【埼玉学⑯】幸手・権現堂堤--桜の津波と昔日の記憶

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Introduction

埼玉学とは、埼玉県の歴史・文化・産業・地理など、埼玉県に関するあらゆる分野を総合的に研究・探究する学問です。教養教育センターの井坂康志教授が新しい研究テーマとして連載しています。

埼玉学第16回は、桜の季節に幸手市の権現堂堤を訪れた井坂教授が、幸手劇場の思い出から高校生の時に聴いたポール・サイモンへと思案を深めていきます。

境界のモザイクと「沼」の正体

埼玉県の北東端に位置する幸手という街の歴史は、一般の認識をはるかに超えて古い。

鎌倉時代から室町時代にかけてすでに記録にその名が散見され、江戸時代には日光街道および奥州街道の第六の宿場町として、関東平野における交通と物流の重要な結節点であった。 この土地の地勢的特異性は、そのとんでもなく入り組んだ境界線にある。市内を東へ向かい、河川を越えれば茨城県五霞町、さらに南東へ目を向ければ旧関宿町(現在の千葉県野田市)へと接続する。埼玉、茨城、千葉という三つの県が、過去の大河の流路の痕跡を縫うようにして、複雑なモザイク状の境界を形成している。

幸手の地勢を決定づけているのが、中川の起点として位置づけられる権現堂川である。現在のその姿を観察すれば、流動性を失った「長い沼」と形容して差し支えない。しかし、この権現堂川は江戸時代の「利根川東遷事業」以前には、関東平野を蹂躙する利根川の本流そのものであった。昭和初期(1928年)の治水工事によって上流部が完全に堰き止められ、かつての大河は行き場を失い、行幸湖(みゆきこ)という名の調節池へと姿を変えた。

幸手市の権現堂桜堤。かつて利根川の本流であった権現堂川の痕跡に沿って、約1000本のソメイヨシノが並ぶ。

人為の絶景――菜の花と、桜の津波

この恐るべき水害の歴史と対峙するために天正年間(1570年代)に築かれた権現堂堤は、幾世代にもわたる人為と執念の結晶である

大正期に植樹された桜は太平洋戦争末期に伐採されたが、戦後の1949年、荒廃した風景を復興させるべく再び苗木が植えられた。後年、斜面には菜の花が植栽され、現在の景観が完成した。 春の権現堂堤を歩くとき、視界を覆い尽くす1000本のソメイヨシノは、風に煽られ、圧倒的な荒々しさを内包している。内陸の埼玉に海はない。しかし、頭上から押し寄せるその質量は、間違いなく桜の津波と形容すべきものである。

権現堂の春の絶景。淡い桃色の「桜の津波」と、力動的な黄色の菜の花が激しく衝突し、人為の絶景を構成している。

足元から眼下へ向けて斜面を埋め尽くす菜の花の黄色。パステルカラーという生ぬるい言葉では表現しきれないその原色の力は、春の陽光を反射し、網膜を焼くように痛い。淡い桃色と力動的な黄色という決して調和することのない二つの色彩が激しく衝突する。ふと空を見上げると、テレビ番組の撮影であろうドローンが、巨大な熊蜂みたいに、規則的な駆動音を響かせて空中にホバリングしている。

1989年、東武ストアの邂逅

話は変わる。いつものことだが。

私は幼少期、幸手で死にかけた。遠い昔、重い肺炎にかかって、幸手病院の集中治療室で死線をさまよったのだと母親から聞かされた記憶がある。もちろんその頃のことを記憶しているわけではなく、私が自覚的にこの土地の引力を感じた契機は、少し後小学生の頃に遡る。

幸手には、私の居住するエリアにはめずらしく映画館があった。幸手劇場がその名前である。近隣に居住した小学生や中学生で幸手劇場に赴いたことのない人は相当に稀であろう。

この幸手劇場こそが、映画という日本の中心で制作されたコンテンツに直接触れられるハブの役割を果たしていた。1981年の夏には、『Dr.スランプ アラレちゃん ハロー! 不思議島』とディズニーの『101匹わんちゃん』が、異なる配給の垣根を越えて網膜に焼き付いた。

そして1986年、その熱狂は絶頂を迎える。『BE-BOP-HIGHSCHOOL 高校与太郎哀歌(エレジー)』と、同時上映の『BE FREE!』。さらに、当時の「とんねるず」現象の象徴であり、森田芳光がメガホンを取った東宝作品『そろばんずく』までもが、同じ幸手劇場という空間で上映されていた。 東映と東宝、メジャー各社の資本の論理さえも、幸手という地方都市の引力の前では無効化され、一つの濃密なトレンドの砲弾として襲い掛かってきたのである。

「幸手劇場こゝにありき」。現在路傍に佇むドラえもん。昔子供だった人たちの心に眠る夢の慰霊碑。

2005年にその役割を終えた幸手劇場の跡地には、現在、ドラえもんの石像とともに「幸手劇場ここにありき」という碑文が、かつての栄華を厳粛に刻んでいる。

さらなる衝撃は1989年、高校二年の時に訪れた。当時存在した幸手駅前の東武ストアのCDショップで、私は初めてポール・サイモンのCDを購入した。

ソロ初期の傑作群、『ポール・サイモン』(1972年)、『ひとりごと(原題:There Goes Rhymin’ Simon)』(1973年)、そして『ライブ・ライミン(原題:Live Rhymin’)』(1974年)であった。サイモン&ガーファンクル(S&G)の解散後、単独アーティストとして彼が提示した音楽は、当時の私にとってひどく背伸びをした、しかし恐るべき精度を持つ知的構造物であった。

遠い過去と現在の風景が二重写しになる。思わず目をつむる。

第一作『ポール・サイモン』では、S&G時代のフォーク・ロックの残滓を断ち切るように、レゲエやラテン音楽のリズムが鋭く導入されていた。続く『ひとりごと』において、彼はアメリカ南部のゴスペルやR&Bの泥臭いエネルギーを、極めて洗練されたポップスの文脈へと知的に翻訳してみせた。

『ライブ・ライミン』では、南米のフォルクローレ・グループ(ウルバンバ)や黒人ゴスペル・グループ(ジェシー・ディクソン・シンガーズ)を従え、ジャンルの壁などいともたやすく越境する生々しいグルーヴを見せつけた。

このアルバムにはあるハプニングが収められている。後半、名曲『アメリカ』に移ろうとギターのチューニングをしているサイモンに、観客の一人が呼びかける。

“Say a few words!”(なんか言ってくれよ)

チューニングをしている時は、えてして目の前の現実を置き去りにしてしまうものだ。そんな一瞬をついたほほえましい場面である。興味深いのはその先である。声はサイモンの耳に届き、はっと我に返ったようにこういう。

Say a few words? Let’s hope that…let’s hope that we continue to live…(何か言わなきゃね。そう、僕たちは、うん、生き続けるんだって、こう思いたいね)

水を打ったような沈黙の後、割れるような拍手が会場を覆い尽くす。アルペジオで『アメリカ』のイントロに入っていく。このライブが録音された1973年当時は、ベトナム戦争の終結直後やウォーターゲート事件など、アメリカ社会が不安定で閉塞感に包まれていた時期だった。そうした時代背景を思い返すと、彼のこの「生き続けよう」というばかばかしいくらいシンプルで切実な祈りのような言葉が、当時の人々にどれほど重く、かつ温かく響いたかが察せられる。

そこにあったのは、S&G時代の完璧に計算された二声のハーモニーとは異質の、剥き出しの人間だった。人は、集団や調和から離脱し、完全に単独の存在となったとき、これほどまでに違う世界を構築できるのか。

この事実は、当時の私にとってひとつの救いとなった。そして、その認識は数十年を経た現在においても何一つ変わっていない。

居心地の悪さと、決別のペダル

ポール・サイモンの音楽の圧倒的な単独性に触れたとき、幸手という街は、私にとってある見慣れた生活圏から、別の世界へと向かうためのターミナル駅へと変貌した。まるで別の路線へ列車を乗り換えるような、あるいは細胞の組成から別人になったようなパラダイムシフトであった。

というのも、私はすでに、埼玉という土地を出る決心を固めていた。東京の大学への進学が決定した1992年の春。私は自転車のペダルを漕いで権現堂堤を訪れた。強風に煽られる桜の津波と、目に痛い菜の花の原色は、まぎれもなく私の故郷の原風景であった。しかし、その景色を前にして、私はただ遠い世界へ行くことだけを望んでいた。

34年が過ぎた。あえて言うまでもなく、とんでもない時間のつらなりだ。

現在、春日部や幸手の変貌した風景を眺めていると、あの日の自転車の上から見た景色と、強烈な決別の意志が、現在の視界と二重写しになって襲ってくる。もしあの時の自分が、今の自分に「何か言ってくれよ」と呼びかけたら――。何と言うのだろうな。

Profile

井坂 康志(いさか やすし)
ものつくり大学 教養教育センター教授

1972年埼玉県加須市生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。東洋経済新報社を経て、2022年4月より現職。ドラッカー学会共同代表。専門は経営学、情報社会学。

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