の経緯 実身美(サンミ)は、名前がコンセプトになっています。「実」があって「身」体に良くて「美」しい。すべて「み」と読みますから、3つで「サンミ」と呼ぶわけです。実身美は2002年に大阪市阿倍野区にて創業しています。現在は、玄米を主食とした健康食を提供しており、年間40万人以上のお客様にお届けしています。大阪阿倍野区、都島区、中央区、東京都、那覇市に5店舗を展開しています。 通信販売にも力を入れておりまして、独自開発の酵素ドレッシングは、全国お取り寄せグランプリ3年連続日本一(2017年全国4,400商品中1位、2018年全国4,730商品中1位、2019年全国5,131商品中1位)の評価をいただいております。現在でこそこのような高評価をいただいているものの、起業の時からすべてがうまくいったかというとまったくそうではありません。これから少しそのお話をしたいと思います。もともと食には興味があったのですが、起業となると何もわかりません。私はその分野にはまったくの素人でしたので、創業支援制度を利用して相談してみると、まずは「事業計画書を作成するように」と言われたのですね。ここで私は、コンセプトと数字の大切さを徹底的に学ぶことになりました。起業にあたって思いや志は何にもまして大切なものです。しかし一方で、現実に事業を成り立たせていくためいには、実にたくさんの具体的な行動が必要になってきます。 そこで大切なのは、仕組みづくりであり、数字をきちんと計算することです。たとえば、私は起業にあたって、公的金融機関からしかるべき融資をいただいたわけですが、それは言い換えれば借金をしたということです。借金をしたら、期限までに返さなければならないのは当然です。そこで、経営というものの責任を実感させられました。一度責任を引き受けた以上、何としてでもやらなければならないと決意しました。 そうなると、必要な費用を賄うのに、いくら必要か。これは痛いくらいの現実で、従業員やアルバイトさんの時給など掛け算すれば経費が出てきます。何で稼いで経費を払っていくか。これを計算しました。一日に必要な収入を割り出すと、ご来店54人という数字が出ました。これより少なかったら、店を成り立たせていくことはできないし、従業員にお給料も払えないわけです。 今にして思うのですが、「1日54人」の数字が出たから、私は成功できたのだと考えています。もちろん、お金だけではありません。店舗を展開していく中で、どうしても自分だけでは限界があります。人に働いてもらわなければなりません。自分がわかっているだけでは回らないのです。そのときはたと気づきました。どう人に動いてもらうかがわからなかったのです。そんなときに出合ったのが、「マネジメントの父」と言われているピーター・ドラッカーでした。 ドラッカー『仕事の哲学』との出合い 行き詰っていた時に出合ったのが、『仕事の哲学』というドラッカーの名言集です。2003年夏のことでした。まず感銘を受けたのが、「帯」の言葉です。 「不得手なことに時間を使ってはならない。自らの強みに集中すべきである」。 これは本当に救いになりました。その人にできることを生かさなければならない。生かせないならそれはマネジメントの責任ということです。この時期にビジネス界にも影響力を持つ人と出会えたのは幸福だったと思います。翌年2004年からはソーシャルネットワークで「ドラッカーに学ぶ」コミュニティも運営しはじめました。2007年には、翻訳者の上田惇生先生(ものつくり大学名誉教授)に勧めていただき、ドラッカー学会に入会して現在に至っています。 念のため、ここでドラッカーについて説明しておきます。1909年にウィーン生まれ。2005年にアメリカで没しています。「ビジネス界に最も影響力をもつ思想家」として知られる方で、東西冷戦の終結、転換期の到来、社会の高齢化をいちはやく知らせるとともに、「分権化」「目標管理」「経営戦略」「民営化」「顧客第一」「情報化」「知識労働者」「ABC会計」「ベンチマーキング」「コア・コンピタンス」など、マネジメントの理論と手法の多くを考案し、「マネジメントの父」と呼ばれています。今当たり前に通用している経営戦略とか目標管理などはドラッカーが発案したものです。 強みを生かすには 私がドラッカーから学んだ最大のものは、「強み」の考え方です。たとえば、ドラッカーは強みについて次のように述べています。 「何事かを成し遂げられることは強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない」(『明日を支配するもの』) できないところに目を向けていてもしかたがありません。強みを集めて成果を上げるところまでもっていくことが大切だというのです。たとえば、経理の人はきちんと計算できれば、人付き合いできなくても成果をあげる上では問題ありません。むしろできることを卓越したレベルにまでもっていける。「強みを生かし、弱みを無意味にする」というのは、言うのは簡単なのですが、自己流だとうまくいきません。だんだんいらいらしてきます。人はなかなか見えないものだからです。 ではどう実践したか。実身美では、次の質問を投げかけています。「2人以上にほめられたことは何か」「2人以上に改善を求められたことは何か」一つ目については、「とても丁寧ですね。早いですね」といったささやかなことでよいのです。自分は大したことないと思っていても、強みは人が意外に知っているものです。スタッフ勉強会を開催して、隣の人のいいところを書いています。これを行うと、自分の気づいていないところがどんどん蓄積されて、新しい強みにも気づけたりする。「強みノート」を作成して、お互いの強みを理解し合えるように工夫しています。改善を求められたことについても同様に共有していきます。 強みに応じた人事としては、次のようなものがあります。社交性→百貨店担当学習欲→共同研究、HACCP取得、新規事業の把握責任感→マネジメント達成欲→成果が目に見える業務公平性→ルール作りのご意見番慎重さ→会社の危機を聞く、用意周到な準備が必要な案件コミュニケーション、共感性→お客様対応、広報指令性→プロジェクトリーダーポジティブ→ハードな現場収集心→リサーチ系の仕事(レシピ、店舗情報)着想→アイデアがないか聞く戦略性→成果へのプロセスを聞く さらに、気質や価値観も大切です。人には生まれ持っているものがあり、理由はわからないのにできてしまうことがあります。逆に、どんなに努力してもうまくできないこともあります。ドラッカーは次のように述べています。 「われわれは気質と個性を軽んじがちである。だがそれらのものは訓練によって容易に変えられるものではないだけに、重視し、明確に理解することが重要である」 人には教わっていないのにできてしまうことがあるのです。そういうものを生かしていきたいと考えています。なるべく人の持つ本質を大きく変えないようにすることで、生かしていきたいと考えています。 20年間存続するには--会社の文化づくり 最後になりますが、文化づくりについてお話したいと思います。私は文化の力はとても大きいと常々感じています。文化になれば言葉はいらなくなります。たとえば、日本では公共交通機関などでみんな並んで待つ文化がありますね。これは海外からすれば驚かれることです。それが文化の力であり、誰もが当たり前のようにやっていることです。 今日ものつくり大学に来て、みんなが気持ちよく挨拶してくれるのに感動いたしました。授業にもかなり前から教室に来ている。それはものつくり大学では普通のことかもしれませんが、立派な文化と言ってよいものです。文化になると人から言われなくてもできてしまう。これは、その文化の中にいる人を見れば伝わってくるものですし、本物の力だと思います。 なぜ実身美は20年継続できたのかを時々考えます。起業した企業が20年後に生き残っているのは0.3%と言われています。昔からあてにならないことを千三つと言いますが、まさに1000分の3の確率なのです。続けるのは難しいものです。ポイントは、学ぶこと、強みを生かすこと、そして「新しくしていくこと」です。続かないとは変われなかったということだからです。これは会社の文化といってよいと思います。 実身美では、継続学習とたゆまぬ改善活動を行っています。「丘の上の木を見ながら、手元の臼を引く」、すなわち、長期と短期をバランスさせる視点を大切にしています。ビジョンと現実の両方を見ながら、行くべき方向へかじ取りするのです。 最後に--マーケティングとイノベーション ドラッカーが言うのは、マーケティングとイノベーションです。ドラッカーは、「マーケティングとは販売を不要にすること」という有名な言葉を残しています。「買ってください」と言わなくても、お客様から「ほしい」と思っていただけることです。私は、自分が不便だと感じて、こんなのがあったらいいと思うことを大切にすることでした。自分も一人の顧客だからです。知人の本の編集者が教えてくれたのですが、「誰かにぴったり合うということは、その後ろに同じ感じ方をする人が30万人いる」という。それが独りよがりではなく、役に立ち、喜ばれるものになるのです。 イノベーションは新しくしていくことです。お店だったらいろんなメニューがありますね。消費者として、ほっとできるお店へのニーズがあるのに、それをベースにしているお店が少なかった。実身美の創業にはこのような思いもありました。そこで大切なのが顧客目線によるイノベーションです。お店の側は、自分が学んだイタリアンとか中華とかで勝負しようとしてしまいがちですね。果たしてそこに顧客目線はあるのかが疑問でした。自分の発想だけで出すと顧客からずれてしまいます。 自分が消費者だったらどうか。たとえば実身美では、冬に白湯を出すようにしています。というのも、通常の飲食店では、冬でも氷の入った水が出てくるところがあるからです。家ではありえないことですね。プロがそのようなことをしている。寒い時は常温の方がありがたいはずで、それだけでも感動してくれる人がいます。以前ジャーマンオムレツをメニューにしたいという意見があって、私はそこにトマトとかいろいろな野菜を入れたら魅力的ではと提案したことがあります。即座に「それではジャーマンオムレツにならない」という反論がありました。けれども、それは偶然私たちの知るジャーマンオムレツが、昔の人の保存がきくもの、じゃがいもとかしか使えなかった時代の遺物だったに過ぎない。それはものが不足していた時代に誰かが考えた苦肉の策なのに、今まったく違う現在でも踏襲してしまうのです。今はなすもトマトも入れられる。自分だったらこうするという具合に作り直していいのです。酵素ドレッシングもそうです。以前は、茶色で調味料というのが大半でした。生の良さを生かす「食べるドレッシング」という発想がなかった。それを顧客目線で開発した。 本日は「自分を活かす 人を活かす」というテーマで私の経験をお話しました。ものつくり大学の学生の皆さんに少しでも役に立てれば嬉しいです。ありがとうございました。 Profile 大塚 三紀子(おおつか・みきこ)㈱実身美 代表取締役関西大学法学部卒。OL時代、自身の体調不良が玄米で改善した経緯から2002年大阪で玄米カフェ実身美(サンミ)創業。20年間で玄米食を約500万食提供し、顧客の健康改善事例に多く立ち合う。玄米の機能性に感銘を受け、2017年度より、琉球大学医学部第二内科益崎教授研究室と玄米の機能性食品の共同研究開発を開始。働く女性を対象にした臨床試験を通じ、玄米の機能性成分がアルコール依存を軽減させる効果を認める。2019年~2023年 沖縄科学技術イノベーションシステム構築事業委託共同研究採択2022年 『特許庁 社会課題解決×知財 IOPEN プロジェクト~脳のデトックス効果のある玄米食を通じて社会ストレスを解消させる挑戦~令和3年度IOPENER』。ドラッカー学会会員。著書に『実身美のごはん』『実身美の養生ごはん』ワニブックス社がある。(累計2万9000部)『実があって身体に良く美味しい』をコンセプトにした商品開発を得意とする。酵素ドレッシングはベストお取り寄せ大賞3年連続総合大賞受賞(2019年度5,131商品中1位)他受賞多数。 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク 原稿井坂 康志(いさか・やすし)ものつくり大学教養教育センター教授
政府は本年5月に新型コロナウイルス感染症の位置付けを「2類相当」から「5類」に移行するとしており、私たちの生活におけるコロナ対策も一つの転換点を迎えようとしています。2020年に入り世界中で新型コロナウイルスの感染が拡大して以降「ポストコロナ」や「ニューノーマル」といった言葉を用いて、新しい教育環境の創出にまつわる議論が様々な場面でされてきました。とりわけ、デジタルを活用したグローバル化、地方創生、リカレント教育、大学間連携といったキーワードが活発に議論されてきました。 人材育成と大学間連携 時代に求められる、時代に受け入れられる学びの形態を考え続けることは大学の責務であり、いま社会に求められているものとして「超スマート人材の育成」と「社会と連携した職業訓練」が挙げられます。Society 5.0と呼ばれる「サイバー空間とフィジカル(現実)空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会(Society)」を担う人材、それが超スマート人材ですが、情報社会(Society 4.0)に続く新たな社会の担い手になるためには、幅広い学びが必要です。それぞれの専門分野の学びはもちろん、コミュニケーション能力や協調性といった人間力を育むことが必要不可欠であり、それは言い換えれば、他者を理解し、尊重できる能力なのかもしれません。私がいま所属しているものつくり大学では、隣接する羽生市の埼玉純真短期大学と、加須市にある平成国際大学との間で連携協力協定を締結しています。このように複数の大学が連携することで、他分野の学生等との相互交流が可能となり、「他者を理解し尊重する能力」が育まれることに繋がります。 こども学科と建設学科 パンデミックの影響もありましたが、埼玉純真短期大学「こども学科」とものつくり大学「建設学科」の学生たちが交流することで、2018年度「模擬保育室(おひさまランド)」の幼児用家具と室内遊具をデザイン・製作、2020~2021年度「屋外キッズハウス」をデザイン・製作するというプロジェクトが展開されてきました。専門的知識と実践力のある保育者・教育者を社会に輩出する「こども学科」と、実際にものづくりができ技能にも秀でたテクノロジストを輩出する「建設学科」の学生たちが、お互いを理解し尊重することで実現した成果です。 2018年度制作の「模擬保育室(おひさまランド) 2020年度制作のキッズハウス ポストコロナ元年 令和5年度の埼玉県一般会計当初予算は「ポストコロナ元年~持続可能な発展に向けて~」と名付けられました。「10年先、20年先を見据え、埼玉県の持続可能な発展に向けての礎を築いていく」という決意が込められているそうです。その具体的な取り組みの中には、資源のスマートな利用、ゼロ・カーボン社会に向けた取り組みも含まれています。「木材」を使った模擬保育教室と屋外キッズハウスプロジェクトは、森林と木材利用がカーボンニュートラルに貢献できることの学びに通じるものです。学生たちがそのことを深く考えるのは、あるいは卒業後かもしれませんが、大学間連携によって他者を理解することを学んだ若者たちが、超スマート人材として次世代の担い手になってくれることを願っています。 2021年度制作のキッズハウス 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年5月5日号)掲載 Profile 佐々木 昌孝(ささき・まさたか) 建設学科教授 1973年生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建設工学専攻)博士後期課程。博士(工学)。2020年4月より現職。専門は木材加工、日本建築史 関連リンク ・家具研究室(佐々木研究室)WEBサイト・建設学科WEBページ
第2回「学生による授業レポート」をお届けします。今回は建設学科4年の杉山一輝さんが「鋼構造物施工および実習」を紹介します。杉山さんは2年次に「鋼構造物施工および実習」を受講して、4年次ではSA(スチューデント・アシスタント)として実習の運営をサポートしました。学生とSAの両方の視点からのレポートをお届けします。(学年は記事執筆当時) 「鋼構造物施工および実習」について 「鋼構造物施工および実習」は、鋼構造の躯体モデルとして鉄骨部材で構成されたシステム建築を施工する工程を通じて、鋼構造部材の組み立てを中心とした施工管理を学びます。高力ボルトなどの締付け管理や母屋、胴縁などのボルトによる施工要領について学び、筋交いやサグロッドなどの2次部材の役目や施工方法を習得します。 システム建築の特徴 この実習は、株式会社横河システム建築から鉄骨などの部材を提供いただくとともに、社員の方に非常勤講師として来ていただき行われています。横河システム建築は、業界トップシェアを誇るシステム建築と、国内外の大型開閉スタジアムやハワイ天文台のすばる望遠鏡大型シャッター装置など、様々な用途の大型可動建築物を提供する建築製品のトップメーカーです。 システム建築とは、建物を構成する部材を「標準化」することにより、「建築生産プロセス」をシステム化し、商品化した建築です。工場・倉庫・物流施設・店舗・スポーツ施設・最終処分場等に適した建築工法で、建設のうえで想定される検討事項・仕様が予め標準化されているので高品質でありながら、短工期・低価格を実現しています。(株式会社横河システム建築HPより引用:https://www.yokogawa-yess.co.jp/yess01/feature) 完成写真 苦労した点、勉強になった点 2年生で受講した時は、システム建築、鉄骨造と聞いてもイメージが全然湧きませんでした。図面を見て理解するにも時間がかかって施工するにもいろいろ苦労しました。しかし、世の中の鉄骨造の建築物(特に工場・倉庫)はどのように施工されているのかを細かな部分まで実習を通して知ることができ、完成に近づくほど楽しく、面白く感じました。「システム建築」がどのような事なのかも学ぶことができました。 図面確認 3年生になり、SA(スチューデント・アシスタント、以下SA)になってからは、受講生に質問されてもしっかり答えられるように図面をよく確認したり、作業内容を熟知するようにして事前準備をしていました。現場は予定通りにいかないことが多いので臨機応変に対応していくのが大変でした。SAとして、また実習に参加することで、受講当時に分からなかったことが理解できるようになったり、新たな疑問点は見つかったり、毎回の実習が充実していたので参加できて良かったと思います。 SAとして工夫した点 就職活動では、株式会社横河システム建築から内定をいただいたということもあり、SAを2年間経験させてもらっています。一般的にSAという立場は、受講生のサポート役として参加しますが、この実習では規模が大きいということもあり、SAが率先して受講生をまとめています。受講生では危険な作業が少々あり、SAがやらなくてはいけない作業があったりするからです。 工夫したことは、その場その場でいろいろとあります。教授・非常勤講師の打ち合わせに参加して、実習で使用する工具類の確認、授業の流れを把握したりして受講生がスムーズに実習できるように環境づくりを行いました。また、複数人いるSAの中でリーダーでもあったので指示を出したり、自身の分からないことはすぐに非常勤講師に質問して対応できるようにしていました。 SAによる柱設置作業 原稿建設学科4年 杉山 一輝(すぎやま かずき) 関連リンク ・【学生による授業レポート】ジジジジッ、バチバチッ・・・五感で学ぶ溶接技術・建設学科WEBページ
今回は、学生の目線から授業を紹介します。建設学科1年の佐々木望さん(上記写真左)、小林優芽さん(上記写真右)が「構造基礎および実習Ⅳ」のアーク溶接実習についてレポートします。実習を通じて、学生たちは何を感じ、何を学んでいるのか。リアルな声をお届けします。(学年は記事執筆当時) ものつくり大学の授業について ものつくり大学の特色…それは何といっても実習授業の多さです。なんと授業のおよそ6割が実習であり、実践を通して知識と技術の両方を身に着けることができます。科目ごとに基礎実習から始まり、使用する道具の名称や使い方などを一から学ぶことができます。 本学は4学期制でそれぞれを1クォータ、2クォータと呼び、1クォータにつき全7回の授業と最終試験を一区切りとして履修していきます。今回は、そんな授業の中で建設学科1年次の4クォータで履修する「構造基礎および実習Ⅳ」のアーク溶接実習について紹介します。 アーク溶接の実習とは まず、アーク溶接について簡単に説明すると「アーク放電」という電気的現象を利用して金属同士をつなぎ合わせる溶接方法の一種です。アーク溶接の中にも被覆、ガスシールド、サブマージ、セルフシールドなど様々な種類がありますが、この実習では一般的に広く使用されている被覆アーク溶接を行いました。 アーク溶接の様子 この授業は、講義の中で溶接の基礎知識や安全管理等の法令を学び、実技を通してアーク溶接の技術を身に付けることを目的としています。また、6回目の授業で突合せ板継ぎ溶接の実技試験、7回目の授業で「アーク溶接等作業の安全」をテキストとした試験を行います。その試験に合格した学生には特別教育修了証が発行され、アーク溶接業務を行えるようになります。 実技試験の課題 突合せ溶接 実習では平板ストリンガー溶接、T型すみ肉溶接、丸棒フレア溶接、突合せ板継ぎ溶接といった、数種類の継手の面やコーナー部を溶接する練習を行いました。また、講義では鋼材に関する知識、溶接方法の原理、作業における安全管理、品質における溶接不良の原因や構造物への影響等について学び、試験に臨みました。 実習の流れとしては、まず作業の前に溶接方法の説明を受けます。その後、皮手袋やエプロン、防じんマスク、保護面等の保護具を着用して、3~4人で一班になり、各ブースに分かれて順番に練習を行います。作業中は、実際に現場で活躍されている非常勤講師の先生が学生の間を回り、精度の高い溶接ができるようアドバイスや注意をしてくれます。溶接金属やその周囲は非常に高温になるため、他の実習よりも危険なポイントが多いので作業中だけでなく、準備・片付けもケガ無く安全に行えるよう毎回KY(危険予知)活動をしてから実習に臨みました。 実習を行ってみて 説明ばかりでは授業の様子を想像するのも難しいですよね…。ということで、実際に授業を受けた建設学科1年、小林と佐々木の感想をお届けしたいと思います! ・何を学ぶことができたか 【小林】アーク溶接とは何かを学ぶことができました。もっとも、それを教わるための講義なので何を言ってるんだと思われてしまいそうですが、そもそも私は溶接と無縁の生活を送ってきたので、アーク溶接ってなに?というか溶接ってなんだよ。というところから入りました。1回目の講義の際、どのようなものが溶接で作られているのか紹介していただいたのですが、ほとんどが知らなかったことだったので、とても面白かったのを覚えています。 【佐々木】溶接というのは非常に優れた接合方法だということを学びました。溶接は継ぎ手効率が高く、大型の構造物を作るのに適しています。あの東京スカイツリーはなんと37,000ものパーツを全て溶接することで作られていると知り、世界一高い塔を作る溶接という技術がこんなに小さな機械で、こんなに簡単にできるものなのだと驚きました。また、一口に溶接といっても用途によって材料や溶接方法、継ぎ手の種類などが様々で、その違いを興味深く学ぶことができました。 ・楽しかったこと 【小林】アーク溶接を実技として教わったことがすごく楽しかったです。非常勤の先生方がとても優しく、どのようにすればいいか、どのくらい浮かすのか、どの音で進めていくのかなど一緒に動かしたり、その都度「今離れたよ。もう少し近付けて。そう、その音」と声をかけてくれたりして理解できるようにしてくださったので、すごく分かりやすかったです。そのおかげで綺麗に溶接ができるようになり、すごく褒めてくださることもあって、とても楽しく実習をすることができました。先生が「初めてでここまでできる人は初めて見た」とまで言ってくださったので、とても嬉しく、褒められればやる気が出る単純なタイプなので、やる気もすごく出ました。 【佐々木】練習を重ねて、アドバイスを実践していく度に溶接の精度が上がり、目に見える形でできるようになっていくのが楽しかったです。溶接は五感がとても大切で、保護面越しで見るアーク放電の光だけでなく、ジジジジッ、バチバチッといった音の違いや溶接棒越し感触を頼りに集中し、真っすぐに溶接できた時にはとても達成感を感じました。班の中でも上手な学生から感覚を教えてもらったり、説明を受けながら溶接の様子を見学することで、より学びを深めることができたと思います。講義では、先生から現場での実体験を交えてお話いただいたおかげで楽しく知識を身に着けることができたので、苦にすることなく試験勉強に取り組めました。 実習中の様子 ・苦労したこと 【小林】T字の材料に溶接するところがすごく苦労しました。平面とはまた違った角度をつけて溶接しなければならず、どうにもそれが難しかったです。1層目の溶接は擦りつけながら溶接すると言われ、この前までは浮かせるって言ってたのに?と混乱している中、追い打ちで「この前とは違う角度で溶接する」と言われてしまい、思考が停止したのをよく覚えています。さらに、そのことに気を取られ、前回できていた適切な距離を維持することができなくなり、手が震えて作業している場所が分からず、ズレてガタガタになることを経験して、やっぱり一筋縄ではいかないんだと痛感しました。 T型すみ肉溶接 【佐々木】被覆アーク溶接というのは、細長い溶接棒と溶接金属の母材を溶かし合わせてつなぎ合わせる方法で、溶接を進めるほど溶接棒が溶けていくので、母材と溶接棒の距離を保つのが難しく、溶接の後が上下にずれてしまい大変でした。アークの光が明るすぎて目視では距離の確認ができずに困っていたら、「正しい距離を保てば見えるようになる」と教えてもらい、それからは以前より真っすぐに溶接できるようになりました。また、溶接不良を何か所も発生させてしまい、溶接不良が原因で鉄橋が崩落した大事故についても学んでいたため、仕事としての難しさや、構造物を作っている技術の高さを改めて感じました。 最後に 私たちの授業紹介はいかがでしたでしょうか?建設学科では、今回紹介した構造基礎の授業だけでなく、設計製図や木造、仕上げといった幅広い分野について実習を通して学び、知識と技術を身に着けることができます。 この記事を通して「ものつくり大学って面白そう!」「他にどんな授業をしているのかな」と少しでも興味を持っていただけたらとても嬉しいです。 最後までお読みいただきありがとうございました。 原稿建設学科1年 佐々木 望(ささき のぞみ) 小林 優芽(こばやし ゆめ) 関連リンク ・【学生による授業レポート #2】受講後もSA(スチューデント・アシスタント)を通じて深める学び・建設学科WEBページ
転換点を迎えたコンクリート コンクリートは、現代のインフラ構築において不可欠な構造材料です。コンクリートの構成材料は、一般には水、セメント、細骨材(砂)、荒骨材(砂利)と少量のセメント分散効果のある液剤(化学混和剤)の5つになります。このうち、水、細骨材および粗骨材は、特殊な環境を除いて地球上のあらゆるところで採取できます。また、構造材料には、ほかに木材や鋼材が代表的ですが、我が国においては単位体積あたりではコンクリートが最も安価です。 これに加えて、適切な材料を使って練混ぜ、施工および養生を行えば、大きな圧縮強度が得られ、長大な構造物を重力に逆らわない自由な造形で構築することが可能です。 こうした特性が、広範に使われている所以なのかもしれません。しかしながら、昨今では施工人員の不足や環境負荷低減への対応が喫緊の課題となっており、大きな転換点を迎えています。 コンクリートの施行の変容 コンクリート工事は、機械化が進んでいるものの、未だに多くの作業を人力に頼る部分が大きいです。ある程度の構造物であれば、コンクリートを打込む部位1か所につき20名ほどの作業者が必要とされる場合もあります。一方で、作業者の高齢化や若年入職者の減少など、今後ますます人員が不足する可能性が高くなっています。 実習でコンクリートを打設している様子 この対策のために、ロボットの活用や更なる機械化施工に加え、3Dプリンティングの技術の開発など、各所で様々な取り組みが活発化しており、近い将来には多くの作業者が見られた建設現場の風景が変わる可能性を秘めています。 コンクリートの環境負荷低減 冒頭で述べたように、コンクリートは総合的には最も合理的な構造材料と言えます。一方で、セメントの製造には多くの二酸化炭素を排出し、地球環境保護の観点からは、いかに抑制するかが喫緊の課題となっています。業界の取り組みにより、徐々に改善されつつありますが、今後も引き続き検討していく必要があるでしょう。 また、セメントの代替として、高炉スラグ微粉末(鉄鋼生産の副産物)やフライアッシュ(石炭火力発電所等で副産される石炭灰)を大量に置換して、従前のセメントを用いたコンクリートと同等の性能を得る技術など、各所で多くの研究が行われています。 一方で、解体後のコンクリート塊は、従来より再生砕石等でほぼ全量がリサイクルされてきましたが、より環境負荷低減を図る上でもさらなる構造物の長寿命化や新たなリサイクル方法など、様々な技術が開発されつつあります。これらの研究開発が、コンクリートの未来に向けて大きな展開につながることが期待されています。 コンクリートの未来に向けて 現代のコンクリートが登場して100年ほど経過し、歴史的にも大きな転換点を迎えている状況ですが、これに代わる合理性を持った構造材料の登場には至っておらず、今後も当分の間多くの構造物で使われるものと思われます。 一方で、社会の変容のスピードは速く、これに追随して変化していかなければ、時代に取り残された技術となってしまいます。当研究室としても、新たなコンクリートの未来に向けて学生諸君とともに様々な課題解決のために研究活動に取り組んでいきたいと考えます。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年3月3日号)掲載 Profile 大塚 秀三(おおつか しゅうぞう) 建設学科教授 川口通正建築研究所を経て2005年ものつくり大学技能工芸学部建設技能工芸学科卒業(社会人入学、1期生)。2013年日本大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。2018年4月より現職。専門は建築材料施工、コンクリート工学。 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 建築材料施工研究室(大塚研究室)
教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は建設学科 八代克彦教授に伺いました。 Profile 八代 克彦(やしろ かつひこ)技能工芸学部建設学科 教授 1957年、群馬県沼田市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。博士(工学)。札幌市立高等専門学校助教授を経て、2005年にものつくり大学へ移籍。専門は建築意匠・計画 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 専門の建築意匠・計画の分野だけでなく、いろいろなモノに対して自然と関心が向いてきた研究人生であったと思います。一見すると寄り道に見えることが、後々意外なところで新しい活動につながったり触発されたりといったこともずいぶん体験してきました。 やはり研究人生の基点となったのが、東京工業大学の4年次に所属した茶谷正洋研究室です。茶谷先生は世間では「折り紙建築」の創始者として有名ですが、実は建築意匠・構法の研究者として環太平洋の民家を精力的にサーヴェイされており、その総仕上げともいえる中国の地下住居に研究室所属時に出くわし、一辺で魅了されました。時は1980年代初頭、中国北部の黄土高原に見られる伝統的な住居形態・窰洞(ヤオトン)と呼ばれる地面に穴を掘って生活する人々がなんと4,000万人もいました。これは、中国の陝西省北部、甘粛省東部、山西省中南部、河南省西部などの農村では普通に見られる住宅形式です。地坑院ともいわれており、現在では国家級無形文化遺産にも登録され、今でもかなりの数の人々(約1,000万人?)の人々が崖や地面に掘った穴を住居として利用しています。 その研究を行ったのが、1980年代中葉、天安門事件の前の時代でした。西安に留学し、住居の構造はもちろんのこと、文化人類学的な関心からも研究を深めることができました。黄土高原の表土である黄土は、柔らかく、非常に多孔質であるために簡単に掘り抜くことができ、住居全体を地下に沈めた「下沈式」と呼ばれる、世界的にも特異なものでした。今ならドローンで比較的安易に撮影可能と思いますが、当時はそのようなものはありませんので、横2m×縦2.7mほどの大きな六角凧で空撮を敢行しました。どこに行っても住人が凧の紐を持つのを争って手伝ってくれたのが懐かしい思い出です。 ヤオトン空撮写真(河南省洛陽) その経験が後々まで力を持ったということですね。 そうだと思います。やはり最初に関心を持った分野というのは、後々まで影響するようで、現在に至っても、私の建築デザインの原型にはあの洞窟住居があるように感じています。東工大の後は札幌市立高等専門学校に務めました。この学校は全国初かつ唯一のデザイン系の高専で、校長が建築家の清家清先生です。この学校で研究からデザイン教育にフォーカスしていったのですが、一貫して地下住居への関心は持ち続けてきました。なぜか気になる。そこには、必ず何かがあるはずなのです。その何かが研究を継続するうえでの芯のようなものを提供してくれたのかとも思う。まさに穴だらけの研究人生です。その後、2005年からものつくり大学で教鞭を執るようになりました。ものつくり大学では、手と頭を動かしてモノをつくる、ものづくりにこだわりを持つ学生が多く、刺激的な教育研究生活を送ってこられたと思います。これからも、学生には自分の中にある関心の芽を大切にしてほしいと思いますね。私の場合それは中国の地下住居だった。関心対象はどんどん形を変えていくかもしれないけれど、核にあるものはたぶん変わらない。二十歳前後の頃に、なぜかはっとさせられたもの、心を温めてくれたもの、存分に時間とエネルギーを費やしたものは、一生の主軸になってくれます。 ものつくり大学で最も強い思いのある作品は何ですか。 いろいろあるのですが、とりわけル・コルビュジエ(1887~1965年)の休暇小屋原寸レプリカが第一に挙げられると思います。現在ものつくり大学のキャンパスに設置されています。コルビュジエは、スイス生まれのフランス人建築家で、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスと並んで近代建築の四大巨匠の一人に数えられる人です。これは正確には、「カップ・マルタンの休暇小屋」と言います。地中海イタリア国境近くの保養地リヴィエラにあるコルビュジエ夫婦のわずか5坪の別荘です。1951年にコルビュジエ64歳の折、妻の誕生祝いとして即興で設計して翌年に完成させた建築物です。打ち放しのコンクリートがコルビュジエの一般的なイメージなのですが、休暇小屋はきわめて珍しい木造建築なのですね。日本でのコルビュジエ作品としては、上野の国立西洋美術館が有名です。彼が設計者に指名されたのは1955年ですから、国立西洋美術館の構想も休暇小屋で練り上げられた可能性もあります。 どんなプロジェクトだったのでしょうか。 レプリカ制作に着手したのは、2010年6月、当時神本武征学長の頃でした。学長プロジェクトとして「とにかく大学を元気にする企画」という募集があって、さっそく有志を募ってプロジェクトを立ち上げました。「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」がそれです。建設学科と製造学科(現 情報メカトロニクス学科)両方の教職員学生を巻き込み、世界的名作とされる住宅や工業製品を原寸で忠実に再現することを通して、本物のものづくりを直に体験してほしいと考えて始めました。第一弾となったのが、この小さな休暇小屋であったわけです。そのこともあって、2010年9月に急いでフランスに渡り、必要な手続きを行うことになりましたが、これがとても刺激的でした。ありがたいことに、パリのル・コルビュジエ財団からは、翌10月には無事に許諾を得ることができました。2011年2月には、カップ・マルタンに学生10名、教職員6名とともに実物を見に行きました。これは現地の実測調査も兼ねており、約2年間の卒業制作として、設計、確認申請、施工とものつくり大学の学生たちが、ネジ一個から建具金物、照明、家具に至るまで丸ごと再現しています。実際に現地で見て、自分たちの手で原寸制作する。本人たちにとって本物のすさまじさを思い知らされる体験だったはずです。繰り返しになりますが、休暇小屋は私にとって、両学科協働で制作したものですから、両学科の叡智を結集した象徴的作品といってよい。現在は遠方からも足を運んで見に来てくださる方が大勢おられます。 カップマルタン実測調査の様子 教育研究にあたって心がけていることは何でしょう。 私はオプティミスティック(楽観的)な性格だと思っています。やはり学生に対しても希望と好奇心の大切さを語りたいと常々思っています。悲観的なことを語るのは、なんとなく知的に見えるかもしれないけど、現実には何も生み出さないのですね。特に本学の学生は、テクノロジストとして、将来ものづくりのリーダーになっていくわけですから、まずは自分がそれに惚れていないと明るい未来を堂々と語れないと思う。リーダーは不退転の決意で明朗なビジョンを語れなければ、誰もついていきたいとは思わないでしょう。そのこともあって、教育や研究の中でも、いつも学生には希望と好奇心、プラス一歩前に出る勇気を伝えてきたと思います。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 私自身は「タンジブル」なもの、いわゆる五感で見て触れることを大切にしてきました。それらは物質という形式をとっているわけですけれども、創造した人の精神や思いの結晶でもあるわけです。そうであるならば、現在のようにオンラインとかネットで見られる時代だからこそ、なおさら本物に触れてほしいと思います。本物に触れなければどうしても伝わらないものがこの世界には偏在しているから。たとえば、「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」も、実物のみが語る声に対して繊細に耳を澄ませる体験がぜひとも必要だった。だから、カップ・マルタンまで足を運んだのです。それは私が大学時代、洞窟住居を研究するために中国に留学したのと同じ動機です。まさに、ホンモノ《・・・・》というのは千里を遠しとせず足を運ばせるにふさわしい熱量を持っているものなのです。フランスに本物があればフランスに行くし、中国に本物があれば中国に行く。そんな具合に私は世界中を見て回ってきたと思います。だから、ぜひ学生諸君には本物を相手にしてほしい。本物に触れ、その熱度に打たれてほしい。そのためにはどんどん外に行ってほしいと思います。まずはコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。上野にあるわけですから。電車に乗れば一時間程度。たいした距離ではありません。実際に行って五感をフルに働かせてほしい。頭だけで想像したのとはまったく違う質感、コルビュジエの手触り感が伝わってくるはずです。 カップ・マルタンの休暇小屋レプリカの室内 八代教授と藤原名誉教授の著書「図解 世界遺産 ル・コルビュジエの小屋ができるまで」(エクスナレッジ刊) 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 デザインプロセス研究室(八代研究室)
村上 緑さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年3月下旬、ある決意を胸に父親と共に大学の実習で使用した木材をトラックに積み込み、ものつくり大学から故郷へ出発しました。それから季節は流れて、11月末。たくさんの人に支えられて、夢を叶えました。 故郷のために 村上さんは、岩手県陸前高田市の出身。陸前高田市は、2011年3月11日に発生した東日本大震災での津波により、大きな被害を受けた地域です。全国的にも有名な「奇跡の一本松」(モニュメント)は、震災遺構のひとつです。当時住んでいた地域は、600戸のうち592戸が全半壊するという壊滅的な被害を受けました。 奇跡の一本松 11歳で震災体験をし、その後、ものつくり大学に進学し、卒業制作に選んだテーマは、故郷の地に「皆で集まれる場所」を作ること。そもそも、ものつくり大学を進学先に選んだ理由も、「何もなくなったところから道路や橋が作られ、建物ができ、人々が戻ってくる光景を目の当たりにして、ものづくりの魅力に気づき、学びたい」と考えたからでした。 震災から9年が経過した2020年、津波浸水域であった市街地は10mのかさ上げが終わり、地権者へ引き渡されました。しかし、9年の間に多くの住民が別の場所に新たな生活拠点を持ってしまったため、かさ上げ地は、今も空き地が点在しています。実家も、すでに市内の別の地域に移転していました。 そこで、幼い頃にたくさんの人と関わり、たくさんの経験をし、たくさんの思い出が作られた大好きな故郷にコミュニティを復活させるため、元々住んでいた土地に、皆が集まれる「集いの場」を作ることを決めたのです。 陸前高田にある昔ながらの家には、「おかみ(お上座敷)」と呼ばれる多目的に使える部屋がありました。大切な人をもてなすためのその部屋は、冠婚葬祭や宴会の場所として使用され、遠方から親戚や友人が来た時には宿泊場所としても使われていました。この「おかみ」を再現することができれば、多くの人が集まってくると考えたのでした。 「集いの場」建設へ 「集いの場」は、村上さんにとって、ものつくり大学で学んできたことの集大成になりました。まず、建設に必要な確認申請は、今井教授や小野教授、内定先の設計事務所の方々などの力を借りながらも、全て自分で行いました。建設に使用する木材は、SDGsを考え、実習で毎年出てしまう使用済みの木材を構造材の一部に使ったほか、屋内の小物などに形を変え、資源を有効活用しています。 帰郷してから、工事に協力してくれる工務店を自分で探しました。古くから地元にあり、震災直後は瓦礫の撤去などに尽力していた工務店が快く協力してくれることになり、同級生の鈴木 岳大さん、高橋 光さん(2人とも建設学科4年・小野研究室)と一緒にインターンシップ生という形で、基礎のコンクリ打ちや建方《たてかた》に加わりました。 地鎮祭は、震災前に住んでいた地元の神社にお願いし、境内の竹を四方竹に使いました。また、地鎮祭には、大学から今井教授と小野教授の他に、内定先でもあり、構造計算の相談をしていた設計事務所の方も埼玉から駆けつけてくれました。 基礎工事が終わってからの建方工事は「あっという間」でした。建方は力仕事も多く、女性には重労働でしたが、一緒にインターンシップに行った鈴木さんと高橋さんが率先して動いてくれました。さらに、ものつくり大学で非常勤講師をしていた親戚の村上幸一さんも、当時使っていた大学のロゴが入ったヘルメットを被り、喜んで工事を手伝ってくれました。 建方工事の様子 大学のヘルメットで現場に立つ村上幸一さん 2022年6月には、たくさんの地元の人たちが集まる中で上棟式が行われました。最近は略式で行われることが多い上棟式ですが、伝統的な上棟式では鶴と亀が描かれた矢羽根を表鬼門(北東)と裏鬼門(南西)に配して氏神様を鎮めます。その絵は自身が描いたものです。また、矢羽根を結ぶ帯には、村上家の三姉妹が成人式で締めた着物の帯が使われました。上棟式で使われた竹は、思い出の品として、完成後も土間の仕切り兼インテリアとなり再利用されています。 震災後に自宅を再建した時はまだ自粛ムードがあり、上棟式をすることはできませんでした。しかし、「集いの場」は地元の活性化のために建てるのだから、「地元の人たちにも来てほしい」という思いから、今では珍しい昔ながらの上棟式を行いました。災いをはらうために行われる餅まきも自ら行い、そこには、子どもたちが喜んで掴もうと手を伸ばす姿がありました。 村上さんが描いた矢羽根 餅まきの様子 インテリアとして再利用した竹材 敷地内には、東屋も建っています。これは、自身が3年生の時に木造実習で制作したものを移築しています。この東屋は、地元の人たちが自由に休憩できるように敷地ギリギリの場所に配置されています。完成した今は、絵本『泣いた赤鬼』の一節「心の優しい鬼のうちです どなたでもおいでください…」を引用した看板が立てられています。 誰でも自由に休憩できる東屋 屋根、外壁、床工事も終わった11月末には、1年生から4年生まで総勢20名を超える学生たちが陸前高田に行き、4日間にわたって仕上の内装工事を行いました。天井や壁を珪藻土で塗り、居間・土間のトイレ・洗面所の3か所の建具は、技能五輪全国大会の家具職種に出場経験のある三明 杏さん(建設学科4年・佐々木研究室)が制作しました。 「皆には感謝です。それと、ものを作るのが好きだけど、何をしたらいいか分からない後輩たちには、ものづくりの場を提供できたことが嬉しい」と話します。そして、学生同士の縁だけではなく、和室には震災前の自宅で使っていた畳店に発注した畳を使い、地元とのつながりも深めています。 こうして、村上さんの夢だった建坪 約24坪の「集いの場」が完成しました。 故郷への思い 建設中は、施主であり施工業者でもあったので、全てを一人で背負い込んでしまい、責任感からプレッシャーに押しつぶされそうになった時もありました。それでも、たくさんの人の力を借りて、「集いの場」を完成させました。2年生の頃から図面を描き、構想していた「地元の人の役に立つ、家族のために形になるものを作る」という夢を叶えることができたのです。また、「集いの場」の建設は、「父の夢でもありました。震災で更地になった今泉に戻る」という強い思いがありました。「大好きな故郷のために、大好きな大学で学んだことを活かして、ものづくりが大好きな仲間と共に協力しあって『集いの場』を完成させることができ、本当に嬉しいです」。 「こんなにたくさんの人が協力してくれるとは思っていなかった」と言う村上さんの献身的で真っすぐで、そして情熱的な夢に触れた時、誰もが協力したくなるのは間違いないところです。 「大学から『集いの場』でゼミ合宿などを開きたいという要請には応えたいし、私自身が出張オープンキャンパスを開くことだってできます」と今後の活用についても夢は広がります。 大学を出発する前にこう言っていました。「私にとって、故郷はとても大切な場所で、多くの人が行きかう町並みや空気感、景色、におい、色すべてが大好きでした。今でもよく思い出しますし、これからも心の中で生き続けます。だけど、震災前の風景を知らない、覚えていない子どもたちが増えています。その子どもたちにとっての故郷が『自分にとって大切な町』になるように願っています」。 村上さんが作った「集いの場」は、これからきっと、地域のコミュニティに必要不可欠な場所となり、次世代へとつながる場になっていくでしょう。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室)
「久保君、これからの建築物はデザインや構造だけではなく、省エネルギーを考えなければ建設することができなくなる時代がやってくるよ」――これは筆者が大学3年生の時に、後に師匠となる元明治大学建築学科 加治屋亮一教授が述べられた言葉です。 当時の私は、エネルギーって何だろう、というくらいの認識でピンと来ていませんでしたが、現に、令和4年6月17日に公布された建築物省エネ法改正では、これから建築しようとする建築物には、エネルギー消費性能の一層の向上を図ることが建築主に求められています。 つまり加治屋教授が20数年前に述べられていたことが現実になったわけです。改正建築物省エネ法は省エネルギーを意識した設計を今後、必ず行っていく必要があることを意味しており、換言すれば、現代では省エネルギー建築は当たり前となる時代になったといえます。 一方で、2019年4月に施行された働き方改革関連法案は、一億総活躍社会を実現するための改革であり、労働力不足解消のために、①非正規社員と正社員との格差是正、②高齢者の積極的な就労促進、そして、③ワーカーの長時間労働の解消を課題として挙げられています。このうち、3つ目のワーカーの長時間労働の解消は、単に長時間労働を減らすだけではなく、ワーカーの労働生産性を高めて効率良く働くことを意味しています。 私は10年ほど前からワーカーの生産性を高めるオフィス空間に関する研究を行ってきました。ワーカーが働きやすい空間というのは、例えばワーカー同士が気軽に利用できるリフレッシュコーナーの充実や、快適なトイレの充足や機能性の充実、食事のための快適な空間の提供が挙げられます。さらに、建物内や敷地内にワーカーの運動促進・支援機能(オフィス内や敷地内にスポーツ施設がある、運動後のシャワールームの充実、等)を有することで、ワーカーの健康性を維持、向上させることが期待できます。 近年建築されるオフィスは、省エネルギーやレジリエンスは「当たり前性能」であり、ワーカーの生産性を高めるための多くの施設や設備が導入されています。いうまでもなく、建物のオーナーは所有するテナントビルで高い家賃収入を得ることを考えます。そのためには、テナントに入居するワーカーの充実度を高める必要があります。 現在私は建築設備業界や不動産業界と連携して、環境不動産(環境を考慮した不動産)の経済的便益について研究を行っています。250件を超えるオフィスビルを対象に、そのオフィスの環境性能を点数付し、その点数と建物の価値に影響を及ぼすと考えられる不動産賃料の関係について分析しています。最新の研究では、建物の環境性能が高いほど、不動産賃料が高いことを明らかにしました。これはつまり、ワーカーサイドは健康性や快適性が高まったことで労働生産性が向上し、オーナーサイドは高い不動産賃料が得られることとなり、両サイドともに好循環が生まれることになります。 加治屋教授の発言から四半世紀過ぎた今、私は研究室の学生には、「今後は、省エネルギーはもとより、ワーカーのウェルネスが求められる時代となっていく」と伝えています。 埼玉新聞「ものつくり大学発 知・技の創造」(2023年1月13日号)掲載 Profile 久保 隆太郎 (くぼ りゅうたろう)建設学科 准教授・博士(工学) 明治大学大学院博士後期課程修了。日建設計総合研究所 主任研究員を経て、2018年より現職。専門は建築設備、エネルギーマネジメント。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 建築環境設備研究室(久保研究室)
篠原 菜々美さん(建設学科1年生)は高校時代にマーチングバンド部に所属していました。母校である京華女子高校(東京)は全国大会の常連校であり、6年連続で金賞を受賞したこともある強豪校です。マーチングバンドと出会い、そしてものつくり大学に進学を決めた彼女の思い描く将来像に触れてみました。 マーチングバンドとの出会い 従妹たちがマーチングバンドの教室に通っていたのですが、私の地元にはなく、小学校では吹奏楽をやっていました。従妹が通っていた京華女子高校の文化祭に行った際、マーチングバンド部と出会い、パフォーマンスがとてもキラキラしていて、すごい!やってみたい!という気持ちが強くなりました。京華女子高校へ進学し、最初こそ吹奏楽部に入ろうと思っていましたが、マーチングバンド部へ入部しました。 自信がなかった私が、積極的になれたきっかけ 管楽器には4つのパートがあり、私は高校2年生の時に、メロフォンというトランペットの次に大きい楽器のパートリーダーになりました。実は、人前で話すことが苦手だったため、パートリーダーも自分から立候補したわけではありません。 元々メロフォンの演奏者は少なく、たった一人の先輩が受験勉強を理由に退部されたことや、同学年の部員が一人もいなかったことから、自動的にパートリーダーになりました。中高一貫校でしたので、一番下の学年は中学1年生。自分がしっかりしなくてはいけないという思いから、少しずつですが積極的に人前で話せるようになっていきました。高校からメロフォンを始めた私が、パートリーダーとして3年間続けられたのは、沢山支えてくれた先輩方や同級生のおかげだと思っています。 大会当日、朝練習の様子 そのパートリーダーで培われた積極性は、大学での学びを果敢に取り組むことに繋がっていると思います。授業で分からないところがあると、先生やTAの先輩方へ率先して質問できるようになりました。厳しい練習を乗り越えてきた分、忍耐強さも人一倍あり、高校時代に身に付けた力がいま活きています。 大会ではすべての出場校にそれぞれ金賞・銀賞・銅賞の評価がつけられますが、その上の小編成出場団体のなかでの金賞を目指して毎年出場しています。しかし、私たちの代は個人の成績で惜しくも銀賞だったのです。個人成績では6年連続で金賞を受賞していましたが、伝統を途切れさせてしまいました。とても悔しかったですが、後輩に思いを託し、今年の大会では見事に個人で金賞に返り咲きました。ただ、小編成出場団体の中での金賞はまだ一度も受賞できていないため、今後も後輩のためにより一層のサポートをしていきたいと思っています。 京華女子高校のマーチングバンド部 学んだことを活かした将来の夢 また、母校には出来る限りの恩返しをしたいと思っています。例えば、部活で演奏をする際は小道具を多く使用します。これまでは卒業生の保護者の方が協力して製作してくださいましたが、私が大学で様々な技術を学ぶことで、もっとハイクオリティな小道具を作りたいです。さらに、母校は都会の街中にあるため、体育館と呼べる建物がありません。騒音防止のため窓を閉めた状態で練習を行い、外練習も週に1回しかできませんでした。コロナ禍で全体練習も少なくなってしまったので、思う存分練習ができるような施設を作れる建築士になれたらなと考えています。 文系出身でも楽しめる学び 子どもの頃、建築士だった友人のお父さんから仕事の様子や模型などを見せてもらったり、両親には珍しい建物や美術館などに連れて行ってもらいました。建設に関する興味はずっとあり、将来はものづくりに携わる仕事をしてみたいとぼんやり思い浮かべていましたが、部活動は3年生の3月まであるので、推薦入試やAO入試で受験をすることが必須で、文系科目を中心に学んでいた私は、工業系大学に進学することに不安がありました。ですが、大学のオープンキャンパスや女子高校生のための実習体験授業に参加し、普通科の学生が多く入学していることや、実際に体を動かすことの楽しさから、必死に頑張れば文系でも追いつけるかもしれないと決意を固め、入学しました。 入学して思ったこと…そして決意 実際に授業を受けて感じたことですが、理論的なことを学びながら実習では実寸大の物を作れる。そんな大学は他にないと思うので、ものつくり大学の名前はもっと広まっても良いと思います。将来的にはみんなが当たり前に名前を知っている大学になってほしいです。私のような文系で全く違うことに取り組んできた人でも、一緒に頑張る友達や、優しく教えてくださる先生や先輩方が沢山います。まだ1年生なので、様々なことに好奇心を持ってこれからも勉強していきたいです! 関連リンク 建設学科WEBページ オープンキャンパスページ GRIRLS NOTE WEBページ
ものつくり大学が2010年度から主催している「高校生建設設計競技」の2022年度の課題は「これからのモバイルハウス」です。「モバイルハウス」は、新型コロナウイルスがまん延し、人々の行動が制限されてしまった昨今、3密を避けられることからブームになったアウトドアと共に注目されている、「自由に移動できる家」です。設計ではなく、実際に軽トラックの荷台に居住空間を載せて作ったモバイルハウスで、日本一周に挑戦した学生がいます。渡邊 大也さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年の7月に盛暑の東日本を縦断。その後、9月から10月にかけて西日本を横断しました。渡邊さんは、どうしてモバイルハウスを作ったのか、なぜ日本一周の旅に出たのか、その理由に迫ります。 モバイルハウスを作ったきっかけ 運転免許取得時に、祖父から譲り受けた20年ものの軽トラックの荷台を何かに活かしたかったのが、そもそもの始まりです。最初は、大好きなヒマワリを皆に見てもらうために荷台で育てていましたが、大学1年の2月頃から新型コロナウイルスが拡大し始め、2年生の最初の頃は全ての授業がオンライン授業になりました。そこで、「オンラインならば全国を旅しながらでも授業を受けられるんじゃないか」と思い立ち、モバイルハウスの制作が始まりました。 子供の頃から旅行やキャンプが大好きで、高校生の時に、小口良平さんの「スマイル!笑顔と出会った自転車地球一周157カ国、155,502㎞」という本を読んでから、バックパッカーになるという夢を持っていました。そして、モバイルハウスを作った理由としてもう一つ、「元々、ものを作るのは好きだったけど、大きなものを完成させたことが無かったので、10代最後の挑戦にしたい」という思いがありました。 大学2年の夏からモバイルハウスの制作が始まりました。最初の頃は夢が膨らみすぎて、天井部分に芝生を植える等、完成した今となっては非現実的なアイデアもあり、納得のいくモバイルハウスが完成した時には大学4年生になっていました。 モバイルハウスの図面 制作中のモバイルハウス モバイルハウスのこだわり モバイルハウスは「海と船」をモチーフにして作られています。山梨出身で大学は埼玉。身近に海がない環境で育ったため、海に憧れを抱いていました。 モバイルハウスの助手席側の窓は、実際に船舶に使われている丸窓が入り、運転席側の窓は、旅先で海を眺めることを想定して、白く大きな窓を採用しています。また、屋根の部分は波をモチーフにして木材を加工しています。 制作にあたっては、大学の授業を応用して一人で制作を進めました。作り始めた頃は、モバイルハウスを作って旅に出ようとしている事を友人に話しても、皆から笑われたり、「やめときなよ」を言われました。しかし、完成が近くなってきて、本気さが伝わると、友人たちが最後の仕上げを手伝ってくれました。 旅での経験 完成したモバイルハウスで、いよいよ日本一周の旅に出発します。東日本に1か月、西日本に1か月半ほどの旅でしたが、どこに行くのか事前に計画は立てず、行先を決めるのは前日の夜。 世界遺産検定3級を持っていて、今回の旅には国内の世界遺産を巡るという目的がありました。日本を一周する中で、日本にある25件の世界遺産のうち10件を訪ねました。これで、未訪問の世界遺産は残り4つです。 大浦天主堂(長崎県) 白川郷(岐阜県) 他にも、旅にノルマ的なものを課していて、「建築・グルメ・文化」のうち、2つを堪能したと思えたら、次の場所に移るというものでした。 今回の旅で思い出に残っている場所は、モバイルハウスを作ったら絶対に行きたいと思っていた石川県の千里浜です。千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、一般の自動車やバイクでも砂浜の波打ち際を走れる道路です。海に憧れ、「海と船」をモチーフにしたモバイルハウスを作ったからには、是非とも写真に納めたい場所でした。ちなみに、石川県では、近江町市場の海鮮料理やターバンカレーを堪能して、兼六園や金沢21世紀美術館を訪ねました。 他にも、鹿児島県の桜島も印象に残る旅先でした。山梨で育ったため、山は見慣れていますが、山の形がまるで違っていて、ちょうど噴火していた桜島の雄大さが心に残っています。 旅の最中には、様々な人と出会い、繋がりもできました。特に、広島を旅していた時には、モバイルハウスを作りたいと考えている長崎から来た人に話しかけられ、ちょうど卒業研究用に作っていた資料を渡したことから意気投合しました。「今度、長崎に来る時は案内するよ」と言われたことで、実際に訪ねてみました。 また、千葉を旅している時は、所属する研究室の今井教授から「私の実家に行っていいよ」と連絡があり、実際にお風呂を借り、ご飯をごちそうになりました。 鳥取で台風に遭った時は、体育館に開設された避難所に行きました。避難しているのは一人だけでした。1か月という長い間、1.3畳ほどのモバイルハウスで生活していたため、広い体育館で一人になり、不意に寂しさを覚えました。寝れずにいたら、避難所の管理人の方が話しかけてきてくれて、夜遅くまで旅の話を聞いてくれました。 モバイルハウスの後方に「日本一周」と看板を掲げていたので、行く先々で話しかけてもらいました。長野の道の駅で同じように旅をしている方から素麺をごちそうになったり、途中で寄ったコンビニのオーナーから差し入れをいただいたりした事もあります。追い越していったバイクの方に手を振られる等、人の優しさに触れることができた旅でした。 モバイルハウス後方 長野でいただいた素麺 トラブルも数多くありました。一人旅だから何かあっても、自分で何とかするしかありません。佐賀の山を走っていた時に、エンジンオイルランプが点灯した上にガス欠になりかけていたところ、更にぬかるみでスタックした時は、山中に一人の状況に絶望して思わず叫びそうになりました(笑)。事前に、自動車部の友人から、オイルの入れ方やスタックした時の対処法を教えてもらっていたので何とかなりましたが、本当に怖かったです。 これからのモバイルハウス いつかモバイルハウスで海外に行き、高校生の時に留学していたアメリカのテネシー州まで旅をして、ホストファミリーを驚かせるという野望を持っています。 モバイルハウスで旅をする中で、「モバイルハウスがあれば家はいらない」と考えるようになりました。先日、モバイルハウスを所有している人たちの集まりがありました。夫婦二人と犬一匹でモバイルハウスに暮らしている方と出会い、モバイルハウスの可能性を感じました。軽トラックだと居住空間は狭いですが、1トントラックや2トントラックの荷台であれば、居住空間も広くすることができます。 実は、旅が終わった今も、ほとんどアパートで寝ることはなく、最後にアパートで寝たのはいつか分からないくらい、モバイルハウスか研究室に寝泊まりする日々が続いています。 日本ではモバイルハウスはかなり珍しい車ですが、車幅以内、高さ2.5m以内、350㎏以内であれば、自分の好きなように作れます。荷台に居住空間を荷物として載せているだけなので、特に手続きも必要ありません。制約があるからこそ、作っていて面白いと感じていて、モバイルハウスをもっと広めたいと考えています。 旅とは「生きがい」です。小さい頃から安定が好きではなく、刺激を求めていて、何をしても結局、旅に繋がります。就職先は、全国に支店がある内装工事の会社から内定をもらいましたが、転勤についても全国色々なところで建築に関われるので、今から楽しみです。 関連リンク 第12回ものつくり大学高校生建設設計競技 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) 建設学科WEBページ
「装飾」から考える「花飾建築」とは 「装飾」とは、飾ること。美しく装うこと。また、その装い・飾り。「愛着」とはなれ親しんだものに深く心が引かれること。を意味します。 私事になりますが、現在、行田市内花き農家応援花いっぱい運動に取り組んでいます。ヴェールカフェ(旧忍町信用組合)や忍城を装飾する「花飾《かしょく》建築」と題した花台を制作しました。そのため、装飾について考えることがしばしばありました。9月に亡くなられた英エリザベス女王が、生前使用していた装飾品に大英帝国王冠があります。この王冠は、女王が戴冠式から着用されていたもので、ジョージ6世から譲り受け女王のために再デザインされたものです。国葬の際、女王の棺の上に、宝石の散りばめられた王冠が飾られていたのがとても印象的でした。 ファッションも建築も装飾されることで注目される 私が専門とする建築の分野では、「建築装飾」という言葉が使われます。鬼瓦や風見鶏のような厄除け魔除けのために取り付けられたり、欄間や襖のようにインテリアとして設えたり、構造体や間取りなど実用的機能に関係しない建築表現を指します。また、建築物を飾りつけるものとしては、ハロウィンやクリスマスのイルミネーション、お正月に飾るしめ縄や門松などがあります。東京タワーを事例に挙げてみると、建設当初、しばしば4本の稜線を電球で点灯。1964年のオリンピック以降、毎日点灯、都市の高層化により目立たなくなる。1989年、石井幹子氏による季節感を取り入れたライトアップの開始。2013年、増上寺のプロジェクションマッピングの背景に活用される。このように東京タワーは、電気によって装飾されることで、ときには都市の主役のように、ときには脇役のように捉えられてきました。装飾は、その季節や時代のトレンドを取り入れつつ、伝統を重んじながら発展してきました。ファッションも建築も装飾されることで注目されます。そして、その装飾された人、建物、街への愛着へと結びつきます。私の研究室で制作した「花飾建築」も旧忍町信用組合や忍城、そして行田市への愛着に繋がればいいなと思います。 埼玉新聞「ものつくり大学発 知・技の創造」(2022年11月4日号)掲載 Profile 大竹 由夏 (おおたけ ゆか)建設学科講師筑波大学博士後期課程修了。博士(デザイン学)。一級建築士。筑波大学博士特別研究員を経て現職。 関連リンク 行田市花いっぱい運動 地域との交流を通じて得た学び 建設学科 デザイン・空間表現研究室(大竹研究室) 建設学科WEBページ
林業の機械化が進んだことで、素材生産や森林調査等で女性が活躍する場が増えています。とはいえ、まだまだ3K(きつい、汚い、危険)のイメージは拭えません。その林業の現場に大きな夢を抱いて挑戦する女子学生がいます。 例えば、京都を代表する銘木「北山杉」。古くから北山林業では女性は重要な役割を担っていました。枝打ちや伐採は男性の仕事ですが、加工作業や運搬、苗木の植え付けは主に女性の仕事でした。では、現代の林業女子には仕事はないのでしょうか。近年は機械化が進むことで伐採等の林業現場へも女性が進出することが期待されています。その林業に挑戦する浅野 零さん(建設学科4年)。153㎝の華奢なカラダからは想像できないバイタリティーの源はなにか、感動のインタビューです。 浅野さんのチャレンジ魂を育てたものは何ですか 高校までものづくりとは縁がなかったです。茨城県の生まれですが、小学校4年から中学卒業まで長野県にある人口850人程の村へ山村留学していました。高校は山口県でした。田舎が好きで、今度は瀬戸内海の島でした。山から海へ、です。高校時代は、アーチェリー部に所属していました。強化指定を受けていたことで、3年生では選手として全国大会へ出場しています。強いてものづくりと縁があるなら、山村留学時に仲間と小屋を作ったことでしょうか。その楽しかった思い出は心のどこかにずっとあって、このエピソードはものつくり大学へ進学する時に大学の方にお話しました。大学からすると、私の志望動機が不思議に思えたようでした。 そもそも母の影響というか、子育て方針というか、兄も同じ村に先に山村留学していて、後にカナダへ海外留学をしました。私は茨城→長野→山口→埼玉と国内を巡っていますが、この度、就職で長野へ戻ります。それも山村留学でお世話になった同じ村に戻ります。何でしょうね、Uターンでもなく、Iターンでもなくて。 大学での4年間もパワフルだったのではないですか もちろん普通高校卒なので、ものづくりを学んだのは入学してからです。木に触れることは好きだったので、最初は木工家具の製作に憧れました。角材を加工する授業は楽しかったけれど、そのうち角材になる前の木自体に興味が湧いてきて、林業を意識するようになりました。 1年の秋に「林業体験」のイベントを探して個人で参加しました。木を切って、加工して、その凄さに憧れました。女性も参加しやすいイベントで、参加したのは大方女性でした。人生で初めてチェンソーを使って、木を切りました。そして、垂直に立てた木の幹に切り込みを入れて燃やし、手軽に焚き火が楽しめるスウェーデントーチでの料理を楽しみました。 これをきっかけに林業界への憧れが強くなり、将来仕事として就きたいと思うようになりました。2年次に実施される大学のインターンシップは、長野県飯山市のNPO法人で木材加工に従事しました。3年次では、進路を林業一本に絞ったため、個人的に様々な企業や現場を見学に行きました。そういう意味では決断も早く、行動力もありましたね。いま思えば大学の授業との両立もうまく対処していたように思います。 自らの進むべき道を見つけるまでに、どんな出会いがありましたか 大学では就活を意識した活動と共に、1年次で建築大工3級、2年次で左官2級、造園3級、3年次で造園2級と、とにかく木に関わる資格を取得していきました。生活全てを木に関わっていきたい思いが強かったです。 実は、高校時代に生活していた山口県の林業会社の方に「この世界、女性ではたいへんだけれど、男性とは違う視点で活躍している方がたくさんいるよ」と言われました。その林業会社の方にはオンラインで頻繁に相談に乗っていただきました。「山口においでよ」と何度もお誘いをいただきました。正直、山口へ移住しようという気持ちにもなりました。同時に長野とも連絡を取っていて、情報収集に努めていました。 林業は、国の重要な施策なので、どちらかと言えば昔ながらの堅苦しいイメージを持っていました。でも、民間の小さな林業会社では、自分の技術やスキルがついたらやりたいことをやらせてもらえるような新しい考え方も生まれてきていることを知りました。長野で林業を起業された社長さんと話していると、ぐいぐい引き込まれていきました。その将来を見据えた魅力たっぷりの内容に感激しました。 そして最終的に長野へ就職を決めたのですか もちろん企業方針を何度も聞いて、性格的に合っているなと思いましたし、私が内定をいただいた会社がある村は、小学生の山村留学でお世話になったところでした。この村は私にとって特別です。住むことができる、仕事をすることができるなら恩返しの気持ちを持って戻りたいと強く思いました。会社も林業としては2021年に法人化されたばかり。不思議な縁を感じて、お世話になった村へ帰ろうと思いました。 林業女子としての不安や期待はありますか 林業は3Kと言われます。きつい、汚い、危険ですね。それに林業の現場に出る女性としての問題は、まずトイレ。いまは自然保護の観点から、以前のような現地で処理するようなことは減ってきています。トイレの設置や、山を下って用を足すこともできます。それから力の強さですね。女性ですので、体力は男性と比べて見劣りします。でも機械化も進み、力の問題も徐々に解決してくれそうです。緑の雇用制度で3年間鍛えることができるので、いまはそれが楽しみでなりません。都会にある林業会社では、近年「かっこいい林業」をスローガンにして新しい「K」が生まれています。期待ということでは、いずれキャンプ場を作るという会社の重点方針があります。いまは力不足ですが、ぜひチャレンジしたいです。 林業を通して、森林と地域との新たな価値を創造する繋ぎになるということですね 日本は平野の少ない森林大国です。木があれば、火を起こせる。火を起こしたら、ごはんも炊ける、お風呂も沸かせる。家も建てられるし、生きていく上でのあらゆる繋がりがあります。花粉問題だって、木を切る人がいれば、むしろ空気の循環を良くしてくれる。林業は大切なんですよね。人間の生活の基盤になっていると思っています。 ですから林業を通して、そこに生活する方たちのほのぼのとした幸福感や満足感を充足したいですし、村おこしといった地域の活性化にも非常に興味があります。 大学では様々な検定試験に挑戦しましたが、授業では学べないところまで教えてもらいました。先生方の技術が素晴らしいので、安心して学べます。私はこうした知識や技能・技術は、いずれどこかの場面で役立つと思っています。自分と仕事、自分と社会を繋ぐ力です。その力がないと新たな価値の創造なんてできないです。 視野が広がり、自分の進むべき道を見つけた大学での4年間。いまは卒業制作に仲間と懸命に取り組んでいます。一般家庭のエントランスと庭づくりです。次のステップへ進むために!!! 関連リンク 建設学科WEBページ
建設学科 大垣研究室は、「Japan Steel Bridge Competition(通称:ブリコン)」に毎年出場しています。ブリコンとは、学生が自ら橋の構造を考え、設計、製作(鋼材の切断、溶接、孔開け、塗装)、架設を行い、全国の大学生および高専生の間で競い合う大会です。大会当日は、架設競技、プレゼン競技、載荷競技、美観投票を行います。2022年9月に開催された大会では、大垣研究室から2チームが出場し、Aチームが美観部門1位、Bチームが美観部門2位という成績を収めました。美観部門で1位を受賞したAチームで、プレゼン競技を担当した後藤 七海さん(建設学科4年)、製作を担当した杉本 陸さん(建設学科4年)に伺いました。 どんな橋を目指して作ったか 【後藤】美観と構造を意識しました。美観を重視するためにレンズ型トラス橋を選択しました。構造は、曲線と直線を組み合わせています。昨年のブリコンでは、曲線部分の継手に時間がかかってしまったため、今回は3種類の継手を取り入れ、継手箇所を工夫して架設も意識しました。 製作したレンズ型トラス橋の設計図 プレートで挟むタイプの継手 差し込むタイプの継手 かみ合わせるタイプの継手 美観部門1位に選ばれた理由は 【杉本】シンプルに形だと思います。他のチームも凝った形をした橋はありましたが、鉄骨を1番曲げていたのは私たちでした。私は高校の3年間、溶接と鉄を加工した経験がありますが、真っ直ぐな鉄骨を700℃~800℃くらいの熱で少しずつ曲げるため、ものすごく時間がかかりましたし、難しかったです。加工は、ほぼ一人で作業しました。材料から切り出すのが2~3日、曲げ加工に1週間、溶接に1週間、塗装に3~4日かけて、全体で2週間半かかりました。お昼の12時に大学に来て作業をして、大学から帰るのは夜中の3時とか、1日10時間以上かけて曲げました。本来であれば、2か月かかるような作業を突貫で仕上げました。それでも、大会前夜まで溶接をしていました。 【後藤】部材を決められた箱の中に納めないといけないのですが、設計に甘いところがあって納まりきらなかったため、一度加工したものを削り直し、歪んでしまった部材を大会前夜まで直していました。ビードをあんなに削ったのは初めてだっていうくらい削りました。今年は、アーチ橋を作っている大学が少なかったです。私たち以外にもアーチ橋を作っている大学はありましたが、継手の部分が多くてカクカクしていました。直線を重ねたアーチよりも、鉄骨を曲げてアーチを作った方が綺麗に見えます。 【杉本】他には、塗装も評価されたと思います。私たちの橋は、スクールカラーの茜色をベースにしたキャンディレッドにしましたが、通常、1層から3層くらいで塗装を終わりにするところ、私たちは13層塗りました。シルバーを5~6層、レッドを3~4層、クリアを4層と重ねて塗っていて、車の塗装の層数より多いです。時間をかけた分、仕上りも綺麗になりました。アーチが綺麗でも、塗装が汚かったら、1位を取れていたか分からないです。 今回以上に美観の良い橋は作れるか 【杉本】情報メカトロニクス学科と一緒に製作すればできると思います。建設学科の設備だけでは加工の機械が足りていません。情報メカトロニクス学科には、使いたいと思う設備が全部揃っています。一緒に製作できれば、企業に依頼したのではないかというくらいケタ違いの橋ができると思います。学内に機械は揃っているので、後は使いこなす知識が必要です。 【後藤】ものつくり大学の設備はピカイチだと思います。知識についても、私たちは様々な実習を経験しているから身に付いていると思います。私たちは全員、溶接の資格を持っていますが、他のチームは、溶接担当の人しか持っていないチームもあります。 【杉本】橋の形としては、今回以上のものは作れないと感じます。総合優勝を目指すのであれば、鉄骨を変えて耐力を上げる必要があります。ブリコンで使う材料は「鋼材」とだけ決まっています。鋼材と一言でいっても色々な物がありますから、今使っている鋼材よりも硬い鋼材を使えば総合優勝を狙えるかもしれません。ただ、今より費用がかかり、溶接も加工も大変になるという問題があります。 【後藤】他には、橋を車上橋にすることも考えられます。吊り橋にしてワイヤーを上手く使った形ができたら、今回の橋より格好良い橋ができると思います。ただ、架設にかかる時間と耐力を考えると、今回の橋の形のバランスがベストだと思います。 プレゼン競技で伝えたかったことは 【後藤】大学の実習でも、要点をまとめて施工フローを作っているのですが、それと同じ感覚でプレゼン資料を作りました。文章は少なくして、写真と言葉で伝えることを心がけました。1番伝えたかったのは製作過程です。杉本さんが頑張ってくれた分、うまく伝えたいと思っていました。製作風景の写真を説明していた時に、審査員の方に「企業に依頼したのですか?」と聞かれましたが、杉本さんの作業している写真が学生の作業風景に見えなかったみたいです(笑)。 昨年の大会から成長していたことは 【後藤】チームメンバーとは、1年間一緒に研究をしてきたから、コミュニケーションが上がっています。誰が何をできるのか分かっているため、仕事も振りやすかったです。加工ができるからとか、去年もプレゼンやったからとか、架設のリーダーはまとめる力があるメンバーにやってもらうとか。1年で人となりを知れて、それぞれの得意分野を知れたから仕事を任せることができるようになりました。 総合優勝するために必要なこと 【杉本】自分たちだけで処理しないで、大学全体を巻き込んで作れると良いと思います。今のままでは、加工の知識や技術があっても、他で負けている部分があります。例えば、美観の面では、他のチームにはカラーコーディネーターの資格を持っている人や、デザインのセンスがある人がいます。でも、私たちの橋は、デザインはあまり凝っている方ではありません。そこで、デザインに強い人がいたら、その人のデザインを基に、「じゃあ、こうしたら耐久性も上がるよ」ということができます。また、チームの人員に限りがあり、製作に時間をかける分、設計と解析にかけられる時間が少ない現状があります。 【後藤】他には、アーチ橋ではなく、早く架設できる橋にすることや、知識を深めて解析をしっかり行い、強い構造の橋にすることも考えられます。解析の知識があれば、色々な形をどんどん解析にかけて強い形を検討することができます。今は知識が無いから、解析通りの結果が出ずに、橋が想定以上にたわんでしまっています。 橋梁の魅力は 【杉本】橋は人の目に付くところが魅力です。ビル等の建築物だと自分が製作した鉄骨が隠れてしまいますが、橋なら完成した後も鉄骨が見えます。橋は人が通る所に作りますし、運送がロボットに変わって自動になっても橋が無くなることはありません。 【後藤】単純に橋は格好良いと思っています。そして、橋は人の生活を良くするためにあり、人が住んでいる限り無くなりません。住宅は古くなると壊してしまいますが、橋は補修されてずっと残ります。それに、橋には色々な形があって、変わった形の橋を作ることができるのも魅力です。 ブリコンの経験は今後に活かせるか 【後藤】ブリコンを通じて、色々な形の橋を知りました。私は橋梁関係の企業で施工管理に就くため、工程についても、誰に仕事を振って、次の作業は何か、工程はどの程度あるか、安全やKY(危険予知)等も心がけるようになりました。ブリコンで、設計の知識も製作の知識も身に付き、それぞれの工程についても知ることができました。 【杉本】後藤さんと同じく、設計と製作などの他の工程を担当している人とのコミュニケーションの取り方が身に付いたと思います。他には、今回の製作では工程計画も無く、自分の限界までやってしまったから、しっかり工程計画を作れるようになったら、工程を管理できたかなと思います。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 橋梁・構造研究室(大垣研究室)
「気がつく」ということ 人の特性のひとつに「慣れ」があります。はじめはおぼつかないことでも、慣れてくるとスムーズにできるようになります。これは良い例なのですが、悪い例もあります。何かが便利になるとはじめの内はありがたがるのですが、その便利さに慣れてしまうと当初の感謝の気持ちは薄れてきてしまいます。そして、急に不便になったときには腹を立てたりします。元に戻っただけなのだから腹を立てなくても、と思うのですが、そうはいきません。かく言う私も紛れもなくその一人です。そのときに今まで便利であったことに改めて気がつきます。 この「気がつく」ということは人には大事です。特に勉強でも研究でも趣味でもどんな場合でも、何か課題を解決しようとしているときにはとても大事だと思います。ところが日常的には中々気がつきません。周囲の多くのものに注意を払っていれば気がつくのではないかと思うのですが、多くのものに注意を払うのも大変です。メガネを使用している読者の方々は、メガネを掛けていることに気がつかずにメガネを探した、という経験はありませんか。私はあります。気がつくことは案外大変なのです。ただ、何かきっかけがあれば気がつくことができる、というのが先の「悪い例」です。もちろん良いことについても、きっかけがあると気がつきやすいはずです。 「気がつく」の応用 この「気がつく」ということを技能の修得に活用できないか、と考えています。技能の修得には一般的に時間が掛かります。例え仕事に関わる技能であっても、仕事中は技能の修得(つまり練習)のみに時間を割くことはできませんから、時間が掛かるのは仕方がありません。以前から「習うより慣れろ」という言葉がありますが、慣れるのにも時間が掛かるのです。そこで、慣れていく途中で自分より上手な他社との違いに「気がつく」ような指標を示すことができれば、技能の修得に役立つのではないかと考えています。また、当たり前のことですが、気がつくのは自分自身です。気がついたことをその人自身が自覚しなければなりません。自覚するためには自分自身あるいは成果を客観的にみる必要があります。ところが一生懸命にものごとに取り組むと、夢中になってしまって自分自身を客観的にみられなくなってしまう。あるいは目的を見失ってしまう、という状況に陥りやすくなります。そのようなときに、見失った自分や目的に気がつけるような仕組みの構築を目指しています。 何かを修得しようとする(上手にできるようになろうとする)ときには、まずは先達の物まねからはじめます。ところが物まねはできても、結果が伴わないことはしばしばあることです。これはスポーツを例にするとよくわかると思います。もし物まねで済むのであれば、皆同じ打ち方、投げ方になるはずです。しかし実際にはそうはなりません。なぜならば、人それぞれの体の大きさや関節の動く範囲、筋力などが異なるからです。 したがって人はまず物まねをしますが、その後何かに気がついて、自分なりの方法を見つけることになります。何に気がつくか、についても人それぞれです。ただ気がつくきっかけを提示できればと考えています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年9月8日号)掲載 Profile 髙橋 宏樹(たかはし・ひろき) 建設学科教授順天堂大学体育学部卒。同大大学院修士課程修了後、東京工業大学工学部建築学科助手を経て02年ものつくり大学講師。08年より現職。博士(工学)。 関連リンク ・人の生活と建築材料の研究室(髙橋研究室)WEBサイト・建設学科WEBページ
木造の住宅設計における「4号特例」とは 私の研究室では建築物の構造設計を通じて物の仕組みや成り立ちを考える研究を行っています。皆さんは木造の住宅設計において「4号特例」という制度があるのをご存じでしょうか?4号特例について新築の設計を例に説明すると、建築基準法第6条1項4号で定める建築物を建築士が設計する場合、建築確認の際に構造耐力関係規定などの審査を省略できる制度の事です。つまり対象となる建築物を設計する際に一部の書類提出を省略できるため、建築士も施主が望まない限りは審査に不要な書類の作成は行ってきませんでした。ここで対象となる建築物とは住宅等の木造建築物で2階建て以下の建物、延べ面積が500㎡以下で建物高さが13mまたは軒の高さが9m以下の建物で、これらの建物については建築確認審査を簡略化するという規定が「4号特例」と呼ばれる制度です。 ただし、建築士の責任で基準法に適合させることが前提です。4号特例は1983年に法改正してできた制度で当時の4号建築物の着工件数は今の倍程度あり確認審査側の人手との兼ね合いで、設計業務の一部の範囲については建築士の判断に委ねようという経緯がありました。 その後、1998年の建築基準法改正による建築確認・検査の民営化等によって、建築確認審査の実施率が向上し続ける一方で、4号特例制度を活用した多数の住宅において不適切な設計・工事監理が行われ、構造強度不足が明らかになる事案が断続的に発生したことなどを受け、制度の見直しの必要性が検討されてきました。 4号特例の縮小と課題 そのような状況の中、地球規模の課題である気候変動問題の解決に向けて、2050年までにカーボンニュートラルと呼ばれている脱炭素社会の実現に向けて国土交通省は建築物省エネ法と建築基準法を改正しました。2025年の全面施行に向け、段階的に政省令や告示などを定めていく予定で、その改正の中に「4号特例の縮小」と呼ばれる審査制度の見直し案が盛り込まれることになりました。改正後は4号の規定内容は新3号というものに引き継がれ特例となる対象は、平屋建て、床面積200㎡以下に範囲が縮小されます。 つまり2階建ての木造戸建て住宅は構造審査が必要になるという事です。これは建築業界にとっては大きな変化で建築士の業務量は増大し確認審査員の負担する審査件数も増大することで円滑な施工が実現できるのか懸念されています。木造住宅を手掛ける構造設計者の人数は、4号特例の縮小によって構造計算が必要になる住宅の物件数の増加に対して十分とは言えず、今後建設業界全体で木造住宅の構造計算を手掛けられる技術者を育てていく必要があります。もちろん4号特例の縮小は住宅を建てる施主側にとっては大きな安心につながります。より構造計画を重視した設計が求められることになり構造設計者の役割が重要になってきます。 私の研究室でも建築構造の基礎を学び構造設計の分野で活躍できる人材を社会に送り出していきたいと思っています。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年7月7日)掲載 Profile 間藤 早太(まとう・はやた) 建設学科教授日本大学理工学部建築学科卒業。1級建築士・構造設計1級建築士。金箱構造設計事務所を経て間藤構造設計事務所を設立。2022年より現職。 関連リンク ・建設学科WEBページ
1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的な心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、歌手として都内のオペラ劇場を中心に活躍する他、作曲家、台本作家、指揮者、演出家の顔を持つ舞台の総合クリエイター、阿瀬見貴光氏を講師に迎えたプロゼミをお届けします。 肉声の魅力-声楽とは 私の職業は歌手です。声楽家です。主にオペラや舞台のクラシックコンサートに出演します。それと同時に故郷の加須市で市民ミュージカルのプロデュースも行っています。まずは歌手としての仕事についてお話したいと思います。 声楽家と現代的な歌手の大きな違いは何でしょう? そうです、マイクを使うか否かです。2,000人規模の大ホールでも60人以上のオーケストラと共演する場合も、基本的に声楽家はマイクを使いません。すなわち、肉声の魅力で音楽を表現します。肉声だからといって声はただ大きければよいというわけではありません。特にオペラは「声の芸術」とも言われていて、大事なのはよく響いて遠くまで通る声です。たとえば、「ストラディバリウス」というヴァイオリンの名器をご存知の方はいますか? ストラディバリウスの音色は実に繊細で密度が高い。そして近くで聴いているとそれほど大きな音に聞こえないのに、不思議と遠くの方まで響きが飛んでいくという特性があります。声楽家はそのような魅力的な音色をお手本にして技を身につけます。楽器である身体を鍛えたり、音声学を学びます。日々の発声練習も欠かしません。世界にはたくさんの種類の楽器がありますが、人間の声こそが最も美しく表現力豊かな楽器であると私は考えています。皆さんにはアコースティックサウンド、生の響きの醍醐味を感じていただきたいですし、そのようなコンサートに是非とも足を運んで欲しいと思います。 さて、ここで実演の意味も込めて歌ってみたいと思います。オペラ発祥の国イタリアから「オー ソレ ミーオ」というナポリの民謡です。高校1年の教科書に載っていますからご存知の方も多いかもしれませんね。私はイタリアに勉強に行ったことがあるのですが、イタリア南部の方の気質はとにかく陽気でおおらかです。この曲もまたそのような気質が現れていて、活きていることが素晴らしいと感じさせてくれます。 『オー ソレ ミーオ』 新国立劇場オペラの13年間 私は渋谷区初台にあるオペラ専用劇場を有する新国立劇場に所属し、約13年間インターナショナルな活動をしてまいりました。この劇場は、オペラのほか、舞踊と劇場の部門がありまして、どれも大変クオリティの高い公演が行われています。とくにオペラ部門は『ニューヨーク・タイムズ』のオペラ番付でも上位にランキングする実力があり、世界中のトップレベルの演奏家や演出家を招へいしています。 私はこの劇場の13年間オペラ公演で、延べ156演目、780のステージに立ちました。世界トップレベルの芸術家と一緒に舞台を創ること、それが私にとって何より刺激の源になりました。彼らとの日々のリハーサルや公演を通して、彼らの美の根底にある感性、思考、宗教観に触れることができたからです。近年ではウェブ上に舞台の情報が溢れる時代になりましたが、現場でしか味わえない貴重な経験をさせていただきました。日本にいながらにして、まるで海外留学をしているかのような気分です。 さて、オペラと言えばイタリア、ドイツ、フランス、イギリスなどヨーロッパを中心とした国々の芸術家との交流が多いのですが、「オペラ界のアジア」という視点で世界を見たとき、生涯忘れられないエピソードが2つありますのでご紹介したいと思います。 日中共同プロジェクト「アイーダ」と韓国人テノール ひとつ目は2012年の日中共同制作公演『アイーダ』です。日中国交正常化40周年の節目に日中の友好の象徴として共同制作されました。この前代未聞のプロダクションは、歌手およそ100名を新国立劇場と中国国家大劇院から集め、東京と北京で公演するというものです。国家大劇院は北京の中心部にありまして、国の威厳をかけて創設された大変立派な建築物です。近くには人民大会堂(日本の国会議事堂に相当する)があります。当時、中国の反日教育はよく知られていたので、劇場内でも日本人スタッフへのあたりが厳しいのではと心配したものでしたが、まったくの杞憂でした。むしろ国家大劇院の皆さんはとても友好的で、日本の音楽事情に興味津々といった様子でした。休日には関係者が北京市内を案内してくれもしました。リハーサルの後に、若いテノール歌手に食事に誘われ「遠くから来た要人には徹底的にもてなすのが中国人の流儀だ」と言って、約一カ月分のお給料に相当する額のご馳走を用意してくれたこともありました。そして肝心のオペラ公演も大成功を収めました。隣国同士の東洋人が心をひとつにして、西洋文化の象徴であるオペラに挑戦する。満席6,000人の巨大オペラ劇場が大いに湧きました。国家間の歴史認識の違いはあれど、芸術の世界に酔いしれるとき、国境が存在しないのだと感じました。しかし大変残念なことに、東京公演の一週間後、日中両国の外交関係が急速に悪化していきました。もし、このプロジェクトがあとひと月も遅ければ公演中止となっていたでしょう。 ふたつ目のエピソードは韓国です。皆さんは韓国アイドルの「推し」はありますか? 現在ではK-pop が大人気ですし、化粧品、美容グッズ、ファッションなど韓国のトレンドには力があります。若い皆さんは驚くかもしれませんが、2013年頃の日本では韓国に対する嫌悪感、いわゆる「嫌韓」の風潮が非常に高まっていました。その年の流行語のひとつは「ヘイト・スピーチ」でした。新宿区大久保などではデモがあり、激しいバッシングも見られました。そんな社会状況の中、新国立劇場ではオペラ『リゴレット』が公演されました。主役は韓国人の若手テノール歌手、ウーキュン・キム。それまで新国立劇場で韓国人が主役を張ることはほとんどなかったこともあり、過激な世論の中で彼がどんな評価をされるのか、私は興味深く見守っていました。彼の歌声は実に素晴らしいもので、客席は大きな拍手で彼を称えました。「日本の聴衆よ、よく公平な目で評価した!」隔たりを越えた美の世界を感じ、私はステージ上で静かに胸を熱くしました。 インターナショナルな活動の中で私がいつも思うことは、舞台製作の環境は常に政治の影響を受けていますが、政治に侵されない自由な領域を持つのもまた芸術の世界であるということです。だからこそ我々芸術家は、人間の普遍的な価値観や幅広い視点をもって世界の平和に貢献すべきだと考えています。 テクノロジーと古典芸能の融合-オペラ劇場の構造 今日は建設学科の講義ですので、オペラ劇場の構造について少し触れてみたいと思います。まず特徴的なのはステージと客席に挟まれた大きな窪みです。これは「オーケストラ・ピット」と言います。 ここにオーケストラ団員最大100名と指揮者が入り演奏します。ピットの床は上下に動きます。床が下がってピットが深くなるとオーケストラの音量が小さくなり、逆に床が上がると音量は大きくなります。これによって歌手の声量とバランスを取りながら、深さを調節するわけです。ピットの上には大きな反響板があります。オペラやクラシック音楽においては、いかに生の響きを客席に届けるかが大切ですから、音響工学の専門家が材質や形状にこだわり抜いてホール全体を設計しています。 これは劇場平面図です。客席から見える本舞台の左右と奥に同じ面積のスペースがありまして、これを四面舞台と言います。大きな床ごとスライドさせることができます。これによって、巨大な舞台セットを伴う場面転換がスムーズにできますし、場合によってはふたつの演目を日替わりで公演することも可能です。この機構をもつオペラ劇場は日本ではほんのいくつかしかありません。次は劇場断面図を見てみましょう。舞台の上には大きな空間がありまして、これは照明機材や舞台美術などを吊るためのものです。下側はというと「セリ」といって、舞台面の一部もしくは全体を昇降させることができます。そして、これらの機構の多くはコンピューターによって制御されています。最新のテクノロジーは古典芸能であるオペラ(400年の歴史)に新たな表現方法をもたらし続けているのです。 私のライフワーク-ミュージカルかぞ総監督として 「多世代交流の温かい心の居場所をつくろう」と思いついたのは約30年前のことです。私が大学3年生の夏に読んだ新聞記事がきっかけとなりました。若者の意思伝達能力の低下や家庭内暴力は、家庭問題というより社会の歪みに原因があるだろうと考えていました。「自分にできること、自分にしかできないこと」音楽や舞台表現を手段として、人間が人間に興味をもって、大いに笑い、平和を謳う。そんなコミュニティをつくろう!自分がオペラ歌手になるための勉強と並行して、文化団体の運営のイメージを実践方法を温め続けました。 2012年の夏に故郷である加須市で、市民劇団「ミュージカルかぞ」を立ち上げました。ありがたいことに、市長、教育長をはじめ、地元の実力派有志たちが私の掲げる活動理念に賛同、協力してくださいました。さらに嬉しいことに、一年目からすべての年代がバランスよく揃った『三世代ミュージカル』を実現したのです。また、ダンス講師、ピアニスト、照明家などプロの第一線で活躍する業界の仲間も加須に駆けつけてくれました。市民が主役の劇団ですから入団資格は『プロの舞台人でないこと』、以上。技と魂を兼ね備えたプロの舞台スタッフが環境を整え、地元のアマチュア俳優をステージで輝かせるのが私の手法です。団員たちが燃えるような魂で舞台に立つとき、キャラクター描写の奥に個々の圧倒的な生き様が放たれます。そこには見る者の魂を震えさせるほどの「人間の美しさ」があるのです。 しかし、そこにたどり着くまでには膨大な時間と労力、技術を要します。ほとんどの団員は演技や歌唱の経験がないからです。舞台での身体表現、呼吸法、発声法、楽曲分析、台本の読解法、そして舞台創りの精神など、私が日々舞台で実践していることを43名の団員たちに解りやすく愉快に伝えています。 ミュージカルかぞは年に2演目を10年間公演し続け(コロナ禍の中止はありましたが)、着実にレベルアップしています。いつも満員御礼の客席からは割れんばかりの拍手と「ブラボー!」が飛び交います。涙を流しながら客席を立つお客様の姿が増えました。県外からのファンや、教育や文化に携わる方も多くいらっしゃるようになりました。 『大人が笑えば子供も笑う』…劇団の稽古場は笑い声が絶えません。しかし、団員個々の心の事情には静かに話を聞いて、一緒に考えます。不登校、引きこもり、健康上の悩みなど事情は様々ですが、そこから社会の歪みが見えることは少なくないです。しかし、舞台表現を磨き続け、少しずつ自分の声と言葉で素直な自分を語れるようになった団員を見たとき、私も生きていて良かったと感じます。特に子どもや若者には、人と繋がって喜びを感じる『真実の時間』を過ごしてほしいと考えています。それは誰かを愛するための心の糧になると思うからです。 時空を超えるメッセージ-ミュージカル『いち』 さて皆さん、「愛」って何でしょうね? こういった漠然とした質問が一番困るんですよね。そのような抽象的なイメージを閃きに導かれながら具象化できるのが芸術文化のいいところです。愛をいかに表現するか、私も日々悩み続けています。 私の劇作家としての代表作にミュージカル『いち』があります。作品のもととなった加須古来からの伝承『いちっ子地蔵』を読んだ瞬間、作品のインスピレーションが稲妻のように降りてきました。眠るのを忘れるくらい無我夢中で台本と楽曲を書き留めました。全2幕8景、26曲、公演2時間と、なかなかのボリュームです。ドラマの舞台は天明6年(1786年)の加須です。水害などの度重なる困難に屈することなく、助け合って前を向いて生きるお百姓さんたちの姿を描いています。現代のような科学技術はなく、物質も情報も豊かではない村落共同体の人々は何に価値を感じて生きていたのか? 現代人が忘れかけた大切な「何か」を思い起こさせてくれるのです。そして、いつも忘れはならないのは「土地に生きた先人たちの努力、犠牲、愛があったからこそ、現在の我々がある」をいうことです。脈々とつながる命、先人からの愛に感謝することが、光ある未来を導くと『いち』は教えてくれます。 「大きな社会は変えられない、まずは小さな社会から」-。土壌づくりに20年。故郷で愛の種を蒔き始めて約10年。それらが今、芽吹きはじめました。埼玉の小さな街から田畑を越えて、時空を超えて、これから新たな愛の連鎖が広がっていくのだと思います。 『野菊』 『翼をください』 『帰れソレントへ』 Profile 阿瀬見 貴光(あせみ・たかみつ)昭和音楽大学声楽科卒業。日本オペラ振興会オペラ歌手育成部18期修了。声楽を峰茂樹、L.Bertagnollio の各氏に師事。歌手としては都内のオペラ劇場を中心に活躍し、定期的なトークコンサート《あせみんシリーズ》では客席を笑いと涙の渦に巻く。その他、作曲家、台本作家、指揮者、演出家の顔を持つ部隊の総合クリエイター。完全オリジナル作品の代表作にミュージカル《いち》があり、これまでに5回の再演を重ねている。プロの舞台で培った技術や経験を地域社会に還元すべく、子どもの教育や生涯学習を目的としたアマチュア舞台芸術の発展に力を注ぐ。教育委員会等で講演を精力的に行い、芸術文化による地方創生の実践を伝えている。NPO法人ミュージカルかぞ総監督。ハーモニーかぞ常任指揮者。加須市観光大使。地元の酒をこよなく愛する四児の父。 関連リンク ・【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践・【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング・【Fゼミ】私の仕事 #3--自分を活かす 人を活かす 原稿井坂 康志(いさか・やすし)教養教育センター教授
1年次のFゼミは、新入生が大学生活を円滑に進められるように、基本的な心構えや、ものづくりを担う人材としての基礎的素養を修得する授業です。このFゼミにおいて各界で活躍するプロフェッショナルを招へいし、「現場に宿る教養」とその迫力を体感し、自身の生き方やキャリアに役立ててもらうことを目的として、プロゼミ(プロフェッショナル・ゼミ)を実施しました。今回は、OL時代、自身の体調不良が玄米で改善した経緯から大阪で玄米カフェ実身美(サンミ)を創業し、顧客の健康改善事例に多く立ち合ってきた大塚三紀子氏を講師に迎えたプロゼミの内容をお届けします。 学生時代から就職まで 私は現在、㈱実身美を経営しています。本日は「自分を活かす 人を活かす」というテーマで私の経験をお話ししたいと思います。 最初に私の学生時代から始めたいと思います。私は法学部の出身なのですが、大学時代は正直なところやりたいことがありませんでした。何をしようかわからなかったというのが実感でした。法学部に在籍したことから、税理士事務所に就職はしてみたものの、やりがいは感じられませんでした。そのようなこともあり、しばらくして体調を崩してしまったのですね。 そんなとき、玄米食に切り替えたところ、めきめきと回復したのです。この経験は私にとって鮮烈なものがありました。そのとき思いました。体調不良の悩みを持つ人はきっと日本全国にいるはず。ならば、同じような方法で体調が回復することで喜びを共有することはできるだろうと。私自身が苦労したことをもとに、世の中の問題を解決できるのではないかと考えたわけです。そこで、事業を始めることにしました。これが私が経営者になったきっかけでした。 起業の経緯 実身美(サンミ)は、名前がコンセプトになっています。「実」があって「身」体に良くて「美」しい。すべて「み」と読みますから、3つで「サンミ」と呼ぶわけです。実身美は2002年に大阪市阿倍野区にて創業しています。現在は、玄米を主食とした健康食を提供しており、年間40万人以上のお客様にお届けしています。大阪阿倍野区、都島区、中央区、東京都、那覇市に5店舗を展開しています。 通信販売にも力を入れておりまして、独自開発の酵素ドレッシングは、全国お取り寄せグランプリ3年連続日本一(2017年全国4,400商品中1位、2018年全国4,730商品中1位、2019年全国5,131商品中1位)の評価をいただいております。現在でこそこのような高評価をいただいているものの、起業の時からすべてがうまくいったかというとまったくそうではありません。これから少しそのお話をしたいと思います。もともと食には興味があったのですが、起業となると何もわかりません。私はその分野にはまったくの素人でしたので、創業支援制度を利用して相談してみると、まずは「事業計画書を作成するように」と言われたのですね。ここで私は、コンセプトと数字の大切さを徹底的に学ぶことになりました。起業にあたって思いや志は何にもまして大切なものです。しかし一方で、現実に事業を成り立たせていくためいには、実にたくさんの具体的な行動が必要になってきます。 そこで大切なのは、仕組みづくりであり、数字をきちんと計算することです。たとえば、私は起業にあたって、公的金融機関からしかるべき融資をいただいたわけですが、それは言い換えれば借金をしたということです。借金をしたら、期限までに返さなければならないのは当然です。そこで、経営というものの責任を実感させられました。一度責任を引き受けた以上、何としてでもやらなければならないと決意しました。 そうなると、必要な費用を賄うのに、いくら必要か。これは痛いくらいの現実で、従業員やアルバイトさんの時給など掛け算すれば経費が出てきます。何で稼いで経費を払っていくか。これを計算しました。一日に必要な収入を割り出すと、ご来店54人という数字が出ました。これより少なかったら、店を成り立たせていくことはできないし、従業員にお給料も払えないわけです。 今にして思うのですが、「1日54人」の数字が出たから、私は成功できたのだと考えています。もちろん、お金だけではありません。店舗を展開していく中で、どうしても自分だけでは限界があります。人に働いてもらわなければなりません。自分がわかっているだけでは回らないのです。そのときはたと気づきました。どう人に動いてもらうかがわからなかったのです。そんなときに出合ったのが、「マネジメントの父」と言われているピーター・ドラッカーでした。 ドラッカー『仕事の哲学』との出合い 行き詰っていた時に出合ったのが、『仕事の哲学』というドラッカーの名言集です。2003年夏のことでした。まず感銘を受けたのが、「帯」の言葉です。 「不得手なことに時間を使ってはならない。自らの強みに集中すべきである」。 これは本当に救いになりました。その人にできることを生かさなければならない。生かせないならそれはマネジメントの責任ということです。この時期にビジネス界にも影響力を持つ人と出会えたのは幸福だったと思います。翌年2004年からはソーシャルネットワークで「ドラッカーに学ぶ」コミュニティも運営しはじめました。2007年には、翻訳者の上田惇生先生(ものつくり大学名誉教授)に勧めていただき、ドラッカー学会に入会して現在に至っています。 念のため、ここでドラッカーについて説明しておきます。1909年にウィーン生まれ。2005年にアメリカで没しています。「ビジネス界に最も影響力をもつ思想家」として知られる方で、東西冷戦の終結、転換期の到来、社会の高齢化をいちはやく知らせるとともに、「分権化」「目標管理」「経営戦略」「民営化」「顧客第一」「情報化」「知識労働者」「ABC会計」「ベンチマーキング」「コア・コンピタンス」など、マネジメントの理論と手法の多くを考案し、「マネジメントの父」と呼ばれています。今当たり前に通用している経営戦略とか目標管理などはドラッカーが発案したものです。 強みを生かすには 私がドラッカーから学んだ最大のものは、「強み」の考え方です。たとえば、ドラッカーは強みについて次のように述べています。 「何事かを成し遂げられることは強みによってである。弱みによって何かを行うことはできない」(『明日を支配するもの』) できないところに目を向けていてもしかたがありません。強みを集めて成果を上げるところまでもっていくことが大切だというのです。たとえば、経理の人はきちんと計算できれば、人付き合いできなくても成果をあげる上では問題ありません。むしろできることを卓越したレベルにまでもっていける。「強みを生かし、弱みを無意味にする」というのは、言うのは簡単なのですが、自己流だとうまくいきません。だんだんいらいらしてきます。人はなかなか見えないものだからです。 ではどう実践したか。実身美では、次の質問を投げかけています。「2人以上にほめられたことは何か」「2人以上に改善を求められたことは何か」一つ目については、「とても丁寧ですね。早いですね」といったささやかなことでよいのです。自分は大したことないと思っていても、強みは人が意外に知っているものです。スタッフ勉強会を開催して、隣の人のいいところを書いています。これを行うと、自分の気づいていないところがどんどん蓄積されて、新しい強みにも気づけたりする。「強みノート」を作成して、お互いの強みを理解し合えるように工夫しています。改善を求められたことについても同様に共有していきます。 強みに応じた人事としては、次のようなものがあります。社交性→百貨店担当学習欲→共同研究、HACCP取得、新規事業の把握責任感→マネジメント達成欲→成果が目に見える業務公平性→ルール作りのご意見番慎重さ→会社の危機を聞く、用意周到な準備が必要な案件コミュニケーション、共感性→お客様対応、広報指令性→プロジェクトリーダーポジティブ→ハードな現場収集心→リサーチ系の仕事(レシピ、店舗情報)着想→アイデアがないか聞く戦略性→成果へのプロセスを聞く さらに、気質や価値観も大切です。人には生まれ持っているものがあり、理由はわからないのにできてしまうことがあります。逆に、どんなに努力してもうまくできないこともあります。ドラッカーは次のように述べています。 「われわれは気質と個性を軽んじがちである。だがそれらのものは訓練によって容易に変えられるものではないだけに、重視し、明確に理解することが重要である」 人には教わっていないのにできてしまうことがあるのです。そういうものを生かしていきたいと考えています。なるべく人の持つ本質を大きく変えないようにすることで、生かしていきたいと考えています。 20年間存続するには--会社の文化づくり 最後になりますが、文化づくりについてお話したいと思います。私は文化の力はとても大きいと常々感じています。文化になれば言葉はいらなくなります。たとえば、日本では公共交通機関などでみんな並んで待つ文化がありますね。これは海外からすれば驚かれることです。それが文化の力であり、誰もが当たり前のようにやっていることです。 今日ものつくり大学に来て、みんなが気持ちよく挨拶してくれるのに感動いたしました。授業にもかなり前から教室に来ている。それはものつくり大学では普通のことかもしれませんが、立派な文化と言ってよいものです。文化になると人から言われなくてもできてしまう。これは、その文化の中にいる人を見れば伝わってくるものですし、本物の力だと思います。 なぜ実身美は20年継続できたのかを時々考えます。起業した企業が20年後に生き残っているのは0.3%と言われています。昔からあてにならないことを千三つと言いますが、まさに1000分の3の確率なのです。続けるのは難しいものです。ポイントは、学ぶこと、強みを生かすこと、そして「新しくしていくこと」です。続かないとは変われなかったということだからです。これは会社の文化といってよいと思います。 実身美では、継続学習とたゆまぬ改善活動を行っています。「丘の上の木を見ながら、手元の臼を引く」、すなわち、長期と短期をバランスさせる視点を大切にしています。ビジョンと現実の両方を見ながら、行くべき方向へかじ取りするのです。 最後に--マーケティングとイノベーション ドラッカーが言うのは、マーケティングとイノベーションです。ドラッカーは、「マーケティングとは販売を不要にすること」という有名な言葉を残しています。「買ってください」と言わなくても、お客様から「ほしい」と思っていただけることです。私は、自分が不便だと感じて、こんなのがあったらいいと思うことを大切にすることでした。自分も一人の顧客だからです。知人の本の編集者が教えてくれたのですが、「誰かにぴったり合うということは、その後ろに同じ感じ方をする人が30万人いる」という。それが独りよがりではなく、役に立ち、喜ばれるものになるのです。 イノベーションは新しくしていくことです。お店だったらいろんなメニューがありますね。消費者として、ほっとできるお店へのニーズがあるのに、それをベースにしているお店が少なかった。実身美の創業にはこのような思いもありました。そこで大切なのが顧客目線によるイノベーションです。お店の側は、自分が学んだイタリアンとか中華とかで勝負しようとしてしまいがちですね。果たしてそこに顧客目線はあるのかが疑問でした。自分の発想だけで出すと顧客からずれてしまいます。 自分が消費者だったらどうか。たとえば実身美では、冬に白湯を出すようにしています。というのも、通常の飲食店では、冬でも氷の入った水が出てくるところがあるからです。家ではありえないことですね。プロがそのようなことをしている。寒い時は常温の方がありがたいはずで、それだけでも感動してくれる人がいます。以前ジャーマンオムレツをメニューにしたいという意見があって、私はそこにトマトとかいろいろな野菜を入れたら魅力的ではと提案したことがあります。即座に「それではジャーマンオムレツにならない」という反論がありました。けれども、それは偶然私たちの知るジャーマンオムレツが、昔の人の保存がきくもの、じゃがいもとかしか使えなかった時代の遺物だったに過ぎない。それはものが不足していた時代に誰かが考えた苦肉の策なのに、今まったく違う現在でも踏襲してしまうのです。今はなすもトマトも入れられる。自分だったらこうするという具合に作り直していいのです。酵素ドレッシングもそうです。以前は、茶色で調味料というのが大半でした。生の良さを生かす「食べるドレッシング」という発想がなかった。それを顧客目線で開発した。 本日は「自分を活かす 人を活かす」というテーマで私の経験をお話しました。ものつくり大学の学生の皆さんに少しでも役に立てれば嬉しいです。ありがとうございました。 Profile 大塚 三紀子(おおつか・みきこ)㈱実身美 代表取締役関西大学法学部卒。OL時代、自身の体調不良が玄米で改善した経緯から2002年大阪で玄米カフェ実身美(サンミ)創業。20年間で玄米食を約500万食提供し、顧客の健康改善事例に多く立ち合う。玄米の機能性に感銘を受け、2017年度より、琉球大学医学部第二内科益崎教授研究室と玄米の機能性食品の共同研究開発を開始。働く女性を対象にした臨床試験を通じ、玄米の機能性成分がアルコール依存を軽減させる効果を認める。2019年~2023年 沖縄科学技術イノベーションシステム構築事業委託共同研究採択2022年 『特許庁 社会課題解決×知財 IOPEN プロジェクト~脳のデトックス効果のある玄米食を通じて社会ストレスを解消させる挑戦~令和3年度IOPENER』。ドラッカー学会会員。著書に『実身美のごはん』『実身美の養生ごはん』ワニブックス社がある。(累計2万9000部)『実があって身体に良く美味しい』をコンセプトにした商品開発を得意とする。酵素ドレッシングはベストお取り寄せ大賞3年連続総合大賞受賞(2019年度5,131商品中1位)他受賞多数。 関連リンク 【Fゼミ】私の仕事 #1--デジタルマーケティングとオンライン販売 基礎・実践 【Fゼミ】私の仕事 #2--私が在籍してきた企業におけるマーケティング 【Fゼミ】私の仕事 #4--歌手としての歩みとライフワーク 原稿井坂 康志(いさか・やすし)ものつくり大学教養教育センター教授
政府は本年5月に新型コロナウイルス感染症の位置付けを「2類相当」から「5類」に移行するとしており、私たちの生活におけるコロナ対策も一つの転換点を迎えようとしています。2020年に入り世界中で新型コロナウイルスの感染が拡大して以降「ポストコロナ」や「ニューノーマル」といった言葉を用いて、新しい教育環境の創出にまつわる議論が様々な場面でされてきました。とりわけ、デジタルを活用したグローバル化、地方創生、リカレント教育、大学間連携といったキーワードが活発に議論されてきました。 人材育成と大学間連携 時代に求められる、時代に受け入れられる学びの形態を考え続けることは大学の責務であり、いま社会に求められているものとして「超スマート人材の育成」と「社会と連携した職業訓練」が挙げられます。Society 5.0と呼ばれる「サイバー空間とフィジカル(現実)空間を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会(Society)」を担う人材、それが超スマート人材ですが、情報社会(Society 4.0)に続く新たな社会の担い手になるためには、幅広い学びが必要です。それぞれの専門分野の学びはもちろん、コミュニケーション能力や協調性といった人間力を育むことが必要不可欠であり、それは言い換えれば、他者を理解し、尊重できる能力なのかもしれません。私がいま所属しているものつくり大学では、隣接する羽生市の埼玉純真短期大学と、加須市にある平成国際大学との間で連携協力協定を締結しています。このように複数の大学が連携することで、他分野の学生等との相互交流が可能となり、「他者を理解し尊重する能力」が育まれることに繋がります。 こども学科と建設学科 パンデミックの影響もありましたが、埼玉純真短期大学「こども学科」とものつくり大学「建設学科」の学生たちが交流することで、2018年度「模擬保育室(おひさまランド)」の幼児用家具と室内遊具をデザイン・製作、2020~2021年度「屋外キッズハウス」をデザイン・製作するというプロジェクトが展開されてきました。専門的知識と実践力のある保育者・教育者を社会に輩出する「こども学科」と、実際にものづくりができ技能にも秀でたテクノロジストを輩出する「建設学科」の学生たちが、お互いを理解し尊重することで実現した成果です。 2018年度制作の「模擬保育室(おひさまランド) 2020年度制作のキッズハウス ポストコロナ元年 令和5年度の埼玉県一般会計当初予算は「ポストコロナ元年~持続可能な発展に向けて~」と名付けられました。「10年先、20年先を見据え、埼玉県の持続可能な発展に向けての礎を築いていく」という決意が込められているそうです。その具体的な取り組みの中には、資源のスマートな利用、ゼロ・カーボン社会に向けた取り組みも含まれています。「木材」を使った模擬保育教室と屋外キッズハウスプロジェクトは、森林と木材利用がカーボンニュートラルに貢献できることの学びに通じるものです。学生たちがそのことを深く考えるのは、あるいは卒業後かもしれませんが、大学間連携によって他者を理解することを学んだ若者たちが、超スマート人材として次世代の担い手になってくれることを願っています。 2021年度制作のキッズハウス 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年5月5日号)掲載 Profile 佐々木 昌孝(ささき・まさたか) 建設学科教授 1973年生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科(建設工学専攻)博士後期課程。博士(工学)。2020年4月より現職。専門は木材加工、日本建築史 関連リンク ・家具研究室(佐々木研究室)WEBサイト・建設学科WEBページ
第2回「学生による授業レポート」をお届けします。今回は建設学科4年の杉山一輝さんが「鋼構造物施工および実習」を紹介します。杉山さんは2年次に「鋼構造物施工および実習」を受講して、4年次ではSA(スチューデント・アシスタント)として実習の運営をサポートしました。学生とSAの両方の視点からのレポートをお届けします。(学年は記事執筆当時) 「鋼構造物施工および実習」について 「鋼構造物施工および実習」は、鋼構造の躯体モデルとして鉄骨部材で構成されたシステム建築を施工する工程を通じて、鋼構造部材の組み立てを中心とした施工管理を学びます。高力ボルトなどの締付け管理や母屋、胴縁などのボルトによる施工要領について学び、筋交いやサグロッドなどの2次部材の役目や施工方法を習得します。 システム建築の特徴 この実習は、株式会社横河システム建築から鉄骨などの部材を提供いただくとともに、社員の方に非常勤講師として来ていただき行われています。横河システム建築は、業界トップシェアを誇るシステム建築と、国内外の大型開閉スタジアムやハワイ天文台のすばる望遠鏡大型シャッター装置など、様々な用途の大型可動建築物を提供する建築製品のトップメーカーです。 システム建築とは、建物を構成する部材を「標準化」することにより、「建築生産プロセス」をシステム化し、商品化した建築です。工場・倉庫・物流施設・店舗・スポーツ施設・最終処分場等に適した建築工法で、建設のうえで想定される検討事項・仕様が予め標準化されているので高品質でありながら、短工期・低価格を実現しています。(株式会社横河システム建築HPより引用:https://www.yokogawa-yess.co.jp/yess01/feature) 完成写真 苦労した点、勉強になった点 2年生で受講した時は、システム建築、鉄骨造と聞いてもイメージが全然湧きませんでした。図面を見て理解するにも時間がかかって施工するにもいろいろ苦労しました。しかし、世の中の鉄骨造の建築物(特に工場・倉庫)はどのように施工されているのかを細かな部分まで実習を通して知ることができ、完成に近づくほど楽しく、面白く感じました。「システム建築」がどのような事なのかも学ぶことができました。 図面確認 3年生になり、SA(スチューデント・アシスタント、以下SA)になってからは、受講生に質問されてもしっかり答えられるように図面をよく確認したり、作業内容を熟知するようにして事前準備をしていました。現場は予定通りにいかないことが多いので臨機応変に対応していくのが大変でした。SAとして、また実習に参加することで、受講当時に分からなかったことが理解できるようになったり、新たな疑問点は見つかったり、毎回の実習が充実していたので参加できて良かったと思います。 SAとして工夫した点 就職活動では、株式会社横河システム建築から内定をいただいたということもあり、SAを2年間経験させてもらっています。一般的にSAという立場は、受講生のサポート役として参加しますが、この実習では規模が大きいということもあり、SAが率先して受講生をまとめています。受講生では危険な作業が少々あり、SAがやらなくてはいけない作業があったりするからです。 工夫したことは、その場その場でいろいろとあります。教授・非常勤講師の打ち合わせに参加して、実習で使用する工具類の確認、授業の流れを把握したりして受講生がスムーズに実習できるように環境づくりを行いました。また、複数人いるSAの中でリーダーでもあったので指示を出したり、自身の分からないことはすぐに非常勤講師に質問して対応できるようにしていました。 SAによる柱設置作業 原稿建設学科4年 杉山 一輝(すぎやま かずき) 関連リンク ・【学生による授業レポート】ジジジジッ、バチバチッ・・・五感で学ぶ溶接技術・建設学科WEBページ
今回は、学生の目線から授業を紹介します。建設学科1年の佐々木望さん(上記写真左)、小林優芽さん(上記写真右)が「構造基礎および実習Ⅳ」のアーク溶接実習についてレポートします。実習を通じて、学生たちは何を感じ、何を学んでいるのか。リアルな声をお届けします。(学年は記事執筆当時) ものつくり大学の授業について ものつくり大学の特色…それは何といっても実習授業の多さです。なんと授業のおよそ6割が実習であり、実践を通して知識と技術の両方を身に着けることができます。科目ごとに基礎実習から始まり、使用する道具の名称や使い方などを一から学ぶことができます。 本学は4学期制でそれぞれを1クォータ、2クォータと呼び、1クォータにつき全7回の授業と最終試験を一区切りとして履修していきます。今回は、そんな授業の中で建設学科1年次の4クォータで履修する「構造基礎および実習Ⅳ」のアーク溶接実習について紹介します。 アーク溶接の実習とは まず、アーク溶接について簡単に説明すると「アーク放電」という電気的現象を利用して金属同士をつなぎ合わせる溶接方法の一種です。アーク溶接の中にも被覆、ガスシールド、サブマージ、セルフシールドなど様々な種類がありますが、この実習では一般的に広く使用されている被覆アーク溶接を行いました。 アーク溶接の様子 この授業は、講義の中で溶接の基礎知識や安全管理等の法令を学び、実技を通してアーク溶接の技術を身に付けることを目的としています。また、6回目の授業で突合せ板継ぎ溶接の実技試験、7回目の授業で「アーク溶接等作業の安全」をテキストとした試験を行います。その試験に合格した学生には特別教育修了証が発行され、アーク溶接業務を行えるようになります。 実技試験の課題 突合せ溶接 実習では平板ストリンガー溶接、T型すみ肉溶接、丸棒フレア溶接、突合せ板継ぎ溶接といった、数種類の継手の面やコーナー部を溶接する練習を行いました。また、講義では鋼材に関する知識、溶接方法の原理、作業における安全管理、品質における溶接不良の原因や構造物への影響等について学び、試験に臨みました。 実習の流れとしては、まず作業の前に溶接方法の説明を受けます。その後、皮手袋やエプロン、防じんマスク、保護面等の保護具を着用して、3~4人で一班になり、各ブースに分かれて順番に練習を行います。作業中は、実際に現場で活躍されている非常勤講師の先生が学生の間を回り、精度の高い溶接ができるようアドバイスや注意をしてくれます。溶接金属やその周囲は非常に高温になるため、他の実習よりも危険なポイントが多いので作業中だけでなく、準備・片付けもケガ無く安全に行えるよう毎回KY(危険予知)活動をしてから実習に臨みました。 実習を行ってみて 説明ばかりでは授業の様子を想像するのも難しいですよね…。ということで、実際に授業を受けた建設学科1年、小林と佐々木の感想をお届けしたいと思います! ・何を学ぶことができたか 【小林】アーク溶接とは何かを学ぶことができました。もっとも、それを教わるための講義なので何を言ってるんだと思われてしまいそうですが、そもそも私は溶接と無縁の生活を送ってきたので、アーク溶接ってなに?というか溶接ってなんだよ。というところから入りました。1回目の講義の際、どのようなものが溶接で作られているのか紹介していただいたのですが、ほとんどが知らなかったことだったので、とても面白かったのを覚えています。 【佐々木】溶接というのは非常に優れた接合方法だということを学びました。溶接は継ぎ手効率が高く、大型の構造物を作るのに適しています。あの東京スカイツリーはなんと37,000ものパーツを全て溶接することで作られていると知り、世界一高い塔を作る溶接という技術がこんなに小さな機械で、こんなに簡単にできるものなのだと驚きました。また、一口に溶接といっても用途によって材料や溶接方法、継ぎ手の種類などが様々で、その違いを興味深く学ぶことができました。 ・楽しかったこと 【小林】アーク溶接を実技として教わったことがすごく楽しかったです。非常勤の先生方がとても優しく、どのようにすればいいか、どのくらい浮かすのか、どの音で進めていくのかなど一緒に動かしたり、その都度「今離れたよ。もう少し近付けて。そう、その音」と声をかけてくれたりして理解できるようにしてくださったので、すごく分かりやすかったです。そのおかげで綺麗に溶接ができるようになり、すごく褒めてくださることもあって、とても楽しく実習をすることができました。先生が「初めてでここまでできる人は初めて見た」とまで言ってくださったので、とても嬉しく、褒められればやる気が出る単純なタイプなので、やる気もすごく出ました。 【佐々木】練習を重ねて、アドバイスを実践していく度に溶接の精度が上がり、目に見える形でできるようになっていくのが楽しかったです。溶接は五感がとても大切で、保護面越しで見るアーク放電の光だけでなく、ジジジジッ、バチバチッといった音の違いや溶接棒越し感触を頼りに集中し、真っすぐに溶接できた時にはとても達成感を感じました。班の中でも上手な学生から感覚を教えてもらったり、説明を受けながら溶接の様子を見学することで、より学びを深めることができたと思います。講義では、先生から現場での実体験を交えてお話いただいたおかげで楽しく知識を身に着けることができたので、苦にすることなく試験勉強に取り組めました。 実習中の様子 ・苦労したこと 【小林】T字の材料に溶接するところがすごく苦労しました。平面とはまた違った角度をつけて溶接しなければならず、どうにもそれが難しかったです。1層目の溶接は擦りつけながら溶接すると言われ、この前までは浮かせるって言ってたのに?と混乱している中、追い打ちで「この前とは違う角度で溶接する」と言われてしまい、思考が停止したのをよく覚えています。さらに、そのことに気を取られ、前回できていた適切な距離を維持することができなくなり、手が震えて作業している場所が分からず、ズレてガタガタになることを経験して、やっぱり一筋縄ではいかないんだと痛感しました。 T型すみ肉溶接 【佐々木】被覆アーク溶接というのは、細長い溶接棒と溶接金属の母材を溶かし合わせてつなぎ合わせる方法で、溶接を進めるほど溶接棒が溶けていくので、母材と溶接棒の距離を保つのが難しく、溶接の後が上下にずれてしまい大変でした。アークの光が明るすぎて目視では距離の確認ができずに困っていたら、「正しい距離を保てば見えるようになる」と教えてもらい、それからは以前より真っすぐに溶接できるようになりました。また、溶接不良を何か所も発生させてしまい、溶接不良が原因で鉄橋が崩落した大事故についても学んでいたため、仕事としての難しさや、構造物を作っている技術の高さを改めて感じました。 最後に 私たちの授業紹介はいかがでしたでしょうか?建設学科では、今回紹介した構造基礎の授業だけでなく、設計製図や木造、仕上げといった幅広い分野について実習を通して学び、知識と技術を身に着けることができます。 この記事を通して「ものつくり大学って面白そう!」「他にどんな授業をしているのかな」と少しでも興味を持っていただけたらとても嬉しいです。 最後までお読みいただきありがとうございました。 原稿建設学科1年 佐々木 望(ささき のぞみ) 小林 優芽(こばやし ゆめ) 関連リンク ・【学生による授業レポート #2】受講後もSA(スチューデント・アシスタント)を通じて深める学び・建設学科WEBページ
転換点を迎えたコンクリート コンクリートは、現代のインフラ構築において不可欠な構造材料です。コンクリートの構成材料は、一般には水、セメント、細骨材(砂)、荒骨材(砂利)と少量のセメント分散効果のある液剤(化学混和剤)の5つになります。このうち、水、細骨材および粗骨材は、特殊な環境を除いて地球上のあらゆるところで採取できます。また、構造材料には、ほかに木材や鋼材が代表的ですが、我が国においては単位体積あたりではコンクリートが最も安価です。 これに加えて、適切な材料を使って練混ぜ、施工および養生を行えば、大きな圧縮強度が得られ、長大な構造物を重力に逆らわない自由な造形で構築することが可能です。 こうした特性が、広範に使われている所以なのかもしれません。しかしながら、昨今では施工人員の不足や環境負荷低減への対応が喫緊の課題となっており、大きな転換点を迎えています。 コンクリートの施行の変容 コンクリート工事は、機械化が進んでいるものの、未だに多くの作業を人力に頼る部分が大きいです。ある程度の構造物であれば、コンクリートを打込む部位1か所につき20名ほどの作業者が必要とされる場合もあります。一方で、作業者の高齢化や若年入職者の減少など、今後ますます人員が不足する可能性が高くなっています。 実習でコンクリートを打設している様子 この対策のために、ロボットの活用や更なる機械化施工に加え、3Dプリンティングの技術の開発など、各所で様々な取り組みが活発化しており、近い将来には多くの作業者が見られた建設現場の風景が変わる可能性を秘めています。 コンクリートの環境負荷低減 冒頭で述べたように、コンクリートは総合的には最も合理的な構造材料と言えます。一方で、セメントの製造には多くの二酸化炭素を排出し、地球環境保護の観点からは、いかに抑制するかが喫緊の課題となっています。業界の取り組みにより、徐々に改善されつつありますが、今後も引き続き検討していく必要があるでしょう。 また、セメントの代替として、高炉スラグ微粉末(鉄鋼生産の副産物)やフライアッシュ(石炭火力発電所等で副産される石炭灰)を大量に置換して、従前のセメントを用いたコンクリートと同等の性能を得る技術など、各所で多くの研究が行われています。 一方で、解体後のコンクリート塊は、従来より再生砕石等でほぼ全量がリサイクルされてきましたが、より環境負荷低減を図る上でもさらなる構造物の長寿命化や新たなリサイクル方法など、様々な技術が開発されつつあります。これらの研究開発が、コンクリートの未来に向けて大きな展開につながることが期待されています。 コンクリートの未来に向けて 現代のコンクリートが登場して100年ほど経過し、歴史的にも大きな転換点を迎えている状況ですが、これに代わる合理性を持った構造材料の登場には至っておらず、今後も当分の間多くの構造物で使われるものと思われます。 一方で、社会の変容のスピードは速く、これに追随して変化していかなければ、時代に取り残された技術となってしまいます。当研究室としても、新たなコンクリートの未来に向けて学生諸君とともに様々な課題解決のために研究活動に取り組んでいきたいと考えます。 埼玉新聞「知・技の創造」(2023年3月3日号)掲載 Profile 大塚 秀三(おおつか しゅうぞう) 建設学科教授 川口通正建築研究所を経て2005年ものつくり大学技能工芸学部建設技能工芸学科卒業(社会人入学、1期生)。2013年日本大学大学院理工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。2018年4月より現職。専門は建築材料施工、コンクリート工学。 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 建築材料施工研究室(大塚研究室)
教養教育センターの井坂康志教授が、ものつくり大学の教員に、教育や研究にのめりこむきっかけとなったヒト・モノ・コトについてインタビュー。今回は建設学科 八代克彦教授に伺いました。 Profile 八代 克彦(やしろ かつひこ)技能工芸学部建設学科 教授 1957年、群馬県沼田市生まれ。東京工業大学大学院理工学研究科建築学専攻博士課程単位取得退学。博士(工学)。札幌市立高等専門学校助教授を経て、2005年にものつくり大学へ移籍。専門は建築意匠・計画 現在行っている教育研究のきっかけを教えてください。 専門の建築意匠・計画の分野だけでなく、いろいろなモノに対して自然と関心が向いてきた研究人生であったと思います。一見すると寄り道に見えることが、後々意外なところで新しい活動につながったり触発されたりといったこともずいぶん体験してきました。 やはり研究人生の基点となったのが、東京工業大学の4年次に所属した茶谷正洋研究室です。茶谷先生は世間では「折り紙建築」の創始者として有名ですが、実は建築意匠・構法の研究者として環太平洋の民家を精力的にサーヴェイされており、その総仕上げともいえる中国の地下住居に研究室所属時に出くわし、一辺で魅了されました。時は1980年代初頭、中国北部の黄土高原に見られる伝統的な住居形態・窰洞(ヤオトン)と呼ばれる地面に穴を掘って生活する人々がなんと4,000万人もいました。これは、中国の陝西省北部、甘粛省東部、山西省中南部、河南省西部などの農村では普通に見られる住宅形式です。地坑院ともいわれており、現在では国家級無形文化遺産にも登録され、今でもかなりの数の人々(約1,000万人?)の人々が崖や地面に掘った穴を住居として利用しています。 その研究を行ったのが、1980年代中葉、天安門事件の前の時代でした。西安に留学し、住居の構造はもちろんのこと、文化人類学的な関心からも研究を深めることができました。黄土高原の表土である黄土は、柔らかく、非常に多孔質であるために簡単に掘り抜くことができ、住居全体を地下に沈めた「下沈式」と呼ばれる、世界的にも特異なものでした。今ならドローンで比較的安易に撮影可能と思いますが、当時はそのようなものはありませんので、横2m×縦2.7mほどの大きな六角凧で空撮を敢行しました。どこに行っても住人が凧の紐を持つのを争って手伝ってくれたのが懐かしい思い出です。 ヤオトン空撮写真(河南省洛陽) その経験が後々まで力を持ったということですね。 そうだと思います。やはり最初に関心を持った分野というのは、後々まで影響するようで、現在に至っても、私の建築デザインの原型にはあの洞窟住居があるように感じています。東工大の後は札幌市立高等専門学校に務めました。この学校は全国初かつ唯一のデザイン系の高専で、校長が建築家の清家清先生です。この学校で研究からデザイン教育にフォーカスしていったのですが、一貫して地下住居への関心は持ち続けてきました。なぜか気になる。そこには、必ず何かがあるはずなのです。その何かが研究を継続するうえでの芯のようなものを提供してくれたのかとも思う。まさに穴だらけの研究人生です。その後、2005年からものつくり大学で教鞭を執るようになりました。ものつくり大学では、手と頭を動かしてモノをつくる、ものづくりにこだわりを持つ学生が多く、刺激的な教育研究生活を送ってこられたと思います。これからも、学生には自分の中にある関心の芽を大切にしてほしいと思いますね。私の場合それは中国の地下住居だった。関心対象はどんどん形を変えていくかもしれないけれど、核にあるものはたぶん変わらない。二十歳前後の頃に、なぜかはっとさせられたもの、心を温めてくれたもの、存分に時間とエネルギーを費やしたものは、一生の主軸になってくれます。 ものつくり大学で最も強い思いのある作品は何ですか。 いろいろあるのですが、とりわけル・コルビュジエ(1887~1965年)の休暇小屋原寸レプリカが第一に挙げられると思います。現在ものつくり大学のキャンパスに設置されています。コルビュジエは、スイス生まれのフランス人建築家で、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、ヴァルター・グロピウスと並んで近代建築の四大巨匠の一人に数えられる人です。これは正確には、「カップ・マルタンの休暇小屋」と言います。地中海イタリア国境近くの保養地リヴィエラにあるコルビュジエ夫婦のわずか5坪の別荘です。1951年にコルビュジエ64歳の折、妻の誕生祝いとして即興で設計して翌年に完成させた建築物です。打ち放しのコンクリートがコルビュジエの一般的なイメージなのですが、休暇小屋はきわめて珍しい木造建築なのですね。日本でのコルビュジエ作品としては、上野の国立西洋美術館が有名です。彼が設計者に指名されたのは1955年ですから、国立西洋美術館の構想も休暇小屋で練り上げられた可能性もあります。 どんなプロジェクトだったのでしょうか。 レプリカ制作に着手したのは、2010年6月、当時神本武征学長の頃でした。学長プロジェクトとして「とにかく大学を元気にする企画」という募集があって、さっそく有志を募ってプロジェクトを立ち上げました。「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」がそれです。建設学科と製造学科(現 情報メカトロニクス学科)両方の教職員学生を巻き込み、世界的名作とされる住宅や工業製品を原寸で忠実に再現することを通して、本物のものづくりを直に体験してほしいと考えて始めました。第一弾となったのが、この小さな休暇小屋であったわけです。そのこともあって、2010年9月に急いでフランスに渡り、必要な手続きを行うことになりましたが、これがとても刺激的でした。ありがたいことに、パリのル・コルビュジエ財団からは、翌10月には無事に許諾を得ることができました。2011年2月には、カップ・マルタンに学生10名、教職員6名とともに実物を見に行きました。これは現地の実測調査も兼ねており、約2年間の卒業制作として、設計、確認申請、施工とものつくり大学の学生たちが、ネジ一個から建具金物、照明、家具に至るまで丸ごと再現しています。実際に現地で見て、自分たちの手で原寸制作する。本人たちにとって本物のすさまじさを思い知らされる体験だったはずです。繰り返しになりますが、休暇小屋は私にとって、両学科協働で制作したものですから、両学科の叡智を結集した象徴的作品といってよい。現在は遠方からも足を運んで見に来てくださる方が大勢おられます。 カップマルタン実測調査の様子 教育研究にあたって心がけていることは何でしょう。 私はオプティミスティック(楽観的)な性格だと思っています。やはり学生に対しても希望と好奇心の大切さを語りたいと常々思っています。悲観的なことを語るのは、なんとなく知的に見えるかもしれないけど、現実には何も生み出さないのですね。特に本学の学生は、テクノロジストとして、将来ものづくりのリーダーになっていくわけですから、まずは自分がそれに惚れていないと明るい未来を堂々と語れないと思う。リーダーは不退転の決意で明朗なビジョンを語れなければ、誰もついていきたいとは思わないでしょう。そのこともあって、教育や研究の中でも、いつも学生には希望と好奇心、プラス一歩前に出る勇気を伝えてきたと思います。 最後にメッセージがあればお聞かせください。 私自身は「タンジブル」なもの、いわゆる五感で見て触れることを大切にしてきました。それらは物質という形式をとっているわけですけれども、創造した人の精神や思いの結晶でもあるわけです。そうであるならば、現在のようにオンラインとかネットで見られる時代だからこそ、なおさら本物に触れてほしいと思います。本物に触れなければどうしても伝わらないものがこの世界には偏在しているから。たとえば、「世界を変えたモノに学ぶ/原寸プロジェクト実行委員会」も、実物のみが語る声に対して繊細に耳を澄ませる体験がぜひとも必要だった。だから、カップ・マルタンまで足を運んだのです。それは私が大学時代、洞窟住居を研究するために中国に留学したのと同じ動機です。まさに、ホンモノ《・・・・》というのは千里を遠しとせず足を運ばせるにふさわしい熱量を持っているものなのです。フランスに本物があればフランスに行くし、中国に本物があれば中国に行く。そんな具合に私は世界中を見て回ってきたと思います。だから、ぜひ学生諸君には本物を相手にしてほしい。本物に触れ、その熱度に打たれてほしい。そのためにはどんどん外に行ってほしいと思います。まずはコルビュジエ設計の世界遺産、国立西洋美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。上野にあるわけですから。電車に乗れば一時間程度。たいした距離ではありません。実際に行って五感をフルに働かせてほしい。頭だけで想像したのとはまったく違う質感、コルビュジエの手触り感が伝わってくるはずです。 カップ・マルタンの休暇小屋レプリカの室内 八代教授と藤原名誉教授の著書「図解 世界遺産 ル・コルビュジエの小屋ができるまで」(エクスナレッジ刊) 取材・原稿井坂 康志(いさか やすし)ものつくり大学教養教育センター教授 関連リンク ・建設学科WEBページ・建設学科 デザインプロセス研究室(八代研究室)
村上 緑さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年3月下旬、ある決意を胸に父親と共に大学の実習で使用した木材をトラックに積み込み、ものつくり大学から故郷へ出発しました。それから季節は流れて、11月末。たくさんの人に支えられて、夢を叶えました。 故郷のために 村上さんは、岩手県陸前高田市の出身。陸前高田市は、2011年3月11日に発生した東日本大震災での津波により、大きな被害を受けた地域です。全国的にも有名な「奇跡の一本松」(モニュメント)は、震災遺構のひとつです。当時住んでいた地域は、600戸のうち592戸が全半壊するという壊滅的な被害を受けました。 奇跡の一本松 11歳で震災体験をし、その後、ものつくり大学に進学し、卒業制作に選んだテーマは、故郷の地に「皆で集まれる場所」を作ること。そもそも、ものつくり大学を進学先に選んだ理由も、「何もなくなったところから道路や橋が作られ、建物ができ、人々が戻ってくる光景を目の当たりにして、ものづくりの魅力に気づき、学びたい」と考えたからでした。 震災から9年が経過した2020年、津波浸水域であった市街地は10mのかさ上げが終わり、地権者へ引き渡されました。しかし、9年の間に多くの住民が別の場所に新たな生活拠点を持ってしまったため、かさ上げ地は、今も空き地が点在しています。実家も、すでに市内の別の地域に移転していました。 そこで、幼い頃にたくさんの人と関わり、たくさんの経験をし、たくさんの思い出が作られた大好きな故郷にコミュニティを復活させるため、元々住んでいた土地に、皆が集まれる「集いの場」を作ることを決めたのです。 陸前高田にある昔ながらの家には、「おかみ(お上座敷)」と呼ばれる多目的に使える部屋がありました。大切な人をもてなすためのその部屋は、冠婚葬祭や宴会の場所として使用され、遠方から親戚や友人が来た時には宿泊場所としても使われていました。この「おかみ」を再現することができれば、多くの人が集まってくると考えたのでした。 「集いの場」建設へ 「集いの場」は、村上さんにとって、ものつくり大学で学んできたことの集大成になりました。まず、建設に必要な確認申請は、今井教授や小野教授、内定先の設計事務所の方々などの力を借りながらも、全て自分で行いました。建設に使用する木材は、SDGsを考え、実習で毎年出てしまう使用済みの木材を構造材の一部に使ったほか、屋内の小物などに形を変え、資源を有効活用しています。 帰郷してから、工事に協力してくれる工務店を自分で探しました。古くから地元にあり、震災直後は瓦礫の撤去などに尽力していた工務店が快く協力してくれることになり、同級生の鈴木 岳大さん、高橋 光さん(2人とも建設学科4年・小野研究室)と一緒にインターンシップ生という形で、基礎のコンクリ打ちや建方《たてかた》に加わりました。 地鎮祭は、震災前に住んでいた地元の神社にお願いし、境内の竹を四方竹に使いました。また、地鎮祭には、大学から今井教授と小野教授の他に、内定先でもあり、構造計算の相談をしていた設計事務所の方も埼玉から駆けつけてくれました。 基礎工事が終わってからの建方工事は「あっという間」でした。建方は力仕事も多く、女性には重労働でしたが、一緒にインターンシップに行った鈴木さんと高橋さんが率先して動いてくれました。さらに、ものつくり大学で非常勤講師をしていた親戚の村上幸一さんも、当時使っていた大学のロゴが入ったヘルメットを被り、喜んで工事を手伝ってくれました。 建方工事の様子 大学のヘルメットで現場に立つ村上幸一さん 2022年6月には、たくさんの地元の人たちが集まる中で上棟式が行われました。最近は略式で行われることが多い上棟式ですが、伝統的な上棟式では鶴と亀が描かれた矢羽根を表鬼門(北東)と裏鬼門(南西)に配して氏神様を鎮めます。その絵は自身が描いたものです。また、矢羽根を結ぶ帯には、村上家の三姉妹が成人式で締めた着物の帯が使われました。上棟式で使われた竹は、思い出の品として、完成後も土間の仕切り兼インテリアとなり再利用されています。 震災後に自宅を再建した時はまだ自粛ムードがあり、上棟式をすることはできませんでした。しかし、「集いの場」は地元の活性化のために建てるのだから、「地元の人たちにも来てほしい」という思いから、今では珍しい昔ながらの上棟式を行いました。災いをはらうために行われる餅まきも自ら行い、そこには、子どもたちが喜んで掴もうと手を伸ばす姿がありました。 村上さんが描いた矢羽根 餅まきの様子 インテリアとして再利用した竹材 敷地内には、東屋も建っています。これは、自身が3年生の時に木造実習で制作したものを移築しています。この東屋は、地元の人たちが自由に休憩できるように敷地ギリギリの場所に配置されています。完成した今は、絵本『泣いた赤鬼』の一節「心の優しい鬼のうちです どなたでもおいでください…」を引用した看板が立てられています。 誰でも自由に休憩できる東屋 屋根、外壁、床工事も終わった11月末には、1年生から4年生まで総勢20名を超える学生たちが陸前高田に行き、4日間にわたって仕上の内装工事を行いました。天井や壁を珪藻土で塗り、居間・土間のトイレ・洗面所の3か所の建具は、技能五輪全国大会の家具職種に出場経験のある三明 杏さん(建設学科4年・佐々木研究室)が制作しました。 「皆には感謝です。それと、ものを作るのが好きだけど、何をしたらいいか分からない後輩たちには、ものづくりの場を提供できたことが嬉しい」と話します。そして、学生同士の縁だけではなく、和室には震災前の自宅で使っていた畳店に発注した畳を使い、地元とのつながりも深めています。 こうして、村上さんの夢だった建坪 約24坪の「集いの場」が完成しました。 故郷への思い 建設中は、施主であり施工業者でもあったので、全てを一人で背負い込んでしまい、責任感からプレッシャーに押しつぶされそうになった時もありました。それでも、たくさんの人の力を借りて、「集いの場」を完成させました。2年生の頃から図面を描き、構想していた「地元の人の役に立つ、家族のために形になるものを作る」という夢を叶えることができたのです。また、「集いの場」の建設は、「父の夢でもありました。震災で更地になった今泉に戻る」という強い思いがありました。「大好きな故郷のために、大好きな大学で学んだことを活かして、ものづくりが大好きな仲間と共に協力しあって『集いの場』を完成させることができ、本当に嬉しいです」。 「こんなにたくさんの人が協力してくれるとは思っていなかった」と言う村上さんの献身的で真っすぐで、そして情熱的な夢に触れた時、誰もが協力したくなるのは間違いないところです。 「大学から『集いの場』でゼミ合宿などを開きたいという要請には応えたいし、私自身が出張オープンキャンパスを開くことだってできます」と今後の活用についても夢は広がります。 大学を出発する前にこう言っていました。「私にとって、故郷はとても大切な場所で、多くの人が行きかう町並みや空気感、景色、におい、色すべてが大好きでした。今でもよく思い出しますし、これからも心の中で生き続けます。だけど、震災前の風景を知らない、覚えていない子どもたちが増えています。その子どもたちにとっての故郷が『自分にとって大切な町』になるように願っています」。 村上さんが作った「集いの場」は、これからきっと、地域のコミュニティに必要不可欠な場所となり、次世代へとつながる場になっていくでしょう。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室)
「久保君、これからの建築物はデザインや構造だけではなく、省エネルギーを考えなければ建設することができなくなる時代がやってくるよ」――これは筆者が大学3年生の時に、後に師匠となる元明治大学建築学科 加治屋亮一教授が述べられた言葉です。 当時の私は、エネルギーって何だろう、というくらいの認識でピンと来ていませんでしたが、現に、令和4年6月17日に公布された建築物省エネ法改正では、これから建築しようとする建築物には、エネルギー消費性能の一層の向上を図ることが建築主に求められています。 つまり加治屋教授が20数年前に述べられていたことが現実になったわけです。改正建築物省エネ法は省エネルギーを意識した設計を今後、必ず行っていく必要があることを意味しており、換言すれば、現代では省エネルギー建築は当たり前となる時代になったといえます。 一方で、2019年4月に施行された働き方改革関連法案は、一億総活躍社会を実現するための改革であり、労働力不足解消のために、①非正規社員と正社員との格差是正、②高齢者の積極的な就労促進、そして、③ワーカーの長時間労働の解消を課題として挙げられています。このうち、3つ目のワーカーの長時間労働の解消は、単に長時間労働を減らすだけではなく、ワーカーの労働生産性を高めて効率良く働くことを意味しています。 私は10年ほど前からワーカーの生産性を高めるオフィス空間に関する研究を行ってきました。ワーカーが働きやすい空間というのは、例えばワーカー同士が気軽に利用できるリフレッシュコーナーの充実や、快適なトイレの充足や機能性の充実、食事のための快適な空間の提供が挙げられます。さらに、建物内や敷地内にワーカーの運動促進・支援機能(オフィス内や敷地内にスポーツ施設がある、運動後のシャワールームの充実、等)を有することで、ワーカーの健康性を維持、向上させることが期待できます。 近年建築されるオフィスは、省エネルギーやレジリエンスは「当たり前性能」であり、ワーカーの生産性を高めるための多くの施設や設備が導入されています。いうまでもなく、建物のオーナーは所有するテナントビルで高い家賃収入を得ることを考えます。そのためには、テナントに入居するワーカーの充実度を高める必要があります。 現在私は建築設備業界や不動産業界と連携して、環境不動産(環境を考慮した不動産)の経済的便益について研究を行っています。250件を超えるオフィスビルを対象に、そのオフィスの環境性能を点数付し、その点数と建物の価値に影響を及ぼすと考えられる不動産賃料の関係について分析しています。最新の研究では、建物の環境性能が高いほど、不動産賃料が高いことを明らかにしました。これはつまり、ワーカーサイドは健康性や快適性が高まったことで労働生産性が向上し、オーナーサイドは高い不動産賃料が得られることとなり、両サイドともに好循環が生まれることになります。 加治屋教授の発言から四半世紀過ぎた今、私は研究室の学生には、「今後は、省エネルギーはもとより、ワーカーのウェルネスが求められる時代となっていく」と伝えています。 埼玉新聞「ものつくり大学発 知・技の創造」(2023年1月13日号)掲載 Profile 久保 隆太郎 (くぼ りゅうたろう)建設学科 准教授・博士(工学) 明治大学大学院博士後期課程修了。日建設計総合研究所 主任研究員を経て、2018年より現職。専門は建築設備、エネルギーマネジメント。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 建築環境設備研究室(久保研究室)
篠原 菜々美さん(建設学科1年生)は高校時代にマーチングバンド部に所属していました。母校である京華女子高校(東京)は全国大会の常連校であり、6年連続で金賞を受賞したこともある強豪校です。マーチングバンドと出会い、そしてものつくり大学に進学を決めた彼女の思い描く将来像に触れてみました。 マーチングバンドとの出会い 従妹たちがマーチングバンドの教室に通っていたのですが、私の地元にはなく、小学校では吹奏楽をやっていました。従妹が通っていた京華女子高校の文化祭に行った際、マーチングバンド部と出会い、パフォーマンスがとてもキラキラしていて、すごい!やってみたい!という気持ちが強くなりました。京華女子高校へ進学し、最初こそ吹奏楽部に入ろうと思っていましたが、マーチングバンド部へ入部しました。 自信がなかった私が、積極的になれたきっかけ 管楽器には4つのパートがあり、私は高校2年生の時に、メロフォンというトランペットの次に大きい楽器のパートリーダーになりました。実は、人前で話すことが苦手だったため、パートリーダーも自分から立候補したわけではありません。 元々メロフォンの演奏者は少なく、たった一人の先輩が受験勉強を理由に退部されたことや、同学年の部員が一人もいなかったことから、自動的にパートリーダーになりました。中高一貫校でしたので、一番下の学年は中学1年生。自分がしっかりしなくてはいけないという思いから、少しずつですが積極的に人前で話せるようになっていきました。高校からメロフォンを始めた私が、パートリーダーとして3年間続けられたのは、沢山支えてくれた先輩方や同級生のおかげだと思っています。 大会当日、朝練習の様子 そのパートリーダーで培われた積極性は、大学での学びを果敢に取り組むことに繋がっていると思います。授業で分からないところがあると、先生やTAの先輩方へ率先して質問できるようになりました。厳しい練習を乗り越えてきた分、忍耐強さも人一倍あり、高校時代に身に付けた力がいま活きています。 大会ではすべての出場校にそれぞれ金賞・銀賞・銅賞の評価がつけられますが、その上の小編成出場団体のなかでの金賞を目指して毎年出場しています。しかし、私たちの代は個人の成績で惜しくも銀賞だったのです。個人成績では6年連続で金賞を受賞していましたが、伝統を途切れさせてしまいました。とても悔しかったですが、後輩に思いを託し、今年の大会では見事に個人で金賞に返り咲きました。ただ、小編成出場団体の中での金賞はまだ一度も受賞できていないため、今後も後輩のためにより一層のサポートをしていきたいと思っています。 京華女子高校のマーチングバンド部 学んだことを活かした将来の夢 また、母校には出来る限りの恩返しをしたいと思っています。例えば、部活で演奏をする際は小道具を多く使用します。これまでは卒業生の保護者の方が協力して製作してくださいましたが、私が大学で様々な技術を学ぶことで、もっとハイクオリティな小道具を作りたいです。さらに、母校は都会の街中にあるため、体育館と呼べる建物がありません。騒音防止のため窓を閉めた状態で練習を行い、外練習も週に1回しかできませんでした。コロナ禍で全体練習も少なくなってしまったので、思う存分練習ができるような施設を作れる建築士になれたらなと考えています。 文系出身でも楽しめる学び 子どもの頃、建築士だった友人のお父さんから仕事の様子や模型などを見せてもらったり、両親には珍しい建物や美術館などに連れて行ってもらいました。建設に関する興味はずっとあり、将来はものづくりに携わる仕事をしてみたいとぼんやり思い浮かべていましたが、部活動は3年生の3月まであるので、推薦入試やAO入試で受験をすることが必須で、文系科目を中心に学んでいた私は、工業系大学に進学することに不安がありました。ですが、大学のオープンキャンパスや女子高校生のための実習体験授業に参加し、普通科の学生が多く入学していることや、実際に体を動かすことの楽しさから、必死に頑張れば文系でも追いつけるかもしれないと決意を固め、入学しました。 入学して思ったこと…そして決意 実際に授業を受けて感じたことですが、理論的なことを学びながら実習では実寸大の物を作れる。そんな大学は他にないと思うので、ものつくり大学の名前はもっと広まっても良いと思います。将来的にはみんなが当たり前に名前を知っている大学になってほしいです。私のような文系で全く違うことに取り組んできた人でも、一緒に頑張る友達や、優しく教えてくださる先生や先輩方が沢山います。まだ1年生なので、様々なことに好奇心を持ってこれからも勉強していきたいです! 関連リンク 建設学科WEBページ オープンキャンパスページ GRIRLS NOTE WEBページ
ものつくり大学が2010年度から主催している「高校生建設設計競技」の2022年度の課題は「これからのモバイルハウス」です。「モバイルハウス」は、新型コロナウイルスがまん延し、人々の行動が制限されてしまった昨今、3密を避けられることからブームになったアウトドアと共に注目されている、「自由に移動できる家」です。設計ではなく、実際に軽トラックの荷台に居住空間を載せて作ったモバイルハウスで、日本一周に挑戦した学生がいます。渡邊 大也さん(建設学科4年・今井研究室)は、2022年の7月に盛暑の東日本を縦断。その後、9月から10月にかけて西日本を横断しました。渡邊さんは、どうしてモバイルハウスを作ったのか、なぜ日本一周の旅に出たのか、その理由に迫ります。 モバイルハウスを作ったきっかけ 運転免許取得時に、祖父から譲り受けた20年ものの軽トラックの荷台を何かに活かしたかったのが、そもそもの始まりです。最初は、大好きなヒマワリを皆に見てもらうために荷台で育てていましたが、大学1年の2月頃から新型コロナウイルスが拡大し始め、2年生の最初の頃は全ての授業がオンライン授業になりました。そこで、「オンラインならば全国を旅しながらでも授業を受けられるんじゃないか」と思い立ち、モバイルハウスの制作が始まりました。 子供の頃から旅行やキャンプが大好きで、高校生の時に、小口良平さんの「スマイル!笑顔と出会った自転車地球一周157カ国、155,502㎞」という本を読んでから、バックパッカーになるという夢を持っていました。そして、モバイルハウスを作った理由としてもう一つ、「元々、ものを作るのは好きだったけど、大きなものを完成させたことが無かったので、10代最後の挑戦にしたい」という思いがありました。 大学2年の夏からモバイルハウスの制作が始まりました。最初の頃は夢が膨らみすぎて、天井部分に芝生を植える等、完成した今となっては非現実的なアイデアもあり、納得のいくモバイルハウスが完成した時には大学4年生になっていました。 モバイルハウスの図面 制作中のモバイルハウス モバイルハウスのこだわり モバイルハウスは「海と船」をモチーフにして作られています。山梨出身で大学は埼玉。身近に海がない環境で育ったため、海に憧れを抱いていました。 モバイルハウスの助手席側の窓は、実際に船舶に使われている丸窓が入り、運転席側の窓は、旅先で海を眺めることを想定して、白く大きな窓を採用しています。また、屋根の部分は波をモチーフにして木材を加工しています。 制作にあたっては、大学の授業を応用して一人で制作を進めました。作り始めた頃は、モバイルハウスを作って旅に出ようとしている事を友人に話しても、皆から笑われたり、「やめときなよ」を言われました。しかし、完成が近くなってきて、本気さが伝わると、友人たちが最後の仕上げを手伝ってくれました。 旅での経験 完成したモバイルハウスで、いよいよ日本一周の旅に出発します。東日本に1か月、西日本に1か月半ほどの旅でしたが、どこに行くのか事前に計画は立てず、行先を決めるのは前日の夜。 世界遺産検定3級を持っていて、今回の旅には国内の世界遺産を巡るという目的がありました。日本を一周する中で、日本にある25件の世界遺産のうち10件を訪ねました。これで、未訪問の世界遺産は残り4つです。 大浦天主堂(長崎県) 白川郷(岐阜県) 他にも、旅にノルマ的なものを課していて、「建築・グルメ・文化」のうち、2つを堪能したと思えたら、次の場所に移るというものでした。 今回の旅で思い出に残っている場所は、モバイルハウスを作ったら絶対に行きたいと思っていた石川県の千里浜です。千里浜なぎさドライブウェイは、日本で唯一、一般の自動車やバイクでも砂浜の波打ち際を走れる道路です。海に憧れ、「海と船」をモチーフにしたモバイルハウスを作ったからには、是非とも写真に納めたい場所でした。ちなみに、石川県では、近江町市場の海鮮料理やターバンカレーを堪能して、兼六園や金沢21世紀美術館を訪ねました。 他にも、鹿児島県の桜島も印象に残る旅先でした。山梨で育ったため、山は見慣れていますが、山の形がまるで違っていて、ちょうど噴火していた桜島の雄大さが心に残っています。 旅の最中には、様々な人と出会い、繋がりもできました。特に、広島を旅していた時には、モバイルハウスを作りたいと考えている長崎から来た人に話しかけられ、ちょうど卒業研究用に作っていた資料を渡したことから意気投合しました。「今度、長崎に来る時は案内するよ」と言われたことで、実際に訪ねてみました。 また、千葉を旅している時は、所属する研究室の今井教授から「私の実家に行っていいよ」と連絡があり、実際にお風呂を借り、ご飯をごちそうになりました。 鳥取で台風に遭った時は、体育館に開設された避難所に行きました。避難しているのは一人だけでした。1か月という長い間、1.3畳ほどのモバイルハウスで生活していたため、広い体育館で一人になり、不意に寂しさを覚えました。寝れずにいたら、避難所の管理人の方が話しかけてきてくれて、夜遅くまで旅の話を聞いてくれました。 モバイルハウスの後方に「日本一周」と看板を掲げていたので、行く先々で話しかけてもらいました。長野の道の駅で同じように旅をしている方から素麺をごちそうになったり、途中で寄ったコンビニのオーナーから差し入れをいただいたりした事もあります。追い越していったバイクの方に手を振られる等、人の優しさに触れることができた旅でした。 モバイルハウス後方 長野でいただいた素麺 トラブルも数多くありました。一人旅だから何かあっても、自分で何とかするしかありません。佐賀の山を走っていた時に、エンジンオイルランプが点灯した上にガス欠になりかけていたところ、更にぬかるみでスタックした時は、山中に一人の状況に絶望して思わず叫びそうになりました(笑)。事前に、自動車部の友人から、オイルの入れ方やスタックした時の対処法を教えてもらっていたので何とかなりましたが、本当に怖かったです。 これからのモバイルハウス いつかモバイルハウスで海外に行き、高校生の時に留学していたアメリカのテネシー州まで旅をして、ホストファミリーを驚かせるという野望を持っています。 モバイルハウスで旅をする中で、「モバイルハウスがあれば家はいらない」と考えるようになりました。先日、モバイルハウスを所有している人たちの集まりがありました。夫婦二人と犬一匹でモバイルハウスに暮らしている方と出会い、モバイルハウスの可能性を感じました。軽トラックだと居住空間は狭いですが、1トントラックや2トントラックの荷台であれば、居住空間も広くすることができます。 実は、旅が終わった今も、ほとんどアパートで寝ることはなく、最後にアパートで寝たのはいつか分からないくらい、モバイルハウスか研究室に寝泊まりする日々が続いています。 日本ではモバイルハウスはかなり珍しい車ですが、車幅以内、高さ2.5m以内、350㎏以内であれば、自分の好きなように作れます。荷台に居住空間を荷物として載せているだけなので、特に手続きも必要ありません。制約があるからこそ、作っていて面白いと感じていて、モバイルハウスをもっと広めたいと考えています。 旅とは「生きがい」です。小さい頃から安定が好きではなく、刺激を求めていて、何をしても結局、旅に繋がります。就職先は、全国に支店がある内装工事の会社から内定をもらいましたが、転勤についても全国色々なところで建築に関われるので、今から楽しみです。 関連リンク 第12回ものつくり大学高校生建設設計競技 建設学科 建築技術デザイン研究室(今井研究室) 建設学科WEBページ
「装飾」から考える「花飾建築」とは 「装飾」とは、飾ること。美しく装うこと。また、その装い・飾り。「愛着」とはなれ親しんだものに深く心が引かれること。を意味します。 私事になりますが、現在、行田市内花き農家応援花いっぱい運動に取り組んでいます。ヴェールカフェ(旧忍町信用組合)や忍城を装飾する「花飾《かしょく》建築」と題した花台を制作しました。そのため、装飾について考えることがしばしばありました。9月に亡くなられた英エリザベス女王が、生前使用していた装飾品に大英帝国王冠があります。この王冠は、女王が戴冠式から着用されていたもので、ジョージ6世から譲り受け女王のために再デザインされたものです。国葬の際、女王の棺の上に、宝石の散りばめられた王冠が飾られていたのがとても印象的でした。 ファッションも建築も装飾されることで注目される 私が専門とする建築の分野では、「建築装飾」という言葉が使われます。鬼瓦や風見鶏のような厄除け魔除けのために取り付けられたり、欄間や襖のようにインテリアとして設えたり、構造体や間取りなど実用的機能に関係しない建築表現を指します。また、建築物を飾りつけるものとしては、ハロウィンやクリスマスのイルミネーション、お正月に飾るしめ縄や門松などがあります。東京タワーを事例に挙げてみると、建設当初、しばしば4本の稜線を電球で点灯。1964年のオリンピック以降、毎日点灯、都市の高層化により目立たなくなる。1989年、石井幹子氏による季節感を取り入れたライトアップの開始。2013年、増上寺のプロジェクションマッピングの背景に活用される。このように東京タワーは、電気によって装飾されることで、ときには都市の主役のように、ときには脇役のように捉えられてきました。装飾は、その季節や時代のトレンドを取り入れつつ、伝統を重んじながら発展してきました。ファッションも建築も装飾されることで注目されます。そして、その装飾された人、建物、街への愛着へと結びつきます。私の研究室で制作した「花飾建築」も旧忍町信用組合や忍城、そして行田市への愛着に繋がればいいなと思います。 埼玉新聞「ものつくり大学発 知・技の創造」(2022年11月4日号)掲載 Profile 大竹 由夏 (おおたけ ゆか)建設学科講師筑波大学博士後期課程修了。博士(デザイン学)。一級建築士。筑波大学博士特別研究員を経て現職。 関連リンク 行田市花いっぱい運動 地域との交流を通じて得た学び 建設学科 デザイン・空間表現研究室(大竹研究室) 建設学科WEBページ
林業の機械化が進んだことで、素材生産や森林調査等で女性が活躍する場が増えています。とはいえ、まだまだ3K(きつい、汚い、危険)のイメージは拭えません。その林業の現場に大きな夢を抱いて挑戦する女子学生がいます。 例えば、京都を代表する銘木「北山杉」。古くから北山林業では女性は重要な役割を担っていました。枝打ちや伐採は男性の仕事ですが、加工作業や運搬、苗木の植え付けは主に女性の仕事でした。では、現代の林業女子には仕事はないのでしょうか。近年は機械化が進むことで伐採等の林業現場へも女性が進出することが期待されています。その林業に挑戦する浅野 零さん(建設学科4年)。153㎝の華奢なカラダからは想像できないバイタリティーの源はなにか、感動のインタビューです。 浅野さんのチャレンジ魂を育てたものは何ですか 高校までものづくりとは縁がなかったです。茨城県の生まれですが、小学校4年から中学卒業まで長野県にある人口850人程の村へ山村留学していました。高校は山口県でした。田舎が好きで、今度は瀬戸内海の島でした。山から海へ、です。高校時代は、アーチェリー部に所属していました。強化指定を受けていたことで、3年生では選手として全国大会へ出場しています。強いてものづくりと縁があるなら、山村留学時に仲間と小屋を作ったことでしょうか。その楽しかった思い出は心のどこかにずっとあって、このエピソードはものつくり大学へ進学する時に大学の方にお話しました。大学からすると、私の志望動機が不思議に思えたようでした。 そもそも母の影響というか、子育て方針というか、兄も同じ村に先に山村留学していて、後にカナダへ海外留学をしました。私は茨城→長野→山口→埼玉と国内を巡っていますが、この度、就職で長野へ戻ります。それも山村留学でお世話になった同じ村に戻ります。何でしょうね、Uターンでもなく、Iターンでもなくて。 大学での4年間もパワフルだったのではないですか もちろん普通高校卒なので、ものづくりを学んだのは入学してからです。木に触れることは好きだったので、最初は木工家具の製作に憧れました。角材を加工する授業は楽しかったけれど、そのうち角材になる前の木自体に興味が湧いてきて、林業を意識するようになりました。 1年の秋に「林業体験」のイベントを探して個人で参加しました。木を切って、加工して、その凄さに憧れました。女性も参加しやすいイベントで、参加したのは大方女性でした。人生で初めてチェンソーを使って、木を切りました。そして、垂直に立てた木の幹に切り込みを入れて燃やし、手軽に焚き火が楽しめるスウェーデントーチでの料理を楽しみました。 これをきっかけに林業界への憧れが強くなり、将来仕事として就きたいと思うようになりました。2年次に実施される大学のインターンシップは、長野県飯山市のNPO法人で木材加工に従事しました。3年次では、進路を林業一本に絞ったため、個人的に様々な企業や現場を見学に行きました。そういう意味では決断も早く、行動力もありましたね。いま思えば大学の授業との両立もうまく対処していたように思います。 自らの進むべき道を見つけるまでに、どんな出会いがありましたか 大学では就活を意識した活動と共に、1年次で建築大工3級、2年次で左官2級、造園3級、3年次で造園2級と、とにかく木に関わる資格を取得していきました。生活全てを木に関わっていきたい思いが強かったです。 実は、高校時代に生活していた山口県の林業会社の方に「この世界、女性ではたいへんだけれど、男性とは違う視点で活躍している方がたくさんいるよ」と言われました。その林業会社の方にはオンラインで頻繁に相談に乗っていただきました。「山口においでよ」と何度もお誘いをいただきました。正直、山口へ移住しようという気持ちにもなりました。同時に長野とも連絡を取っていて、情報収集に努めていました。 林業は、国の重要な施策なので、どちらかと言えば昔ながらの堅苦しいイメージを持っていました。でも、民間の小さな林業会社では、自分の技術やスキルがついたらやりたいことをやらせてもらえるような新しい考え方も生まれてきていることを知りました。長野で林業を起業された社長さんと話していると、ぐいぐい引き込まれていきました。その将来を見据えた魅力たっぷりの内容に感激しました。 そして最終的に長野へ就職を決めたのですか もちろん企業方針を何度も聞いて、性格的に合っているなと思いましたし、私が内定をいただいた会社がある村は、小学生の山村留学でお世話になったところでした。この村は私にとって特別です。住むことができる、仕事をすることができるなら恩返しの気持ちを持って戻りたいと強く思いました。会社も林業としては2021年に法人化されたばかり。不思議な縁を感じて、お世話になった村へ帰ろうと思いました。 林業女子としての不安や期待はありますか 林業は3Kと言われます。きつい、汚い、危険ですね。それに林業の現場に出る女性としての問題は、まずトイレ。いまは自然保護の観点から、以前のような現地で処理するようなことは減ってきています。トイレの設置や、山を下って用を足すこともできます。それから力の強さですね。女性ですので、体力は男性と比べて見劣りします。でも機械化も進み、力の問題も徐々に解決してくれそうです。緑の雇用制度で3年間鍛えることができるので、いまはそれが楽しみでなりません。都会にある林業会社では、近年「かっこいい林業」をスローガンにして新しい「K」が生まれています。期待ということでは、いずれキャンプ場を作るという会社の重点方針があります。いまは力不足ですが、ぜひチャレンジしたいです。 林業を通して、森林と地域との新たな価値を創造する繋ぎになるということですね 日本は平野の少ない森林大国です。木があれば、火を起こせる。火を起こしたら、ごはんも炊ける、お風呂も沸かせる。家も建てられるし、生きていく上でのあらゆる繋がりがあります。花粉問題だって、木を切る人がいれば、むしろ空気の循環を良くしてくれる。林業は大切なんですよね。人間の生活の基盤になっていると思っています。 ですから林業を通して、そこに生活する方たちのほのぼのとした幸福感や満足感を充足したいですし、村おこしといった地域の活性化にも非常に興味があります。 大学では様々な検定試験に挑戦しましたが、授業では学べないところまで教えてもらいました。先生方の技術が素晴らしいので、安心して学べます。私はこうした知識や技能・技術は、いずれどこかの場面で役立つと思っています。自分と仕事、自分と社会を繋ぐ力です。その力がないと新たな価値の創造なんてできないです。 視野が広がり、自分の進むべき道を見つけた大学での4年間。いまは卒業制作に仲間と懸命に取り組んでいます。一般家庭のエントランスと庭づくりです。次のステップへ進むために!!! 関連リンク 建設学科WEBページ
建設学科 大垣研究室は、「Japan Steel Bridge Competition(通称:ブリコン)」に毎年出場しています。ブリコンとは、学生が自ら橋の構造を考え、設計、製作(鋼材の切断、溶接、孔開け、塗装)、架設を行い、全国の大学生および高専生の間で競い合う大会です。大会当日は、架設競技、プレゼン競技、載荷競技、美観投票を行います。2022年9月に開催された大会では、大垣研究室から2チームが出場し、Aチームが美観部門1位、Bチームが美観部門2位という成績を収めました。美観部門で1位を受賞したAチームで、プレゼン競技を担当した後藤 七海さん(建設学科4年)、製作を担当した杉本 陸さん(建設学科4年)に伺いました。 どんな橋を目指して作ったか 【後藤】美観と構造を意識しました。美観を重視するためにレンズ型トラス橋を選択しました。構造は、曲線と直線を組み合わせています。昨年のブリコンでは、曲線部分の継手に時間がかかってしまったため、今回は3種類の継手を取り入れ、継手箇所を工夫して架設も意識しました。 製作したレンズ型トラス橋の設計図 プレートで挟むタイプの継手 差し込むタイプの継手 かみ合わせるタイプの継手 美観部門1位に選ばれた理由は 【杉本】シンプルに形だと思います。他のチームも凝った形をした橋はありましたが、鉄骨を1番曲げていたのは私たちでした。私は高校の3年間、溶接と鉄を加工した経験がありますが、真っ直ぐな鉄骨を700℃~800℃くらいの熱で少しずつ曲げるため、ものすごく時間がかかりましたし、難しかったです。加工は、ほぼ一人で作業しました。材料から切り出すのが2~3日、曲げ加工に1週間、溶接に1週間、塗装に3~4日かけて、全体で2週間半かかりました。お昼の12時に大学に来て作業をして、大学から帰るのは夜中の3時とか、1日10時間以上かけて曲げました。本来であれば、2か月かかるような作業を突貫で仕上げました。それでも、大会前夜まで溶接をしていました。 【後藤】部材を決められた箱の中に納めないといけないのですが、設計に甘いところがあって納まりきらなかったため、一度加工したものを削り直し、歪んでしまった部材を大会前夜まで直していました。ビードをあんなに削ったのは初めてだっていうくらい削りました。今年は、アーチ橋を作っている大学が少なかったです。私たち以外にもアーチ橋を作っている大学はありましたが、継手の部分が多くてカクカクしていました。直線を重ねたアーチよりも、鉄骨を曲げてアーチを作った方が綺麗に見えます。 【杉本】他には、塗装も評価されたと思います。私たちの橋は、スクールカラーの茜色をベースにしたキャンディレッドにしましたが、通常、1層から3層くらいで塗装を終わりにするところ、私たちは13層塗りました。シルバーを5~6層、レッドを3~4層、クリアを4層と重ねて塗っていて、車の塗装の層数より多いです。時間をかけた分、仕上りも綺麗になりました。アーチが綺麗でも、塗装が汚かったら、1位を取れていたか分からないです。 今回以上に美観の良い橋は作れるか 【杉本】情報メカトロニクス学科と一緒に製作すればできると思います。建設学科の設備だけでは加工の機械が足りていません。情報メカトロニクス学科には、使いたいと思う設備が全部揃っています。一緒に製作できれば、企業に依頼したのではないかというくらいケタ違いの橋ができると思います。学内に機械は揃っているので、後は使いこなす知識が必要です。 【後藤】ものつくり大学の設備はピカイチだと思います。知識についても、私たちは様々な実習を経験しているから身に付いていると思います。私たちは全員、溶接の資格を持っていますが、他のチームは、溶接担当の人しか持っていないチームもあります。 【杉本】橋の形としては、今回以上のものは作れないと感じます。総合優勝を目指すのであれば、鉄骨を変えて耐力を上げる必要があります。ブリコンで使う材料は「鋼材」とだけ決まっています。鋼材と一言でいっても色々な物がありますから、今使っている鋼材よりも硬い鋼材を使えば総合優勝を狙えるかもしれません。ただ、今より費用がかかり、溶接も加工も大変になるという問題があります。 【後藤】他には、橋を車上橋にすることも考えられます。吊り橋にしてワイヤーを上手く使った形ができたら、今回の橋より格好良い橋ができると思います。ただ、架設にかかる時間と耐力を考えると、今回の橋の形のバランスがベストだと思います。 プレゼン競技で伝えたかったことは 【後藤】大学の実習でも、要点をまとめて施工フローを作っているのですが、それと同じ感覚でプレゼン資料を作りました。文章は少なくして、写真と言葉で伝えることを心がけました。1番伝えたかったのは製作過程です。杉本さんが頑張ってくれた分、うまく伝えたいと思っていました。製作風景の写真を説明していた時に、審査員の方に「企業に依頼したのですか?」と聞かれましたが、杉本さんの作業している写真が学生の作業風景に見えなかったみたいです(笑)。 昨年の大会から成長していたことは 【後藤】チームメンバーとは、1年間一緒に研究をしてきたから、コミュニケーションが上がっています。誰が何をできるのか分かっているため、仕事も振りやすかったです。加工ができるからとか、去年もプレゼンやったからとか、架設のリーダーはまとめる力があるメンバーにやってもらうとか。1年で人となりを知れて、それぞれの得意分野を知れたから仕事を任せることができるようになりました。 総合優勝するために必要なこと 【杉本】自分たちだけで処理しないで、大学全体を巻き込んで作れると良いと思います。今のままでは、加工の知識や技術があっても、他で負けている部分があります。例えば、美観の面では、他のチームにはカラーコーディネーターの資格を持っている人や、デザインのセンスがある人がいます。でも、私たちの橋は、デザインはあまり凝っている方ではありません。そこで、デザインに強い人がいたら、その人のデザインを基に、「じゃあ、こうしたら耐久性も上がるよ」ということができます。また、チームの人員に限りがあり、製作に時間をかける分、設計と解析にかけられる時間が少ない現状があります。 【後藤】他には、アーチ橋ではなく、早く架設できる橋にすることや、知識を深めて解析をしっかり行い、強い構造の橋にすることも考えられます。解析の知識があれば、色々な形をどんどん解析にかけて強い形を検討することができます。今は知識が無いから、解析通りの結果が出ずに、橋が想定以上にたわんでしまっています。 橋梁の魅力は 【杉本】橋は人の目に付くところが魅力です。ビル等の建築物だと自分が製作した鉄骨が隠れてしまいますが、橋なら完成した後も鉄骨が見えます。橋は人が通る所に作りますし、運送がロボットに変わって自動になっても橋が無くなることはありません。 【後藤】単純に橋は格好良いと思っています。そして、橋は人の生活を良くするためにあり、人が住んでいる限り無くなりません。住宅は古くなると壊してしまいますが、橋は補修されてずっと残ります。それに、橋には色々な形があって、変わった形の橋を作ることができるのも魅力です。 ブリコンの経験は今後に活かせるか 【後藤】ブリコンを通じて、色々な形の橋を知りました。私は橋梁関係の企業で施工管理に就くため、工程についても、誰に仕事を振って、次の作業は何か、工程はどの程度あるか、安全やKY(危険予知)等も心がけるようになりました。ブリコンで、設計の知識も製作の知識も身に付き、それぞれの工程についても知ることができました。 【杉本】後藤さんと同じく、設計と製作などの他の工程を担当している人とのコミュニケーションの取り方が身に付いたと思います。他には、今回の製作では工程計画も無く、自分の限界までやってしまったから、しっかり工程計画を作れるようになったら、工程を管理できたかなと思います。 関連リンク 建設学科WEBページ 建設学科 橋梁・構造研究室(大垣研究室)